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第65回岸田戯曲賞を語る!~外野席から副音声/藤原ちから編

特集

2021.03.12



人類史上に残るであろうこの1年、みなさんはどんなふうに過ごされたのだろうか。わたしは劇場に一度も足を運ばず、批評もまったく書かない1年になった。それでもなんとか生きてはいけたし、今のところ、以前の生活に戻りたいとも思っていない。……劇場にはきっとまた行くだろう。劇場は、可能性を秘めた箱だから。でも批評を書くかどうかはわからない。書き言葉で何かを論じたり読んだりするという、そのシステムや文化そのものに限界を感じてもいる。

そんな状況下で、岸田國士戯曲賞の候補作について語る、というこのコーナーを今年も書けるのかどうか。逡巡はあった。しかし定点観測としてすでに5回も続けてきたこの企画、今後に託せる道筋をつけずにやめるわけにはいかない、と思い、例年どおり候補作を拝読して「外野席」から語ることにした。候補作は明日3月13日(土)まで以下のウェブサイトで公開されているので、ぜひ実際に読んでみてほしい。

https://www.hakusuisha.co.jp/news/n39768.html

読みながら、戯曲を読む行為って面白い、とあらためて感じた。読者は、ページの余白に舞台を立ち上げ、そこで動く役者の姿をイメージし、そのセリフの声を聴く。実際の上演以上に、読者の想像力に委ねられた領域は大きい。読者は観客にもなれるし、演出家にも、俳優にも、舞台美術家にもなれるのだ。ステイホームしたままで……。

戯曲も書き言葉だ。しかし多声的だし、非論理的な道筋を開拓できたりもするし、誰かを攻撃するのとは別の形で感情を爆発させることだってできる。小説との違いとして、時には俳優たちとつくりあげた集団創作的な要素が混入することもあるだろう。権利問題も生じうるとはいえ、演劇ならではのそうした要素はとても興味深い。

そして戯曲は、いつか上演される宿命を帯びている。その「いつか」に至るまでの時間的経過が、戯曲にはすでに織り込まれているとも言える。さきほど劇場を「可能性を秘めた箱」と呼んだけれど、ならば戯曲は「可能性を託したタイムカプセル」かもしれない。作者から読者へ、そして観客へ……。投壜通信のように誰かから誰かへと流れていくそれは、時代を越境して旅することもあるだろう。

今回の候補作の中には、コロナ禍の影響を感じさせる戯曲がいくつかあった。いや、たとえ直接の言及がなかったとしても、8人の作家それぞれに、特殊な状況下で書いたのは間違いない。その候補作のどれかが岸田賞を受賞し、書籍として出版され、いつか誰かに偶然読まれる……そんな未来の「ある日」のことを想像してみたい。

図書館というものが仮にまだその時代に存在しているとして。ある日、図書館の「戯曲」コーナーでうっすらと埃をかぶった本を誰かが手にとる。そしてパラパラとページをめくる。「2020年かあ……ウイルスが流行して人類は大変だったらしいなあ」という感慨がその人の頭には去来するかもしれない。しかしそれだけでは、岸田國士戯曲賞の名を冠する戯曲としては物足りない。20年後なのか、それとも50年後か、100年後かわからないけど、ページをめくる人の脳内でふわーっと舞台が立ち上がり、役者が動き出し、セリフの声が聞こえてくる……。そんな「ある日」のことを想像しながら、8つの候補作を読んでみよう。


*  *  *


▼小田尚稔『罪と愛』

ト書きが独特で、どうやって舞台上で実現するのかな……と不思議に感じる場面が多々ある(鳩、競馬実況、大量の羽や害虫、天井にへばりつく、貨物船、オープンカーetc.)。上演では作家自身が演出も手掛けたのだろうけれど、他の演出家の手に渡る可能性を想定すると、投げっぱなしの印象も否めない。初演時の演出アイデアがある程度ここに書き込まれていてもよかったのかもしれない。もちろん、ト書きには実現可能性が必要だ、などと言いたいのではなく、いっそのこと「えー?! そんなん無理やろー!」と演出家が叫ばざるをえないような謎のト書きが並んでいてもそれはそれで面白いと思ってはいる。ただ、どこまでが劇作で、どこからが演出の領分なのか……その緊張関係に意識的であることは、作家にとって、視野の広さにも影響する大事な要素であるとわたしは思っていて、この戯曲からはその意識を感じることはできなかった。また、ところどころに読むのがやや難しい漢字の使用が散見されるものの、これも作家が意図して使っているのかどうかよくわからず、戯曲=文学作品としての視覚的な効果もさほど感じられなかった。

