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【連載】マンスリー・プレイバック(2016/02)

マンスリー・プレイバック

2016.03.23


徳永京子と藤原ちからが、前月に観た舞台から特に印象的だったものをピックアップ。ふたりの語り合いから生まれる“振り返り”に注目。

* * *

藤原 2月はTPAM(舞台芸術ミーティングin横浜)もありましたし、語りたい作品は数多くあるけど到底語りきれない……という状態です。なので、いつもの作品ごとに語るスタイルから少し趣向を変えて「ひとりパフォーマンス」にフォーカスしてみようと思います。それでも長くなってしまいますが、今後に繋がるポイントを探ってみますので、願わくば読者の方にもじっくりお付き合いいただければ幸いです。

 具体的には、TPAM、赤レンガダンスクロッシング、芸術公社のレクチャーパフォーマンス、テストサンプル『ひとりずもう』、『ラジオ危口』など、ひとりで行うパフォーマンスが不思議と目立ちましたよね。これがひとつの潮流と呼べるものになるのかどうかはまだわかりませんけど。

徳永 そうですね。数も多かったですし、種類もさまざまでした。こんなに短期間にまとまることも少ないと思いますので、ぜひ。


▼ホー・ルイ・アン『Solar: A Meltdown』@TPAM2016
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【TPAM 2016『Solar: A Meltdown』/photo:Hideto Maezawa】


藤原 まずTPAMで上演されたホー・ルイ・アンの『Solar: A Meltdown』からいきましょうか。彼はまだ20代半ばという若さの、シンガポールのアーティスト。この作品は、彼自身の体験に様々な引用を交えながらレクチャー形式で語っていくスタイルでした。

 冒頭は博物館のシーンから。白人の人類学者のマネキンがあり、その背中が汗で濡れている。ホー・ルイ・アンはこの汗を見て、これは植民地支配に対する西洋人の贖罪意識の象徴ではないかと推察するんです。そこから彼は、ハリウッド映画のその都度の植民地描写──例えば1956年に20世紀フォックスが製作した『王様と私』では、まるで全世界の人間がひとつになったかのような楽園として描かれている描写──や、エリザベス女王は決して汗を見せない、などのエピソードを語っていく。その編集の仕方がとても鮮やかで、ブラックユーモアも効いているという。でも単に器用なだけでなく、彼自身の身体を張っているのがおもしろいと思いました。

徳永 私は観ていないのですが、「身体を張る」というのは?

藤原 身体を張る、といっても熱演とかではなくて、飄々と語るだけなんですけどね。でも壇上にホー・ルイ・アン自身がいるということが、このパフォーマンスの重要な要素になっていると思います。なぜなら観客は彼がシンガポールから来たことは知っている。だけど彼の人種的ルーツについてはよくわからないわけです。華僑系なのかな、とか推測するだけで。言語は英語です。英語でとても流暢に喋る。英語というのはつまり植民地主義の「置き土産」なので、英語で流暢に語ること自体がアイロニーになっている。

徳永 ホー・ルイ・アンが語る様々な歴史は、彼自身のルーツと関係しているんですか?

藤原 シンガポールはわずか50年前はイギリスの植民地だったわけですから、エリザベス女王の話は当然そこと繋がってくるし、それは彼のルーツとも無縁ではないでしょうね。この作品が面白いのは、「ある国家(シンガポール)の歴史」と、「グローバル資本やメディア(ハリウッドやイギリス帝国主義)による権力関係」と、「目の前にいる個人(ホー・ルイ・アン)のアイデンティティ」とが、ひと繋がりに感じられるということです。


▼マーク・テ『Baling』@TPAM2016
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【TPAM 2016『Baling』/photo:Kazuomi Furuya】


藤原 それで言うと、「ひとりパフォーマンス」ではないけど、これもTPAMで上演されたマーク・テの『Baling』。これがすごく心に響いたんですよ……。

徳永 3人の男女が出てきますからね。ただ、作・演出・出演を兼ねる人物がひとつのテーマについてひたすら話す、というスタイルは同じです。

 出演した3人はマレーシア人で、彼らが扱ったのは、マレーシアで共産革命を起こそうとしたチン・ペン(陳平)について。私は知らなかったのですが、戦前は抗日運動、戦後はイギリスからの独立を目指してゲリラ活動を行なうなどして、マレーシアでは知らない人はいない人物のようですね。亡くなったのは2013年と最近で、晩年はタイに住み、母国に戻りたいとマレーシア政府に何度も要望を出すも、拒否され続けたという。

