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【連載】ピックアップ×プレイバック 徳永京子編(2017/09)―チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』

ピックアップ×プレイバック

2017.09.17


作品を観た数だけ、綴りたい言葉がある。
いま、徳永京子と藤原ちからが “ピックアップ” して “プレイバック” したいのは、どの作品?


2017年09月 徳永京子のピックアップ×プレイバック ⇒ チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』

作・演出:岡田利規
2017/6/16[金]~25[日] 
東京・シアタートラム


チェルフィッチュ_部屋に流れる時間の旅main

 決められた文字数に責任を持ちたいと、新聞の劇評に書いた作品は、他で感想を書かないと決めている。とはいえ時には例外もあって、2017年6月18日に観たチェルフィッチュの『部屋に流れる時間の旅』(以下、『部屋に流れる』)がそうだった(既出の劇評は、朝日新聞首都圏版6月22日夕刊)。

 この作品を観るのは3度目だった。1度目は、世界初演となった昨年3月の京都公演で、会場はロームシアター。次は昨年5月、ドイツのミュンヘンにあるカンマーシュピーレ劇場。そのどちらもが小さくない衝撃としこりを私の体に残した。ごく簡単に言うと、1度目は「こんなにダイレクトに震災を扱うなんて」、2度目は「海外の観客にこの限定的な題材は伝わるのか」というものだった。
 1度目の「ダイレクト」と2度目の「限定的」は、ほぼ同じところ、ストーリーの具体性から来ている。
 物語は、東日本大震災と福島第一原発の事故から1年後の日本。地域の名前は出てこないが、大きな被害はなかったものの、2011年3月11日の午後3時過ぎには、地域住民の多くが自宅を出て、近所の駐車場に避難するくらいの揺れは感じた街が舞台になっている。
 ほとんどの日本人劇作家が、それ以前と以降で変化したが、とりわけ岡田利規は、東日本大震災と原発の事故をヴィヴィッドに作品に反映させてきた。2012年に発表された『現在地』、2013年の『地面と床』も、それが引き金だったが、その2作はメタファーによって書かれていた。ところが『部屋に流れる』は、災害から5年という時間を経て、むしろ事実に回帰している。内容が直接的なのだ。
 時期と場所という状況だけではない。3人の登場人物のうちふたりの人生は、震災と原発事故によって大きく変わった。夫・一樹(吉田庸)とふたり、気ままな暮らしを謳歌していた帆香(青柳いづみ)は、災害の4日後に喘息の発作で息を引き取ったが、幽霊となり、1年後の今も同じ部屋に暮らしている。帆香は、震災直後の日本に確かにあった「この災禍を乗り越えようと自然発生した思いやりや団結の機運によって、きっとこの国は良いほうに変わっていく。これは、古いシステムを刷新できるチャンスになるはずだ」という希望のピークで時計が止まっていて、さかんに語られる思い出話は、どれも高揚感、多幸感に満ちている。
 一樹は、そんな帆香の強い支配下にいる。彼女が見えているし、会話もする。芝居が始まってすぐ、暗転が明けた冒頭のシーンは、客席に背を向けて椅子に座っている一樹が、ゆっくりと手足をバタつかせている姿で始まる。それは彼が地に足の着いた状態ではないことを示し、生きてはいても、帆香とのコンタクトを通し、震災と原発事故の強力な磁力に引っ張られていると理解できるだろう。

 岡田はなぜ、東日本大震災と原発事故を、ここに来てより具体的に扱っているのか。復興という言葉の中身を擦り減らしただけで、時間の無駄使いをしてきた私たちに反省を促すためか。
 いやもちろん、岡田が政治的なプロパガンダを作品に持ち込む劇作家でないことは、これまでの仕事でわかっている。それでも最初と2回目の観劇では、私はかなりそれに引っ張られた。「それ」というのは、岡田の筆致ではない。帆香が思っていたような状態にはまったくなっていないこの国の現状に、自分にも責任があると感じ、申し訳ない気持ちになった。帆香がうっとりと希望を語るたび、そこに描写されるディテールが、多くの死を無駄にして、今、自分がここにいるようで、客席でずっといたたまれなかった。