いっぽうで「甲子園を目指している男」や「蜘蛛」といった存在は不気味で得体がしれず、魅力を感じる。作家が描こうとしている「貧乏」というテーマについても、普遍的であり、かつ現代の日本においてとても深刻な、重要な問題だと思う。ただそうなると「男1」が劇作家という設定なのは両刃の剣かもしれない。それはこの戯曲の読者や観客たちに対して、劇世界と現実世界とを接続させる鍵となりうる一方で、この作品の世界観のひろがりを狭める鎖にもなってしまったのではないか。


▼岩崎う大『君とならどんな夕暮れも怖くない』

ヒューマノイド・ロボットが台頭し、疫病と「それに対する恐怖により人間同士の交流が減って」人類が激減した未来が舞台。その未来のできごとを、さらにその先の未来の観光客が覗き見る、という構造によって、時代ごとの価値観の変遷が描かれている。

わたしは作者の岩崎さん(1978年生まれ)と年齢が近い。これまで生きてくる中で、この世代は、「昭和」と揶揄されるようなアナログ重視の価値観と、デジタル・ネイティブ以降の新世代の価値観とのはざまにある、と感じることがしばしばあった。安易な世代論に回収するのは危ういと思いつつも、そういう「はざまの世代」の体験をベースにしてこの戯曲は書かれたのではないか、と勝手ながら共感する部分もあった。

ただし、この「はざまの世代」には、ともすれば古い「昭和」的価値観のほうに、美しさや懐かしさを感じてしまいかねない危うさもあると自戒している。そして、この戯曲にもその危うい気配があるように感じた。「人間って本来こういう生き物だよね」という作者自身の考えが時折ちらっと顔を覗かせてはいないだろうか。物語の終盤で、人類の生き残りであるケージーが「子供を産みたい」と唐突に言い出すのだけれども、それがヒューマノイド・ロボットたちにもなぜか肯定的に受け入れられていくのは、それまでのやりとりからすると違和感がぬぐえない。

ガイドを通じて過去を覗き見ているのは、ケンとミニーというヒューマノイド・ロボットの夫婦だ。このケンが、あまりにも短絡的な振る舞いをするのはどういうわけなのか。「人間性」を取り込んだ結果、遠い未来ではこのような粗暴さがむしろ良い価値として回帰したということなのか……。また、ミニーが夫に(茶化しながらも)従属する女性として描かれているのも、古い男女観に依拠した関係性に見えてしまった。

また物語の構造としては、このガイドとロボット夫婦たちが、未来から過去を一方的に覗き見ている、つまり安全地帯にいることで、劇としてのスリルを欠いているように思う。


▼小御門優一郎『それでも笑えれば』

Zoom演劇として話題になっていたらしい劇団ノーミーツの上演台本。途中で選択肢が現れる形式はこの戯曲の特徴のひとつだけれど、途中で登場する「事実上一択」を演出するための手法でしかないようにも見えた。わたし自身この数年、選択肢によって物語が分岐するような作品をつくってきたこともあり、「観客参加型」の演劇における観客の自由度については敏感になってしまう。とはいえ実際にこの上演を観た観客にはその構造はわからないはずだから、自由度がある、と錯覚させる効果は充分にあったかもしれない。岸田賞最終候補としてこういった選択式の戯曲はおそらくこれまでなかったから、それこそ「爪痕を残す」ことにはなっただろう。