 今年のTPAM、私は少ししか観られなかったのですが、この『Baling』はとりわけよかったです。チン・ペンという人物とマレーシアについてただ聴くだけなので、地味だし、自分には関係ないし、最初は退屈なんだけど、3人の語りと映像などから、少しずつ対象に興味が湧いていく。

 パフォーマンスとしても秀逸で、観客は床に体育座りで話を聴くんですけど、話し手や内容が変わるたびに、正面が変わるんですよね。右を向いたり、左に体を向け直したり。そして最後、気が付いたら最初にパフォーマーたちが立っていたアクティングエリアに自分がいて、それだけで「あ、自分はもうあっち(何も知らない)側にいないんだ」と感じさせられる。床に置いた本の移動というとても簡単な仕掛けで、その感覚を視覚的にも補強したのも「うまい」と思いました。

藤原 現実との接続もスリリングですよね。出演者にはマレーシアの本物の政治家がいて、国を追われたチン・ペンの葬式に出るかどうかで葛藤したり。白眉は、映像作家が生きていた頃のチン・ペンに会いに行って、長い沈黙の後で「故郷に帰りたい」って洩らす、もはや革命家ではなくなったひとりの老人としての言葉を拾っていたりする。

徳永 女性の出演者が「私は55歳で、(一緒にパフォーマンスしている男性から)国よりも年上だとからかわれる」とサラっと言います(マレーシア成立は1963年)。今を生きている人間よりも国のほうが若いという感覚は、確かにこころもとなさの具体性として伝わって、日本とは明らかに違う国との付き合い方があるんだと気付かされます。

藤原 歴史というのが単なる知識ではないんですよね。国の歴史がわずか50年しかないからこそ、スッと伸ばせば歴史に手が届くと実感しやすいのかもしれない。その感覚がパフォーマンスとして昇華されていたと思います。


▼赤レンガダンスクロッシングfor Ko Murobushi(飴屋法水・岡田利規のパフォーマンス)@赤レンガ倉庫
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【撮影:前澤秀登】


藤原 次は赤レンガダンスクロッシングを。岡田利規と飴屋法水が、それぞれひとりでのパフォーマンスでした。岡田さんはTPAMでは『あなたが彼女にしてあげられることは何もない』を上演していて、そちらは稲継美保がひとりで電波系(?)の不思議な語りをしていたんですけど、こちらは岡田利規本人による自作テクストの朗読。

 ある男がメキシコの空港で急逝したという話で、もちろんそれは室伏鴻のこと(このイベントは昨年急逝した舞踏家・室伏鴻の追悼に企画された)なんですが、テクストの語り手である「俺」は、いつか自分もそうなるかもしれないと言う。もはやどこの航空会社の機内食がうまいとかもどうでもよくなった、自分がいる状態は常に旅だから……と。フィクションなんだけど、ほとんど本人の実感に近いんじゃないかと感じました。そしてその感覚は少しわかるというか……。僕も今年はのべ4ヶ月間くらい日本にいない予定で、テロも吹き荒れる今、いつどうなるかわからないということはやっぱり時々考えてしまう。岡田さんはもうすでに何年もそういう旅を続けてきてるわけじゃないですか。その心情がめずらしくかなり率直に語られている……!と思ってドキッとしたんです。

徳永 岡田さんはどうやってパフォーマンスを始めたんですか?「どうも、岡田利規です。これから読みまーす」みたいな?

藤原 そうっすね。そして最後は「終わりでーす」って(笑)。

徳永 私は初日の後半だけ行けたので、飴屋法水さんのパフォーマンスは観ました。

藤原 初日はだいぶかっとばしたらしいですね……。

徳永 ほとんどの出演者が持ち時間をオーバーしていたとか。私は後半から観たせいか、ちっとも長いと感じませんでしたが、飴屋さんのだけで1時間ぐらいでした。

藤原 飴屋法水のパフォーマンスは、室伏鴻と自分との唯一の接点が「メキシコの空港に行ったこと」しかない、だからそれを手がかりに、若かりし頃の自分のメキシコ体験を語っていくという。時空を超えた不思議な旅でした。

