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【連載】マンスリー・プレイバック(2016/04)

マンスリー・プレイバック

2016.06.10


徳永京子と藤原ちからが、前月に観た舞台から特に印象的だったものをピックアップ。ふたりの語り合いから生まれる“振り返り”に注目。

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▼モダンスイマーズ『嗚呼いま、だから愛。』@東京芸術劇場シアターイースト

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多喜子(川上友理)は30代半ばを過ぎた売れないイラストレーター。彼女の家で、親友夫妻(小椋毅、太田緑ロランス)の送別会が開かれようとしている。夫婦でキリスト教の仕事に就くふたりはパリに移住するのだ。多喜子には、夫(古山憲太郎)と2年以上セックスレスという不満がある。パーティの直前、女優として成功している美人の姉(奥貫薫)がやってくると、夫は多喜子との性生活を笑い話のように姉に話す。傷付く多喜子に、追い打ちをかける出来事が続く。親友が妊娠5カ月で、それを自分に隠していたことが知らされたのだ。その前日には、若いアシスタント(生越千晴)が描いた自分の似顔絵のことで彼女を攻め立てた。それらをきっかけに、幼い頃、容姿ゆえにいじめられ、ある事件から逆に気遣われるようになった過去の傷が、癒えないカサブタを破って明らかになっていく。(徳永)
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藤原 twitterで僕はこの作品について荒ぶったツイートをしましたが、徳永さんが「ひとつだけ」で強くプッシュした作品ですし、あらためてプレイバックで語りましょうと。それで数十分前からここで先にお待ちしていたわけですが、この待ちくたびれる展開は、巌流島の決戦に喩えるなら……

徳永 私、宮本武蔵?(笑)。いやいや、お待たせしてすみません。

藤原 ……で、僕が佐々木小次郎ということになり、すでに負けフラグが立ってますね(笑)。でも勝ち負けではなくて、大事な論点について今日は語り合えればと思っています。

 twitterでは「モダンスイマーズ。宗教についてのあまりにあまりな浅薄な理解(もはや冒涜)を無邪気にできるほど今の時代に鈍感な人が、パリのテロリズムを描くなど笑止千万だと思った。」と書きましたが、ただ怒りに任せて書いたわけではないんです。もちろん主演の川上友里さんをはじめ俳優のがんばりを讃えたい気持ちは心情的にはあります。でも劇作については、今後の日本に少なからず影響を与えうる物語作家として、これはマズいんじゃないかと思いました。だから僕自身にもリスクは大きい──少なくとも説明責任を果たす義務が生じる──けど、強い言葉で批判しました。

 率直に言って、この作品の劇作家である蓬莱竜太さんは、今のこの世界で起きていることに対してとても鈍感ではないかと思いました。それに登場人物を物語の駒として扱いすぎではないか、という不信感も拭えない。そのあたり、徳永さんのご意見を伺ってみたいと思っています。

 不信を抱かせる種はひとつではないのですが、特に顕著にあらわれていたのは、当パンの人物相関図で「クリスチャン」と記されていたあの夫婦です。彼らは「ハルマゲドン」を信じている、つまり終末思想を持っている。それは現存するとあるキリスト教系教団のことも想像させますし、オウム真理教のことが脳裏に浮かぶ人はもっと多いでしょう。でも劇中では彼らは特に摩擦もなくすんなり周囲に受け止められていて、呑気に聖書の引用なんかしたりしている。それで僕はてっきり、ああこの作品はリアリズムではなく、ちょっとおかしくズレた世界設定にしていきたいのかな、と最初は思ったんですけど、結局最後に至るまで特にそれが伏線として回収されることもなく、ただ粗雑な描写としてしか映りませんでした。親友の裏切りという物語をつくりたいがためにハルマゲドンを出してきたのか。あるいは、ちょっとクレイジーな人たちを描きたかったのか。それとも悪意をもってキリスト教を揶揄したかったのか?

 僕自身はクリスチャンではありませんが、国内外にキリスト教信者の親しい友人はいますし、これを神や信仰への冒涜と捉える人がいるであろうことは容易に想像できます。もちろん、キリスト教に対して批判的な作品があってもいいと思うんですよ。エルフリーデ・イェリネクにしてもアンジェリカ・リデルにしても、批判は含まれている。けれどそこには、キリスト教をベースとして歴史的に形成されてきた支配的な価値規範を揺るがさなくてはいけない、という彼女たちなりの切実さ、必然性、覚悟を感じます。だからこそ芸術という場において、それぞれの信じる価値を賭けた対話や思考が生まれうると思うんです。暴力ではない手段によって。だけどモダンスイマーズの今回の作品には、そうした切実さ、必然性、覚悟といったものが、まるで感じられなかった。無知と無理解に基づく宗教への揶揄にすぎない、と受け止められても仕方がないと思います。

