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中堅クライシス  第2回 岡田利規【前編】

中堅クライシス

2017.09.15


 誰もが新人として登場し、その大半は、成功のイメージをベテラン期に設定する。だが実際は、その間にある中堅の時間が最も長く、その過ごし方こそが難しい。新人から中堅へ。あるいは、中堅からベテランへ。その途上にある人の、これまでの経験と、今、乗り越えようとしている壁を聞き、そこにある危機感を共有しながら、中堅期のサバイバルについて考えたい。

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第2回 岡田利規(演劇作家、小説家。チェルフィッチュ主宰) 前編


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岡田利規(おかだ としき)
1973年、横浜生まれ。2005年、『三月の5日間』で第49回岸田國士戯曲賞受賞。同年、『クーラー』で「トヨタコレオグラフィーアワード 2005」の最終選考に選出される。07年に発表した小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』が翌年、第2回大江健三郎賞受賞。また、東京都現代美術館やさいたまトリエンナーレへの参加など、創作は演劇、ダンス、文学、美術と多ジャンルに広がる。地理的な広がりもダイナミックで、チェルフィッチュ作品は、ほぼすべてが複数国で上演され、時には2作が同時に世界ツアーを回ることも。ドイツの公立劇場ミュンヘン・カンマーシュピーレでレパートリー作品を委嘱され、16年から3シーズンに渡って演出を担当。国内では、5月末のカナダ公演に続き、『部屋に流れる時間の旅』を東京と仙台で上演。さらに12月には、チェルフィッチュ活動20周年記念として、オーディションで選んだ24歳以下の俳優による『三月の5日間』のリ・クリエイション公演が予定されている。著書に『遡行』ほか。12年より岸田國士戯曲賞選考委員。



岡田利規にクライシスのイメージを持っていない人は多いかもしれない。活動開始からしばらくは広く注目されなかったものの、2005年に『三月の5日間』で岸田國士戯曲賞を受賞すると、瞬く間に日本を飛び越え、世界で求められる存在になった。2007年以降ずっと、岡田率いるチェルフィッチュは公演数の半分以上が海外だし、現在、ドイツ・ミュンヘンの市立劇場であるカンマーシュピーレ劇場では、3年契約で岡田に創作を委嘱し、今年2月に2作目が発表された。これほど恒常的、継続的、同時代的に評価される日本人演劇作家は、先行例もないし、今のところ後続組もいない。
だが、華々しい世界デビューとなった『三月〜』(07年)の翌年に発表した『フリータイム』(08年)で、岡田は決して小さくないつまずきを経験する。わずか1年のうちに経験した山と谷、オンタイムでは話してもらえなかったであろうその詳細を聞いた。
 *このインタビューは2016年5月に、ドイツ・ミュンヘンで収録されました。

*  *  *

――このインタビューの前段として、チェルフィッチュの制作会社であるプリコグの中村茜さんから、『三月の5日間』で絶賛され、高い期待と注目の中で上演した翌年の『フリータイム』が……

「ああ、はい、うまくいかなかったと」

――途中で帰る人も結構いたりして。それで岡田さんが落ち込まれたと聞き、ぜひそれを『中堅クライシス』に掲載させていただきたいと思いました。約10年も前ですが、海外で公演するカンパニーはこの先も増えるでしょうから、先人の体験は広く共有されたほうがいいし、上手く行かなかったケースほど細かいほうがいいと思うので。まず、初の海外公演となった2007年のクンステン・フェスティバル・デザール(以下、クンステン)での『三月の5日間』の反応から教えていただけますか?

「うーんとね、あまり細かいことは覚えていないんですけど、1番記憶に残っているのは、初日のカーテンコールですね。初日は舞台と袖のあいだを五往復だったか六往復だったかしましたね。それまで僕らダブルコールさえ経験したことなかったのに」

――クンステンは、世界の演劇の潮流を牽引するような先進的な演劇祭で、非ヨーロッパ圏にもこまやかな目配りをしているという定評です。そのため、演劇祭のための演劇祭という側面もあって、世界中のフェスティバル・ディレクターやキュレイターが集まって、才能の先物買いに目を光らせている。『三月の5日間』は、そこで受け容れられたんですね。

「フェスティバル参加をオファーしてくる各地のディレクターとのミーティングが大量に入りましたね、初日の翌日から茜ちゃんのスケジュールはそれでびっしり埋められた。僕はそのうちのいくつかに立ち会っただけだけど、それでもかなりの数でした」

――それはきっと素直に、大きな喜びや自信につながりましたよね?