内容については、「夢を追い続ける不安定な生活か、就職して安定した生活か」という、ひと昔前にあったようなイリュージョナルな二択が根幹にあるせいか、登場人物の思考回路が平板に見えてしまった。その一見「安定した生活」に見えるものの中にこそ、演劇があぶり出せるはずの謎や悪魔が潜んでいるのでは? 例えば、バンドをやめて就職した男の「ルリコとのことも、ちゃんと考えたいしさ」というようなクリシェ(紋切り型)を、作者はさらっと安易に書いてしまっているように思える。こういうクリシェを裏切るところから、物語が動き出すのではないだろうか。


▼根本宗子『もっとも大いなる愛へ』

根本さんの戯曲を読むのはこれで4回目になる。正直以前の作品から上積みがあるようには感じられず、なぜ今作が最終候補に……と思ってしまった。細かい話だが、最初に「友人のようにも恋人のようにも見える」とあるのに、後で「女」のセリフとして「こういう風な友人関係になれた異性」と出てくるのは、せっかくの曖昧な関係を固定化させてしまうのではないか。「印象的に黙る」とか 「何とも特殊な表情」といったト書きも、戯曲としてはイージーに放り出しているように見えてしまう。

しかし、わたしにはつかめていない何かがあるのかもしれないし、今作の背景やコンテクストについてもっと理解を試みたい、と対談インタビューをふたつ拝読した。そのうちのひとつに「今回は最近の作品とは全然違っていて、『全部わかってほしい』っていうような昔の書き方をしちゃった」とあり、そうか、今作に込められているその「全部わかってほしい」感がわたしには受け入れがたいのかもしれない、と思った。今作でそういう書き方をしなければならなかった理由は作者にはおそらくあるのだろう。しかし、人はそんなにも誰かの承認を求めなければ生きていけないのか……。ここで悩む「女」や「妹」たちの姿に元気づけられたり、抱きしめてあげたいと思う人たちもいるのかもしれないけれど……。


▼長田育恵『ゲルニカ』

4年前(2017年、第61回)に最終候補となった『SOETSU -韓くにの白き太陽-』は非常にスリリングな戯曲として読んだ記憶がある。しかし残念ながら今回の『ゲルニカ』には、あの作品にあったような深みや複雑さを感じることができなかった。『SOETSU』が、朝鮮半島の歴史に対する日本の関与に焦点を当てていたのに比べて、ピカソの『ゲルニカ』の題材となったこの町が、距離として遠すぎたということなのか。でもそれだけではない気がする。ちなみにわたしは、ゲルニカの西に位置するガリシア地方には数日間だけ滞在したことがあって、今もその地方のいくつかの町の情景が目に浮かぶのだけれども、例えばこの『ゲルニカ』の戯曲を読みながら町の風景が見えてくるようなことはなかった。風景描写は書かれてはいるのに……。

全体のテンポが早すぎて、物語がさらっと流れていってしまうのがネックだったのかもしれない。例えばレイチェルが「私の母は、この街の生まれだったの」とか「私はね、子供ができないの」と告白するセリフは、どちらもかなり重要な事実の暴露であるはずなのに、そのまま誰も反応せずに話が進んでいってしまう。また全体の口調が、ありがちな翻訳文体の模倣に思えてしまい、予測できない言葉が飛んでくるようなスリルに欠けていた。

ところで、終盤の「今この時に沈黙している奴は、罪びとだ。だって沈黙は、同意と同じ意味だから」という、匿名の「ひと」が語るセリフが目に留まる。作者はどのような距離感をもってこの言葉を戯曲の中に置いたのだろうか。……少し長くなるが、以下にわたしなりに思うところを述べておきたい。

沈黙は同意と同じ意味になってしまうのかもしれない……ということは、この1年の、批評を書かないという「沈黙」のあいだにたびたび考えてきたことではあった。かつてのわたしだったら、もしかしたらこのセリフに勇気をもらい、奮い立ったかもしれない。例えば、5年前の2016年に「政治、いや芸術の話をしよう」という緊急シンポジウムを開いたのは、わたし自身も含めた当時の日本の演劇人たちに「語る言葉」がないという危機感があったからだった。けれども、あれから時間が経つにつれ、正義と怒りの声が世界的な潮流となり日本をも席巻していく中で、大きな声で語られる言葉はむしろ巷にあふれるようになっている。そんな今、沈黙はどのような意味を持ちうるのだろうか。それは本当に、単なる同意と同じ意味でしかないのだろうか……。そういえば1年前のこの岸田賞を語るコーナーでわたしはこんなふうに書いたのだった。

