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第65回岸田戯曲賞を語る!~外野席から副音声/徳永京子編

特集

2021.03.12


《2021年、最終候補はなぜこの8本なのか?》

 去年から受賞作予想の看板は下ろしたが、代わって分析欲に駆られているのが、最終ノミネート作品のラインナップだ。誤解を恐れずに言えば私は「その年に上演された演劇の上位作品が集められた」というシンプルな構造だとは思っていない。もちろん読み物として一定以上のクオリティを認められているのは大前提にあるが、それ以外に少なくとも、下記の4つの要素があると考えている。

(1)文体や構成にオリジナリティがある。
(2)前年の選考会で出された選考委員の意見。最近では、いわゆるポストドラマ=非会話劇、長大モノローグ作品の急増に対する「本当にこういう作品ばかりが相対的な優秀作なのか」「このままでは従来の会話劇が廃れるのではないか」といった疑念や危機感に対応。
(3)演劇ファンの声を中心とした社会的、時代的な要請。少し前は「地方で上演された作品にもっと注目を」という声だったが、ここ数年は、選考委員のジェンダーバランスの不均衡から指摘されている女性劇作家不足。
(4)直近の大きな事件や事故や災害を、テーマやモチーフにしている。

 昨年のこの特集で書いたように、前回のノミネートは上記(2)に重きを置いて選ばれたものが多かった。そして今年のラインナップを見て感じたのは、白水社は、毎年の最終ノミネート作品を、ひとつの日本演劇クロニクルにしようとしているのかもしれない、ということだ。
すべての演劇作品は初演時の世相を内包している。だから演劇の上演年表はそのまま世相史になる。けれども年表に太字で乗るような事件や事故や災害をオンタイムで扱った作品は、よりわかりやすく時代を映す。そうした作品を多くノミネートすることで「岸田の最終ノミネート一覧を見れば、その時に何があったのか、その時期の社会がどういうものだったかがわかる」という機能を持たせようとしているように感じたのだ。
 背景にあるのはやはり、新型コロナウィルスがもたらした社会への打撃と表現の変化への促進だろう。ということで今年は(4)を軸にしたセレクトが展開された。オンライン演劇の戯曲も授賞対象としたのはその布石だ。

 だが当然、たとえ主催者が「会話劇」「コロナ禍を反映した作品」を意識して準備しても、最終的に授賞作を決めるのは選考委員であり、そうした意図からはみ出た作品が選ばれる可能性が大いにあることは、昨年の結果を見てもわかる。むしろ白水社は、自分達が用意した“あるバイヤス”を、選考委員が知ってか知らずか無遠慮に無視して選ぶこと、あるいは無視せざるを得ないパワーのある作品が選ばれて、その結果がエターナルな記録になっていくことを望んでいるのかもしれない。

 そして、各候補作について書く前にコロナ禍についてひとつだけ。2020年上演作品を対象にした複数の賞で、選考や授賞の場で度々「困難な状況下で上演」したことへの賛辞を見受け、確かに同意はするのだが、それを評価の底上げにしてはいけない。冷静に内容を吟味することだけが、創作に関わった人への敬意になる。


*  *  *


《各戯曲評(作者五十音順)》

▼岩崎う大『君とならどんな夕暮れも怖くない』

 アフター・パンデミックの世界を、人間とヒューマノイドの関係の変遷を軸に描いたSF。文体は決して新しくないし、芸人という作者のもうひとつの顔を刻印していくような笑いは好みが分かれるところだろうが、技術的にはかなり高度。こまやかな設定が端的なせりふに巧みに織り込まれているし、すべての登場人物の性格が誰かとの会話によって浮かび上がってくるつくりになっている。これができる人は、今、かなり少ない。しかも瞬間的、一面的な性格ではなく、それなりに複雑な内面や来歴、両者の関係が、笑いを伴いながら書かれている。
 そうしたとっつきやすさを前面に出しながら、芯に据えられているのは差別の構造だ。ある疫病が世界的に大流行して外に出られなくなり、人口も減少していった人間は、さまざまな活動をヒューマノイドに託すようになる。物語は、圧倒的にヒューマノイドが優位になった時代、かつての人間との暮らしを保存してある歴史建造物を訪れたヒューマノイドが、人間のほうが優位だった時代から、両者が対等になっていく時代への過渡期の再現を見るという構成の中で、主従と友情、劣等感と優越感などのグラデーションが描かれる。そこで示されるのは、同じ場所に立っていても、隣りに誰がいるかで差別する側とされる側に変わる人間の悲しさと滑稽さで、この悲しさと滑稽さもまた、グラデーションになっているのが、この戯曲の最大の良さだろう。
 それを古さと受け取る人も少なからずいると思うが、スムーズに価値観をアップデートできず、それでも、自分の大切なパートナーである旧型ヒューマノイドのためには何がベストか考え、変わっていくために自分が納得できる最適解を見つけようともがく姿勢に、希望と好感を持った。


