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第64回岸田戯曲賞を語る!~外野席から副音声/藤原ちから編

特集

2020.02.13


 今年も岸田國士戯曲賞の季節がやってきた。例年、外野からの「予想」という形をとってきたが、今年は「予想」しないことにした。あくまでもこのコーナーは「予想のフリ」であって、実は「批評」のつもりであったのだが、「予想」と名乗ってしまうことでどうしても結果が重視されてしまう。批評家も確かに審査をすることはあるし、作品に点数をつけたり、ひとつの作品を選んで授賞する立場に身を置くことはあるだろう。しかしその結果よりもそこに至るまでのプロセスにこそ批評の本懐があるとわたしは思っている。

 批評を書くということは、一種の運動である。書かれた文章はその書き手の「思考=執筆」という運動の痕跡であり、それが読者の身体に届くことによって「読む」という行為が始まり、読者のほうでもまた思考の運動が生まれる。当然、書き手の考え方に必ずしも同意しなくてよい。共感したり、反発したり、刺激を受けたりしながら、読者自身が思考を鍛えていく……。批評はそういった運動の循環を促す「触媒」ではないかと思う。

 それでも「予想」と称してきたのは、「批評」と名乗るよりもはるかにとっつきやすいお祭り的な体裁を装うことによって、「戯曲についての議論も活性化し、岸田賞がよりオープンで風通しの良い賞になり、ひいては演劇をめぐる言葉が豊かになっていく」ことに貢献したいとの思いがあった。賞を運営する白水社にも同じような意志があったからこそ、「予想」に協力してくださったのだと思う。最初の「予想」は4年前、第60回岸田賞だった。

 しかし、ノミネート作家でもある山田由梨さんが以下の文章で疑義を示しているように、白水社や岸田賞に対する「不信」が少なからぬ声としてある今、演劇界に、そしてこの世界に根を張っているその不信は、「岸田賞を盛り上げる」ことによって除去されることはけっしてないだろう。

 白水社にはこの賞をオープンにしたいという気持ちがあったとわたしは感じてきた。だからこそ期間限定の戯曲公開を作家に呼びかけたり、わたし(たち)の「予想」企画に協力してくれたりしたはずだ。以前わたしがパーソナリティを務めていたラジオに、岸田賞担当の和久田賴男さんにゲストとして来ていただけたのも、わたしばかりでなく彼にも、賞の透明度を高めていきたいという気持ちがあったからこそだと思う。一方で、山田さんや他の劇作家たちが不信を抱く気持ちも理解できるし、最後の「要望」にも真摯に耳を傾ける必要があると思う。

 この社会の変革期において、ハラスメントという形で可視化されてきた様々な事象に対して、演劇界も、人類も、未だ対応しきれていない。この今の状況で生まれている「空気」と、白水社や岸田賞に対して生じた不信は繋がっているだろう。この「空気」に身を委ねることはとても危険だと思う。今は何を言っても、何を書いても、どんな言葉を発しても、それが火だるまのように燃えていく姿しか想像することができず、あるいは燃えている言葉しかこの世に送り出すことができないような状況になっているのではないか。すべての言葉にまつわる体験が灰と化すような、悲しく、虚しい、状況ではないか。

 声を上げることは重要だ。小さな声を押し殺すことが行われてきたこの国の、今は変革期なのだと思う。しかしわたし自身は声を上げることが難しくなっており、こうして文章という形に書き残すこともおそろしく難しくなりつつある。沈黙が、旧体制への加担や黙認であるようにとられかねない中で、どんな言葉を、どのような形で絞り出せばいいのだろうか。なんとか打開策がないかと思い、一昨日、どうしても観たかった作品をキャンセルし、自分の公演の現場も抜け出して、TPAMエクスチェンジで開催された「舞台芸術界のハラスメントや性暴力について一緒に考えませんか?」という会にも参加してみたのだが、わたしがかすかに期待していたような生の声を聞くことはその場ではできなかった。それでもわたしたちは集まり、互いの顔を見ながら、少しずつ言葉を絞り出していくしかないのだろう。……ハラスメントについてはまたあらためて書かなければならないと思っているが、単純な世代間闘争を招いたり、これ以上の分断を生まないために、そして何より各種のハラスメントが繰り返されないために、自分に何ができるかを考えていきたい。

