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第63回岸田賞、勝手に大予想!~外野席から副音声/徳永京子編

特集

2019.03.11



>>第63回岸田國士戯曲賞・最終候補作品は こちらから


*** 予想のまえに ***

 まず、最終ノミネートされた作がすべてネット上で公開されたことに感謝したい。大切な財産である戯曲を無料公開することに同意した劇作家の皆さんと、それを実現した白水社の方々、また今年は3作がすでに別の出版社から発行されていたので、それぞれの編集担当者の方の尽力もあったと思う。自作を守るために公開しないことを選ぶ意志も尊重する。けれども、戯曲に興味を持ってもらえるならとオープンな姿勢を取る人が多いことは、風通しが良くてシンプルに気持ちが良い。

今年の“変数”は女性
この3年、パルテノン多摩で年明けに「現代演劇講座」を開催させてもらっていて、私が興味のある演劇関係者3人に2時間ずつ、公開インタビューのような形で話を聞いている。今年、そのひとりに、白水社で長く岸田國士戯曲賞を担当している和久田賴男さんに来ていただいた。テーマは「なぜ他の戯曲賞に比べ、岸田の受賞者のブレイク率が高いのか?」。その際に、最終ノミネートに至るまでの流れも聞いたのだが、和久田さんはこちらの予想を超える正直さで話をしてくださった。最も印象的だったのは“変数”というキーワードで、いわば、その時々に岸田國士戯曲賞が求められている要素と言えばいいだろう。意外だったのは、それがわりと短い期間に出た要請に応えるものということだった。選考委員や関係者や演劇ファンから「地方の劇作家に目が向けられていないのではないか」という声が上がると、翌年の最終ノミネートが選ばれるまでの選考過程に、地方の劇作家という変数が大きくなるというわけだ(念のために書き添えると、あくまでも変数であって最上位の条件ではなく、最終的に授賞を決めるのは、その年の選考委員の議論である)。
ということで今年の変数を考えるなら、間違いなく「女性」だろう。この数年、選考の場に女性がいないことによる議論の不完全さ、不自然さが選考委員からも問題視されるようになり、福島で演劇活動を再開した柳美里さんが今年、選考委員に加わった。その背景を、ふたつ、想像している。

女性劇作家を巡る状況と女性劇作家の変化
かつては「良い戯曲に男性作家も女性作家もない、書かれた作品がすべてだ」という意見/不文律が流通していた。まったくの正論で否定すべくもないが、実態としては、たいていの作品は発表されるや“誰=男女どちらが書いたか”というヒモ付けが瞬時になされ、女性のほうにだけ見えない足かせがはめられた事実が間違いなくある。若い女性劇作家が性差を感じさせない戯曲を書くと落胆のトーンで「女性劇作家らしくない」と言われたり、恋人への未練や母親との確執が描かれたりトラウマという単語が出てくると「これは男には書けない」と妙に評価されたりする風潮が確かに存在していたことを知る人は、まだまだ多いはずだ。その旧世代のマチズモ的な棲み分けに、男性たち自身が違和感や疲れを感じるようになったのではないか(これまた念のために書き添えると、岸田の選考委員が、ということでなく、現代の、よほど鈍感な男性を除く全体的な傾向として)。
そしてもうひとつ、女性劇作家の増加と台頭、作品の多様化があるだろう。たとえば昨年は、サリngROCK、西尾佳織、松村翔子、山田由梨と4人の女性劇作家が最終ノミネートに残ったが、彼女たちの作品はいずれも、前述のような「女性性が表面に出ていない」でも「旧態依然とした記号的な女性性に乗っかった」でもない。けれども、書き手が女性であることと切り離せない何かがあって、その何かは切実に新しい言葉を、講評を必要としている。そこで誠実な選考委員は、具体的に困ったのだと思う。男性の劇作家だけで女性の戯曲を読み解くことに。

女性の選考委員が増えればOKか?
 だから柳さんが選考委員に加わったことはうれしいのだが、それで改革が足りたとは残念ながら思えない。過去にも選考委員に女性劇作家がいたことはあるのに、その人たちが長くその椅子に座り続けなかったのはなぜか。また、選考の下読みを務める人たちの男女比はどうなのか。考えなければならないことはいくつも残っている。もうひとつ、これはここでは完全に蛇足だが、悲劇喜劇賞は選考委員が全員男性だ。女性劇作家の評価を巡る環境は、まだまだ厳しい。