声を上げることは重要だ。小さな声を押し殺すことが行われてきたこの国の、今は変革期なのだと思う。しかしわたし自身は声を上げることが難しくなっており、こうして文章という形に書き残すこともおそろしく難しくなりつつある。沈黙が、旧体制への加担や黙認であるようにとられかねない中で、どんな言葉を、どのような形で絞り出せばいいのだろうか。


▼内藤裕子『光射ス森』

ふたつの家族を描いた物語。会話を丁寧につむいでいくことで、林業という「特殊」な世界に光を当てつつ、日本社会の構造という「普遍」的な問題を描出する。派手さはないけれど、例えば、筍ご飯の匂いが戯曲から嗅ぎとれるような気がしたし、人と人との距離感や間(ま)など、演劇ならではのイメージが立ち上がっていく。きっと丁寧にリサーチされたのだろうけど、その過程で得たであろう知識や情報を詰め込みすぎてはいない。方言もごく自然な会話として取り込まれていて、この劇世界にリアリティをもたらしている。とても良い戯曲だと思った。

ただ、岸田賞を獲るのかどうか、となると、もうひとつ強いパンチが欲しいとも感じてしまう。気になってインタビューを拝読したところ、「林業に従事される方々にシンパシーがありすぎて、悪役が書けない」とあった。たしかに「悪役」になりそうな要素はこの2つの家族にとって遠い外部にあって、人物として舞台に登場してくるわけではない。この場の調和を乱すような人物や事実が欲しかった気もする……けれど、そのようなケレン味がない、ということがこの作品の良さでもあるのかもしれない。


▼横山拓也『The last night recipe』

劇場を出ると、目に見える景色がガラッと違って見えるようなことがたまにある。この作品にはそういう力があると感じた。ある「普通」に見えた夫婦が、実は「異常」な関係であることがわかり、やがてそれがまた「普通」に見えるという……。知らず知らずのうちに持っている「普通/異常」の境界線を揺るがすような作品だと思う。

タイトルにある冠詞の「The」が伏線になっていたり、死んだ人間が舞台にいることが可能な演劇ならではのトリックを利用していたりと、上手さを感じる。しかしながら、あざとく書いているようないやらしさはなく、むしろまずはキャラクターを立ち上げてみて、そこから会話を喋らせて命を吹き込んでいくうちに、結果的に物語が完成した……といった印象をわたしは受けた(実際どう作劇したのかはわからない)。

ただ、全体にひとつひとつのシーンが短い。怪しいラーメン屋のおやじがスナックのママと会話するくだりはもっと長く覗き見ていたかった。シーンの短さはおそらく意図的とはいえ、それらのシーンとシーンはどう繋がれていくのか。リアリズム風の舞台セットなのか、それとももっと抽象的な舞台美術によるのか。それらは演出の領分であって、戯曲としてはその手前までを書いておけばいいのかもしれないけれども、もしもその上演に向けた構想や設計図のようなものがシンプルにでもここに書き込まれていたら、よりスリリングな戯曲になったかもしれない。

キャラクターの造形については、主人公である夜莉がやや焦りすぎではないかと感じた。わたし自身、編集やライターの仕事にたずさわってきたので、その業界に生きる人たちに焦燥感が付き物であることは理解できなくはない。にしても、彼女をここまで駆り立てている背景には何があるのだろうか。

