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【連載】ひとつだけ 藤原ちから編(2017/01)― ジエン社 第11回公演『夜組』

ひとつだけ

2017.01.7


あまたある作品の中から「この1ヶ月に観るべき・観たい作品を“ひとつだけ”選ぶなら」
…徳永京子と藤原ちからは何を選ぶ?
   
2017年01月 藤原ちからの“ひとつだけ” The end of company ジエン社『夜組』
2017/1/13[金]~1/23[月] 東京・池袋シアターKASSAI

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深夜ラジオを最もよく聴いていたのは中高生の頃だった。当時はまだインターネットも今のように普及してなくて、ラジオは、真夜中に他人と繋がることのできる数少ない回路だった。一方通行の電波に乗ってわたしの耳に届くパーソナリティの声は、ノイズ混じりではあったけど、リスナーである「たったひとりの私」だけに語りかけてくる親密なものだったし、一方では、そんな「たったひとりの私」がこの寝静まった夜の闇に他にも無数に潜んでいるという事実も、同時に感じることができたのだった。ひとりであり、みんなでもあるという不思議な夜……。例えば「ハガキ職人」と呼ばれる常連リスナーたちの投稿は、そうした「たったひとりの私たち」の存在を証明していた。わたしもそこに混ざりたくて、何度かハガキを書いて、ドキドキしながら郵便ポストに投函したけれど、結局、それらの投稿とわたしのラジオネームが読み上げられることは、一度もなかった。

「狂った言葉と、笑い声が、死体の匂いのする川の、小さい範囲に響いている。なぜこのラジオは、ここで聞けるのか。そもそも電力が制限されている中、深夜に聞けるラジオなんて、どうして存在できるのだろう。こんなに人が死んでいるさなか、どうして俺はまたここに、ラジオを聞きに来たんだろう。」
(ジエン社『夜組』 ウェブサイト より)




ジエン社は数年前から注目されているカンパニーで、大いに話題となった2011年の芸劇eyes番外編「20年安泰。」にも、マームとジプシーロロ範宙遊泳、バナナ学園純情乙女組(現・革命アイドル暴走ちゃん)らと共に招聘されている。前回2016年の 第60回岸田國士戯曲賞 でも『30光年先のガールズエンド』で最終候補にノミネートされるなど、その実力は確実に一定以上の支持を得ている。

だが、正直に言うとわたしはこれまでジエン社にさほどのシンパシーを感じてこなかった。彼らの得意技の同時多発会話(舞台の複数の場所で会話が同時に起こり、それらの言葉がたびたび奇妙なシンクロをするという手法)にしても、確かに目を惹くとはいえ、何かそのことによって演劇史が塗り替えられたり、わたし自身の価値観が強く揺さぶられるという感じはしなかった。賢い、とは思うのだけど、どうも技巧的な配慮に足を取られて、肝心の中身のほうが、抽象的な概念をもてあそぶ領域に留まっているのではないか。何かこの作家に衝動があるのは感じるけど、賢さと弁舌を隠れ蓑にして姿をくらましているのではないか。それがわたしのジエン社に対する印象だった。

そんなわたしの印象を大きく変えたのは、2016年7月に上演された『いつまでも私たちきっと違う風にきっと思われていることについて』である。これは別の劇団であるロロがつくった「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校シリーズ」のスピンオフとして創作された。ロロとジエン社という、若手の注目株のカンパニーが手を組んだ、といえば聞こえはいいが、実はプロフェッショナルな意識で活動する作家にとって、他人のつくったシリーズの二次創作をすることほど難しいものはないだろう。中途半端に他人のふんどしを借りることになりかねないし、たとえ心血を注いだところで、その手柄を自分だけのものとすることは難しいのだから。

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【ジエン社『いつまでも私たちきっと違う風にきっと思われていることについて』 撮影:市川玲】


だがジエン社の山本健介は、原作への最大限のオマージュを示しながらも、みずからの作家性を包み隠さずあらわすような、本家ロロとは異質な物語を紡いでみせたのである。いわゆるスクールカースト的には決して上位とは言えない人たちの、あるいはそのシステムから外れた人たちの、出会えない、という切なさが描かれていることに、わたしは率直に感銘を受けた。原作者であるロロ・三浦直之もtwitterで「いつ高に対する丁寧な批評を書いてくれた」と評しているのだが、例えばその「批評」性は、オリジナルの『いつだって窓際であたしたち』の冒頭に三浦がト書きとして書いていた一文、

「ファンタジーでなければならない。」

に、山本が次のように書き足したことにもあらわれている。

「ファンタジーでなければならない。
 違う風に思われている私たちが、知らない誰かに関わるとき。
 ファンタジーを、信じなければならない。」


にわかには意味のわからない言葉である。しかしわたしはここに山本健介の作家としての宣言を見るような気がする。そういえば『いつまでも私たちきっと違う風にきっと思われていることについて』というタイトルには、「きっと」が2回も、しかもどちらかというと否定的な意味を帯びて入っている。この否定の塗り重ねは、しかし、むしろかすかな希望を感じさせはしないだろうか?

「信じる」という言葉は、裏を返せば、「そうはならない可能性」を示唆している。光があれば闇があり、希望があれば絶望があるように、何ごとにも裏側があり、それがこのこの人間世界を支えている。つまり「ファンタジーを信じる」というのは、ファンタジーなんて存在しないという現実を指し示しているのである。しかしそこに「信じなければならない」という戯曲の命令が下されることによって、この舞台に登場する人間(俳優)たちは、それぞれの「信じる」方向に向かって走り出す。それは時には愚かであり、みっともないことかもしれないが、まさにそれが人間なのだろう。そしてそうした人間たちを見つめ続ける作家を、この世界は必要としている、とわたしは思う。



光があれば闇があり、希望があれば絶望があるように、昼があれば夜がある。新作『夜組』では、タイトルが示すように、夜の世界が舞台となるだろう。東京の夜を真っ暗にしたあの震災直後の時期のことを、わたし(たち)はもうほとんど忘れてしまった。けれど『夜組』の世界では、まだあの暗い計画停電の夜が続いているらしい。

「向こう側で、誰かがこっちを見ている。昏くてよくはわからない。見ることはできない。ただ、存在するときに立てるわずかな音と、気配で、何かがいるようなことだけはわかるのだ。」
(ジエン社『夜組』 ウェブサイト より)


深夜ラジオ、という今回のモチーフは、もしかするとジエン社・山本健介の切り札なのかもしれない。暗い闇の世界を、逃げずに描ける作家は、実はとても少ないと思う。『夜組』がジエン社のマスターピースになることを願う。


≫ ジエン社 第11回公演『夜組』 公演情報は コチラ

ジエン社

私たちが集まるのは、もうこれが最後。The end of company ジエン社です。かつて“早稲田最後のパフォーマー”を自称していた作者本介が、2002年に早稲田の路上で旗揚げされた総合表現ユニット「自作自演団ハッキネン」を、演劇活動により特化する形で2007年10月に改称し、新たに作られた演劇ユニット。すでに敷かれている現代口語演劇の轍を(いやいやながら仕方なく)踏みながら、いつかそこから逸脱して「やる気なく存在し続ける現在」を、演劇ならではのやり方で出現させてみようと模索している。メンバーは現在、脚本演出担当の山本健介のみ(第8回まで作者本介名義)。 ★公式サイトはこちら★