変数以外の要素
さて、変数以外の評価のポイントを考えてみた。これは、選考委員が重視するであろうと考えたことと、受賞作を予想する上で自分が重視したこと、両方に重なる。
(1)時代と対峙している(時代に対する認識がアップデートされている。または先取りしている)
(2)構造や表現がかなり斬新
(3)構造やせりふが非常に巧み
(4)言葉に力がある
(5)言葉の力を信じている


*** 最終候補作品について ***

詩森ろば『アトムが来た日』
昨年は、風琴工房から名前を変えてスタートしたserial numberの第一弾となったふたり芝居3作連続上演と、劇団銅鑼に書き下ろした『おとうふコーヒー』(劇団銅鑼への書き下ろし)があり、いずれも私は観ていないのだが、ノミネートされたのがこの作品でなくそちらだったらどうだろうと考えてしまった。詩森の戯曲には、綿密な取材を感じさせる地に足の着いたトーンはそのままに、フィクションとノンフィクションの壁をぐにゃりと曲げてしまうようなせりふが時にあり、演劇の深い快楽を味わうのだが、『アトムが来た日』には残念ながらそれが見つからなかったからだ。
第二次大戦で原爆を落とされた体験を整理できていないままの日本が、経済発展とエネルギー問題のために原子力を選ぶ1957年と、福島原発のメルトダウンのあとさらに悲惨な事故を経験してすべての原発を停止させた2040年の日本、ふたつの時代を交互に描き、そのテンポと会話の切れ味から緊張感は生まれているのだが、どうしても原子力に関する歴史、科学、倫理のよくまとめられたお勉強以上の感想が持てない。登場人物も、手際よくまとめられていることが、それぞれの個性ではなく、この作品の中で担っているポジションがどこかという劇作家の都合を感じさせた。
福島原発事故を真ん中に挟み、原子力はどこから来てどこへ行くのかを、知的に鋭利に描いている点で①はクリア、女性変数も大きいが、受賞には至らないと思う。

瀬戸山美咲『わたし、と戦争』
民間人の女性も兵士として戦争に参加できる、日本に似た国が舞台。最前線を生き抜いて帰国したユリが、帰還者専門のカウンセリングを受けながらスーパーでパートをしているという、具体的に戦争のハードルが下がった設定にリアリティがある。彼女は治療のプログラムもそこそこに「また戦地に行きたい」と言い出すのだが、理由は「スーパーの仕事より、人の役に立つと思えるから」。一方、お見合い相手からは「志願して戦争に行った人とは結婚できない」と縁談を断られる。彼女の友人マキは、戦地で自分の息子と同じぐらいの子どもを殺してしまったことから精神を病んで自殺した──。
女性が戦争に行くとどんなことが起きるのかを、淡々と異なる角度から書いていく瀬戸山の冷静さ。タイトルの「わたし」は男女どちらも使う主語ではあるが、やはりこの作品においては女性に限定して良いだろう。
が、だとすると主人公以外の女性の書き込みが弱い。例えば売春する女子高生の言動を──両親の不和や、母親の兄への偏愛が、兄の戦地での負傷によって拡大したものだとしても──戦争と結び付けるのはいささか無理があるのではないか。さらに言えば、マキがすでに死んでいることは早々にわかってしまい、彼女の身の上にさほど深く肩入れできない。せめてあとひとり、戦争と人生を複雑に絡めてしまった「わたし」がいたら、男性が読んでも迫力を感じる『わたし、と戦争』になったのではないだろうか。受賞には至らないと予想する。

