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【連載】ひとつだけ 徳永京子編(2017/12)― 『クラウドナイン』

ひとつだけ

2017.12.13


あまたある作品の中から「この1ヶ月に観るべき・観たい作品を“ひとつだけ”選ぶなら」
…徳永京子と藤原ちからは何を選ぶ?

2017年12月 徳永京子の“ひとつだけ” 『クラウドナイン』
2017/12/1[金]~12/17[日]東京・東京芸術劇場シアターイースト
2017/12/22[金]~12/24[日]大阪・OBP円形ホール




 たぶん、取り立てて大きな理由もなく足を運んだのだと思う。演劇の知識は無いに等しかったけれど好奇心と行動力はあって、出演者、演出家、劇作家のほとんどが馴染みが薄いにもかかわらず劇場に行き、大満足して帰って来た。
 それから30年以上が経ち、数千本の舞台を観てきた今(「30年以上」も「数千本」も、我が身にズシンと響く数字で怖くなるけれども、ひとまずここでは置いておく)、その時の自分に2つ言いたい。まず、勢いであれ直感であれ、キャリル・チャーチルの作品を観に行くなんて、実に素晴らしい選択をしたねと。もうひとつは、その「大満足」は滅多に巡り合うことができない、かなり特別なものだよと。

 もしかしたらそれは初めて、演劇で“大人の遊び心”に触れた体験だったのかもしれない。 大人の遊び心というのは、知的で大胆で、思いもよらないところに笑いが仕掛けてあって、笑いの裏には毒かエロスがくっついている、と言えばいいだろうか。笑いながら背筋が寒くなる、大笑いしたあとで深く考えさせられる、といった経験は日本の作品でもあったけれど、チャーチル作品での体験は、とても柔らかく深く、自然に知的好奇心を刺激された(同じ興奮を再び味わうのは、このずっとあと、トム・ストッパードの作品まで待つことになる)。
 以来、忘れがたい名前として私の中に存在しているイギリスの女性劇作家、キャリル・チャーチルは、たとえば今、20代や30代の演劇ファン、演劇人の間で、どれくらい知られているのだろう。代表作の『トップ・ガールズ』と『クラウドナイン』は断続的に上演されているとは言え、改めて考えてみると、彼女の名前を耳にするのは、ほとんどが同年代から上の人で、これはなんとも残念な問題だと思う。

 チャーチルは、80年代前夜、まず本国イギリスで、次いでアメリカで、時代の寵児的に注目され、ほとんど同時に日本でも紹介された。時代の寵児と言っても、大学卒業後すぐに結婚し、続けて3人の子どもを出産した彼女は、育児と家事に追われて約10年、本格的な演劇の戯曲を書けなかったという。だがおそらく、母となり、妻であったために、劇作家としての優先順位を下げざるを得なかったその時間に経験した苦悩や葛藤が、結果的に、時代とリンクする作品を生み出したのだろう。60年代のウーマンリブを経て、ある程度の自由と権利を得たものの、そのあといかに生きていくべきか、具体的な模索が始まった新しいフェミニズム運動と重なり、「フェミニズム作家の旗手」と位置付けられることになった。

 けれども、チャーチルの作品をフェミニズム演劇の枠の中に収めてしまうのも、かなり愚かだ。私が観た彼女の作品は『クラウドナイン』と『トップ・ガールズ』だけで、どちらも痛快なフェミニズム作品ではあるのだけれど、こと、『クラウドナイン』は、扱われている問題はとても多様で、女性の地位のことはほんの一部でしかない。そのことに気付いたのは、久しぶりに戯曲を読み直してだった。