「興奮したのは確かですね。でもそれ以上に、いろんなフェスティバルを回って上演をし続けていくっていう活動の仕方があるんだというのを知ったこと、そういう活動をこれから自分たちはしていくことになるのかなと考え始めたこと、それは自分にとって完全に新しい感覚だった。それまで僕、海外志向みたいなものがなかったんですよ。演劇に限った話ではなくて、人間的にまったく」

――そこで「来年も新作を持って来てほしい」という話があって、『フリータイム』だったんですか?

「いくつかのフェスティバルが次回の新作の制作資金を出してくれることになった。それでつくったのが『フリータイム』だったんです」

――『三月の5日間』を1回観てすぐ「資金を出します」と?

「ええ、クンステンだけじゃなくて、あとふたつ。ウィーン芸術週間と、パリの秋の芸術祭。三つともかなり大きいフェスティバルですよね」

──それ、相当すごいことですよね。普通に考えるとプレッシャーを感じそうですけど、その時の岡田さんは?

「あった気がしますよ。」

――『フリータイム』の初日はクンステンで開けたんですか?

「いや、世界初演はスーデラ(東京・六本木のスーパー・デラックス)です。そこに、3つのフェスティバルのディレクターが全員観に来てくれました」

――その時の先方の感想は?

「あの作品の持つデリカシーは3人には伝わったけど、彼らのフェスティバルを見に来るお客さんにそれを伝えるのは難しいだろうとは言われたかな」

――『フリータイム』は、出勤前に会社の近くのファミレスに寄って30分過ごすことを日課にしている契約社員の若い女性が主人公で、彼女が何を大事にし、何によって自分を保っているかが語られますが、そのことによって、都市生活者にかかる無言の抑圧が浮かび上がってくる話でした。ディレクターたちが指摘したわかりにくさというのは?

「ファミレスに類似するものがヨーロッパにはない。だからファミレスが日本の人にとってどのような場所かというのを理解するのは難しい。その点で、あれはハイコンテクストな作品なんです。観劇前のイントロダクションとして、プレトークなり当日パンフレットの文章なりで、ファミレスがどういうものかを説明したほうがいいのかもしれないとか言われたりしました。」

──複数のものが並べば比較するのが人間です。より多くの理解や共感のためには補助線が必要だね、という言い方ではあったとしても、『三月~』の時の反応とは違うという感触は当然、岡田さんも感じたと思うんです。そのあたりに対して、岡田さんはその時、どれくらい自覚的だったのでしょう?

「今にして思うとあのときの僕はかなりこじれてた(笑)。『三月~』に較べてウケてないことは一目瞭然で、それはもちろん気分のいいことじゃないんだけど、でも本当にウケたいんだったら、ファミレスで過ごすささやかだけれども大切な時間、みたいなことを題材にするのは得策じゃないわけで、でもそういうヨーロッパの人に理解してもらいづらい題材をあのとき扱ったのって、わざとそうしたところが多分にあったんですよね。
 さっき、ヨーロッパですごく評価されたことに対して、うれしかったかと聞かれてうれしかったと答えたんですけど、でも、不安も同時にものすごく大きかったんですよね。ヨーロッパで評価されたことによって自分が、そっち側向いている人、みたいになったらイタいなという感覚が当時はすごく強かった。今はそんなこと思わなくなってるけど。当時の僕が今の僕のこと見たら、目も当てられないなって思うかも(笑)」

――それは「岡田利規、ヨーロッパ受けを意識するようになったよね」と誰かに思われることへの抵抗ですか?