撮影:清水ミサコ


 だが6月の東京公演でようやく、その具体性の理由がわかった気がした。
 それは、帆香が幽霊だからだ。幽霊=過去の人間は、起きたこと=事実がすべてなのだ。過去という止まった時間の中に閉じ込められた人間は、事実のディテールを繰り返し繰り返し、愛でる(あるいは憎む)しかない。それは具体的な描写になって当然だ。幽霊の呪縛があるとしたら、彼や彼女が語ることは、閉じた時間の中にあって、生者には変えることができない、ということだろう。この舞台に用意された具体性は、観客に東日本大震災と福島第一原発の事故のかさぶたをはがすためにあるのではなく(そうなることはあるだろうが)、幽霊が出てくる物語の必然だった。
 対して、もうひとりの登場人物であるありさ(安藤真理)は未来だ。ありさは冒頭、観客に向かって説明する。彼女は自分が今、一樹の家に向かっていること、そして、これから彼の恋人になっていく過程にあると話す。こんなふうに。
「わたしはもう少ししたら、この部屋を訪れます。この人が、わたしを呼んだんです。(中略)そしてわたしはこの人の、新しい恋人になっていきます。これから、ゆっくり。」
 その言葉は、まだ訪れていない時制から語られる。つまり、ありさは未来にいる。未来は希望に満ちていて明るいというイメージがあるが、確定の積み重ねである過去に比べれば、圧倒的に不確かなことばかりだ。その証拠に、一樹の部屋に向かうありさが乗ったバスは渋滞に巻き込まれ、約束の時間に遅れている。さらに悪いことに携帯電話のバッテリー残量が無くなって一樹に連絡ができない。約束の時間をだいぶ過ぎて到着したありさを、一樹はむしろ、場所がわからないのではないかと心配していたが、遅刻して連絡をよこさない客人を不快に思う可能性もあったわけだ。

 そうか、これは三角関係の話なんだ──。
 そう思ったのは、ありさが一樹の部屋に入る前、ありさを演じる安藤が、プリーツスカートのひだをギュッと握ったのを目にした時だった。好意を感じている男性から自宅に招かれ、初めてその部屋に入る緊張感と解釈することもできるが、私はその仕草に、戦う、という言葉が強ければ、立ち向かう人の覚悟のようなものを感じた。ありさと帆香、ふたりの対立の構図は、ちょっと気を付けて観れば明らかで、その時のありさは四角い照明に縁取られて立ち、部屋の中にいる帆香は真ん丸の照明の中にいて、ふたりが異なる立場の人物であることが示されていた。この部屋で間もなく、互いに相容れないふたりの女が対立する。何を巡って? 言わずもがな、一樹だ。そして、帆香が過去、ありさが未来なら、一樹は当然、現在だろう。
 そう、『部屋に流れる時間の旅』は、「現在」に対するイニシアチブを行使し続けようとする「過去」と、「現在」に選ばれようとする「未来」の攻防を描いている。そう解釈することが可能だと理解した瞬間、1度目に抱いた「こんなにダイレクトに震災を扱うとは」という衝撃、2度目の「海外の観客にこの限定的な題材は伝わるのか」というしこりは、咀嚼され、消化されて、文字通り、腑に落ちた。この作品は東日本大震災と福島第一原発から派生したものだが、それだけを描いたものではない。

 そこから話をつなげると、岡田の作品は、コンセプチュアルだと認識されがちだが、実は脳よりも体に“来る”ことのほうが多い。ステージナタリーの『ここだけの話~クリエイターの頭の中~』という 松井周との対談 で岡田が「僕、観客に何を感じさせるかというコントロールを、どんどんできるようになってきてるんですね。でもそれってちょっとヤバい。いくらでも悪用できるし」と語っているのを、まったくの冗談抜きだと私は読んだ。
 というのは、『わたしたちは無傷な別人であるか』(2010年初演。conception=受粉、受胎をキーワードに、俳優に観客への作用を意識するように伝えていた)でそれが高いレベルで成功して以降、当然、岡田の中に観客への生理レベルの効果が意識されてきたはずだから。それは『わかったさんのクッキー』(2015年初演。絵本を原作にキッズ向けにつくられた作品では魔法がキーワードだった)で、ある程度の完成を見たと想像するが、『部屋に流れる~』は、その激渋バージョンであり、成熟形だった。