 『クラウドナイン』は二部構成のコメディ。一幕は19世紀のアフリカの、イギリス領地に建つ屋敷。一帯を統治する大佐一家が暮らすその家に、大佐の友人の冒険家や近所の未亡人がやって来る。イギリス側と原住民の衝突が激しくなってきたからだ。大佐は未亡人と愛人関係にあり、大佐の妻は冒険家に惹かれ、冒険家には一家の息子と秘密がありそうで、息子の家庭教師は大佐の妻への恋心を抑えられずにいる。良きキリスト教徒、良き国民、良き家庭人であれという抑圧が抑圧と認識されなかった時代、そこにある理想や建前と、自分の内側からはみ出てくる本音や欲望の間で行きつ戻りつする人々のドタバタがテンポよく描かれる。けれどもそこには、植民主義、男尊女卑、人種差別、LGBT差別への冷静な観察と警告があるのは明らかで、ブラックユーモアも含めたたっぷりのユーモアから、苦いメッセージが示される。
 そして二幕は20世紀のロンドンの公園。時代としては100年の時間が経っているのに、登場人物は同じ一家の25年後。出てくる人たちは25歳しか年を取っていない。一家の息子は恋人の男性と暮らし、赤ん坊だった妹は結婚して一児をもうけたが、キャリアアップのチャンスを前に夫との関係を見直そうとしている。100年経っているのに相も変わらず、家事や育児は女性の役割で、自分では理想的だと思っている夫に妻の本音は伝わらず、愛する人をつなぎとめるために尽くすことを選ぶ人はいなくならない。とは言え、ほんのわずかな変化はあって、結婚生活がうまく行かない女性の選択肢に、レズビアンのパートナーと暮らすことや、母親が息子とかつて暮らしていた男性と温かな会話を交わすひとときが描かれ、長らく夫に頼り切って生きていた老女は離婚を決意し、頼りなげにゆっくりと自分を発見し、ひとりで生きていくことを決める──。

 演劇も映画も小説も、年齢を重ねて見直したり読み直したりすると、以前はわからなかったことがわかったというのは誰もが経験することだが、『クラウドナイン』は格別に鮮やかだった。
 一幕の冒頭で大佐が自分の家族を観客に紹介するのだが、妻と義母、息子まではちゃんと紹介するのに、赤ん坊の娘、そして息子の家庭教師は「特に言うことはありません」と割愛される。しかも娘は戯曲に「人形」と指定してある。これは子ども、特に女の子は家族の中でもカウントするに至らない存在であり、この時代の父親にとってお人形と同じということだ。家庭教師(も女性)が飛ばされるのを深読みすれば、軍人である大佐が知性を軽視しているということだ。こんなふうに強烈な差別主義から、この物語は(笑いと共に)幕を開ける。
 そして前述の通り、一幕と二幕は同じ一家が登場するのだが、演じる俳優はシャッフルされ、一部、男女が逆転して指定されている。そこにもおそらく意味はあって、たとえば一幕の妻は男性が演じるのだが、夫の理想の妻になることが生きる目的だと信じ込む彼女は、果たして本当に女性として生きているのかという暗喩ではないか。また一幕で、男性で軍人で家長だからという理由で権威を振るっていた大佐が二幕では登場しないのは、彼の古き無神経さは、さすがに現代では出る幕がないということではないか。
 読み進めるほどに、フェミニズムという狭義では収まらない、さまざまな不平等や不均衡への鋭い告発や糾弾が浮かび上がってきた。これだけのことをわからなかったのかとかつての自分に絶望もしたものの、同時に、チャーチルの大きな優しさを感じ取ることができたのは、年を重ねたことが大きいのかもしれないとも思う。チャーチルの告発や糾弾は、決して攻撃ではないし、直接的なプロパガンダではない。あくまでも主眼は、演劇という“みんなでする遊び”を楽しいものにすることだ。楽しんだり感動したり集中したりできたなら、政治的なテーマなんて気が付かなくていいよ、というゆとりがある。それが私の考え過ぎでないのは、老いてから離婚を決意した女性が、夫の悪口を一切言わないことが何よりの証拠だろう。悪しき帝国主義を、改めて責めはしないのだ。
 父や夫や子どもなど、常に誰かのために生きてきた彼女がひとりになって、どうしていいかわからないと若者に言うと、相手は当然のように「自分のために時間を使えばいい」と答える。それに対して老婆は何のためらいもなく「でもそれはわがままでしょう?」と返す。その考え方を、自立してない、愚かだと笑うことはできる。でも、それが当たり前の価値観の中で生きてきた女性が、誰かを恨んだり怒鳴ったり傷付けたりすることなく、不器用にゆっくりと自分を取り戻す様子が、この作品のクライマックスなのだ。
 これは、ひとりの女性が自分と向き合い打ち解け合う、遠回りだが誠実な100年の物語と言えるだろう。

 さて、この戯曲を読み直したのは、上演中の『クラウドナイン』のパンフレットで、同作を翻訳した松岡和子さんに取材する準備のためだった。このインタビューでは、そうしたチャーチルの視野の広さと共に、彼女が演劇シーンに現れた80年代はじめのニューヨークの様子や、日本で上演に関わった人たちの貴重な話を聞くことができた。インタビューは苦手で、この時も充分に松岡さんの言葉を引き出せたか自信はないが、とてもビビッドな内容になっているのは間違いないと思う。舞台と合わせて楽しんでもらえたら、うれしい。


≫ 『クラウドナイン』 公演情報は コチラ

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