演劇最強論-ing

徳永京子&藤原ちから×ローソンチケットがお届けする小劇場応援サイト

【連載】マンスリー・プレイバック(2015/6)

マンスリー・プレイバック

2015.07.19


徳永京子と藤原ちからが、前月に観た舞台から特に印象的だったものをピックアップ。
ふたりの語り合いから生まれる“振り返り”に注目。

* * *

▼ままごと『わが星』

wagahoshi
【撮影|青木司】

藤原:ままごとの『わが星』は感無量過ぎて、何も言うことはない……というわけにもいかないので語ってみますね。今回は、2009年初演時の熱狂も、2011年再演の震災直後の厳しい時期でもなく、じっくりあの作品世界と対峙して味わえた感じがありました。まず大きなポイントは、俳優のラップがうまくなったこと(笑)。いやテクニック的な問題というより、演劇が音楽に支配されてない感じがしたんです。演出も大きく変わったと思います。彼らが音楽も咀嚼して『わが星』を手中に収め、それをお客さんと一緒に楽しもうとしているのが伝わってきました。本当に楽しかった。

徳永:ほとんどの俳優が初演から同じ役をやっていることが大きいですよね。6年間で3演なので、実はそんなに極端に公演を重ねているわけじゃない。でも俳優の身体の中に音楽がしっかり入り、咀嚼されている。あれだけ物理的なリズムに支配されているのに、非常に抑制が効いている。そこまでは再演でクリアしていたかもしれないけど、今回は全体に余裕があって、遊び心を感じるところまで行っている。俳優が、集中とコントロール、音楽とせりふの間を自由に行き来しているというか。

藤原:ままごとはこの数年、何度も小豆島に通ったり、横浜の象の鼻テラスでいろんな人に「演劇とすれ違う」体験をしてもらうための実験を繰り返したりしてきた。そういう経験からフィードバックされたものもあると感じます。彼らは演劇をすごく自由なものにしてくれている。

徳永:柴さんに関して言うと、私は『朝がある』(2012年)の経験も大きいと思ってる。『朝がある』は、太宰治の『女学生』をベースにした大石将弘さんのひとり芝居ですけど、原作もリズミカルな文体で、それが主人公の瑞々しい感受性とシンクロしているんですが、そこで “純文学の中の音楽性”に迫る作業をして、良いテキストは音楽に乗せなくても音楽的である、と再確認したんじゃないかと。

藤原:未就学児童も入場できる回がありましたよね?

徳永:私はその回を観せてもらったんですけど、すごく感動しました。赤ちゃんがぐずったら、お父さんやお母さんが立ってあやせるスペースがあったり、椅子がベンチ状で、赤ちゃんを寝かせることもできる。客席を円形に組んでいるから、時報のリズムに合わせて赤ちゃんの背中をトントンたたいているお母さんや、お父さんに膝枕してもらって観ている子供がよく見えるんですよ。そういうことが劇場という空間の中で起こっていることに、本当に感動しました。

藤原:未就学児童の回というアイデアは、出演している俳優たちから出てきたとも聞きました。育児をしながら演劇をする、演劇を観る、ということが、数年前よりも身近に感じられるようになりました。

徳永:この未就学児童入場可能の回も含め、『わが星』は演劇を広げることを可視化していますよね。

藤原:実は初演の『わが星』は苦手というか、つらかったんです。当時のブログに「もうこの星に居場所はないのだから、どこかに脱出しなければ」……って思い詰めて書きつけたくらい(笑)。あの作品が熱狂的な評価を受ける中で、しかし自分の演劇観・芸術観とどうしても相容れない面があって、心を病みそうなくらい煩悶しました。その理由は2つあって、1つは人間の芸術であるはずの演劇が、一定不変のリズムを刻む音楽に支配されてしまったと感じたこと。もう1つは家族の描き方があまりにもステレオタイプに思えたこと。でも今回はそれらを感じなかった。俳優たちの演技が生み出すグルーヴを感じられたし、類型化されたファミリーの薄っぺらい幸せを描きたいわけではない、ということもよくわかりました。

徳永:実際、男尊女卑型の家族像を無邪気に舞台に乗せている、という批判もあって、そういう感じ方があるのもわかるんだけど、類型的な家族像を礼賛したいわけではなくて、柴さんはいつも、類型化の効果である「まるで自分のことのよう」という感覚を利用して、その向こうに何があるのかということを扱っていると思う。『わが星』は家族の物語じゃなくて、一人の少年の初恋の話だと私は思っているんです。望遠鏡をのぞいている少年の。少年を演じた大柿さん自身の演技も、初演・再演より余裕があって、彼が光速を越えて、地球に向かっていくというのが、以前は、挫折した自分に背中を押されて踏み出したのが、今回は彼が意志をもってそれを選択した印象でした。光速の話がおかしいという批判もあるようですけど、「宇宙科学や物理学で解かないでください。なぜならこれは恋だから!」と私は擁護したい。