 で、──長くなりますが──にもかかわらずですよ、最後の最後に(2015年11月13日の)パリのテロリズムが出てくるじゃないですか。えええー、マジで?と思いました。宗教に対してこんなに粗雑に描いておきながら、宗教問題と密接に絡んでいる現代のテロリズムを扱おうなんて……。迂闊に手を出せば大怪我をするような、時と場所によっては人が死にかねないようなことですよ。それを東京芸術劇場でやり、観客もまたお気楽に笑ったりしているということに、無事で安全なのは平和で何よりですが、失望を禁じえないです。

 ただ、徳永さんがこの作品を良いと考えていらっしゃるポイントもあるでしょうから、今日はぜひそれを伺いたいです。

徳永 そうですね。「ひとつだけ」にも推しましたが、その期待以上にこの作品には──藤原さんが激怒のツイートをされたのと対照的に「モダンの最高傑作だと思う」とTwitterに書いたくらい──胸を打たれました。今言われた違和感や失望の全部に対応はできないかもしれませんが、この作品を私がいいと思った理由をお伝えします。

 確かに宗教にまつわるいくつかの描写は、ややカリカチュアが過ぎたというか、デリカシーが足りなかった部分があると私も思いました。でもそうした点を補って余りあると思ったのが多喜子と姉の壮絶な喧嘩です。
 夫がセックスをしないとか、大学出たてのアシスタントの方が絵が上手いとか、いくつかの理由が重なって、多喜子はホームパーティという席にもかかわらず、どんどん機嫌が悪くなっていく。そしてその理由が、実は小学生の時のある事件がずっと引っかかっていたことが次第にわかってくる。
 その事件とは、ある大雨の後、増水した用水路に突き落とされて流され、危うく一命を取り留めた、というものです。それは、同級生の男子たちの行き過ぎたからかいで、多喜子は容姿が原因でいくつも心ないあだ名を付けられたりして、からかう方は子供特有の軽い気持ちだったんでしょうけど、まぁずっと、笑いの対象だったわけです。その延長線で、クラスの男子グループに後ろから用水路に押されて死にかけた。それは後日、全校集会が開かれる騒ぎになって、以来、周囲の人みんなが多喜子に優しく接するようになった。およそ女子らしくないあだ名もつらいけれど、そうした気遣いも彼女を長く傷付けてきたんですよね。しかも夫は背中を押した男子その人で、責任感が遠因になって自分と結婚したのではないかという恐れがある。
 ホームパーティの日、コップの水が溢れるように溜まった不満がこぼれて、多喜子は初めてそれを口にしますよね、「あれから自分は特別扱いされて、それで親友もできたし結婚もできた」と。普通なら、それがクライマックスになると思うんです。被害者の、ずっと隠していた傷口がさらけ出される瞬間が。ところがこの話は、そのあとが続きます。しかも、美人の姉が面と向かって「あんたがそういう人生を送っている理由は、あんたが不細工だからだ」と言い放つ。それは一見、落ち込んだ多喜子をさらに突き落とす言葉ですけど、さらに続けて姉が「あんたがひどい目に遭っているのはあんたが不細工だからだ。だけど、それはあんたのせいじゃない」と言う。

 私はこのせりふを聞いた時、これは、あらゆる差別の構造だと思ったんですよ。
 難民問題、女性差別、なんでもそうです。「黒人だから」「イスラム教徒だから」「少数民族に生まれたから。差別される理由は、その人にくっ付いている動かしがたい属性なんだけれども、それはその人の責任ではない。そういう肌の色に、地域に、家庭に生まれたから。差別とはそういう理不尽なもので、だから不毛なテロや戦争が生まれる。その真実を、蓬莱竜太は姉と妹の喧嘩のシーンで照らし出した。
 それだけでも私は驚いたんですが、パリでテロが起きた臨時ニュースが流れてパーティがお開きになり、多喜子と夫がふたりだけになってからのシーンで、蓬莱さんは自分なりの答えを提示しました。
 テロのニュースを聞いて「なぜかすごくセックスしたく」なった多喜子は泣きながら夫に抱きついて2年ぶりにセックスするわけですけど、そんなことが彼女の救いでは全くない。ふたりきりになって、夫が多喜子のことを好きになった日の話を初めてしますよね。大学時代に漫才コンビを組んだふたりは、学園祭の前に度胸試しをしようと、講義が終わった途端に教室の前に出て行っていきなりネタをやることを計画した。でも直前に夫は緊張して「やっぱりやめよう」と目で合図を送るのに多喜子は気づかない。そして計画通りに飛び出して行った。仕方なく自分も飛び出した時に、多喜子の後ろ姿を見ながら「何なんだろうこの人、すごいな」と思って、その背中に惚れたんだと。
 そのシーンを観ながら私、それは差別を乗り越えるほとんど唯一の感情じゃないかと思ったんですよね。「何なんだろうこの人、自分には理解できない、自分にはできない」と思いながら、惹かれていくことが。「肌の色や体のつくりが違う、何なんだろう、この人」「よくわからないお祈りを始める、何なんだろう、この人」と思いながら、否定ではなく保留、保留から認知、願わくば認知から愛情ですけど、とにかく否定で終わらせないこと。それは、テロや戦争のもとになる差別を、現実的に排除していくためにすごく大事なことだと思って、そこもちゃんと演劇として描かれている点が、この作品をモダンスイマーズの最高傑作だと評価した理由です。