▼長田育恵『ゲルニカ』

 本作は史実をもとにしたフィクションで、タイトルはピカソの作品に由来している。その絵は、スペイン内戦中の1937年、反乱軍を支持したドイツ軍によって無差別爆撃を受けてほぼ壊滅状態になった歴史ある美しい街の名前であり、主人公のサラはこの街の領主の娘という設定。
 長田が2020年に書いた戯曲としては、このあと上演された『幸福論』のほうが数段優れているし、本作には欠点も少なくないと思うが、私は次の一点だけで高く評価してしまう。
 それは婚礼当日に結婚相手のテオが戦争に行くことになり、朝の散歩中に出征する彼と出会ったサラが子牛について尋ねるエピソードだ。目の前で婚約者が戦争に行くというのに、サラはテオが連れてくるはずだった子牛のことを真っ先に聞く。「死産だった」と答え、「隊に合流するために急がなければ」と言うテオにサラはなおも「子牛はお腹の中で死んだの? 生まれてから死んだの? 牡だった? 牝だった? 声を上げた? 目を開けた? あなたはその子牛を抱いたの? ねえ! なぜ子牛は死んだのよ!」と質問を投げかける。歴史的に有名な、しかし日本とは馴染みの薄い、背景の複雑な事件をこれから紐解いていくというのに、本筋とまったく関係のないせりふを長田はなぜこんなに連ねたのか。
 思うに、小さな生き物の小さな死にもこだわるサラの眼差しを、この物語の出発点としたかったのではないか。地理的にも歴史的にも、2020年の日本となかなか交わらない史実を、いかに私(達)の話として伝えるかを考えた時、プロパガンダではなく命全体への問いかけを選んだのではないか。と同時に、ピカソの絵に着地させる線でもあったのではと予想する。ピカソの『ゲルニカ』に人間と同じ大きさの牛が描かれているのは、単にスペインが闘牛の国だからではないだろう。
 危険や偏見や不自由を乗り越えて女性ながら紛争地で取材を続けてきたレイチェルが、事実を世界に伝えるジャーナリストとしての職務を男性のクリフに託し、自分はサラが遺した子供を育てる覚悟をして戦地から去るラストは、旧来の男女の役割にあまりにも則っていて残念だが。