藤原:なんですかその妄想ストーリーは(笑)。でも少年や少女を演じる俳優たちが、年齢を重ねるのは、ふつうは不利なはずじゃないですか。なのに、むしろ年齢の蓄積が、この作品の世界をひろげてくれたような気がしています。



▼木ノ下歌舞伎『三人吉三』

kinoshita
【撮影|鈴木竜一朗(日光堂)】

徳永:木ノ下歌舞伎の『三人吉三』についても話したいです。これまでも『義経千本桜』や『東海道四谷怪談』を通しに近い形で上演してきた木ノ下歌舞伎ですけど、その経験が見事に実ったと思います。『義経〜』は複数の演出家が手分けして演出していたし、『〜四谷怪談』には私は不満があったんですが、『三人吉三』は5時間まったく退屈しませんでした。

藤原:今回の『三人吉三』は幕間に美味しいおにぎりの販売もあって(笑)、5時間たっぷりあって、満足感ありました。武谷公雄、大村わたるなど、役者も良い演技を見せてくれた。そうそう、村上誠基が、わりと善人ぽいけど廓通いをやめられない旦那と、悪人の金貸しと、1人2役だったじゃないですか。でもキャラが違いすぎて、「えっ、1人2役なの? 気づかなかった……」っていう友人もいました。

徳永:それ、わかる!武谷さんも村上さんも、本家の歌舞伎ではだいぶ端折られる役をやっていましたけど、その役をなぜ復活させたか、上演する必然性があったかが、文献的な裏付けとは別に、彼らのような上手い役者がやってくれたからこそわかった部分が大きいと思います。

藤原:最後の火の見櫓のシーンがけっこう端折られたことで、艶っぽいお嬢吉三の出番が減ってしまったのは残念ではありましたけど……。

徳永:原作に忠実にしたことで、3人のヒーローの物語から、1本の因果の糸に絡めとられた人々の群像劇になり、メインの3人が引っ込む形になりましたから。

藤原:実は今回、上演を楽しみながらも、不満が2つあるんです。1つは江戸と東京の接続について。舞台上に「TOKYO」って書かれた立て札が登場したり、飛行機の爆音が挿入されたりもする。それはつまり過去と現在、江戸と東京のつながりを意識させる演出だと思うんです。でも、だったらもっと大胆な解釈をしてもよかったんじゃないでしょうか。文明開化を感じさせる衣装が登場するシーンには一瞬「……!」となったんですが。

歌舞伎ではずっとカットされてきた地獄のシーンをあえて入れたり、逆に見せ場であるはずの終盤の櫓のシーンをカットしたりするのが「旧来の歌舞伎に対する新解釈・挑戦」だということは理解できます。だけど個人的には、それより「TOKYO」の意味をもっと掘り下げてほしかった。江戸の地層の上に現在の東京があるという感覚は、彼らが2013年に上演した『東海道四谷怪談』ではもっと掘り起こされていたように記憶しています。

それからもう1つは様式美についてです。歌舞伎の世界を現代風にアレンジして表現する木ノ下歌舞伎の手法は斬新で、観ると病み付きになるというか、劇場出てからついあの廓言葉を真似したくなる(笑)。それは彼らの武器なんだけど、たとえば『黒塚』では、登場人物が感情的になると現代語に近づき、そうでないときは歌舞伎風の言い回しになる、みたいなルールが明確にあって、それが歌舞伎の様式美に拮抗しうるスリルを生み出していたと思うんですよ。だけど今回はそのルールを手放していた。

徳永:歌舞伎の言葉、現代の言葉、そのミックスという3種類の言語は、今回も健在でしたよね?

藤原:ええ、その魅力は健在です。が、『黒塚』ほどの構造的なスリルは感じなかった。たとえば元祖の『三人吉三』には名ぜりふがあるじゃないですか。「こいつは春から縁起がいいわえ」とか。ああいうのはちょっと現代風にアレンジする程度では、しっかりと様式がある本家の歌舞伎に敵わないのではないかと思います。

徳永:七五調は強いんですよね。耳に心地いいだけでなく、リズムとして身体に入ってくるんですよ。特に黙阿弥は、太鼓の名人のごとく、美しい言葉の七五調を連打する。藤原さんが真似したくなったのは、だからだと思う。そのせりふが念頭にあると、どうしても物足りなさを感じるかもしれないですね。私はその分、他の登場人物のせりふを堪能できて満足ですけど。ただ、「東京と江戸」の分離と接合に関してはもうひと工夫あってもよかったかもしれないです。舞台上におかれた[EDO]の字がアナグラムっぽく[DOG]に変わって効果的に使われていたように、飛行機の音や衣裳以外にも「江戸と東京」がつながっていることを感じさせるものがもっとあってもよかった。