「誰よりも自分自身に対してですね。エキゾチシズムの問題ですね。一種のエキゾチックさを売りにしてヨーロッパで認められる、みたいなことを自分がやることに対する抵抗感というか、そういうのはちょっとなんというか、淫売みたいで厭だな、という……。
 当時は、例えばパリの地下鉄の駅の構内とかで胡弓弾いている東アジア系の人とか見かけても複雑な気持ちになったりしてたんですね。かすかな嫌悪感みたいのさえ持った。“こいつ、胡弓なんか弾いてやがる”って。そういう見た目の人がパリの街角で胡弓なんて弾いて、自分のエキゾチシズムを売りにして小銭稼ごうとしてるわけだから。でもそれが不快だったのは自分の問題でもあったからですよね。自分だってこういうことしてるんじゃないのかっていう。だから、ファミレスを題材にした。“日本といえばこれ”みたいなわかりやすい記号はいくらでもあるけどそういうものを扱うのはたまらなくイヤだった。自分の中にそういう葛藤があって、いわば、ムキになってたんですね」

――その葛藤は、ある種の潔癖さですね。しかも、周囲ではなく自分自身がどう思うかというのは、より厳しい潔癖主義です。それは若さに由来するものかもしれないし、岡田さんだけが経験した境遇がもたらしたのかもしれませんけど、でも、そこを通るのは作家としてとても大事だという気がします。

「僕もそう思います。そこを通過して克服出来たことはいろいろあるし、それはとても大きいです。それは間違いないです」

――時間を少し戻します。日本公演のあとヨーロッパに行き、その最初がクンステンだった。そうしたら前年とは全く違う反応だった。

「『三月~』のときのような興奮で会場が包まれなかったのは確かですね(笑)。かわりに漲る期待外れ感を、肌で感じたようなおぼえもあります。そして実際『フリータイム』は海外では、お金を出してくれた3つのフェスティバル以外で上演機会を得ることはなかった」

――その世界の言葉で言えば、売れなかった。

「そうです。売れなかった」

――今は冷静にお話しされていますけど、その時の現場では傷付いた部分もありましたよね?

「まあね」

――そこをもう少し思い出してもらっていいですか?

「でも、思いだそうとすると、僕はあのとき一体何に傷ついていたのか、わかんなくなってくるんですよね。お話ししたように、そういう作品をつくるって決めたのは全部自分であってね。だから、媚を売るようなことはしないと決めて、実際媚を売るようなことをせず、そしたらモテなかったから凹んだ、ということですよね。筋が通ってない(笑)」

――とは言え、バレンタインデーに合わせたところがあるわけじゃないですか。普段から「俺は媚を売らないぜ」という態度を取っていたんじゃなく、わざわざ勝負デーに“媚びないアピール”をした。そこが気が強いというか、それでもチョコをくれる女子は岡田さんの深い部分を理解して好きだということですけど、本当の自分を見せた分、チョコがゼロの時の落胆も大きいですよね。

「そういう喩えで言われると、ますます痛々しいですね適切な喩えだけに(笑)。二日間くらいは深く落ち込んでた気がします」

――落ち込んだのは初日ですか?

「初日はそうでしたね。初日は終演後、レセプションが開かれるわけです。つまらない芝居だから取り止めになるということはない。だから落ち込んでいても出なきゃいけない。そして和やかに社交。でもホテルの部屋に戻ってひとりになったとき結構やばかった」

――その時の落ち込みのポイントは「媚を売らないという自分の選択を評価してくれる人が、もうちょっといてもいいじゃないか」?

「やーそこまで甘ったれてはなかったと思いますよさすがに僕も(笑)。ただ、見に来てくれた観客をがっかりさせたとしたらそのことに対しては素朴にもうしわけないと思うわけです。それは作品がどう評価されるかという問題とは違う。要は同じことを言ってるのだとしても観点が違います。
 あの経験をきっかけに、コンテクストということを強く念頭に置いて作品づくりするようになった気がします。具体的なコンテクストを想定してつくる、ということではなくて、この作品がどんなコンテクストの中で見られることになるかはわからないんだということを常に考えるようになった」

――それはどなたかから言われた感想だとか、レセプションの中で出てきたキーワードだったりではなく、ひとりの思考の中で出てきたことですか?

「人に言われたことも自分で考えたことも、混じり合ってると思います。でもなにより大事なのは、時間をかけて考えているうちにそういうことを思うようになったということじゃないかな」

――岡田さん、いわば遅いデビューじゃないですか。普通の人が若い時から時間をかけて経験する通過儀礼を、一気に凝縮して経験されたのかもしれないなと、今、お話を伺っていて思いました。その分、揺れが大きかったのかなと。

「ああ、そうかもしれないです」

――先ほど、エキゾチシズムには行かないと決めたことが自分にとってとても良かった、というお話がありましたが、逆に、これは気にしない、手放していいと決めたものはありますか?