▼小田尚稔『罪と愛』

 ウィルスのウも、ステイホームのスも出て来ないが、候補作の中でこの戯曲が最も2020年の核心を映し出していると感じた。
 冒頭の新約聖書の一節がすでに現代への大いなる皮肉だ。私達の多くはとっくに、少なくとも自分が生きている間は“かの日”など来ないと知っている。それなのに自分が暮らしているのが時代から取り残されたボロ屋で、日々の食事にも事欠くのに、より良い場所を探そうとしないネズミであり、汚れた空気が充満したり強い風に吸い込まれそうになる時だけ避難して、あとはのっそりと暮らすクモなのだ。
 そうした“常に疲れ、貧しいことに慣れきった私達”を改めて襲ったのがコロナ禍で、ここでようやく噴出した不器用な自暴自棄、復讐の妄想をこの作品は描く。本物の何分の1かのお台場の自由の女神像に火を点けて悦に入るドヤ顔を。平和の象徴である鳩の鳴き声を「デーデー、クックー」、つまり「クーデター」と真似て笑う姿を。または、ルカ福音書の言葉が預言したようにそれまでの労苦が報われる──本番中に音響さんが舞台上に出てきて「愛してる」と言って劇場の外に連れ出してくれるレベルの──奇跡を描いている。
 さて、この戯曲を読んだ少なくない人が、男1から4は同一人物と思うだろうが、それだけではない。母親の妄想に現れる高校球児こそ、明らかに男1のメタファーだ。髭まで生やした成人男性なのに甲子園を目指して投球練習をやめない高校球児。たったひとり熱心に練習するも、上達せず、主人公の実家の給湯器や壁をボコボコにしてしまう高校球児。母親の制止が耳に入らない彼は、夢に遠く届かないまま年を重ね、放出する熱量と受ける評価が釣り合わない劇作家に他ならない。
 そうした皮肉や切実、自戒や自嘲、ユーモアや批判が、この戯曲には美しいタペストリーのように編み込まれている。美しいとは、劇場の広さや転換の都合など気にせず、脳内に生まれた空間を自由に文字にし、それが文学になっていることだ。この戯曲全体に流れる緊密な暗さを、私は文学だと感じ、何度も読み返した。受賞作はこれではないか。


▼金山寿甲『A-②活動の継続・再開のための公演』

 東葛スポーツは何年かおきに観ていたが、この戯曲を読んで驚いた。ものすごく上手くなっている。私は音楽のラップに詳しくないが、韻や拍子などラップの縛りを守りながら、豊かなボキャブラリーと広い視座で、作家の言いたいことが充分に記されている。テキストとして読み応えがあり、かつ、躍動感に満ちているのだ。

石頭って言われても意志を貫く 石みたいにここに留まる
アクセルを踏むか ブレーキを踏むかは自分で決める
踏み間違えてもプリウスのせいにしない 上等国民なら下級で上等


 という一節を始めとして、高いスキルによって書かれた対象のイメージが一気に広がるパートがいくつもある。ディスりに関しては今作もまだ、相手が“安心して悪く言える相手”だったり、より多くの笑いを取るために“わかりやすい表層への言及”に留まっているものが見られるが、鞭の扱いがしなやかになっているから、痛み以外のものに目が行く。
 ラップ以外のパートも読ませる。妊娠が発覚した俳優が、演劇を続けるために支援金の担当省庁に問い合わせるのだが、出産費用は助成の対象にならず、中絶費用は対象になるというシーンは、もちろんそうした事実はないけれども「継続・再開のための助成システム」が抱える理不尽さ、非整合性を鋭く指摘している。
 ただ、公演をすること、活動を続けることへの意思表明の言葉の美しさ、切なさ、真面目度が、きれいに収まり過ぎているのが気になる。公演中、「今回の東葛は泣ける」という感想を複数のツイートで目にし、戯曲を読んで「なるほどこういうことだったのか」と腑に落ちたのだが、最後の最後でもう一度笑いへとひっくり返さず、「俺ら、ホントは命賭けてるんで」で終えたのは、ラップの劇団として良かったのかどうか。戯曲としてもそれによって、全体がコロナ禍に縛られたものになってしまったように感じる。