藤原 人前で初めてネタをやった時のエピソードは微笑ましかったですね。でも個別のエピソードはともあれ、全体的にナレーションで話を進め過ぎじゃないですかね? 説明的な印象を受けました。どうしても「物語をつくる」という目的が先行しているように感じるんです。例えばあの姉にしても、妹夫婦のセックスレスのことを人前で話題にしちゃう。そういうデリカシーのなさによってゴリゴリ物語を進めていくじゃないですか。物語を進めるために、登場人物を駒として使っているような印象を受けます。

 もちろんあらゆる物語において、「登場人物は物語に奉仕する存在である」と言えるのかもしれないけど、単に作者にとって都合のいい駒として扱うかどうかに、その作家の人間に対する倫理観と、物語を語る技術とがあらわれると思うんです。その点で僕はこの物語とその作者を信用できず、笑うこともできなかった。「こういうことやると笑えますよね」っておもねってる印象しか受けなかった。

 それから、テロ事件を報じるニュースを見るシーンでの「なぜかすごくセックスしたく」なるシーンについて。先日、岸田國士戯曲賞にノミネートされた柳沼昭徳の『新・内山』でも、津波の映像を見ながらセックスしようとすることに対して「地獄に堕ちる」っていう言葉がありましたけど、『新・内山』は人間の底に眠っている悪魔のような部分が引きずり出されているように感じた。でも今回のモダンスイマーズのこのシーンは、ただ陰惨な事件と性欲とのギャップを思わせぶりに描いているだけに見えて、その余白から何かを読み取りたいという気持ちにはなれなかったです。

徳永 うーん、私には「陰惨な事件と性欲とのギャップを思わせぶりに描いているだけに」とは見えませんでした。そのシーンの前から、多喜子を演じる川上友理さんが演じるという鎧を脱いでいることもあって、自分の性欲を「なぜなのかはわかりませんが」と説明するモノローグも、「したいよー」と子供のように泣きながら夫に抱きつくダイアローグも、とても平らかに、また、血の通った衝動として見えました。

 ナレーションと言うか、モノローグの多用が「物語先行」に思えたという点も、実際そういう作品は少なくないわけですが、この作品に関しては、私はセーフの範囲です。それはもしかしたら、蓬莱さんの作品をたくさん観てきているので、彼の物語の展開のさせ方が、最初は観客にある種の我慢を強いるけれども、最終的にはそれが納得できる効果を発揮すると知っているので、耐性があるのかもしれませんけど。
 でももしこの作品が初めてのモダンスイマーズだったとしても、姉妹の喧嘩に託された世界の構造に気づいた時点で、やっぱり「すごいです、参りました」と思うと思います。
 さっきの続きになってしまいますけど、激しい応酬の中で妹が「お姉ちゃんには(不細工に生まれた私の気持ちや境遇は)わからない」と言うと、姉が「わかんないわよ、でもあんたにも(私の気持ちや境遇は)わからない」と言うじゃないですか。そうなんですよね。美しく生まれてしまった人が受ける逆差別もあるじゃないですか。努力して手に入れたものも「美人だからね」と勘ぐられる。姉は加害者でもあれけど被害者でもあって、それもまた、差別の構造だと思う。その姉が、喧嘩のあと、嫌がっていた撮影現場に行くことが、マネージャーへの「現場に加湿器!」というひと言でわかる。彼女には彼女の戦いがあって。そこに戻るのだと。

藤原 そこは確かに、「美人にも美人なりの苦しみがあるのよ」的な余計なひとことを姉が言わないのは潔いなと思いました。でも「現場に加湿器!」のせりふについてはどうなんでしょうか。「私も私なりに闘う」という決意は、世界で起きていることと自分とのあいだに何らかの繋がりが見い出されるからこそ生まれるものだと思いますが、この作品は果たしてそういう繋がりに迫っていたんでしょうか?

 それでいうと、クリスチャンの夫妻がパリに行きたい、という設定も、ヨーロッパと日本を無理矢理くっつけるためにこしらえたものではないか。彼らがパリに行きたい理由もよくわからない。

徳永 (妻の)お母さんがフランス人なんじゃないですか?