「今はエキゾチシズムのことを気にしてないです(笑)。というか気にしないで済むようなプロセスをこの十年で経験してきた結果として、自分の作品がエキゾチックに見られているかもしれないことに関して、神経を尖らせなくなってきたと思います。」

――どういう方法で解決したんですか?

「『フリータイム』のときの経験、そのとき考えたこと、それを考え続けながら作品を作り続けたことの結果としてそうなっただけです。そうでなければ今みたいに、能がどうこうとか言ったりするようになってるわけがない(笑)」

──カンマーシュピーレに委嘱されて創作する2作目の作品(『NO THEATER』)ですね。『日本文学全集』(河出書房新社)で岡田さんが現代語訳する能の数篇をもとに、ドイツ人俳優で上演するという。

「カンマーシュピーレの芸術監督のマティアス(・リリエンタール)に“今度能のテキストを現代語訳する”って話したら“それ、舞台にしたら?”と言われて、あ、それおもしろそうだなと思ってミュンヘンでやることになったんです。発端は軽いノリですよ。
 ミュンヘンの公立劇場で演出することもあるし、チェルフィッチュでももちろん作品つくるし、いろんな異なるコンテクストの中で作品つくるようになった結果、ある特定のコンテクストの中でどう見られるかというのは、どんどん気にしなくなってきてます。
 たとえば“日本”ていうコンテクストがある。それは僕にとってもちろんそれなりに大事なコンテクストですけれども、なによりも一番大事な特別なコンテクストというわけじゃない。『部屋に流れる時間の旅』って芝居は、東日本大震災と福島原発事故を受けて戯曲を書きました。そういうのは、震災をネタにして作品をつくっていると批判される可能性は含んでますよね。でもそれはあんまり僕は気にしてない。『部屋~』の前にも僕は震災をテーマにしていくつか芝居をすでに作ってますし、おそらくこれからも震災とか、震災によって社会が受けた変化や影響について扱った作品をつくるんじゃないかと思いますけど、もし気にしていたら、そんなことはしないでしょう。それらの作品のことを、震災というコンテクストのもとでのみ受容される作品だとは思ってないからです。地域的に時代的に東日本大震災から遠いコンテクストのもとで上演されることは、ありえるわけだから。」

──上演される場所や時代ごとに普遍性が抽出され得るということですね。『フリータイム』についておっしゃっていた「大きなコンテクストが作品にはあり、その上に自分の作品は置かれる」の「大きな」というのは、それですね。

「今言ったようなことを思うようになったのと、『フリータイム』のときの失敗──失敗とあえて言っておきましょうか。落ち込んだのは事実だし(笑)──はたぶん無関係じゃないんですよね。」

――ちょっと斜めからの質問になりますが、『部屋に流れる時間の旅』が重層的だとしたら、福島で上演する可能性も考えられますか?

「もちろんです」

――バカみたいな質問ですみません。ただ、特定の地域と時間の中での上演は、多様なコンテクストからピンポイントの角度を切り出すことにもなるわけで、そこを岡田さんはどう考えていらっしゃるのかと。

「上演の依頼がくれば当然やりますし、そもそもどんな戯曲だっていつ誰が演出してもかまわないわけで」

──ありがとうございました。後編は、日本の劇場とのいくつかの創作についてお話を伺いたいと思います。


≪後編に続く≫

取材・文・写真:徳永京子

チェルフィッチュ

岡田利規が全作品の脚本と演出を務める演劇カンパニーとして97年に設立。独特な言葉と身体の関係性を用いた手法が評価され、現代を代表する演劇カンパニーとして国内外で高い注目を集める。05年『三月の5日間』で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。07年クンステン・フェスティバル・デザール2007(ブリュッセル/ベルギー)にて初の国外進出を果たして以降、世界70都市で上演。近年では、ヨーロッパを代表するフェスティバルの委嘱により作品を制作、発表している。主宰・岡田は、07年デビュー小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を新潮社より発表し、翌年第二回大江健三郎賞受賞するなど小説家としても活動している。また、16年よりドイツ有数の公立劇場ミュンヘン・カンマーシュピーレのレパートリー作品の演出を3シーズンにわたって務めた。 ★公式サイトはこちら★