演劇最強論-ing

徳永京子&藤原ちから×ローソンチケットがお届けする小劇場応援サイト

岡崎藝術座『イミグレ怪談』 神里雄大✕松井周対談

インタビュー

2022.12.17


俳優が集まらない稽古で、コロナ対策を超えた、予測不能の新境地へ

硬貨の裏表のように、旅と創作がすっかり分かち難いものになった神里雄大。主宰する岡崎藝術座の新作は、3年ぶりのツアーを敢行中だ。 タイトルに「怪談」とあるように幽霊を扱っているが、海の塩分と果物の香りを含んだ風や、寄り道の多い移動が、やはり当たり前のように戯曲の中にある。また今作は、4人の出演者は稽古期間にほぼ集まらず、神里が俳優ひとりひとりと対面、あるいはオンラインで個別に稽古をし、全員が集まるのはツアー(沖縄、東京、京都)幕開けの初日直前という変わった方法をとっている。久々に俳優として舞台に立つ松井周(劇作家、演出家、サンプル主宰)と神里ふたりだけの稽古場を10月に訪ねると、遠回りを楽しむ旅の途中に張ったテントのような時間だった。

*対面式で行う稽古は、稽古場にいるのは基本的に神里と俳優のふたりで、全時間帯をカメラで録画し、制作が毎回チェックし、保管している。
(取材・文:徳永京子)


── 稽古で神里さんが松井さんに「怖い話をしているんだぞ、ということを意識して(せりふを)話してください」と言うのを聞いて驚きました。事前に戯曲を拝読して、抽象性の高い世界観と理解していたので、稲川淳二の怪談噺的な語りの怖さも狙っているのかと。

神里 いや、あれはさっき思い付いて、ちょっと言ってみただけです(笑)。

松井 神里さん、わりとそういうこと(演出)が多いですね。「今ちょっと思いついたんですけど」って。

神里 自分でもこの話をよくわかってないんで、いろいろ試したいんです。だからさっきの「怖くして」もボツにするかもしれません。

── 戯曲を書く起点になったのはどんなことですか?

神里 とりあえず政治的なこととか社会情勢とか、全部無視で行こうと思ったんですよね。7月に書き始めたんですけど、いろんなことが嫌になったんです。震災後ぐらいから「演劇に何ができるんでしょうか?」みたいなことがわりと大っぴらに意識されるようになって、自分も積極的にその流れに乗って、 そのあとコロナがあり、戦争もあり……、え、こんな話でいいですか?

松井 いや、おもしろいよ。

神里 コロナになって演劇は不要不急と呼ばれ、自分のやっていることが 一番最初に切り捨てられるってことがよくわかって、それに対する恨みもあった。一方で、もうどうでもいいやと思ったんですよね。演劇がどうとか今の時流がどうとか、そういうことを気にするのはやーめたと思って自由に書いたら怪談で、でも意外とストレートになっちゃった、みたいな感じです。

── 松井さんをキャストのひとりに選んだ理由は?

神里 本人を前にしてのキャスティングの理由って、正直、言いづらいところがあるんですけど……。

松井 いろんな事情があるからね。俺だってよくわかるよ。

神里 昔、一度オファーしたことがあって、だからもともと出てほしい人ではあったんですけど、今回は制作さんの強い意向もありました。ちょっと久しぶりの公演だし、うちにしては規模も大きいし、サプライズキャスティングみたいなことをしたほうがいいんじゃないかと。

松井 あはははは!

神里 でもそんなことより、今やってておもしろいなと思うのが、僕が普段俳優さんに求めるようなことは松井さんは全然やってくれない。やってくれないって言い方は良くないかもですけど、いろんな違う手を使ってくる。やっぱり自分で作品をつくられているからなのか、そこがすごくおもしろいです。

── 他の方々についてもお伺いします。登場人物は名前ではなく1、2、3、4と数字がつけられていて、1が松井さんで、2が沖縄で活動する……

神里 上門みきさんです。沖縄の小劇場に出ているのを何度か観て、おもしろい俳優だ と思って、去年、『琉球怪談』という作品を沖縄でつくった時に出演して もらいました。舞台だとおとなしい役をよくやってるみたいなんですけど 、会ったらめちゃくちゃ明るい。彼女に限らず、僕は出来るだけ俳優さんの普段どおり 、つまり普通に暮らしている時と同じようにやってもらいたいというのがあるんで、それを意識して演技してもらったら 、実際、非常に良くて。今回、沖縄で初日を明けるのもありますし、東京のお客さんに「こういう俳優がいますよ」と見てもらいたいなというのもあって声を掛けました。

── 3の大村わたるさんとは、以前もお仕事をされていますね。

神里 彼と(新作をつくるの)は7年ぶりかな 。大村さんに「好きにやってください」と言うと、こういう言い方はあまり良くないと思うんですけど、何も考えてない人みたいになるんです。その感じはおもしろいと思うので、ただ自由になりすぎないように、かといって不自由にもならないように綱引きしながら、せりふのニュアンスなどが引き出てくるような作業をしてます。

松井 神里くん、「カラーが決まるのが嫌だ」ってずっと言ってるよね。

神里 だって、自分でそう言ったことはないのに「(岡崎藝術座は)こんな感じ」みたいに(イメージが)どんどんなっていくじゃないですか。

── 作品をつくり続けるとイメージが固定していくのは、つくり手の宿命ではありますよね。批評や感想によって名付けられる、それで「自分達はそうなのか」と気付いたり安心したりする人もいるけれど、そこから逃れたい人達はいて、その気持ちは表現者として当然のものだと思います。一方で、そうした言葉が無いと観る側の人達に伝わりづらい、うまく広がらないという問題もあります。私自身、双方のルートを言葉で繋げたいという職業上の欲求があるので、耳が痛いです。

