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【連載】ひとつだけ 藤原ちから編(2016/12)― 贅沢貧乏『テンテン』

ひとつだけ

2016.12.5


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2016年12月 藤原ちからの“ひとつだけ” 贅沢貧乏『テンテン』
2016/12/9[金]~19[月] 東京・アトリエ春風舎

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この数年間、「東京」はアーティストにとってどのような場所であり続けてきたのだろうか。人の数だけイメージは存在するし、彼/彼女が東京都出身かどうかはとりわけそのイメージ形成に影響するだろう。ここではただ極私的な考えを述べることにしたい。わたしの目には、ここ数年の「東京」は廃墟であった。

この廃墟はもはや、創作意欲を掻き立てる場所ではなかった。野蛮さは適度にトリミングされ、実験精神はスポイルされ、自主規制のメンタリティは人々の肺の奥に張り付いて、酸素のめぐりを悪くしている。呼吸が浅い。息もできない。毎日毎日、S、N、S、のあいだを上手にかいくぐってみたところで、知名度が少しばかり上昇するだけ。慣れすぎた満員電車にはため息も出ない。今日も人身事故。明日も明後日も人身事故。あるいは病名のつけられない死。芸術が救えなかった命について考える。酒か睡眠薬がなければ眠ることもできない夜。愛という名の輸入概念にすがりついて寂しさを埋める。その凡庸さに吐き気がして、イヤホンとマスクを装着し、目を閉じて感受性の窓にシャッターを降ろす。忘却。そして忘却。ここではもう物語は生まれそうにない。

わたしほど悲観的ではないとしても、何人かのアーティストたちが「東京」から距離をとり、他の拠点を見つける方向に舵を切ったのは、この巨大な都市に対する不信感が根底に少なからずあったからだと思う。とはいえ、離れることは絶縁することと同じではない。彼らは新たな価値を提示することで、外部から「東京」に揺さぶりをかけている。



贅沢貧乏はそれとは異なるアプローチをとっている。2014年の春に東京都江東区北砂という土地を見い出した彼女らは、最初は一軒家、続いてアパートを借りて「家プロジェクト」を展開してきた。いわば「東京」を外部からではなく内部から捉え返したのである。トロイの木馬のように足かけ3年にわたって北砂に潜伏し、「東京」のイメージを内破するその試みは、一種の滞在制作でもあった。わざわざ自宅とは別に家を借り、寝泊まりもできるようにしながら作品を創作してきたのだから。

わたしが初めて贅沢貧乏を観たのは2015年春の『ヘイセイ・アパートメント』。古い一軒家の中で同時多発的に勃発するお芝居を、観客が自由に移動しながら観るスタイルだった。2階建てだから階段を登り降りする必要があるし、押入れに抜け穴があったりと手の込んだつくりになってはいたが、俳優が演じるお芝居を観客が観る、という点ではプロセニアムの劇場と同じ構造ではあった。戯曲の書ける正統な若手実力者が現れた、というのが当時の率直な第一印象であった。

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『ヘイセイ・アパートメント』photo: Kengo Kawatsura


2016年の春にアパートで上演された『ハワイユー』と『みやけのFUSUMA』の連作も、基本的にはこの「演じる/観る」の構造を踏襲していた。しかし今度は、観客であるわたしの身にもっと奇妙なことが起きた。「竹の湯」や「焼肉じゃんじゃん」といった北砂の町に実在する店の名前が会話に登場するのだが、終演後、わたしはそれらの場所を訪ねて、湯船に浸かり、肉を食らったのである。それはおそらく、お芝居というフィクションから溶け出して現実の町にひろがっていく何かを感じて、それをつかまえてみたくなったからだろう。現実とフィクションとが、「竹の湯」や「焼肉じゃんじゃん」といった固有名詞によって結びつけられ、溶け合っていく。『タイセキ』『東京の下』『ヘイセイ・アパートメント』と続いてきた、長期に渡るこの町での滞在制作なしには、この境界溶融はありえなかったのではないだろうか。

冒頭の話に戻るのだが、わたしは「竹の湯」や「焼肉じゃんじゃん」に行ったことによって、当然ながらこの町が廃墟でもなんでもなく、現に生活している人々がいるという事実を思い知らされた。というか、都営新宿線・西大島駅に集合し、会場となる一軒家/アパートまでぞろぞろと歩く道において、すでにこの認識の再構築は始まっていた。わたしも含めた観客の多くは、贅沢貧乏の公演を観るためにたぶんこの北砂という町に初めて足を踏み入れ、そこに水路と橋があり、モールがあり、路地があり、植木があり、商店街と人々の生活があることを知ったはずである。それは漠然としたイメージとしての「東京」ではなく、ローカルな土地として実在する「東京都江東区北砂」であった。