 ……というわけで「予想」はやめて、さあ「批評」を書くぞと気持ちを新たにしたのはいいのだが、なんと今回はノミネート発表から選考会までの日程が例年よりはるかに短く、非常に厳しいスケジュールになってしまった。走り書きで雑な言葉を綴ってしまうくらいなら、このまま諦めたほうがいのではないか……という気持ちを抱きつつ、締切時間までの時計を見ながらこの文章を書いている。

 第64回岸田國士戯曲賞のノミネート作は、2月14日までこのサイトで読むことができる(ただし市原佐都子『バッコスの信女 ― ホルスタインの雌』は「悲劇喜劇」2019年9月号を入手する必要がある)。8作品を通して読んでみることで、いくつかの作品に共通するモチーフがあるように感じた。例えばLGBTQの人々が登場すること。標準語以外の地方語・方言が用いられていること。そして動物の存在。動物……特に犬については、書籍版『演劇最強論』(2013年)の「ダークサイド演劇論」でも、岡田利規『三月の5日間』と市原佐都子『いのちのちQ』に触れる形で次のように書いたことがある。

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 ところで唐突なのだが、この両作品に「犬』が登場するのは全くの偶然なのだろうか? (中略)いずれにしても「犬」はこの人間社会から疎外され、穢を負わされた存在としてそこにあり、この世界のねじれや不条理を象徴しているようにも思える。(中略)ここではただ、彼らが穢れた「犬」を登場させざるをえなかったという事実に目を留めておきたい。それらは「目を背けることのできないもの」として、彼らの想像力の内側に侵入したのかもしれない。
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 2019年に発表された今回のノミネート作品では、「犬」はどのような形で登場しているのだろうか。それは必ずしも穢れているわけはなく、むしろ無垢な存在にも見えるかもしれない。あるいは人間の世界に対する「観察者」であるかもしれない。これから候補作を読む人はぜひ、これら動物の存在に注目してみてほしい。

 以下、各作品に触れていく。どの作品も読み応えがあって、言葉のリズムやテンポなど、技術面ではハイレベルな作品が揃った。それはもう前提ということにして、ここでは特にその巧拙については触れない。

 岩崎う大『GOOD PETS FOR THE GOD。地球滅亡の危機に直面した未来が舞台で、そこでは異性愛がタブーとされている。最初のト書きに「二人とも男性でそのスキンシップには違和感がある」と書かれているが、この「違和感がある」とはいったい誰の感想なのか、と疑問に思わざるを得なかった。観客が違和感を抱くのか? 登場人物が? それとも作家が? わたしにはこれは作家がポロッと書いてしまった「違和感」に思えた。少なくともその可能性を排除できないまま戯曲を読み進めることになり、最後に至るまでその疑念が覆ることはなかった。同性愛の人たちが社会的ステータスを得るために世界各地でトライしている今、それを一種の「性的倒錯」として描くのは、大きな後退であると思う。……それと死生観も平板であるように思った。人間は死を恐れるものだ、という発想が前提となりすぎているのではないだろうか。

 キタモトマサヤ『空のトリカゴ』。実は舞台となっている大阪南部にわたしは個人的な繋がりがあり、この戯曲で話されている言葉(おそらくは泉州弁)のイントネーションが非常によくわかる。自分の知っている人たちの声を当てはめたりしながら、脳内で再生して楽しんだ。この地方の言葉と、ここに描かれている家族の風景とが、ものすごくリアルにリンクしているように思う。ただ、その言葉のリアリティに唸らされた一方で、主人公にほんのりと影響を与えていく叔父さんについては、その造形がわたしには今ひとつ物足りなく感じられてしまった。横浜(たぶん寿町)や西成の地名も登場し、彼がどういう人物なのかある程度想像することはできたが、逆に言うと、想像の範囲内での、典型的な人物像に留まってしまったようにも感じた。遠景に置かれる関西空港誕生のストーリーも、主人公の家庭内の小さな日常とどう繋がるのか、わたしにはつかみかねた。