藤原 劇中では「ハーフ」としか言及されてなかったと記憶してますけど、そういう裏設定の気配は特になかったですよね。むしろ単に旧態依然たる「花の都パリへの憧れ」という感じが漂っていましたが、それは2016年の今を生きている感覚からすると僕にはとても古くさく感じます。

徳永 「パリは子供を持つ夫婦が豊かな時間を過ごしやすい」というせりふがありましたけど、それだけでは不十分ですか? それと「パリ、かっこいい」と単純に考える人の方が圧倒的に多くて、そういう普通の人の生活感覚、ひいては政治感覚を描いているんだと思いますよ。

藤原 誤解のないように言うと、パリである理由を説明してほしいという野暮な意味ではなくて、さっきからあれこれお話しているようなことを含めて、この劇作家は今の世界のことをまるでわかってないんじゃないか、と不信感を抱かせるものがあまりにも多すぎるということです。

徳永 蓬莱さんにとってのパリが、それまで地図上の遠いものだったのが、テロが起きたことによってなぜかわからないけどセックスしたくなった、という身体感覚に近づいてきたのでは? 

藤原 そうかもしれませんね。だとしたら遅すぎますよ。単に年齢や世代の問題に回収できるものではないですが、今や若い作家たちはもっと切実かつ的確に今の時代を捉えている。蓬莱さんがこれから変わる可能性はあるのかもしれないけど、今まで閉じていた作家がこれからの複雑な世界を相手にできるかというと、正直かなり厳しいものがあると思います。今回のテロや宗教やパリに対する鈍感な描き方を見るかぎりでは、道のりは相当遠いのではないでしょうか。

徳永 そこは私は意見を異にします。蓬莱さんがそうかどうかは別にして、平凡な劇作家の平凡な感覚がゆっくり変わっていく時の強さはあると思うので。蓬莱さんに話を戻すと、そんなに世の中に鈍感な作家ではないし、宗教について何も調べずに表層的なイメージだけで書く作家でもないと思います。

藤原 実際に蓬莱さんがどんな宗教体験をこれまでして来られたか、どのような知識を持っているのか、それは存じあげないけど、観客は作品を通して観るしかないじゃないですか。いやもちろん作品だけじゃなく、アフタートークやインタビュー、当パンの言葉……そうした語りによって補ってもいいと思いますが、そういう全体としてこの作品を捉えた時に、あまりにも無策無防備に思えますね。キリスト教と限定せず、何か信仰宗教を創作してフィクションに振り切る手もあったはずなのに、どうしてそうしなかったんでしょうか。宗教描写が原因で人が殺されることが海外では起こっているし、日本でも現に起きているわけですよ。や、宗教の話題はタブーにしろと言ってるんじゃないですよ。そんな自主規制を促すようなクレームをしたいわけではない。あなた、ほんとに覚悟あるんですか、と言いたいだけです。

徳永 覚悟があるかどうかは本人でないのでわかりませんが、私はこの作品は差別の構造と、それに個人が抗う有効な方法を示していると思うので、決して無策とは思えません。それもまた紛れもなく、作品を通して私が感じ取ったことなんですよ。観客を導くつくり手と、観客と一緒に歩くつくり手がいるとは考えられませんか? 
 姉のマネージャーや親友の旦那さんは、確かにシンプル過ぎるキャラクターかもしれませんが、そのシンプルさが、時には愚直さや、時には複雑なものを隠していた仮面として機能することがあり、それが物語を進める時のエンジンになります。

藤原 あのマネージャーのキャラクターは面白いと思いましたよ。どうして歳のいった人をキャスティングしてるのかなと思ったら、なるほど意外としたたかな面を見せてきたし。

 誤解のないように念押ししますが、宗教のことだけにこだわりたいわけではないんです。そうしたひとつひとつの扱いを通して見えてくる、作家としての信頼度や覚悟を問うてるんです。もう「日本にいると感じる機会が少ない」とか言ってられない時代に突入していると僕は思いますけど。

 最後にひとこと、付け足させてください。もちろんどんな公演でも、様々な受け取り方をする観客はいるわけですし、僕はそのこと自体は否定しません。事実、それは存在するものですから。だから徳永さんの受け取り方も事実として僕は受け止めますし、そのこと自体は興味深いことであり、大事なことだとも思います。ただ僕は批評家として、あるものの見方が存在することを提示することが仕事だと考えています。それは、モダンスイマーズの『嗚呼いま、だから愛。』を観て、何かしらの感動を受けたその観客の気持ちを否定するためにするのではありません。世の中には、あなたとは異なるものの見方があります、と伝えたいんです。そして近年、僕はいわゆる──この言い方は適切ではないかもしれませんが──標準的な「日本人」とは異なるビジョンをインストールしつつあります。言語や文化や宗教観、恋愛観、死生観の異なる人々と接触し、その体験を批評家としての自分の身体に落とし込むことで、日本の現代演劇に何かしらのフィードバックをしようとしています。それは「日本人」にとっては異物であり、今すぐには歓迎されないものかもしれませんが、日本の演劇の未来のためには──もしこの国の人たちがまだ未来というものをあきらめていないのであれば──必要な行為だと考えています。