徳永 その頃の飴屋さんは現代美術をメインにしていて、メキシコ人の指紋や唾液を採取して培養して、それを自分のものと戦わせるという目的で出かけたようです。

 話の内容は、採取に協力してくれた現地の人の写真を出して「この警官の人、お金を要求してきた」とか(笑)。行きの飛行機の中からメキシコ人と間違われて、一緒に行った日本人がことごとく置き引きやスリに遭っているのに自分は平気だったとか。ホテルが危険な地域にあって止められていたんだけど、深夜に散歩に出かけたら大きな原っぱに出て、なぜか明るくて人がたくさんいて、見ると真ん中のほうで女の人たちがぐるぐる回っている。つまり、売春婦とそれを選ぶお客が集まる場所だった。自分もひとり女の子を選んだんだけど、なぜかできなくて「いろんなものを混ぜる作品をやりに行ったのに、体液を混ぜられなかった」とか。

 冒頭で飴屋さんが「スタンダップコメディってあるけど、今日はそういうことをやってみたいと思う。スタンダップトーク? 何だかわからないけど」と言ったのが、とても重要なことに感じました。もしかしたら本当に飴屋さんに「多くの人を笑わせたい」という野望があるのかもしれないけど(笑)、私はそれを、いわゆる演劇やダンスに用意されている“舞台上の頼れるもの”が無い状態に自分を置いて、作品ではない何かを発することなんだろう、と受け取りました。岡田さんも「始めまーす」と言うチェルフィッチュスタイルを踏襲し、テキストを用意してきたとは言え、ある意味、自分を晒す行為に近かったのでは?

藤原 そうですね。これは推測でしかないですけど、室伏さんの追悼ということもあって、フィクションをこしらえるというより、自分自身が出ていって何かを語ろう、という気持ちになったのかもしれないですね。

徳永 室伏さんがそういうことさせる人だったのかもしれませんね。川口隆夫と大橋可也と岩渕貞太と吉田隆一&吉田アミのパフォーマンスも、男性ダンサー3人が全裸になりました。室伏さんが自分を隠さないで身ひとつで空間にいるということをやっていて、それを参加者がそれぞれにやったのかなと。

藤原 2日目のトップバッターだった空間現代×ucnvは、室伏さんの裸体の映像をバックに流しながら演奏したんです。始まって暗闇になった瞬間、客席にいた子供が「怖ーい」って泣き出して(笑)。その闇の中に、加工された室伏鴻の裸体の映像が大写しになる。確かに不気味だし怖いですよ。でもこの「裸」は、人間が生きる世界にとって必要なものだ、という感じがすごくしました。


▼produce lab 89『Side C 「ラジオ危口」』@六本木新世界
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藤原 徳永さんがプロデュースされた『ラジオ危口』。これも自作を語る試みだったと思うんですけど、いったいどういう意図でこの企画を?

徳永 『ラジオ○○』は、『官能教育』と同じくproduce lab 89(プロデュースラボ・ハチジュウキュウ)名義で企画しているシリーズのひとつです。内容はとてもシンプルで、自分と自作について3時間、話してもらうだけ。

 始めた理由は、アフタートークについて考えたことなんですけど。よくアフタートークを「客寄せのためにするくだらないこと」と悪く言う人がいて、確かに「みんながやっているからうちも」という団体もありますけど、根本的にその認識は違うと思うんですね。なぜこんなに隆盛なのかと言うと、お客さんは前向きな好奇心として、つくり手の話を聞きたいと思っていますよ。作品がわかりにくいとか物足りないからじゃなくて、素直に「もっと知りたい」、そしてもっと知ったら次回作が「もっと楽しめる」と考えるようになっている。

 ある時代まで「作品がすべてだ、作品を観て評価してほしい」というのがつくり手の主流の姿勢で、それは今も間違っていないし、その考えを支持する人がいてももちろんいいんです。でも、東京デスロックの多田淳之介さんのように「作品をディスカッションの起点にしたい」と考える人や、ハイバイの岩井秀人さんのように「それで作品の魅力が損なわれるとは思わないから、いくらでも話しますよ」という人が増えて、それに同意する観客が大勢いた。最初は集客のためにスタートした試みが、時代の需要と供給に一致して、多少オーバーに言うなら、演劇のひとつの窓口になった。

 だとしたら、つくり手の話を聞くことに特化したイベントがあったらいいなと思ったんです。詳しくは89のサイトを観てもらえればわかりますが、過去には『ラジオ岩井』で岩井秀人さん、『ラジオ藤田』でマームとジプシーの藤田貴大さん、『ラジオ卓卓』で範宙遊泳の山本卓卓さん、宮沢章夫さんにはくだらない話限定で『無駄話の宮沢』というタイトルで出演していただいてます。

藤原 「ラジオ」というタイトルを付けたのは?