単に知らない場所に連れていくだけなら「ポケモンGO」にもできるわけだが、わたしは彼女らが演劇を通してそれをやったことに大きな意義を感じる。演劇は、作り手にとっては絶大な時間と労力を要するものであり、また観客にもそれなりの時間と負荷を覚悟させる。そして単発の作品発表ではなく、滞在制作によってある土地と時間をかけて向き合う時、演劇はただパッケージ化された商品であることをやめて、断続的に連なる時間のプロセスを味方につけるようになるだろう。わたしは「東京」の最大の弱点は、この時間的な堆積が困難なことだと感じていたが、贅沢貧乏は「東京」でもその堆積が可能であることを証明してくれたのである。

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「家プロジェクト アパート編」photo: Kengo Kawatsura




最後にもうひとつ、贅沢貧乏の演劇においてしばしば描かれている「どこにも行けなさ」に触れておきたい。

2015年の秋の終わりに、三鷹のTERATOTERA祭り2015で『みんなよるがこわい』を観た。贅沢貧乏主宰で作・演出の山田由梨がみずから演じる若い女が、夜、部屋に帰ってくるシーンから物語が始まる。彼女が眠っているあいだにもその自我は3つに分裂し、それぞれの自我に対応する3人の女優たち(青山祥子、大竹このみ、田島ゆみか)が小さな箱の中であーでもないこーでもないと語り合う。20代日本人女性の「どこにも行けない」自我をえんえん物語るだけであり、描かれている世界も狭いのだが、不思議と窮屈さを感じさせない「抜け感」があった。それはセンスのいい自嘲的なブラックユーモアのおかげでもある。しかしこの自嘲というのは、誰が誰を笑っているのだろう? そもそもこの女は作家自身の自画像なのか、それともまったくの他者なのか……? この作品には、「どこにも行けない」女を突き放して観察する冷たい距離と、親密に呼びかけるやさしさのようなものとが、アンビバレントに共存していたように思う。

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『みんなよるがこわい』photo: Hako Hosokawa


また前述の『ハワイユー』では、地味な暮らしをしている女(大竹このみ)の貧しいアパートに、上昇志向の強そうなイケてる感じの女(佐久間麻由)が転がり込んでくる。ここでの「どこにも行けなさ」は最初はネガティブなものとして描写されながら、やがてその意味付けは書き換えられていく。女がただこの狭いアパートにではなく、その外にひろがる北砂という町と共に暮らしていることが、次第に実感されてくるのである。

続く『みやけのFUSUMA』の登場人物はもっとシリアスな貧困に直面する姉弟であり、ここでの「どこにも行けなさ」は絶望や死と隣り合わせである。『ハワイユー』の女と同じアパートの隣室に住んでいるこの弟(影山徹)は、いくつものエスニック料理屋を掛け持ちでバイトしている。そして部屋に貼ってある世界地図に、例えばタイ料理屋で働いたらタイ、ベトナム料理屋ならベトナムにと、印をつけては悦に入っている。結果的にあちこちに印がつけられた世界地図は、この弟の「どこにも行けなさ」の反転した絵図であると言えるだろう。一方、金持ちの男の愛人になって浮かれていた姉(西山真来)は、その男の性癖によって片方の乳首を噛みちぎられてしまい、結局は玉の輿への夢も絶たれる。要するに姉弟ともに救いになりそうな要素がまるで見当たらない中で、アパートの部屋に充満するゴマ油の匂いは、この姉妹の貧困のリアリティを嗅覚によって訴えかけてくるのだった。けれどもこうした出口なしの中にあって、なぜかここにも「抜け感」をわたしは感じた。例えば、薄暗い部屋の窓が開いて、外の光や新鮮な空気が入ってきた時に。あるいは、隣室のあの地味な女のやさしい声が聞こえてきたような時に……。

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「家プロジェクト アパート編」photo: Kengo Kawatsura


新作の『テンテン』がどのような物語なのか、わたしはまだ知らない。「東京」のはずれにあるアトリエ春風舎は、地下のブラックボックスといういわば閉ざされた空間だが、それでもどこかに「抜け感」があることを期待したい。いや、きっとそれはあるだろう。なぜなら劇場は様々な可能性に満ちた場所であり、3年ぶりの劇場公演であるとはいえ、彼女たちはそのことを忘れてはいないだろうから。


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