 自分はもっといろいろなことを理解したいと思って今日この場に臨みました。だから純粋にお訊きしたいのですが、これまで長く観続けてきた徳永さんとしては、蓬莱さんの履歴の中で、今回の作品はどういう位置づけになると思いますか?

徳永 今の説明で藤原さんの今の状況と姿勢はよくわかりました。

 蓬莱さんとこの作品についてですが、もともと蓬莱さんは基本的にスタンダードな、もっと言えば、オールドファッションなタイプのドラマを書く人です。彼が長くテーマにしていたのは、家族や故郷や組織という強いしがらみから個人が自由になることで、それはマームとジプシーとも共通するわけですが、描き方が全く違う。演出ではなく、登場人物が乗り越える壁といった物語の中身でそれを見せていました。でもそのうねりに単調でない味、幅広い年代の人が味わえるドラマのカタルシスがあり、だからこそ、新国立劇場やパルコ劇場など外部のプロデュース公演でも仕事が紐切らないんですよね。
 ただ、この作品でそこに大きな“もうひとつの道”ができたと思います。これまでは何本もの仕事を並行して、それぞれのプロットをきちんとつくって作劇していた人でした。つまり、理論で戯曲を書ける技術があった。でも今回初めて、ロジックではなく皮膚で戯曲を書いたのではないかと感じました。その引き金になったのがパリのテロだった。藤原さんにとっては遅い目覚めかもしれませんが、世の中で話題になっているからといった表面的なことで扱ったわけではなく、強く切実な実感からこの作品が始まったことは確かで、今後の作品作りにも、この体験は大きく影響していくと思います。メジャーなプロデュース公演で活躍する人なので、それが反映されてどんな話を書くことになるか、私はとても楽しみです。


▼FUKAIPRODUCE羽衣『イトイーランド』@吉祥寺シアター

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FUKAIPRODUCE羽衣の作・演出・音楽を担当する糸井幸之介の名を冠したこの「イトイーランド」。そこは女たちがみずからの愛人を招き寄せ、自慢しあう愛の楽園であった。人間のみならず、ヤモリ、鳥、蜘蛛、深海魚など、様々な動物たちが、禁断の愛を謳歌する。(藤原)
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藤原 いつものように楽しかったんですけど、徳永さんが朝日新聞に劇評を書かれていたように、人による歌唱力の差が厳しいのがいつもより気になりました。言葉が聞こえづらいために、糸井幸之介の世界観が入って来づらいのはもったいないなと。いつもはシチュエーション、物語、詩があり、それが歌になっちゃった〜♪ みたいな感じがあるじゃないですか。童貞喪失の歌も、果物屋の歌も……。それが今回はかなりミュージカルに寄っているせいか、歌ありきな気がしてしまいました。

徳永 私も満足感はありますし、糸井さんの名を冠した「イトイーランド」の看板に偽りなしの力作だと思ったんですけど、秘めごとの愛の国というより、健康的な愛の国のように感じました。全7組のカップルが不倫という非道徳な関係ではありましたが、みんな明るかったですね。個人的には、ひと組でも“depth”が感じられるカップルがいたら、さらにうれしかったです。私、羽衣で1番好きな作品が『女装、男装、冬支度』で、あの中に出てきた、大石将弘さんが演じた暗い男が強く残っているんですよね。「ピアノの1番低い音の鍵盤から、さらに20メートル(だったか?)伸ばしたくらい低い音が俺の気持ちだ」っていう。そういう“depth”に惹かれる性質なもので。

藤原 羽衣はこのところ死の気配をどこかで感じさせてきたんだけど、今回の話は暗くなかったですね。「不倫」を扱ってるから、逆に明るいほうに振りたかったのかな? 蜘蛛と極彩色のカラスのエピソードとか、セックスした後に喰われるっていうのは生物の“depth”の匂いは感じましたけど(笑)。
 休憩直前にイトイーランドにたどり着くじゃないですか。あそこはゾクゾクしたんですけどね。意外にその後は健康ランドの話に落ち着いちゃったかなと……。