根本宗子『愛犬ポリーの死、そして家族の話』
四姉妹とそれぞれの夫や恋人との関係が描かれるのだが、8人の登場人物の造形がステレオタイプ過ぎる。家事や育児を手伝わないどころか、自分が稼いでいるのだからと、協力を求める妻をこき下ろす長女の夫。高収入だがマザコンで、性欲処理まで母に頼んで平気な次女の夫。妻の身体的な障害には優しい(?)が、仕事に就かず浮気ばかりしてバレると逆ギレする三女の夫。姉妹それぞれの結婚観が「姉の相手が◯◯で失敗だったから自分は△△」という乏しい選択から形成されているのも、劇作家の手抜きに思える。エピソードが語られる度に「人間、そんなに単純ではないだろう」と感じてしまうのだ。
いや、これは一種のカリカチュアであり、ラスト、あるいは中盤あたりから、むしろ批評として機能してくるのではないかとも考えたのだが、結局それはなかった。四女の恋の相手である作家の本性が顕れてからも、更新されていない“恋する女の子の選択”が示される。
もちろんこうした、あえて太い線でわかりやすい世界を描き、そこから観客の大きなエモーションを生み出していこうとする戯曲があることに異議はなく、結婚観や恋愛観が常に新しい演劇作品のほうが優れているとは思わない。けれども岸田國士戯曲賞に値するかを考えた時、この戯曲は賞の意義やこれまでの歴史とかけ離れていると判断した。

山田百次『郷愁の丘ロマントピア』
山田百次は、忘れ去られた人々や消え行く場所、特に日本の北の地域のそれらを、丁寧な取材ですくい上げてきた。きちんと尋ねたことはないが、おそらくそれは、彼が青森出身であることと、井上ひさしや宮沢賢治がそうだったように、中央(東京)の都合による切り捨てや皺寄せが幾度となく北の地で繰り返されてきた不条理への抗議ではないかと思う。この作品で選んだのは北海道・大夕張で、この町の歴史を文字にすると「炭鉱で栄えダムに沈んだ」と11字で済んでしまうが、約60年の間に、火力発電と水力発電、ふたつのエネルギー政策の犠牲になるという皮肉な運命をたどった町なのだ。常に命を危険にさらし、時に親しい人たちの死を間近で体験し、官民の勢力争いに翻弄されながらなんとか繋げてきた繁栄は、結局、水底に沈み、今はぼんやりとした観光地になっている。
こうした状況を山田は、微苦笑混じりのささやかな生活に落とし込むのが上手い。告発や恨み節、また、大夕張を知らない観客への啓蒙にもしない。ドラマチックではないが、きっと誰かが言ったと感じられるせりふを入口に、歴史をたどる人が増えたり、忘れ去られる人が少しでも減れば、という思いがそこにある気がする。私はそれを品格だと感じる。けれどもこの謙虚さが、本作では物足りなさにつながっている。炭鉱で栄えた時代と現在を、俳優が舞台上で老人らしい姿勢や声色になったり、その逆であったりという演劇ならではの仕掛けを使っているが、何かもうひとつ、たとえば火力と水力の対比がさり気なく感じられるものが戯曲上に差し挟まれていたなら──。それは劇作家の顕示欲ではなく、作品のコアと受け止められ、同時に観客がより深く作品を理解するガイドラインになるだろう。それがひとつあれば、受賞にもっと近づけたのではないか。

古川日出男『ローマ帝国の三島由紀夫』
『冬眠する熊に添い寝してごらん』が2015年の岸田の最終ノミネートに残った際の、きわめて高い評価をよく覚えている。岩松了は「これほどほとばしるエネルギーに満ちた戯曲に遭遇することは稀」と言い、岡田利規は「近代日本国家とは何だったのかというイシューを考えさせてくれる契機」となり、それは「井上ひさし氏の仕事が持つ本質的なところを、よりワイルドな仕方で継承する劇作家だと言いたい」と記し、野田秀樹は「今、日本の演劇の世界が欲しているのは、この本のような作家だと思う。実に懐が深い」と書いていた。それぞれ「とは言えここが弱い」というエクスキューズ付きではあったが、確かな熱があった。
なぜそれをよく覚えているかと言えば──この時は戯曲を読んでおらず、舞台を観ての感想だが──、なるほどと思いつつ全面的には首肯しかねたからだ。だから今回こそは、ノミネートを納得できる作品であってほしかった。けれどもむしろ今回のほうが、その理由を探しあぐねてしまった。
気が付くとローマの地下らしい場所で男と乗用車の中にいた女性が、ふたりに先んじて地下にいた先住民の男、迷い込んできた観光中の老夫婦との不思議な交流によって過去を思い出し、意志的に未来に向かうまでが描かれる。彼女は、母の再々婚によって、三島由紀夫と一字違いの三島由紀子になってしまったツアーコンダクターで、ローマで道路の陥没事故に遭うが、自分をストーキングしていた男にさらわれて車中にいたのだ。三島由紀子という名前から、三島由紀夫の割腹自殺+介錯による斬首、そして由紀子はヨカナーンの首を求めるサロメという流れがあるのだが、どうにもギクシャクしている。止まったり遠ざかったり激しくなったりと、度々ト書きに登場する水の流れる音も、私には、たとえばグルーヴが生み出せない時にドラマーが入れるおかずのように感じられた。きっと劇作家が仕掛けたはずの地下水脈を、掘り当てられなかったのである。