徳永 コンセプトは「客入れしたオールナイトニッポン」なんです。喋ることに特化して、ラジオのリスナーに向かう感覚で観客に語りかけてほしいと。ANNは2時間で、こっちは3時間なんですけど(笑)。

 オファーする理由はそれぞれで、危口さんは、それぞれの作品が経験と重なっているのに、作品の幅が広いのが興味深かった。引き出しが多くて、それぞれがきっと深いだろうから、おもしろいお話が聞けるだろうと思いました。

 当日は、幼少期からの落書き帳や日記を大量に持ってきてくださって、舞台上にそれを敷き詰めて美術効果も兼ねていたんですけど、そこからピックアップしたノートをもとに、夢中になった漫画やゲームの変遷、それらが今やっていることとつながっているという話があったり、バンドをやっていたのでオリジナル曲を歌ったり。ご家族の話もおもしろかったです。お父様は危口さんのことをずっと「きぐちくん」と呼んでいて、その理由を「子供というのは家のものではなく、一時的に社会から預かっていて、いずれ世の中にお返しするのだ」と説明していたそうなんですが、危口さんが「そんな理屈は結局うまく行かず、父子ともに未だにべったりです」と言ったのがおかしかった(笑)。

藤原 お父さんが出演する作品までつくっちゃいましたからね。(悪魔のしるし『わが父、ジャコメッティ』)

徳永 『ラジオ危口』を聴いた人は、他の人の何倍も『わが父、ジャコメッティ』を楽しめると思います(笑)。

 あとは、日付をお客さんに指定してもらって、その日の日記を読みました。ちょっと感動したのが、ある人のリクエストが1995年1月17日で、日記には、このバンドがいいとか悪いとか他愛ない話が書いてあって、危口さんが「この日を選んだ理由は?」と聞いたら、「阪神淡路大震災の日だから」と。それを受けて「不謹慎なやつと思われるかもしれないけど、これはその時の自分のリアルな気持ちで、テレビのニュースを見ても“あーー”っていう感覚しかなくて、震災について積極的に何か言いたい気持ちにならなかった。この前、いわきで高校生と芝居をつくって思ったのは、こっち(東京)ではいくらでも震災のことが言えるけど、福島に行くと自動的に言えなくなってしまう」と話した時間でした。日記のコーナーは正直、中だるみしたんですけど、この時の一連の言葉は、何かの本当が含まれている気がしたんです。そういう、ダラダラを1回経過しないと出てこない本音があって、それはやっぱりある時間をひとりで喋ってもらうことで生まれる。それが聴けるのは深夜ラジオの醍醐味だなと思いました。

藤原 深夜1時からの世界……。今聞いていて思ったのは、ダラダラを経由しないと出てこないような、つまり作為的ではない言葉を聞きたいとか、あるいは語りたい、というような欲望が今、観客にも作り手にもあるんですかね? もしくは「作品」という枠組みに収まりきらないものを欲しているとか。

徳永 レクチャーパフォーマンスのような表現が出てきたこと自体が、従来の「作品」という枠組みでは届かないものが生まれているということではないですか? それと、今ふと思ったのは、演劇における「直接性」が変わってきたのかも。今までは、物語の中の登場人物の物言いだけが「直接的」になれたけど、昨今は、つくり手の振る舞いでそれを示すことも受容されるようになった。もちろん客前に出る以上、完全な素ではないし、実は計算があったりするんですけど。

 そういうものが求められるようになった理由は、日本だとやっぱり震災と原発事故の影響を思いますよね。海外のことはそう簡単にくくれませんが、9.11や近年のテロ、難民問題が絡んでいるのかもしれません。まず相手を知りたい、自分たちを知ってほしいという感覚が強まって、自分が何者かを表明するところから始めたいと考えているとか……。

 『ラジオ危口』に関して言えば、ある来場者から「自分のことを自分で語るのは難しい。聞き手が必要ではないか」という意見をいただいて、それもわかるんですけど、例えば危口さんと仲のいい方や優れた聞き手が相手をしたら、パフォーマンスとしての完成度は高まっても、さっき言ったような、つくり手の中から本当がこぼれる時間には出合いにくい気がします。

藤原 なるほど。普通に話を聞きたいならインタビューをすればいいわけだから、そうじゃない負荷をかけることで、別のものを引き出したいという……。さっきの日記の話は印象的ですが、観客というまさに不確定な変数によって導き出されたエピソードですよね。

徳永 演劇はライブなので、普通に公演をしていても観客は不確定な変数ですけど、物語というパッケージが消えると、不確定の度数は高まる。

藤原 それは、作り手が用意したものの「外」に興味があるということ?