徳永 健康ランドの店長とパートの主婦の、ものすごく平凡な不倫のエピソード、良かったですけどね。
 歌唱力の話ですけど、インタビューで糸井さんが「羽衣の俳優さんは歌えるんです、僕が上手っぽく歌う人に興味がないだけで」と答えていらしたんですけど、やっぱり歌詞は聞き取れた方がいいと思うんですよね。今のままだと、普通に下手に聞こえてしまう。例えば、歌う人は踊らない、歌っていない出演者がその人の分も踊るといった方法とか、やりようがあるんじゃないかな。


▼対ゲキだヨ!全員集合!@こまばアゴラ劇場

コトリ会議『あたたたかな北上』

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宮城県の短距離男道ミサイル、名古屋のオレンヂスタ、大阪のコトリ会議という、普段はそれぞれの土地で活動する3劇団が、音楽の“対バン”にヒントを得て短編を同時上演した企画公演。共通のテーマ「家族」からそれぞれが新作を創作した。短距離弾道ミサイルの『R.U.R.外伝~突撃!隣の晩プルトニウム~』は、ロボットが自らの意志で家族を形成したその家に、晩ご飯を突撃するレポーターがやって来るが……という話。オレンジスタ『新興宗教ワタシ教』は、疑似家族の形態を取る新興宗教に、ひとりの男が入信し……という話。コトリ会議『あたたたかな北上』は、地球がひと握りの支配者層と大勢の貧しい労働者に分かれてしまった近未来、わずかな希望を信じて火星を目指す人々の悲しくて笑える逃避行を描いた話。(徳永)
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藤原  仙台の短距離男道ミサイルの『R.U.R. 外伝~突撃!隣の晩プルトニウム~』はけっこう度肝を抜かれる感じで好きでした。見た目も内容もエグいのに嫌悪感がないというか。冒頭で「目を閉じて下さい」って言われるのが、先月語ったチェルフィッチュと奇しくも被っていて「おやおや……!」と思ったら、こちらは目を開けると「ウィーンウィーンウィーン!」って警告されるという(笑)。また観てみたい。

徳永 あの大掛かりなセットのぶち壊しを毎ステージ、しかも他の劇団と同時上演の公演でやっているのかと思うと、尊敬しますよね(笑)。そしてオープニングの、客席に向けての「目をつぶってください」というリクエスト! まさかのチェルフィッチュとの被りでびっくりしました(笑)。

藤原 名古屋のオレンジスタ『新興宗教ワタシ教』は、コンタクトインプロを取り入れてたのはアイデアとしては面白かったけど、40分の枠で掘り下げきれる内容だったのかどうか。それこそもっと“depth”が見たいです。

徳永 新興宗教が家族の形態を取る設定はよくありますよね。そこで語られる家族像も、特に新鮮味を感じませんでした。それと、母親的な役割を担う女性教祖が頭にお釜かぶって割烹着を着ていましたけど、不必要というか、出オチで終わっていると思いました。そういう格好をすることで「この人たちは変」という印象が先に立ち、家族について何らかの真実を言っても信憑性が生まれない。

藤原 で、大阪のコトリ会議『あたたたかな北上』なのですが、どうして今まで観なかったのか、そこまで話題になっていなかったのか不思議なくらい良くて、びっくりしました。火星を目指すというストーリー自体は新しくはないかもしれないけど、そこで離れ離れに引き剥がされてしまう人たちの悲しみが舞台に流れている。特にオウム返しをするあの会話の仕方ですよね。棒読みのようにオウム返ししていく。反復といえば、どうしてもマームとジプシーのリフレインを思い返すわけですが、コトリ会議の今回の会話は、せりふを繰り返しても俳優の感情それ自体は増幅されていかない。でもだからこそ、観客の感情を引き出す吸引力が生まれている気がします。

徳永 そうなんですよ! もう10年ぐらい活動していると聞いて驚きました。こちらの勉強不足もありますけど、なぜ今まで噂にもならなかったんでしょう?

 淡々と繰り返されるせりふがあまりに愛しくて、短くて無駄がなくて、私は思わず戯曲を買って、家に帰って読み返してジンジンしていたという……。
 特に、火星に行ける権利がもらえた「としあき」と、もらえなかった「へそみ」というカップルですね。慎ましやかな暮らしを続けてきた仲睦まじい恋人なんだけれども「としあき」だけに旅のしおりが送られてきて、彼は「へそみ」を捨てるんですよね。抑えたトーンで繰り返されるほとんど同じ内容の会話が、徐々に、ふたりのささやかな幸せの時間、一緒に火星に行くことを夢見た時間、「としあき」だけが選ばれたとわかってからの時間を色分けしていく。
 照明も本当に絞り込んで闇を大切にしていて、作・演出の山本正典という人は、小さく光るものの観客の意識を向けさせるのに長けていると感じました。


▼ハイバイ『おとこたち』@東京芸術劇場シアターイースト
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(c)引地信彦

