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【連載】ひとつだけ 徳永京子編(2015/12)―範宙遊泳『われらの血がしょうたい』‒Colours of Our Blood‒

ひとつだけ

2015.12.2


あまたある作品の中から「この1ヶ月に観るべき・観たい作品を“ひとつだけ”選ぶなら」
…徳永京子と藤原ちからは何を選ぶ?

範宙遊泳『われらの血がしょうたい』‒Colours of Our Blood‒
2015/12/4[金]~14[月] 横浜にぎわい座 のげシャーレ

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©たかくらかずき

 知り合いにかなりの悪筆家がいるのだが、以前、自分で書いた字の判読に苦心しながら彼女が言った「でもね、これは恥ずべきことじゃないんだよ。字を覚える前に頭が動いたってことで、手が頭に追いつかなかっただけなんだから」という言葉を聞いた時、私は目が醒めるような気持ちになった。そんなことで落ち込んだり悩んだりする時間があれば、彼女は前に進むのだと。

 範宙遊泳の作・演出家である山本卓卓の、自作を語る言葉と出来上がった作品の関係を思う時、私はこの話を思い出す。つまり、言葉よりもずっと早いものが、彼の中で動き続けている。形にしたいこと、やりたいことがまず発生し、ほどなくそれを実現する方法も訪れて、それらを説明する言葉は1番最後だ。そして今のところ、それが改められる様子はない。作品とそれを説明する言葉のタイムラグを無くすことや、何か気の利いた、あるいは賢そうなことを言うために使うエネルギーがあるのなら、山本はそれを使って創作を先へと進めることを選ぶのだろう。

 だから山本の作品は、いつも突然だ。舞台における映像の概念を崩すような演出を始めたのもいきなりだったが、不特定の個人を理不尽に襲う災禍を、天災と無差別殺人と警察にも通報されないいたずらレベルできっちり同じバランスで見せるという離れ業をやり遂げたのも、いきなりの完成度だった。本人の中では、高精度の滑走路を準備してこその離陸成功なのだろうが、表面的にはかなり淡々としている。ほめられて照れているというよりは、本人にとってはもう過去で、過去を語ることに興味が低いように見える。
 それがどういうことかと言えば、山本の作品を観に行く時は、特別の緊張が伴うのである。どんなものが提供されるか、予想がつかない。当然そこには、自分にとってつまらない作品、わからない作品である可能性も含まれるが、そんなリスクは気にならない。言葉をまとう前に生まれたものと対峙する感覚は、言葉によって成り立っている演劇を観続けるうちに丸まっていく背中を伸ばしてくれる。
 ちなみに私は、自作を本人が解説することに否定的ではない。どんなに詳細に語られても、語られきれないものが観客の中に残ればいい。つまり作品が、つくり手のボキャブラリーを超えていれば何の問題もない。それでも多くの作品は、つくり手が用意した言葉の中に収まってしまう。言葉より速く生まれて変化し、イメージを追い越し続ける作品は、ごくわずかだ。

 そして『われらの血がしょうたい』は、これまでともうひとつ違うレベルの作品になるような予感が強くしている。インターネットをモチーフにし、そこに遺伝子や血の話が絡んでいくらしいが、これまでに椅子と人間、モニター上の文字と俳優など、無機物と有機物を完全に平等に扱ってきた山本にとって、ネットと血はある意味、それぞれの最終形ではないかと思う。同時に、脳内にあるものを外に取り出したという点では、ネットは人間の肉体の一部でもある。インターネットを肉体として扱い、血を情報の集合体として扱うのか、あるいは両者をハイブリッドに組み合わせるのか、はたまた違う照射のさせ方か。やはり今回も緊張しながら、この公演を観に行くことになるだろう。


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範宙遊泳

2007年より、東京を拠点に海外での公演も行う演劇集団。 すべての脚本と演出を山本卓卓が手がける。現実と物語の境界をみつめ、その行き来によりそれらの所在位置を問い直す。 生と死、感覚と言葉、集団社会、家族、など物語のクリエイションはその都度興味を持った対象からスタートし、より遠くを目指し普遍的な「問い」へアクセスしてゆく。 近年は舞台上に投写した文字・写真・色・光・影などの要素と俳優を組み合わせた独自の演出と、観客の倫理観を揺さぶる強度ある脚本で、日本国内のみならずアジア諸国からも注目を集め、マレーシア、タイ、インド、中国、シンガポール、ニューヨークで公演や共同制作も行う。 『幼女X』でBangkok Theatre Festival 2014 最優秀脚本賞と最優秀作品賞を受賞。 『バナナの花は食べられる』で第66回岸田國士戯曲賞を受賞。 ★公式サイトはこちら★