 根本宗子『クラッシャー女中』。3回目のノミネート。昨年の『愛犬ポリーの死、そして家族の話』についても同じようなことを書いたが、この作家が向かおうとしている先がどこなのかわたしにはよくわからない。「気持ち悪い恋愛」を描きたいというフェティッシュな欲望がこの作家を突き動かしているのだろうか。人間が強烈な思い込みで動いたり、復讐心に囚われたり、あるいはそれが消えたり……という現象自体はきわめて現代的ではあると感じるので、何かピースがカチッとハマりさえすれば、いつかわたしはこの作家の良い読者/観客になれるのかもしれない。

 山田由梨『ミクスチュア』。派手さはない(?)が染みるような戯曲であった。機械的に流れるヨガの声が、おそらく上演では効果を発揮するのではないかと想像した。ただ、受賞するかどうかとなると、やはり何かもうひとつ、この世界に対して新しい視点を提供するような何かが必要ではないか。後半、モノとヤエの「人間」についての会話はおそらくこの戯曲のハイライトであるはずだが、いつかどこかのドラマで見たような既視感の中に収まってしまったようにも思う。恋愛感情がないようにも見える人が登場するのは「今っぽい」が、それが本当に「今」のリアルなのかどうかわたしにはわからず、古い言葉で言えば、ポストモダニズム風味、という印象が拭えなかった。実際の上演を観た人たちはどう感じたのだろうか。今の日本の若者の感情およびその表現方法について熟知しているとは言い難いわたしにとって、「これが今のリアルなのか? それとも今っぽいだけなのか?」「この登場人物にとってこれは極限までたどりついた上での選択なのか? それとも何かを恐れて、まだ決定的な場所に到達していないだけなのか?」を判別することは難しい。山田さんの作品にこそ鋭い批評が必要ではないかと思う。

 ごまのはえ『チェーホフも鳥の名前』。一度目に読んだ時は誰が誰だかごちゃごちゃになってロストしてしまったのだが、脳内に家系図をつくりながら読み直すことで、この国境地帯である樺太=サハリンにおける様々な出自を持つ人たちの人生の糸が浮かび上がってきた。チェーホフから今の日本までの繋がりをこのように鮮やかに描ききった作品をわたしは他に知らない。そしてこの戯曲は、「日本」と「ソ連/ロシア」に挟まれたこの地帯において、そのような国家という枠組みでは捉えきれない人間の移動(モビリティ)があったことの痕跡を確かにつかまえていると感じる。日本語以外の複数の言語が登場するのもわたしには魅力的なものとして映った。ただ強いて言うなら、説明的な言葉がもったいないと感じた。例えば源太が「そこはシベリアの収容所だった」と自分の過去のいち場面を説明する時、そのセリフは本当にその言葉でいいのだろうか。

 谷賢一『福島三部作 1961年:夜に昇る太陽/1986年:メビウスの輪/2011年:語られたがる言葉たち』。大作だったが、読み始めると面白くて一気に読んでしまった。第二部「1986年:メビウスの輪」が鶴屋南北戯曲賞を受賞しているが、ノスタルジックな第一部に比べるとこの第二部はドロドロした政治劇になっており、日本にどのような力学が働いて今に至ったのかを読者/観客にリアルに実感させる力を持っていると思う。そして震災後が舞台になった第三部は、読みながら、福島在住/出身の友人たちのことを思わずにはいられなかった。この三部作はずばり福島の原発の歴史について真正面から描いているわけだが、福島、そして日本にかぎらず、この人間の世界の不条理について描かれた、普遍性を持った作品であるようにも思う。作者の見解が次々に述べられていく注釈についても、作者と対話しているような感じがして興味深かった。その注釈によれば谷さんは福島県出身であり、いわば「当事者」でもあるはずだが、かぎりなく当事者に近い場所にいながら、冷静な観察者としての態度を失っていないところに、作家の胆力を感じた。