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初演は2014年。学生時代親友だった4人の男たちの物語。イケイケドンドンの営業マン。酒が大好きな子役あがりの人気俳優。結婚しながら二股かけて絶対にバレてないと思っているフリーター。そしてブラック企業で死にかけながらも、なんのかんので生き延びてきた「僕」……。彼らの浮き沈みありまくりの人生が描かれていくのだが、印象的なのはむしろそこに寄り添い、消えていく女たちでもある。物語作家・岩井秀人の傑作レパートリーのひとつ。(藤原)
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藤原 ラストシーンでですね、滂沱の涙と共に、おしっこ漏らしそうになりました。たぶんあの認知症老人に引きずられたと思うんですけど(笑)、あやうくマジで異臭騒ぎになるところでしたよ。再演だから全部物語はわかってるはずなのに、それくらいの感動を受けました。

徳永 漏らさなくて何よりでした(笑)。

藤原 作・演出の岩井秀人さんは、俳優を出ハケさせずに舞台上に置いたままにする、とか、既存の演出のやり方へのアンチテーゼを積み重ねてこられたと思うのですが、今回のあの、カラオケボックスゾーンに人が来たら場面がパッと切り替わる感じとかは、ある程度ラフなやり方で場面を繋げられるんだなって思いました。東京芸術劇場のサイズを使いこなす時に、こういうラフな繋ぎはアリなのかもしれないですね。大きな空間で物語演劇をやる時のひとつのヒントがここにある気がします。

徳永 ハイバイは再演を重ねることを前提に活動をしていますが、戯曲が最初からある分、演出や演技を深められるのは再演の特権ですよね。今回の『おとこたち』再演は、岩井さんの演出、俳優の演技力が、またもや使いますけど“depth”を掴んでいましたね。特に平原テツさんには凄みさえ感じました。
 舞台の上にあまりモノを置かず、高さを出さず、高さの異なる床で場所や時間の行き来を見せ切るのは『夫婦』でも試されていましたが、松本大介さんの照明のサポートもあって、お客さんの視線を集めたい人や場所、お客さんの意識を変えたいポイントを確実にコントロールしていたと思います。
 それと、私は初演の時も怖いと思ったんですけど、家の居間でテレビを観ている妻(永井若葉)の後ろ姿と、それを観ている森田(松井周)の姿……。新婚の頃と年老いてからと2度それは出てきますけど、何十年か夫婦として暮らしていても、テレビの中のぼんやりしたシルエットのように、奥さんは森田から遠いんですよね。その距離感がゾッとするほど怖かったです。
 さらに、がんで治療中に悪夢を見てうなされる奥さんが、両親とか祖父母とか身内の名前を呼ぶのに、夫の名前は呼ばないというエピソードも、懸命に看病する旦那さんが「所詮は他人」というところで線引きをされるのかなと。森田は新婚当時に若い女の子と不倫をしていたので、その復讐なのかもしれませんけど。

藤原 あの旦那さん役は初演の岡部たかしさんもとても良かったんですけど、今回演じた松井周さんは、家と浮気相手の部屋とを行き来してる時の調子に乗ってる感がすごく良かった(笑)。その調子に乗ってセックスマシーンを気取ってた彼が、最終的に親友である主人公を看取る役になっていくじゃないですか。生き残る役に。でもそんな彼も、奥さんの夢に入れてもらえないという孤独を抱いている。

徳永 山田(菅原永二)と鈴木(平原)が年老いてからゲームセンターに行きますけど、今も実際にゲーセンのシルバーサービスはあるそうです。彼らが大学時代にカラオケでチャゲ&飛鳥を歌いますけど、そのシーンを観て「そうか、20年後、30年後の老人はチャゲアスやスピッツを歌うのか」と気づかされました。誰にとっても、老いのリアリティは他人事じゃないんだなと。

藤原 ひとまず名前伏せますけど、ある演出家がこの作品を観て非常に興味深かったと言うんですね。理由はいくつかあったんですけど、そのひとつが、あそこで描かれているのがどの世代なのかがよくわからない、架空の歴史だと。なるほどあらためて考えてみると、僕と岩井さんは何歳かしか違わないのでひとまずここでは同世代ということにしてしまいますが、戦後日本を背負ってきた僕らの親の世代を描いているようにも見えるし、カラオケでチャゲアスっていう面では同世代にも見える。つまり親の物語にも見えるし、自分たちの未来を描いた物語にも見えるという。そこがどちらなのか確定されないまま並走しているからこそ、「これはいつの時代の物語だな」とかいう俯瞰的な視点で納得することなく目の前の物語世界に釣り込まれて、おしっこ洩らしそうな状態に持っていかれたのかも……。

徳永 だからテレビの画面があんなにぼやけてるのかも。ただ単に、何の番組を見ているのかわからなくするためというより、あちらとこちらの境界線の曖昧さを見せられたように感じましたから。


