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新・演劇放浪記 第4回 ゲスト:植松侑子(制作者、Explat理事長)

新・演劇放浪記

2016.01.5


新たな才能を次々と輩出してきた「小劇場演劇」が、たぶん今、何度目かの変革期を迎えている。その変化は現在どのような形で現れているのか。そして未来の演劇はどうなっていくのか?
国内外に散らばる演劇の現場の最前線。その各地で活躍する人たちを藤原ちからが訪ね、インタビューと対話を重ねていくシリーズ「新・演劇放浪記」。
  
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植松侑子との最初の出会いは2010年、F/T公募プログラムの担当制作者としてだった。当時の参加カンパニーは、悪魔のしるし、岡崎藝術座、神村恵カンパニー、小嶋一郎、C/Ompany、dracom、France_pan、マームとジプシー。彼女は、当時としては数少ない、若い作り手たちの良き理解者であった。確かその頃に、彼女の型破りなバックパッカー時代の話も少し聞いたと記憶している。
それから5年。彼女は所属や拠点を変えながら、持ち前のガッツと度胸で、新しい場を開拓しつづけている。
(2015.11.17収録)

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▼開拓者として

──植松さんといえば「開拓者」というイメージが強くあります。今年から始まった制作者の労働環境を改善するためのExplatをはじめ、F/Tでも公募プログラムを担当されていたし、TPAMでは交流促進のためのエクスチェンジ・プログラムを軌道に乗せましたね。さらに今年はアジア舞台芸術祭のアートキャンプを事実上新しい枠組みとしてスタートされました。まず、僕も「キャプテン」として現場をご一緒させていただいた直近のアートキャンプについて伺いたいのですが、これを企画した動機というのは?

若手の育成を考えた時に、企画サイドがあまりにも短期的に成果物を求めすぎてると感じてたんです。F/Tにはかつて公募プログラムもありましたけど、あれは作品の上演が目的になっていたんですよね。つまりアウトプット。でも私は1個アウトプットするのに10個インプットする必要があると気づいて。短期的に成果物を求められるがために、インプットの大切さが忘れられてるんじゃないか。それはアーティストだけじゃなくて制作者もそう。舞台芸術の若い世代がアウトプット偏重になってるという問題意識がすごくあったんです。だから短期的に成果物を求めないでひたすらインプットして、参加者が自分自身の立場を考え直す機会を持ちたい、と考えたのがこのアートキャンプです。

──実質、アジア舞台芸術祭とF/Tをまたぐ企画だと思いますが、ここでやろうと思ったのは?

海外でディスカッションする機会をつくるのはハードル高いから、向こうから来てもらおうと。日本人の若手には、海外の人とディスカッションして自分の位置やパースペクティブが揺らぐ経験をしてほしい。アジアの人にも日本のいろんな作品を観てもらって、ディスカッションする経験があったらいいなと思ったんです。

──実際やってみてどうでした?

こちらでスケジュールを固めすぎちゃったので、もっと彼ら自身にボールを渡してもよかった、という反省はあります。何かを求めて来ているメンバーだから、きっと自分たちで発見できたと思います。

──レクチャー講師の岡田利規さんやショーネッド・ヒューズさんが、その後もたまたま何かしら関わってくださったりして、ある種のメンター化していく感じになったのは予想外でしたよね。

ありがたかったですね。もし次の機会があったら、そんなふうにだんだんメンバーが増えていく感じも面白いですね(笑)。

──植松さんいろんな国でいろんな体験をされてきたと思いますが、今のアジアの舞台芸術についてはどう見ていますか?

他者を知る時に「窓」が必要だと思うんですね。例えば経済学から見るとか、食から見るとかした時にいろんな姿が見えるじゃないですか。その時に私は舞台芸術を通して世界を見るのが楽しいし、他者を知るうえで使えるツールになる。そういう意味でアジアの舞台芸術も「窓」になりうる。自分とは考え方やバックグラウンドが違うけど、同時代に生きている他者を感じることができるから。単に旅行に行くだけでは間口が広すぎてとっつきようがないけど、舞台芸術はそのフックになると思うんです。


▼場をつくっていく意識

──Explatとは何かを簡単にご説明いただけますか?