徳永 89でやっていることは、「外」と言うより「途上」や「途中」というニュアンスが近いかもしれないです。作品が完成するまでの過程、作品に至るまでの揺れを、私はとてもクリエイティブだと考えていて、観客もそれを共有すれば、作品が一層豊かに楽しめるはずだから、そこを開いていきたい。でも、「途中」という状態は「裸」なのかもしれませんね。『官能教育』で、演出を依頼した松井周さんや三浦直之さんや糸井幸之介さんが、なぜか俳優としてがっつり出演してくれたのは、「途中」を見せることがある意味、「裸」になることだとしてご本人たちの意識につながったのかも。

藤原 「裸」はキーワードになりそうですね。それで思うのは、飴屋法水さんのパフォーマンスはもともと「裸」になるというか、ヴァルネラビリティ(傷つきやすさ)をその身に帯びるという性格を持っていますよね。飴屋さんの場合、その無防備にも見える状態をつくりだすのが作為なのかそれとも自然発生したものなのか、その境界がきわめて曖昧に融け合ったり裏返ったりしてしまう。いっぽう危口さんの場合は、もっと愚直に勝負かけてくる印象があります。誤解を恐れずに言うならば、いつも失敗と隣合わせな状態に自分を置くというか。そういうそれぞれの作家性、「裸」へのなり方が、「ひとりパフォーマンス」ではより露わに浮かび上がってくるのかもしれない。


▼テスト・サンプル05『ひとりずもう』@早稲田どらま館

藤原 テスト・サンプルの『ひとりずもう』は、これも相撲と称している以上まさしく「裸」を連想させるわけですが、いわゆるひとり芝居のオムニバスですよね?

徳永 サンプルの所属俳優が自分で脚本を書いて、それを(主宰・作・演出の)松井周さんがある程度整える、という形でつくったんだと思います。古舘寛治さんは他の仕事で参加されず、奥田洋平さん、野津あおいさん、松井周さん、辻美奈子さん、古屋隆太さんの順番で上演されました。1本15分ぐらいだったかな? 各俳優の嗜好がおのずと出て、それを続けて観るので、同じ劇団にいてもこんなに違うんだとか、逆に、やっぱり似ているなといった点がわかったのもよかったです。

 一例を挙げると、奥田さんは不動産屋の営業マンの役で、結婚間近だというお客さんに部屋を案内しながら、徐々に、上手く行っていない自分の結婚の話になっていく。松井さんは中学教師の役で、女子生徒とその母親と三者面談というシチュエーションでした。

藤原 そのお客さんやお母さんの役は、誰か他の俳優が演じるんですか?

徳永 いえ、相手の人は見えないけれどもそこにいて、主人公と会話している体(てい)で進みます。会話劇の相手役のせりふが無いバージョンですね。5話全部がそれで、実は私はそこが不満でした。ひとつかふたつ、完全なモノローグのひとり芝居も観たかった。
 5本の中では、辻美奈子さんの話が1番好きでした。美術館の監視員の話なんですが、その部屋に展示してあるのが、ぱっと見、ただのパイプ椅子で、実際に座ろうとするお客さんもいる。それを止めたり、その作品を説明する言葉のチョイスが、かなりセンスがあると思いました。最初は小さい声で「アンチIKEAの……」、要は、今流行っているおしゃれな大量生産に異を唱えた手づくりパイプ椅子なんだと、だんだんと熱のこもった解説になっていく。途中でハッとして、恥ずかしそうに「熱く語っちゃって……」と照れたりして。内容的には最も飛躍が少ないんですけど、低いところにあるドラマを逃さず丁寧に拾っているのがよかったです。産休、育休で、この数年は舞台出演を控えていらっしゃいましたが、またたくさん観たいと思いました。