坂元裕二『またここか』
いくつかの点で、都合が良過ぎる。乾燥ワカメを1袋食べ、さらに水を飲んでしまうことから少しずつ解き明かされていく主人公・近杉の、実は精神疾患の領域にある「やってはいけないと思うほど、制御しきれずにしてしまう」癖。ある目的のため突然、彼の前に現れた異母兄の根森が、図らずも弟の闇深い扉を開けることになるのだが、近杉の「やってはいけない」スイッチの基準が、劇作家の塩梅ひとつに感じられる。何より気になったのは、作家である根森の小説に影響されて自殺した少女の家を近杉がひとりで訪ね、謝罪していたことだ。兄への一方的な思いと責任感、近杉ならではの並外れた優しさから来る行動だとしても、あまりに不自然ではないか。
けれども、それらを差し引いても残る魅力がこの作品にはある。ひとつは、衝動を押さえるために小説を書くことを、根森が手取り足取り、近杉に教えるシーン。人気脚本家がここまでノウハウを開陳していいのかと思うような具体性と迫力があり、なおかつ、震えるほど美しい。ここで坂元が書いているのは、ロマンチックを承知で言えば、物語への信頼そのものではないか。自分の内なる闇に征服されてしまうという苦しさに立ち向かう、もしくは闇を飼い慣らす効力が物語にあるのだと、そのシーン全体が語っている。
と同時に、根森もまた、「やってはいけないと思うほど、制御しきれずにしてしまう」癖があり、書くことでそれを乗り越えてきたのがわかる。自殺した読者が出た時の取材で「こっちも迷惑ですよ」などと非常識で非人道的なことを言ってしまったのは、そのためなのだ。
それがわかった時、『またここか』というタイトルは、自分と同じ苦しみを背負う弟に、自分が見つけた生きる術を教えながら、自分もまたスタートラインに立てた根森の、うんざりまじりの再生の言葉なのだ。
その後の“あったかもしれない世界”は、ロマンチックと美しさに傾き過ぎたトーンへの照れ隠しか。あっても良いとは思うが、もう少し短くて良かった。