Explatは「舞台芸術の制作者」に特化して、人材育成と労働環境の整備をやっています。舞台芸術を生み出す上で、アーティストも大事ですけど、そこに寄り添って作品をつくっていく制作者も大事で、だけどその労働環境が良くないという現状があります。大学を活用した人材育成プログラムはありますけど、結局は長く働ける環境がなかったら、そこで育った人材も使い捨てになっちゃうんですよね。長く働ける労働環境を実現することがいちばんの人材育成になるし、ひいてはそのことが舞台芸術の業界を活性化させていく、という理念を共有して立ち上げました。

──具体的な課題は?

もうそれは「意識」ですね。プロフェッショナルとしての意識。私も最初は雇用する側に問題があると思ってたんですよ。安い賃金で、不安定な雇用で若者を働かせているという。だけどExplatを始めていろんな人と話してるうちに、現場で働く人にも問題があると思うようになりました。「労働環境が悪いこともわかってるし、お給料もすごく低い。でも好きな演劇に関われてるからもういいんです!」っていう意識で自己完結しちゃう。つまりプロフェッショナルに対価をもらって仕事をつくっていくっていう、その一歩手前であきらめてるか、もしくは気づいてないな、っていうのをすごく感じます。

──特に若い人ですか?

若い人です。

──ここ数年での意識の変遷って感じたりします?

制作者の? 制作者に関しては変わってないですね。

──というのはここ数年、植松さんも含め、30代の制作者が世に出る機会が増えてプレゼンスが上がっていると思うんです。でもそれがさらに下の世代にどう影響していくのかとなると今のところ微妙かなと。せっかくお手本というか、フロンティア精神を持った人が次々に現れたのに、じゃあ自分たちもやってやろう、ってなるのかどうか?

そうですね……。印象でしかないですけど、私たちの上の世代までは「場をつくっていく」意識がきっとあったと思うんです。自分たちでつくる意識が。でも、もう場ができちゃった。ってなったら今の私たちより下の世代は、フェスティバルとかアートNPOとか劇団とか劇場とか、すでにできた場のどこに入るかっていう選択になってる気がします。本当はそこには入ってないオルタナティブなことがいっぱいあるはずだし、それを考えることが舞台芸術に関わる醍醐味なんですけど、もしかしたら、前の人がつくっちゃったことで新しくつくろうという意識が低いのかなって。もしかしたら、そんな人達もいつか時が来たら一念発起するのかもしれないけど、わかんないですね。

──しかし、本当に「場ができた」のかどうか。確かに場をつくった人たちはいます。でもむしろ全然足りてないのが現状です。今回のアートキャンプにしても、成果物を求めずに対話できるような場が足りてないから、植松さんはつくろうと思ったわけですよね。例えば批評についてもそうです。実際に批評が機能したり批評家が育成されうるようなプラットフォームがあるのかというと全然足りてないんですよ。……これは僕自身の問題意識なので、ちょっとこの場を借りて言っちゃった感もありますけど。

言った方がいいですよ。言った方がいいですよ!

──2回言いましたね(笑)。

まず気づくことが第一歩。気づかないことには永遠に次のアクションは来ない。この業界はこんなシステムだから、と疑いもなく全部を受け入れてしまうと気づかないんですよね。これって何でこうなの?とか、当たり前とされてるけど何か違うんじゃない?っていう疑問がないと次には行かないですね。

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【アジア舞台芸術祭2015 APAFアートキャンプより】


▼海外放浪のガッツな旅

──さて、では植松さんはどんな若者時代を過ごされてきたのかという個人史を伺いたいのですが、まず定番の質問として、そもそも舞台芸術に関わられるようになったきっかけは何ですか?

それが結構、謎なんですよね。もともと私ダンスをやっていて、大学も舞踊科だったんです、教育系の。愛媛から上京して大学に入って初めて「ダンスの公演がある!」ってことを知ったんですよ。つまりそれまで自分のいたところでは、ダンスの公演というと部活とかお稽古の発表会だった。そうじゃないダンスがあるってことが初めてわかったんです、恥ずかしいことに……。何だこれは、こんなダンスがあるのか! すごーい!って単純に感動して。それで卒業後は地元に帰ってダンスのプロデューサーをやりたいと思ったんです。

──ああ、その時すでに何かを始めようとしていたんですね。

でも大学卒業してすぐに愛媛に帰っちゃうとノウハウがないわけですよ。それには東京で下積みをしなければと思って、4年生の時からダンスカンパニーのお手伝いに入って、そのまま卒業しても続けたんですけど、あまりに労働環境が悪くてこれは一生の仕事にできないなと思って一回辞めて海外に行くんです。だからその時点では、職業として成立しないなと思ってた。

──辞めて海外に行ったというのは?