ちなみに私は、極端に上演時間の長い舞台、嫌いじゃないんです。以前も蜷川幸雄さん演出で、三部構成で全部通すと9時間という『コースト・オブ・ユートピア』や『グリークス』という舞台があったんですが、なんでも短小軽薄化していく現代で、そんなに長時間、人を椅子に縛り付けておく言ってみれば暴挙を(笑)、演劇以外でできる表現はなかなか無いじゃないですか。もちろん見せるほうにはそれなりの覚悟やスキル、体力や態勢が必要で。それができるだけですごいですよ。

▼ロロ『ハンサムな大悟』

ロロ2015ハンサムな大悟_撮影:朝岡英輔
【撮影|朝岡英輔】

徳永:ロロの『ハンサムな大悟』はすごく面白かった!今までに比べてちょっと大人っぽかったですね。主人公の大悟に感情がないのに、それでも一代記を成立させられたところが面白い試みでした。

藤原:藤原:篠崎大悟が演じる「大悟」は、エレガントだけど「空っぽ」な存在として描かれていて、だからこそ、周りの人間の感情が引き出されていく。新しい群像劇の提示にも思えました。

徳永:感情を出すべきドラマが大悟の人生に無いかと言うと、そうではない。地面に異常な執着を持っていたり、ドロドロの腐臭がする女の人を好きになったり、語るに足る変な人生なんですよね。でも、せりふにもせりふ以外のところにも、それに対する言及が一切無い。今までロロは“ポップ”と評されていて、それは、好きな相手に直球で「好き」とは言えなくても、別の言葉に変換するその回路が、やっぱりまぶしい切なさだったからだと思うんですよ。でも今回はいよいよ、底のほうにあった“届かなさ”“伝わらなさ”を前提にして話が始まった。

藤原:ロロとしては今までになく直截的にセックスを描いた作品だったけど、性的なものが作家の自意識とほぼ無縁だったのも印象的です。性を描くというとジメジメしがちで、それはそれで悪いことではないと思うんだけど、三浦直之(ロロの作・演出)は爽やかさを継承しながら性の悲哀を描くんだなあと。とはいえあの地面のドロドロ感は、これまでにない彼の不気味な作家としての顔が姿をあらわした感もあります。

徳永:他の登場人物も直接的な感情に従属していないのに、「物語がどんどん進んでいくこと」が成立していますよね。1つ1つのエピソードは山も谷もあるけど、すべてびゅんびゅんと流れていく。今まで私は三浦さんの作家性を「平等」と言う言葉で表現することがあったんですが、今回の平等さは「すべからく愛しい命の物語である」ではなく「どんなことも起きるし終わる、生まれたら死ぬ」という平等さだなと。

藤原:物語の進め方について、シームレスに場面をつなげていくのは彼らが得意としてきたことですよね。今回は肌色の布を使った杉山至さんの舞台美術がそこに実にうまくフィットしていた。

徳永:過去のロロの作品は漫画のコマがあった感じでしたけど、今回はコマが消えていましたね。大人っぽさを感じた理由はそこにもありますけど、あの美術はそれを助けていたと思います。

藤原:ところで最近、演劇を観るとどうしても「この作品は海外に通じるものかどうか」を考えちゃうんですけど、それでいうと、この作品は海外でもイケる感じがしました。わかりやすいメッセージがあるわけではないけど、いろんな国の若い人たちの心に届くんじゃないだろうか。

徳永:一番幸せな海外進出の仕方は、インターナショナル性もローカル性も考えずにつくった作品が受け容れられることだと思うんです。これまでも三浦さんは、そういうことは意識していなかったと思うけど、今回の内側への向き方が、フィクションの力を信じる強さとして作品に反映された。それは、言語の内側にある強さかもしれませんね。

藤原:物語を信じる力はすごくピュアだけど、今回は「大人の穢れも知った……」という悲哀を呑み込むようにしてそれがあらわれていたように感じます。「童貞捨てても魔法が使えた!」みたいな……。

徳永: キャストが劇団員5人だけだったことも効果的でした。ひとりひとりのスキルや存在感が上がっていたことを、しっかり確認できました。お父さん役の板橋駿谷さんが、出産する奥さんを励ましながら一気に老け込んで死んでいくシーンで、たぶんわたし、せりふが無くてもそれがわかったと思う。