また、ワクチンの描写については、賛否わかれるところではないか。もちろんこの国でも過去に薬害の問題や隠蔽の疑惑が多々あったわけだし、このたびの新型コロナウイルスに対するワクチンでもそれは起こりうる。しかし実際にはまだ起きていない事件を描くことで、ワクチン接種について必要以上にネガティブな印象を観客に与えてしまう恐れはある。その社会的影響はフィクションだからといって無視できるものではないと思う。もしも作家がそのことに警鐘を鳴らしたいと強く思っているのであれば、みずからの責任においてそうする自由と権利はあるだろう。ただそれにしても、「製薬会社をはじめとして薬害を隠蔽したい人たちがいて、彼らはそれを告発しようとするジャーナリストの将来を奪うほどの強い権力を持っている」というような陰謀論めいた物語にしてしまうのは、劇作としてはイージーかつ危うい手段に思えてしまった。


▼金山寿甲『A-②活動の継続・再開のための公演』

金山さんが主宰する東葛スポーツの公演を(物理的な理由により)この数年は拝見できていないけれど、ひさしぶりに東葛のエキスに触れてみて、相変わらずどころか、ますます磨きのかかった切れ味っぷりに舌を巻いた。ラップを駆使して縦横無尽に語るこの作家・座組の才能は、きっとこの戯曲を読んだ多くの人たちが認めざるをえないだろう。ただその(おそらくはヒップホップ文化の影響を受けた)ディスりのスタイルはいろんな人の反感を買うだろうし、もしもこの作品が気に食わないとか、貶めてやろうとか思えば、理由はいくらでも探せそうではある。例えば寅さんとソン・ガンホの扱いに必然性が感じられないとか言えてしまいそうだし(博vsソンのアクションシーンは凄まじく、この戯曲のハイライトのひとつになっている)、登場させる固有名詞が卑近すぎて世界を狭くしているのではないかとか、そもそもこれ翻訳不可能だよねとかいったことは、わたしも気になるところではある……。いわば、隙だらけである。

しかし、どのページを開いても面白いのだ。そんな戯曲は滅多にないだろう。一見ふざけた振る舞いのように見えながら、その実、この戯曲・上演という場に吐き出されてくる言葉たちの、なんとヒリヒリしていることか……。これらの言葉を生み出している源泉は何なのだろうか。「怒り」なのか……いや、それだけではない気がする。「悲哀」とも違う。少なくとも「愛」ではないだろうけど、それに拮抗しうるだけの強い何か……。

適切な概念がまだ見つからないが、あえて言うならそれは「真摯さ(sincerity)」かもしれない。嘘がないのだ。もちろん演劇的な虚構のたくらみには満ちているし、ふざけまくっていて不謹慎きわまりないけど、ここに書かれた言葉は真摯だ、とわたしは感じる。

「正しい」ことしか言えなくなりつつある社会において、こういう真摯な言葉がほとばしることのできるスペースは必要だと思う。少なくともわたしには必要だし、未来の誰かも必要とするはずだ。その未来ではもしかしたらもう日本語は滅びているのかもしれず、翻訳機にかけてもさっぱり意味不明かもしれないけれど、ここにほとばしっているスピリッツは未来の「ある日」の誰かに届いて、その心をきっと震わせるに違いない。「こんなことやっていいんだ?! 演劇っておもしれー!」と、その誰かの中で新たな可能性が膨らんでいく。そんな「ある日」の情景をわたしは想像する…………。

もしも今回の8つの候補作のうち、どれかひとつだけをタイムカプセルに入れられる、となったら、わたしはこの戯曲を選ぶと思う。

藤原ちから Chikara Fujiwara

1977年、高知市生まれ。横浜を拠点にしつつも、国内外の各地を移動しながら、批評家またはアーティストとして、さらにはキュレーター、メンター、ドラマトゥルクとしても活動。「見えない壁」によって分断された世界を繋ごうと、ツアープロジェクト『演劇クエスト(ENGEKI QUEST)』を横浜、城崎、マニラ、デュッセルドルフ、安山、香港、東京、バンコクで創作。徳永京子との共著に『演劇最強論』(飛鳥新社、2013)がある。2017年度よりセゾン文化財団シニア・フェロー、文化庁東アジア文化交流使。2018年からの執筆原稿については、アートコレクティブorangcosongのメンバーである住吉山実里との対話を通して書かれている。