厳密には、辞めてから一回会社員として働いてたんですけど、自分が今後の人生で60歳まで働くとして、あと40年、何をしていこうかと思った時にあまりにも自分が知ってる世界が狭すぎた。だから選択肢を拡げよう、そのためには海外に行くしかないと。

最初に行ったのはカナダのモントリオールでした。移民の多い都市なので、そこで多民族に触れてでまずガーン!みたいなショックを受けて。最初はカナダだけ行って帰ろうと思ってたんですけど、こんなに知らない人がいて、これで海外行ったなんて私言えない!ってなって、そこから止まらなくなったんです(笑)。

──カナダへは旅行で?

最初はワーホリです。それからアメリカ、ジャマイカ、エクアドルに行って。そこから本当は3ヶ月かけて南米を一周するつもりが、エクアドルで悔しい思いをしすぎて3ヶ月全部エクアドルで費やしたっていう……。

──どんな思いを?

空港に到着した瞬間から空港職員にないがしろにされて。首都のキトっていうところは標高2800m越えぐらいなんですよ。直前にいたジャマイカは海抜数mだったので、高山病みたいになってすっごいフラフラしてんのに荷物は出てこないし、英語で言っても「Spanish(スペイン語で喋れ)」とか邪険に扱われるし。あまりに悔しくて、私はこの国に対して何かやったって気になるまでは去れない!と思って。このまま去ったら負け犬みたいじゃないですか。ってことでスラム街の託児所でボランティアしたり、アマゾンで植林したりして、つまり「私」をエクアドルに植え込んできたんです!(笑)

──「植松」を植えてきた!?(笑)

  
【左:アマゾンでコーヒーの苗木を延々と植える様子/右:エクアドルの託児所ボランティアの様子】

託児所も劣悪な環境で、1歳の子ども15人に対して職員1人しかいないから、気づいたら子どもが溝に落ちてたりするんでそれを助けたりして……。どうだ、この国の役に立ってるぞ、やったぞ!と自己満足したので、そこからアジアへの旅が続くんですけど。エクアドルからアジアまでは直行便がないので、いったんアメリカ経由で日本に戻って、そこからシンガポール、インド、ネパール、またシンガポールに戻ってマレーシア、インドネシア、タイ、ラオス、ベトナム、カンボジア……ですかね。

──その移動手段は?

飛行機と、絶対に旅行客が乗らないような10数時間かかるバスとか。インド人の痴漢にあったりとかして。もうインドにいた時はずーっと怒ってましたね。

──平田オリザさんの『冒険王』みたいなバックパッカーの世界ですか?

『冒険王』観てめちゃめちゃよくわかると思いました(笑)。ホント、ああいう感じです。基本ドミトリーの安宿なんで、ずっとそこに沈没してる日本人がいたりして。主(ぬし)みたいな人がいましたね。

──アジア各地を回って行く中で発見はありましたか?

ありましたね……。特にインドの経験がすごく大きい。エクアドルでは「私を刻み付けてやる!」とか言いつつもメンタリティはまだ「ラブ&ピース」だったんですよ。そのメンタリティのままインドに行って、マザー・テレサがつくった施設でボランティアを2週間。「死を待つ人の家」っていうところで、路上で行き倒れている人を連れてきて看取るだけの施設なんです。手の施しようのない人を連れてきて、ベッドの上で看取る。昨日人が寝ていたベッドが朝には空いている。夕方にはまた別の人が連れてこられる。キリがないんです。その施設を一歩出たら普通に道ばたで人が行き倒れているから、全員は連れてこられないんです。ベッドの数しか受け入れられないっていう現状があって。これは何なんだろうっていうのをすごく考えた。これに対してボランティアとしてできることは皆無なんですよ。この状況を変えるには、貧困とかカーストとか、インドの政治を変えるしかない。でも、いちバックパッカーの私には関与できない。選挙権もないし住んでるわけでもないから。世界中からボランティアが来てるけど、誰もインドの政治にはコミットできないし、私も含めてお前ら全員偽善だっていうところまで精神的に落ちたんですよね……。
 でも私は日本人だから、日本に帰ったら自分の周りの環境や政治は変えられる可能性がある。少なくともインドよりは……。それまではいろんな国でサバイブできちゃって、日本に戻らなくてもいいか、だってどこでも生きて行けるし、って思ってたんです、スラム街で床に落ちたまんじゅう食べても平気で生きてるくらいだから。でもやっぱり自分が今後の人生を賭けて何か変えたりつくっていくことがしたいなら、絶対日本しかない、ってその時すごく強く思ったんです。だから私は日本にいる。それは揺るがないんですよね。日本にコミットする。だから変えられる可能性がある。そこのところをすごく信じてますね。純粋に。


【インド「死を待つ人の家」の入口】


▼帰国、そしてF/Tを経て韓国へ!