藤原 俳優がひとりでもやれる、っていうのは大きなことですよね。先日、矢内原美邦さんにインタビューした時に、東南アジアでは俳優が照明スタッフしたりキュレーションしたりするのは当たり前で、自分たちでやる精神がある、とおっしゃっていて。確かに日本の俳優は受け身な人が多い印象があります。それは例えば平田オリザが「俳優は駒である」って言ったのを真に受けてしまったんじゃないか? もちろんオリザさんはある意図をもって極論してるんでしょうけど、その影響かどうかはともかく、「俳優は演出家のいいなりでいい」っていう気風がちょっと広がりすぎている気がします。海外の俳優が自分の出演した作品のことを堂々と語るのとか見ると、「これは自分の作品だ!」っていう意識があるんだなーと感じるんですけど。日本だと作品は「作・演出の人のもの」じゃないですか? だからこうやって俳優の自立性を高める企画はもっとあってほしい。

徳永 平田さんが「俳優は駒である」と言うより前から、日本の俳優の自立性は低かったと思います。ひとつは、劇作家や演出家よりもギャラが低いといったことも要因かも。また、主宰と劇作家と演出家が同じだとどうしてもその人に権力が集中したり。
 俳優発信の企画も、クオリティが低い、継続しないなどの理由で、ファンの集いになってしまうことも少なくないので、そこで頑張る人たちに増えてほしいです。


▼ドキュントメント『となり町の知らない踊り子』@TPAM2016
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【TPAM 2016『となり町の知らない踊り子』/photo:Hideto Maezawa】


藤原 そういう意味で、ドキュントメント『となり町の知らない踊り子』は、作・演出の山本卓卓(範宙遊泳)と、演じる北尾亘(Baobab)の対バン感があってシビれました。僕は今回の再演で初めて観たんですけど、いや、ガツンとやられましたよ……。北尾さんが女役も含めてひとり何役も演じていく中で、性別を超越していく感じになっていくという。ただキャラを演じるとかではない。これもかなり傷つきやすい状態に身を晒していたと思います。

徳永 どうしてこれが岸田國士戯曲賞の最終候補に残らなかったのか、返すがえすも不思議です……。初演を、アングラ全盛の時代からキャリアがある女優さんと一緒に観たんですが、その方が「今まで観たひとり芝居でいちばんおもしろかったかもしれない」と興奮しておっしゃっていました。さっきの、ひとり芝居における会話の問題についても、ひとつの解答になっていたと思うんですけどね。

藤原 テクストは切ないんだけどウェットにはならない。例えばメールで絵文字を送ってくる母親の存在は無機質で、生きた感じがしないのに、それが逆に、観てるこちら側のエモーショナルな何かをかき立ててくる。ホテルで売春する女の子とそれを斡旋する男が、もしもあの時そのまま付き合っていたら、生まれていたかもしれない子供、つまりは生まれてないはずの子供が語り始めるっていうのも、山本卓卓の作風のコアな部分を象徴していると思いました。

 実はこれを観る日に、演劇って、やっぱり健康な人しか観れないのかなあ、と思ってちょっとへこんでたんですよね。劇場に行くのって風邪引くだけでも一気にハードル高くなるし、心を病んだら人前に出たくなくなるじゃないですか。だけどこの作品にはそういう人たちを救いうる何かがあると感じました。劇場には来れないかもしれないんだけどさ……。でもきっと今、こういう作品を求めている人はいると思うし、この作り手たちはそこに届く可能性に賭けている気がする。


▼シルク・ドゥ・ソレイユ『トーテム』
トーテム(Photo OSA Images Costumes Kym Barrett © 2010 Cirque du Soleil)

【Photo: OSA Images Costumes: Kym Barrett © 2010 Cirque du Soleil 】


徳永 「ひとつだけ」で推したシルク・ドゥ・ソレイユの『トーテム』について。

 演出が、日本でもお馴染みのロベール・ルパージュで、ストーリー性が強い作品だと聞いていましたが、私はそうは思いませんでした。ただ、いい意味でとても人間くさかった。観客に異世界を感じさせるような、非現実な仕掛けは最小限に抑えて「ステージにいるのは、皆さんと何も変わらない人間ですよ」と言っていたように感じたんです。