▼プレイバックを終えて―最近の京都、劇団同士の交流について

藤原 4月に2回京都に行ったのでその報告を少しだけさせてください。最初はアトリエ劇研で岩渕貞太のダンス『UNTITLED』の新作を。それから2回目はやはりアトリエ劇研のスプリングフェスの、創造サポートカンパニーショーケースのCプログラムを観て、さらにアトリエ・アンダースローで地点の『桜の園』を観ました。

 『UNTITLED』は近いうちに劇評を書く予定ですし、その他の作品についてはtwitterに書いたのでここでは繰り返しませんが、京都の今の雰囲気はとても興味深いと思います。アトリエ劇研のディレクター・あごうさとしさんも、若手を育てようという意識もあるし、京都に批評文化をつくりたいとも考えていらっしゃる。そういう機運があるのも感じますね。

 スプリングフェスの打ち上げに少しだけお邪魔したのですが、ドキドキぼーいずの本間広大さんと、笑の内閣の高間上皇との応酬があって、「俺はプロレスは好きだよ」とか高間さんは言ってたけどあれはプロレスじゃなくてガチンコでしたね(笑)。お互い凄い応酬で。そんなふうに、慣れ合いではなく議論できる環境があるのはいいなと思います。劇団や演出家や俳優の数としては、京都は東京に比べれば圧倒的に少ないという現実はあるにしても、少数精鋭で切磋琢磨がもしも起きているのだとしたらそれは面白いと思いますね。東京は、他の作家と話すことなしにひたすら自分たちの作品をつくっていく、という状態が良くも悪くも常態化しちゃってるかもしれない。

 余談ながらぜひお聞きしたいんですけど、徳永さんの今まで観劇歴の中で、作家同士がバチバチやるみたいな時期ってありましたか? 

徳永 60年代、70年代ほどではなかったでしょうけど、80年代もバチバチしていましたよ。飲み屋で別の劇団とかち合ったら違う店に行くとか、他の劇団への客演も、今のように自由じゃなくて、もし出たいと言おうものなら「うちを辞める気はあるのか」と聞かれたり、という話もよく聞きました。それが90年代後半あたりから、劇団同士ががぜん仲良くなっていきましたね。東京近郊に限定した話になりますけど、たぶん、大学の劇団が少しずつ弱体化したことと関係があると思います。先輩の縛りが厳しくなくなって、他校と仲良くできるようになったというか。
 弊害もあって、00年代の最初の頃、東京の小劇場のいくつかの劇団は、しょっちゅうお互いに客演しあったので、どこを観に行っても同じ出演者という現象も起きました。

藤原 例えばどんな劇団ですか?

徳永 猫のホテルと動物電気とか。猫ニャー、猫のホテル、猫☆魂、拙者ムニエルの人たちがやった「猫フェス」というイベントもありました。今の、三浦直之さん(ロロ)と山本卓卓さん(範宙遊泳)の仲の良さとは全く違いますけど。

藤原 あの2つは制作が同じ坂本ももさん(「新・演劇放浪記」参照 )だからというのが大きいでしょうけど、仲いいというか、特殊な関係ですよね。

徳永 そう言えば、山本本介さん(ジエン社)がロロの『いつ高』シリーズの派生版を上演しますね。また劇団同士の距離は縮まってきているのかな?

藤原 そう思うと三浦くんだけじゃないですか?(笑)あの誰にでも好かれるキャラクターであるがゆえの……。

徳永 それと今は、他ジャンルの人と仲良くなることが増えているのかもしれないですね。三浦直之さんはイラストレータやミュージシャンとの交流があるし、山本卓卓さんも美術系の人とつながりが増えている。とすると、やっぱり東京は個人同士ですかね。京都は、造形大学とかアトリエ劇研とか、場所からつながりが生まれているのかも。

藤原 実は誘われて、京都のある邸宅に連れていっていただいたんです。その夜は文化人が集っていて。演出家も何人かいましたし、他ジャンルの人もいたし、海外からのゲストもいました。もちろん東京でもいろんな集まりはあるわけですが、京都くらいの規模だと自然にジャンルを越えやすいというのはあるかもしれませんね。横浜もわりとそうなんですけど。やっぱ東京は都市としてのサイズがデカすぎるのかなあ……。

徳永 杞憂かもしれませんが、文化庁が京都に移転することが悪い方に影響しないといいですね。せっかく独自のものが生まれ育っていたのに、お役所の持ち込む基準がベースだったりするとつまらないし、劇場の小回りが利かなくなると良くないなと思います。

演劇最強論枠+α

演劇最強論枠+αは、『最強論枠』の40劇団以外の公演情報や、枠にとらわれない記事をこちらでご紹介します。