▼小御門優一郎『それでも笑えれば』

 まさにコロナ1stイヤー(不謹慎ですみません)を象徴する劇団のひとつで、Zoom演劇を発明した劇団ノーミーツ。集うことを禁じられた演劇人と観客に「その手があるのか!」といち早く教えてくれ、演劇ファン以外にもオンライン演劇を広めた功績は称賛に値する。ただ、何本かノーミーツの作品を観て私が感じる特徴は、オンラインならではのメディア性というより、コロナ下での主に若者の心情を汲み取ることの巧みさだ。時代の空気感の抜き出しと、共感への橋渡しが抜群に上手いのだ。
 この作品で言えば、主人公である女性芸人の、夢がかかったオーディション、プロポーズ、妊娠の告知、母親のお見舞い、コンビ解散といった人生の重大事をも、スマホやパソコンのモニター越しでするしかないという現状と、そうした人生の節目をこの時期に迎えてしまった彼女達の、誰も責められない苦しさ、心細さ、懸命さこそが作者の力点だろう。
 けれどもこの作品は、観客が登場人物達の岐路を選択できるというオンラインのメディア性に寄ったためか、人生の重大事も類型的で、ひとりの時間の苦悩や空虚感、モニター越しのふたりのズレや交歓に深みも広がりも足りない。前述した「共感への橋渡し」とは、言い換えれば「わかりやすさ」で、そこが多くの支持を受ける理由だとは思うが、定型過ぎるのだ。そもそも人生の決断は二択ではない。二択と割り切った時点でゲームのシナリオであり、AかBで割り切れない思考を言語化するのが戯曲ではないか。
 また、Zoom演劇の欠点である「画面(えづら)がアップばかり」「同じような表情が続く」といった問題に対応したのか、画面の出入りがあるシーンが多数あるが、実際に観た時も、戯曲を読んだ時も、特に効果を感じなかった。オンライン演劇のリーディング劇団として、その課題を乗り越えてほしいと願っている。


▼内藤裕子『光射ス森』

 日本の劇作家の中での女性の割合は多くない。それなのに女性劇作家の中でノンフィクションを扱う割合はかなり高い。パッと思いつくだけで、永井愛、瀬戸山美咲、詩森ろば、長田育恵……。以前から不思議に思っていて、折りに触れて人に聞いてみたりもするのだが、まだ理由はわからない。
 内藤裕子もその系譜にいて、綿密な取材がベースにあることは戯曲から感じ取れる。素晴らしいのは、その綿密さが登場人物達の温度として落とし込まれていて、せりふ量に反映されていないことだ。膨大なリサーチが咀嚼、消化されている。一時期、現代口語演劇普及の段階で、戯曲のせりふが「ほら……あれ」や「ああ、うん」などが多用されて短くなっていることが問題視されたが、この人の書くせりふは、短い会話で多くの情報が自然に流れ込んでくる。技術的に上手いのだ。
 安価な輸入木材に市場を奪われ、長期的なビジョンのない政策に振り回され、育てても売るだけ赤字になる構造。だから手入れができず、台風や地震ですぐに山が崩れる悪循環。何世代も前から絡み合う複雑な所有権。助成金申請の面倒な手続き──。危機的な状況にある日本の林業の問題点を、災害を免れて家族の中でひとり生き残ってしまった女性を主人公に描くのだが、何かを訴える気負いはない。主人公が多くを引き受けるのではなく、登場人物全員が生き生きとした見事な群像劇だ。母亡きあと、仕事をしながら家事もする女性が、山の豊かな恵みを料理を通して伝えているのだが、父親が彼女の家事を当然だと考えていないことがさり気なく描かれているのにも好感を持った。
 だがその分、迫力に欠ける。戯曲の中で最もエモーショナルなシーンが、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』であることは、演劇作品としてはありだが、戯曲としては寂しい。せりふの短さを評価したが、もしかしたら今後は、『雨ニモマケズ』に当たるような重心あるせりふが必要になってくるかもしれない。


▼根本宗子『もっとも大いなる愛へ』

 オンライン配信のみの演劇作品の戯曲は、どう書けば読者にその試みが伝わるのか。あるいは、伝えなくて良いのか。今後の演劇界の大きな課題になるはずだが、とは言えマニュアルのようなものがつくられるのでなく、企画に挑む劇作家ひとりひとりが工夫して書いたものが、本人の次の企画で改善され、やがてそれぞれのオリジナリティが生まれていくのだろう。この作品は劇団ノーミーツの小御門優一郎と異なる角度で、先行例のないオンライン演劇への取り組みを戯曲に落とし込もうとしている。
 それがわかるのはト書きの丁寧さで、特に前半、読み手と慎重にコンセンサスを取りながらシーンを進めている。その点では機能性の高い戯曲であり、内容もこの企画で過去に読んできた根本作品の中で最も優れていると感じた。
 けれども気になるのは、登場人物全員が作者に優しいことだ。別の言い方をすると、作者の言いたいことを伝えるためだけに登場人物が喋ったり動いていると感じられる。もちろん作者は世の中に言いたいことがあって物語を書き、登場人物は作者の頭の中で生み出されたものだから、その目的に沿って動くのは当然なのだが、想像力でつくられた人物達が、作者さえ思いも寄らない行動を取ったり、言葉を発したりしてからが物語の醍醐味だという実体験が私にはある。作者の意図など知ったことではない、つまり、作者の無意識から生まれた登場人物こそが、観ている私に新しい気付きや、それまでの価値観を塗り直してくれる再発見、あるいは、終演後も長く考え続けていく宿題をくれる。
 コミュニケーション能力が極端に低いAと、Aをより良く理解しようと知的に冷静に粘り強く応じるコミュ力の高いB、その組み合わせ2組の会話だが、実は優劣が逆という仕掛けも早い段階から想像でき、作者ひとりの脳内劇場という印象は、むしろ最後に固められることになった。