藤原:板橋駿谷は昔はもっとマッチョ一辺倒なイメージもあったけど(笑)、いい感じのエロスを醸し出す俳優になりましたよね……。ひとり何役かわからないくらいめまぐるしく役が変わるのを、あれだけ流れるように演じられるのは、やっぱり俳優たちの力が大きい。



▼青年団+第12言語演劇スタジオ『新・冒険王』

『新・冒険王』
【撮影|青木司】

藤原:青年団+第12言語演劇スタジオ『新・冒険王』の話はどうしてもしたいです。『冒険王』と同じくイスタンブールのドミトリーが舞台だけど、『新・冒険王』の時代設定は2002年。日韓W杯でイタリアVS韓国戦が行われているその数時間を描いてるんですね。平田オリザと共同脚本・共同演出したソン・ギウンは、多田淳之介(東京デスロック)と組んで『가모메 カルメギ』の脚本を書いた人で、今や日本の演劇界にとってなくてはならない重要な人物です。このあと秋には、やはり多田淳之介とコンビを組んでシェイクスピアの『テンペスト』を翻案した『颱風奇譚(たいふうきたん)』も上演される予定です。いずれはソン・ギウンが岸田國士戯曲賞の候補にノミネートされる日も来るかもしれない。

徳永:おお、それはすごい予想ですね!

藤原:国境を越えてクリエイションする彼らが、演劇を奥深く豊かなものにし、ともすれば分断されかねない世界をつないでいることを忘れてはいけないと思います。
もちろん演劇が国境を越えていくにあたっては、言語の問題に直面します。しかしこの『新・冒険王』はその困難さを逆手に取っていた。実にクレバーです。

徳永:そうですね。言語の不自由さが、観客の共感度を上げるのが、この作品の肝でした。日本人と韓国人が、英語すら公用語でない異国で会話する。劇中の韓国語と英語は字幕なんですが、言語がわかること、わからないこと、わかろうとすることの脳内の作業がスリリングでした。

藤原:まさにそこが面白くて、登場人物のうち何人かは両言語が理解できる設定なんです。マ・ドゥヨンという俳優はちょっと日本語がわかる韓国人を演じている。佐藤誠という俳優は韓国語もけっこう話せるという在日韓国人の役を演じた。演劇を通して何度も両国を行き来している彼らは、実際に互いの言語を少し理解できるんですけど、それが役に活かされていました。他にも韓国人が恋人だから少し韓国語がわかるとか、日本のオタク文化が好きだから日本語がちょっとわかるとかいう人物も登場して。

徳永:日本語が6~7割わかる韓国人がいて、日本人でも6~7割韓国語がわかる人がいる。その配置が絶妙でした。

藤原:6~7割わかるということは逆に3~4割はわからないってことで、そのわからなさをうまく使ってましたよね。同国人同士の複雑な会話になると「??」てなったり、気まずい状況になるとあえて言葉がわからないフリをして難を逃れたり(笑)。

徳永:あと、すごく効いていたのが、それまで舞台上に広がった言語の問題とか人間関係、サッカーの試合といった話題のすべてから遠い人を一人置いたこと。呑気ゆえにとんちんかんでもある彼が、ガイドブックの後ろのページにある初歩の韓国語を見ながら唐突に「あなたは買い物にいきますか?」と言ったりするんだけど、最終的にはそれが場の空気を救うんです。

藤原:いちばんダメそうな人が世界を救うというね(笑)。ラストはその彼によって、日韓の言語が混ざっていくんですよね。すごく美しいシーンだった。

徳永:今まで観た青年団の芝居で、私はこれが1番好きかもしれない。平田さんはシニシズムの劇作家ですけど、いつも「世界にはこんな悲劇が進行している」ということを言うのに、距離を取り過ぎて上目線に見えることが私にはあるんです。今回はソン・ギウンさんの存在が大きかったと思うんですけど、シニシズムに行き過ぎず、ユーモアがすごく大事な役割を果たしていた。さっき言ったラストのKY君がまさにそうですけど、ユーモアが希望をつなぐ、それは同時に、理屈だけで会話してもわかり合えない状況の深刻さも指し示したと思います。

藤原:韓国での上演では、字幕が逆転するわけですよね。韓国のお客さんにとっては、日本語がわからないから字幕に頼るしかない。ずいぶん見え方が違うんじゃないかなあ。そういう想像も膨らみます。演劇はつねに「今ここ」で上演されるものではあるけれど、「今ここ」ではない場所を想像させる力もあるんだと思います。

(2015/7/2、目黒「玉や」にて収録)

演劇最強論枠+α

演劇最強論枠+αは、『最強論枠』の40劇団以外の公演情報や、枠にとらわれない記事をこちらでご紹介します。