 とは言えそれは、演出家が狙いをすませば容易に実現するようなものでなく、俳優とスタッフの練度やコンディション、その日の客席などがうまく噛み合わさって、ようやく強い効果が安定して生み出せるようになる。
 私が6月にそれまでと異なる観劇体験をしたのは、3度目という経験の積み重ねもあるが、それより、俳優の成長が大きく影響していた。とりわけ吉田の変化は著しく、前述の手足を宙で動かすシーンで周囲の空気の密度を高める技術は、目を見張るくらい変化していた。この話を、「現在」を自分のほうに引き寄せようと張り合う「過去」と「未来」の話だと書いたが、三角関係は三者の力が拮抗していなければおもしろくない。その点で、この作品が初めてのチェルフィッチュ出演だった吉田の力が、国内外のツアーを重ねるうち、チェルフィッチュのスタメンである安藤と青柳に追いついてきたのだろう。
 だが今は、観客の生理にアプローチする手立てが、俳優のエモーショナリズムに大半を頼っていないのが『無傷な別人』の頃と違う。美術や音響、衣裳などのスタッフワークそれぞれが、高い精度でそこに機能している。
 『部屋に流れる』には幽霊が登場するだけでなく、すでに存在しないもの、その部屋では聞こえない音などを意識させられるせりふが多い。そうした“半あちら側”の感覚を、久門剛史の音と美術はとても効果的に、観客の目と耳に提供していた。繊細な水の音、床に置かれた小道具の灯りの点滅など“気付く”に至る手前、無意識下への仕事がそこにあった。当然、それをデリケートに拾う牛川紀政の音響の力量も無視できないし、藤谷香子の衣裳にも唸らされた。ありさの衣裳は、彼女の性格を反映して地味なのだが、やはり書いたようにプリーツスカートであるところがポイントで、彼女が動く度に細い直線のひだが光と影をつくり出す。帆香がシフォンのような透ける素材の黒いパンツスタイルで、動く度に柔らかい印象を残すのに対し、恋愛上のライバルとしては堅苦しさがあるが、それが彼女の手でギュッと握られて複雑な陰影をつくり、思いがけない効果をもたらした。私は、藤谷の衣裳によって、この物語が男女の三角関係の話だと読み替える糸口を得た。それは、題材がきわめて限定的なこの作品が、普遍性を得たということだ。

 しかし、だからと言ってこの舞台の具体性が、震災と原発事故を切り離せることにはならない。帆香の死因は幼い頃に患っていた喘息の発作だと劇中で説明され、震災とは無関係とされているが、何度か繰り返される「震災の4日後」というせりふから、2011年3月15日を調べれば、福島第一原発のメルトダウンで発生したと思われる大量の放射能が風に乗り、南下して関東圏にも降り注いだ日というニュースに出くわす。
 生きている以上、私たちは過去の因果から、また、因果関係を考えてしまうという行為から解放されることはない。恋の戦いに勝利して恋人と暮らすようになっても、相手のふとした言動に、過去の恋人の影響を感じ取ることはいくらでもあるだろう。一樹は「少しずつ部屋の模様替えをしていきたい」とは言っても、引っ越すとは言わない。ありさが帆香と本当に向き合うのは、これからだ。私たちは、過去とつながった現在しか生きられず、現在しか未来にならない。

撮影:清水ミサコ


 最後に。私は東日本大震災と福島第一原発の事故のことを「3.11」とは言ったり書かたりしないと決めている。「サンテンイチイチ」とは、言うまでもなく「キューテンイチイチ」から転用された略称だろうし、ただでさえ風化が進む中で「震災」も「原発」も含まない名称がこぼれ落とすものが気になるからだ。「3.11」を使う人を責める気持ちは一切ないので誤解しないでほしいのだが、自分が被災したわけでも、知人や友人に被災者がいるわけでもない。「やたらと震災と結びつけて劇評を書く」と批判されることもあるが、それについて考えると痛みが伴うものを減らしたくないという、小さなこだわりだ。

チェルフィッチュ

岡田利規が全作品の脚本と演出を務める演劇カンパニーとして97年に設立。独特な言葉と身体の関係性を用いた手法が評価され、現代を代表する演劇カンパニーとして国内外で高い注目を集める。05年『三月の5日間』で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。07年クンステン・フェスティバル・デザール2007(ブリュッセル/ベルギー)にて初の国外進出を果たして以降、世界70都市で上演。近年では、ヨーロッパを代表するフェスティバルの委嘱により作品を制作、発表している。主宰・岡田は、07年デビュー小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を新潮社より発表し、翌年第二回大江健三郎賞受賞するなど小説家としても活動している。また、16年よりドイツ有数の公立劇場ミュンヘン・カンマーシュピーレのレパートリー作品の演出を3シーズンにわたって務めた。 ★公式サイトはこちら★