松村翔子『反復と循環に付随するぼんやりの冒険』
苛立ちや妬みやコンプレックス、傲慢、嘘、虚栄などがぎっしりと散りばめられているのに、なぜか読んでいる途中から軽やかさを感じ、読後感が清々しいという稀有な体験をさせてもらった。
登場人物たちが抱える問題は、不妊治療や学校への違和感、性暴力、バイト先での面倒なクレームなど、まさに現代日本が抱えた、しかも答えを個人に任せっきりの問題ばかりなのだが、露悪を感じない。せりふが抜群に上手いのだ。言葉のセレクトがおもしろいだけでなく、リズムやテンポが異なって、ポリフォニーを奏でる。
おそらく登場人物に松村が課した自己制御の加減が抜群なのだと思う。呪ったり罵ったりしても、相手に届く前に自浄作用が働くような。さらに、数字や専門用語がモノローグで語られるせりふが大部分でありながら、運動が含まれているのも、軽やかさを生む効果を上げている。合唱、公園で寝そべる、偽札づくりと運搬、それを屋上からばらまく、その光景を走る電車の窓が見るなど、さまざまな運動が埋め込まれ、それぞれのモノローグが立ち上がり、スリリングに動いていく。
何のつながりもないバラバラな登場人物たちが、実はひとつの風景の中に同時に存在している関係性にあったり、遠いつながりや偶然のすれ違いを経た関係だった、という群像劇は決して珍しくないが、小さなピースがラストで1枚に集まった時、なぜか「都会も悪くない」という感慨が浮かんだ。
さてタイトルだが「反復」は偽札づくり、「循環」はお金の流通のことではないかと思う。学生向けに送られるカードローンのDMについてのクレーム電話のシーンが書かれているが、冒頭のネガティブな感情は、どれもお金、経済と結び付いている。循環する経済に、反復させた偽札で、ほんの一瞬、風穴を開ける。松村がそれを「ぼんやり」と呼ぶなら、ぼんやりした風通しこそが、今、誠実さを実感できる最大のポジティブさなのかもしれない。このスケールと抜け感を戯曲に落とし込める女性劇作家が登場したことは、良い戯曲に男性劇作家も女性劇作家もない、という理想がそのまま通せるほど理想的だ。

松原俊太郎『山山』
上演時にも戯曲を読んでいたが、この戯曲の全容をわかっていなかったと今回読み直して反省した。
「山山」とは、被災地にもともとあった自然の山と、削った汚染土を積み上げて生まれた山、その対比であり共存だと考えていたのだが、「◯◯したいのは山々だが……」の「山山」でもあったのだ。つまり、人が「山々だが……」と言う時、本当に言いたいことが隠蔽されているのが前提になる。あるいは、実現不可能であることの言い訳として「山々だが……」は使われる。本音と建前、事実と報道、真実とフェイク、安全と経済。東日本大震災が生んでしまった「山々」はいくらでもある。
それ以外にも、残念ながら私には読み取れない暗喩が張り巡らされ、けれどそれに足を引っ張られてリズムが重くなる愚道を、この作品は行かない。読んでも聞いてもすぐには理解できない宝石や爆弾が埋め込まれたせりふが、実に生き生きと流れていて、目が先へ先へと運ばれていく。読む快楽を内包した戯曲なのである。この筆致のなめらかさで、幾分、饒舌になり過ぎているきらいはあるが、登場人物(ブッシュはロボットなので人物ではないが)がすべて肉厚で、近年のモノローグ戯曲に多く見られる「語るべき言葉などありません」といったスタンスから遠いのも頼もしい。小さな人間が自分を語る言葉の小ささを本人が自覚しながら言う批評性。それらの中に、時代を射抜く単語がいくつもあって、戯曲そのものの生命線が太い。
また、松原は男性ではあるが、今年のノミネート作品に登場したすべての女性の中で、この戯曲の妻は最も自立した強さを持ってはいまいか。彼女の痛快さがこの作品を、震災の被害者、被災地からの告発と遥かな距離を取り、未来に残るべき戯曲になったと思う。

***

そんなわけで、私の予想は下記の通り。

*** 受賞作品予想 ***
◎本命:松村翔子『反復と循環に付随するぼんやりの冒険』と松原俊太郎『山山』の
W授賞
◯対抗:松村、松原、どちらかの単独受賞
▲大穴:坂元裕二『またここか』


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徳永京子WORKS

演劇ジャーナリスト。1962年生まれ。東京都出身。雑誌、ウェブ媒体、公演パンフレットなどに、インタビュー、作品解説、劇評などを執筆。09年より、朝日新聞に月1本のペースで現代演劇の劇評を執筆中。同年、東京芸術劇場の企画委員および運営委員に就任し、才能ある若手劇団を紹介する「芸劇eyes」シリーズをスタートさせる。「芸劇eyes」を発展させた「eyes plus」、さらに若い世代の才能を紹介するショーケース「芸劇eyes番外編」、世代の異なる作家が自作をリーディングする「自作自演」などを立案。劇団のセレクト、ブッキングに携わる企画コーディネーターを務める。15年よりパルテノン多摩で企画アドバイザー、17年からはせんがわ劇場で企画運営アドバイザーを務めている。読売演劇大賞選考委員。