 市原佐都子『バッコスの信女ホルスタインの雌』。作家が性的な表現を扱う場合、露悪的であるという受け止められ方をどうしてもされがちであると思うのだが、この作品はそのような問題を一気に突き抜けてしまうような強さを持っていると感じた。一読して、この賞に授賞しない理由を探すほうが難しいのではないか、と感じたが、選考委員がどのような議論をするか注目したいと思う。性欲や快楽という、現代社会に生きる人々にとってすでにある「形」として固まってしまった概念を、そうなる前の状態まで差し戻し、「得体の知れないもののかたちを知ることがニンゲンになるということ」と喝破してみせたのは、市原さんがこれまでの諸作品において人間を動物の一種として捉え、その生理的な側面(思想家ハンナ・アレントの言葉で言えば「ゾーエー」に当たるようなもの?)から生命/社会/世界を捉えてきたからこそたどりついた感覚であるのだろう。今回、過去作品との違いとして大きく目立つのはやはりコロスの存在だ。セゾン文化財団の「viewpoint」89号に市原さん本人によってエッセイが書かれているが、このコロスが多声的な複雑さをこの戯曲にもたらすことに成功している。エッセイでも書かれているように、「田舎のおばさんだからわからない」という声に対して、コロスという形で演劇に参加することで変化が起こり、現場で共に時間を過ごすことで演劇のわからなさを理解することが可能なのだとすれば、それは今の時代において芸術と社会が持っている緊張関係に対して、ひとつの回答を示すものにもなりうるだろう。

 西尾佳織『終わりにする、一人と一人が丘』。今回の候補作の中で最も「難解」な戯曲であった。簡単には読み解けなかったが、再度読み返していくことで、この戯曲が扱おうとしている時間、空間、存在、記憶……について思いを馳せることができた。正直に言うと、わたしはまだ「思いを馳せる」というレベルを越えて深く読み解くところまでには至ることができていない。締切時間が目前に迫った今、これ以上わたしは読解を進めることができないが、この戯曲を上演する演出家や俳優は、もちろんわたしよりもっと時間をかけてこの戯曲に向き合うことになる。それはきっと静かなエキサイティングの時間になるだろう……。わたしは西尾さんの書くテクストは、あまり男女の恋愛に絡めないほうがいいのではないかと思ってきた。ともすると「男vs女」の構図が持ち込まれてしまったり、どちらか一方が「正しい」という考えが顔をのぞかせているように感じることがあった。しかしこの作品には、介護する人される人だったり、一方は家庭を持つ不倫カップルだったりと、様々な非対称性が描かれているにもかかわらず、完全な悪者も善人も存在しない。それは「女1 女2 女3 男1 男2 男3」という「登場人物」たちが、それぞれの役割をゆるやかにシフトさせていくからでもある。ぬるっとした水のような気配が全編に流れている。ちなみにマッチングアプリ、といういかにも今風のガジェットが登場しているが、この戯曲の舞台をもっと古い時代に移してもおかしくないと思った。逆に、もっと先の未来であってもおかしくないだろう。

 締切の時間が来た。

 最後に。市原さんと西尾さんのノミネート作が書かれたのが城崎国際アートセンター(城崎温泉)での滞在制作である、という事実は偶然ではないように思う。戯曲の執筆という形での滞在制作を受け入れたのは、城崎国際アートセンターの先駆的な試みだった。執筆と温泉は相性がいい……。

藤原ちから Chikara Fujiwara

1977年、高知市生まれ。横浜を拠点にしつつも、国内外の各地を移動しながら、批評家またはアーティストとして、さらにはキュレーター、メンター、ドラマトゥルクとしても活動。「見えない壁」によって分断された世界を繋ごうと、ツアープロジェクト『演劇クエスト(ENGEKI QUEST)』を横浜、城崎、マニラ、デュッセルドルフ、安山、香港、東京、バンコクで創作。徳永京子との共著に『演劇最強論』(飛鳥新社、2013)がある。2017年度よりセゾン文化財団シニア・フェロー、文化庁東アジア文化交流使。2018年からの執筆原稿については、アートコレクティブorangcosongのメンバーである住吉山実里との対話を通して書かれている。