▼横山拓也『The last night recipe』

 横山作品を観て「惜しい」と思うことが度々ある。今作は実際に観ていないが、上演中にTwitterで高い評価を散見していたので、読むのを楽しみにしていた。けれど残念ながら今回もやはり「惜しい」。
 私が惜しいと感じるのは毎回同じ点に集約される。人間の黒い部分が足りない。作者の中の黒さが薄いならこんなことは感じないだろう。勝手な思い込みの押し付けになるかもしれないが、横山には人並み以上にそれがある気がしてならないのだ。
 iakuを観たことがある人、戯曲を読んだことがある人なら、横山拓也の上手さはすぐに気付く。正義の側にいたと思っていた人がそうではなかった。加害者だと思っていたら実は違った。そのひっくり返しに至るエピソードの意外性、ディテールのこまやかさ、立場が入れ違うタイミングなどが抜群なのだ。その意図するところは「すべての人間には清濁がある」だろう。だから途中で悪意やエロスが出てくるのだが、そちらは早々に引き上げて、なぜか全員を良い人に落ち着かせることに尽力してしまう。
 その欠点が今作には色濃く出てしまった。主人公の夜莉という女性は行動がいちいち極端で、普通なら、表面的な目的の先にある別の目的が明かされて「いろいろ欠点はあるけど魅力もある」に至るはずが、そこにたどり着かない。夫の良平も、大事なポジションにいる口数の少ない主要人物に求められる“他の登場人物の凹凸にハマる”という存在のカタルシスがない。
 だから他の人物が活躍すべきなのだが、物足りないのだ。夜莉の元彼・早田と、夜莉が慕う先輩ライター・綾が過去に関係があったことがせっかく暗示されるのに、結局ふたりはコロナのワクチンの安全性というジャーナリスティックな問題の前で清潔に対峙して終わってしまう。早田と綾が、早田と夜莉が婚約している時期も関係が続いているとはっきりシーン化されたら、ふたりの対立は複雑さを増し、早田の「俺もひどいですけど、夜莉もまあまあひどかったですよ」というひとことで夜莉のキャラクターが一気に膨らんだのではないか。また、早田に脅されながらも薬害問題を取材しようと決心とする綾のキャラクターに深みが出たのではないか。
 観客の勝手なないものねだりだが、あと一歩、踏み込んでほしかった。

徳永京子WORKS

演劇ジャーナリスト。1962年生まれ。東京都出身。雑誌、ウェブ媒体、公演パンフレットなどに、インタビュー、作品解説、劇評などを執筆。09年より、朝日新聞に月1本のペースで現代演劇の劇評を執筆中。同年、東京芸術劇場の企画委員および運営委員に就任し、才能ある若手劇団を紹介する「芸劇eyes」シリーズをスタートさせる。「芸劇eyes」を発展させた「eyes plus」、さらに若い世代の才能を紹介するショーケース「芸劇eyes番外編」、世代の異なる作家が自作をリーディングする「自作自演」などを立案。劇団のセレクト、ブッキングに携わる企画コーディネーターを務める。15年よりパルテノン多摩で企画アドバイザー、17年からはせんがわ劇場で企画運営アドバイザーを務めている。読売演劇大賞選考委員。