インドの後からは、自分が何を手段としてどう日本にコミットしていくかをずっと考えていた気がします。そして原点として舞台芸術があることに気づいた。これだ、私がやってきたことは無駄じゃなかった!と思って、日本に帰ってきて、ちょうどF/Tが立ち上げの時期だったから、入ったのが2008年ですね。

──公募プログラムができたのは?

2010年です。相馬千秋さんがディレクターだった時に、「若手の育成」と「アジア」というテーマをフェスティバルでどう扱うかということがあった。それで最初は若手の育成で公募プログラムが立ち上がって、2011年からはアジアを公募対象範囲に入れる形にした。

──いきなりの大役ですよね。僕が植松さんに始めてお会いしたのはその頃ですが、ソルジャーみたいな人だなって思いました(笑)。

もう、帝国に囲まれた自治区みたいな気持ちでやってました。いかにメインのプログラムとは違う磁場を持った場所をつくるかっていうことで奮闘してましたね。

──F/Tの公募プログラムは僕も4年間のすべての作品を観ましたが、今振り返ると独特の熱気がありましたよね。ともあれ、なぜ植松さんがF/Tに入ったかの理由がわかりました。しかしその後、飛び出るわけですね?

飛び出ましたね。韓国に行きました。

──日本でっていう話だったのに、韓国へというのは?

日本でのいちばん近い他者って韓国じゃないですか。そこを知ることでまた日本を知ることになりますし、やっぱり日本の中で韓国にまつわるいろんな政治的な問題とか、在日韓国人への差別とかいろんなことを考えるうえで、韓国から見たらどうなんだろうと。なので、1年間語学留学しました。ワーホリのビザを取ったんです。でもずっと学校に行くお金はないから、3ヶ月だけ学校行って、あとはアルバイトしながら生きた韓国語を学びました。アルバイトは明洞の日本食屋さんにしたんですけど、最初は韓国語喋れないから日本料理屋さんにしようって考えたんですね。でもそれは考えが間違ってて、明洞にある日本食屋に日本人が来るわけない(笑)。いざ飛び込んでみたらみんなお客さんも韓国人で……って当たり前ですけど、しまったー間違った!って思いつつ、心が鍛えられました。何言われても言ってることわかんないと聞こえてないふりをするみたいな(笑)。それが私のサバイブ術でしたね。

──(笑)。韓国で1年過ごしてみて、どうでした?

2012年に行ったんですけど、イ・ミョンバク前大統領が竹島に上陸したりして、韓流ブームで生まれた友好ムードが一気にガタガタってなった時期なんです。韓国の人からも心ないことを言われたりして。それも通過儀礼と思って住んでみたけど、やっぱわかんないやって思ったんですよね。住んだからこそ。それで、政治を勉強したいっていう欲求が芽生えて、大学院に入ろうと。

──政治というのは日韓の?

日韓もそうですし、もう少し一般的にです。国同士がこうなってるっていうのは一個人の体験だけではわからないことがすごく多くて。国がどういうメカニズムで動くか、歴史的背景がどうなのか、そういう思考のフレームが必要だと思ったんです。あと自分が韓国にいた時の強烈な体験として、「日本が植民地にしていたことをどう思うか?」って何度も訊かれるわけですよ。それに対して個人としての意見を言っても「それは日本の教育でそれを教えてないからだよね」って言われて、「ガラガラピシャン!」って閉ざされる感じが悔しかったんですよ。その時にあざといけど、日韓政治を大学でやってますって言えば閉じたシャッターももう一回開くんじゃないかと。

──大学院を、神戸大学の木村幹先生のところに決めたのは?