 シルクの作品にはよく、サーカスにつきもののクラウンにあたる人物をはじめ、変わった風貌のキャラクターが登場して、彼らがパフォーマンスのつなぎをしたり、パフォーマンスそのものと絡んだりするんですが、『トーテム』でクラウンにあたると思われるのは、お姉ちゃん大好きのチャラチャラしたラテン系の男性で(笑)、あくまでも私たちと同じような感覚の人ばかり。でも、つい数秒前までそのお兄ちゃんと絡んでいた若者が、それとさほど変わらない表情ですごい空中技を次々とやってしまう。
 超人的な身体能力の技と最新テクノロジーを掛け合わせてつくる非現実的なショーではなく、超人的な技を惜しみなく見せながら「でもこれをやっているのは人間なんだよね、人間ってすごいね」と現実の人間讃歌につながるショーでした。
 そういえば飴屋法水さんが「10年くらい前にシルクのDVDばっかり観ていた時期があった」とおっしゃっていました。「単純にああいうふうに動ける人たちに憧れたんだよね」と聞いて、意外で驚きました。


▼ダニエル・コック/ディスコダニー&ルーク・ジョージ『Bunny』@TPAM2016
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【TPAM 2016『Bunny』/photo:Hideto Maezawa】


藤原 サーカスからの連想であり、今日の裏テーマである「裸になること」との繋がりもあるということで、最後にダニエル・コック/ディスコダニー&ルーク・ジョージの『Bunny』について触れさせてください。

 会場に行くとまずダニエルが後ろ手に縛られて吊るされてるんです(笑)。やがてルークも自分自身を縛りはじめて、でも自分では完全には縛れないから、最後のところをお客さんに頼むんですね。で、そうなるともう2人とも動けないから、スイッチ押して、とかいろいろな合図に従って観客の誰かが劇を進行させることになる。結果的に、僕も最後にダニエルの命綱を手渡されてしまって、もしも手を離したら彼が大けがをするっていうかなり緊張感のあるパートを任されたんですけど……これが結構重くてですね、何国籍かわからない青年がスッと寄って来て手伝ってくれました。

 最も驚いたのは、ある女の人が……緑色のパスポートだったし、たぶん外見から想像するに韓国人かなと思うんですけど、彼女も縛られてダニエルからマッサージを受けたんです。かなり際どい、セクシャルな行為とスレスレのところで、彼がゲイだからオッケーというレベルではなかった。さらには鞄の中身も全部、財布からパスポートから化粧品まで舞台の上に並べて晒される。普通に考えたらアウトなんですけど、不思議と不愉快には思わなかったんですね。たぶんその女の人も、緊張したり恥ずかしいとは思っただろうけど、きっと不愉快ではなかったと思う。少なくとも怒ってはいなかった。でも彼女から望んでそうしたわけではなくて、ダニエルが少しずつ彼女を侵食して心を溶かす、そのやり方が見事だったんじゃないかと。

 それは喩えていうなら、人間が「鎧」を脱いでガードを外し、「裸」になっていく過程でもある。悪用されれば恐ろしいことになりますけど、でもだからこそ、「裸」は信頼を必要としますよね。この『Bunny』は賛否両論だったし、もちろん観客全員というわけにはいかないけど、何人かのあいだで信頼関係が生まれたのは事実だと思います。むしろ全員が多幸感に満ちていたら怖かったと思う。

 あとこれは脈絡がないし蛇足なんですけど、自分でもびっくりなことに、最終的には「縛られたい」って思ったんですよ(笑)。実際縛られている観客は何人かいたので、ちょっと羨ましいなって……。

徳永 それは参加意識ですか? それとも自分を晒したくなったということ?

藤原 うーん、晒したいとか目立ちたいとかじゃなくて、ただ縛られたいっていう。

徳永 でも、縛られて隅っこに追いやられて放っておかれたらいやでしょう?

藤原 あ、それはイヤですね(笑)。てことは、やっぱり関係性がお互いに見える中で縛られることが大事なのかもしれない。まあ目隠しされてる人もいたから、視覚だけに頼るわけではないんだけど……。

 TPAMは国際的なミーティングの場だから、世界各地からアーティストやキュレーターがやってくる。だから観客は、人種も言語もバラバラだった。宗教観や倫理観にもきっと差異があるんでしょう。そういういろんな人たちが、ひとまずあの場を共有していたっていう事実はそれだけでも今や貴重なことに思えるし、縛られることでそのことへの信頼を表明したかったのかな……???

徳永 聞く限り、「共有」から「縛られたい」へジャンプしたきっかけがわからないので(笑)、再演があったら絶対に観て確認します。

演劇最強論枠+α

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