日韓政治についてのいろんな本を読んで、考え方がすごく賛同できたっていう。だから木村先生の元で学びたいと強く思ったんです。勉強はめちゃめちゃ楽しくて。制作をやる上でも役に立つことが政治学の中にはいっぱいあって、アートマネジメントをやるよりみんな政治学やったほうがいいんじゃないかなって思うくらい(笑)、使えるツールがいっぱいあることを発見しました。

──例えば?

この業界って行政と仕事することが多いじゃないですか。だから行政がどういう意思決定フローで政策形成していくかを理論的に勉強していくと、今まで現場で「なんなんだ!」ってプリプリしてたことも、システム上の問題だなってことがわかる。それに、よその国はこうだって学ぶと、次の可能性が見えて来たりするし、じゃあどうしたらいいのかって考える整理になります。

──他のシステムを学ぶことは大事ですよね。今あるものだけじゃないから。

そうですね。あと本当に当たり前になってる民主主義とかをいちから考え直す機会があるのも勉強になりますね。


▼遊牧民的に生きる

──でも、東京でも仕事しつつだと、大学が関西っていうことに不便さはないですか?

遠いですよね。でもバックパッカーしてた時もそうなんですけど、距離的に離れていることがまったく考慮に入ってこないんですよね。さすがに月とかだったら簡単に行って帰れないから考えますけど(笑)、地球ならどこでもオッケー! 明日ブラジルに行けっていわれても予定が入ってなければ「はーい」って行きますよ。距離的な躊躇はまったくないです。

──移動がイヤじゃないんですね。

イヤじゃないですね。拠点を移すとかも問題ないです。遊牧民なんで、根を張る方が苦手なんです。根腐れ起こすから。

──根腐れ……?! でもデラシネは日本では理解されにくいじゃないですか。周囲の無理解には耐えられますか?

全然、耐えられますね。

──明洞で、聞き流してサバイブしたように?(笑)

そうそう(笑)。でも移動できるっていうのは強いと思うんですよね。ここでなくても生きて行けるっていうのは。地域じゃなくて組織っていう意味でも、あるところに所属することが絶対に永遠じゃない。ビジョンを共有していけないと思ったら移ればいい。そこにずっといることを前提にしては考えないです。

──将来、特にこの都市に住みたいみたいなのもないですか?

ないですね。

──愛媛に戻るという選択肢も?

……たまに考えるんですけど、愛媛に住んだ瞬間、すぐ根腐れするなって思うんです。私自身はどこかに定着しなくても、例えば愛媛でやりたいことが実現できるようなシステムは考えたい。愛媛で、韓国で、東京でそれぞれやりたいことを同時に継続して実現するためのシステムを。

──常に一緒にやるチームがほしい、とかは思わないんですか。

それも遊牧民だから、誰でもjoin us!です。だけど去る者追わずで、次の旅に出るならいってらっしゃい、みたいな。遊牧民の人が組織をつくるっていうのは矛盾してるんですよね、今までの概念だったら。でも新しい組織の概念を発明したらいけるんじゃないかとは思っていて、今まさにそれを考えていますね。遊牧民が集まって何かを継続的にやっていくための組織を。

──自分は日本や日本人という枠組みを変えていくことについては悲観的なんですけど、もしもそういうシステムが発明できたら、何か変わるかもしれないですね。日本も。

私はまだ日本は変えられるって思ってます。ほんとに!

──いっそのこと、政治家に立候補しようとは……?

思わないですね(笑)。でもいろいろやりながらそっちに行くしかないって思ったら行くかもしれない。可能性は常に無限大ですね!!!


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植松侑子の貪欲な好奇心……後先顧みずにまずは飛び込んでみる、というまさに「向こう見ず」の精神には、実のところわたしも結構影響されたかもしれないな、と話を伺いながら思った。彼女のガッツは、陰に陽に、周囲の人たちの生き方に変化をもたらしているのではないか。これまでは陰のマネージャーかお手伝いという扱いだった「制作者」という存在も、彼女が光を当てたことで、ずいぶんとイメージが変わってきたと思う。

エクアドルの熱帯雨林に彼女が植えた木のことを、なんとなく想像した。

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植松侑子(うえまつ・ゆうこ)
1981年愛媛県出身。大学在学中より複数のダンス公演に制作アシスタントとして参加。卒業後はダンスカンパニー制作、一般企業での勤務、海外放浪を経て、2008年からフェスティバル/トーキョー制作。2012年には1年間韓国・ソウルに留学。現在はフリーランスの舞台芸術制作者・大学院生・Explat理事長の3足の草鞋を履く。

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