神里 いやいや、むしろそうしていただきたいんです、僕の場合は。これまで(岡崎藝術座の劇評等を)書いてくれたほとんどの人が「よくわからない」というまとめなので、それはちょっと…… という気持ちなんです。どう冠をつけてもらっても全然かまわないんですけど、「よくわからない」以外にしてもらいたい(笑)。ただ一方で、うちによく出てくれる俳優さんとかは、ちょっと油断すると「こうなんでしょ?」と(演技が)なってくる時があって、 「こういう風にやりたいんでしょ?」と来られると「いやいや、違うよ」みたいな 。そこはやっぱりクリエイターとして、毎回違うことやろうとしてるのに枠にはめられるのはいやだなと思いますね。

── 松井さんは、通常のスケジュールの組み方では参加は無理だったのが、俳優がそれぞれ個別に神里さんの演出を受ける、オンラインの稽古もありという方法を聞いて、日程上の都合がついただけでなく、気持ち的にも参加したくなったと聞いています。

松井 そうです。「それはおもしろい!」と思って。

神里 そう、松井さん、乗ってくれたんですよ。

松井 そんな稽古したことないし、それで作品をつくるとなったら、かなり偶然性に頼るというか、沖縄公演の前に出演者が揃って合わせたとしも、従来の完成形みたいなものを求めていないんだろうなと興味が湧きました。本の性質から、いわゆる起承転結がある作品ではないとわかっていましたし、乗ってみるのがこれからの自分のヒントになるかもしれないと。

── 神里さんはどうしてこういう稽古をしようと?

神里 やっぱりコロナですね。みんなで集まるのが難しくなったことが大きい。でも集まらない稽古も出来るんじゃないかなと思ったんです。いつもの稽古でも、ひとりずつ俳優さんと話すことも多いし、結構やれるんじゃないかなと。やってみたら、疲れますね。 俳優さんは自分の稽古の時だけだけど、僕は人数分、稽古をするわけで、ものすごく体力が要る。まあ、よく考えれば最初からわかってたことですけど(笑)。

── 松井さんはかなり以前から作品の創作過程のおもしろさを重視され、サンプルのメールマガジンでも繰り返し「未完成のまま作品を発表してもいいんじゃないか」と書かれていますね。今回の稽古はそうした松井さんの興味と接続点があると思いました。

松井 さっきの神里くんの「思い付きで言ってみた」、もちろん俳優としてはそれも全部消化しなきゃと思っているんですけど、それで多少脱線してせりふが変になったとしても、別にいいんじゃないかというか。サンプルがずっとやっている「標本室」というコミュニティ(サンプルに関わるクリエイターと観客がつながるワークショップ等を開催している)があるんですけど、そこでも、わりとそういうアクシデントやサプライズをポジティブに取り込みながら場をみんなで共有するということをやっています。

神里 へえ。

松井 そういうものも盛り込んで「この日のこの場所はこういう形だった」として、そこに関わっている人が変わって、それが作品としての豊かさに繋がることはあるんじゃないか。コロナもあったし、これまでの“プロと呼ばれる人達がある定まったスタイルの演技を最初から最後までやって、それをじっと観る人達がいる”ではないやり方があっても良いし、そのほうが相互に何かが起きるかもしれない。今回の作品も、最終的にどうなるかはわかりませんけど、そうしたやり方に繋がる可能性を感じています。稽古がある程度閉じられた状態で進んで、で、最後の最後に開けてみる。その時にみんながどんなふうになるかはその場次第みたいな。そこに一番ワクワクしているかもしれません。

── 登山に例えると、ルートを決めてそれを共有する演出家さんと、設定したゴールに到着さえすればルートは遊ぼうという演出家さんが大まかにいて、でもたぶんこの『イミグレ怪談』はゴールもルートも決まってない感じですね。

松井 ものすごくそうですね。

神里 言われてみれば確かにそうですね。ただ、僕は未完成なものをつくる気はありません。言葉の使い方の違いかもしれないんですけど、野球の試合というか。僕、今年、バカみたいに野球場に行って野球を観てて、なんであんなに楽しいんだろうなって思うんですよ。ルールは決まっているけど、何が起きるかわからない、ひとつも同じことは起きないおもしろさがある。正直に言えばつまらない試合もあるんだけど、総合的に楽しいな と思って。だから今回、作品としての責任は立場的に取るんですけど、作品がどうなるかってコントロールをあんまりしたくないんです。台本は書いたし、ある程度のキャスティングもしたし、スタッフ会議も出てるし、やることはやってるからどうにかなるぜ、みたいな感じ。あと、どんなに固定してやっても「昨日は良かったけど今日は良くなかった」の差は出て、でも、お客さんは毎日来る人達ばかりじゃないから、そこまで気付かないじゃないですか。せりふをひとつ飛ばしたところで、お客さんの感触に影響があるようには思えない。 小さな違いを気にするほど内に入っていくことになって、実はそれはくだらないんじゃないかと思って。

── 松井さん、戯曲をお読みになっていかがですか? モノローグ中心ですが、覚えやすいとか覚えにくいとか。

松井 久しぶりの出演だし、せりふが多くてどうしようと思ったりはしたんですけど、本がおもしろくて、それが不安や緊張を上回りました。こういう本を書く人、他にいないな、というのが1番の感想です。僕はいくつかの戯曲賞の審査に関わらせてもらっているんですけど、読んでいて「意図はこうなんだろうけど、だとしたらもう少し……」とか、自分の基準と照らし合わせたりするんですね。でも神里くんのは、そうした基準と重ならないというか、そこをかいくぐって来る。構造がないような構造になっていたり、せりふにしたって──せりふがどれもとにかくすごいんですけど──、キャラクター同士の対立とか、そういう(作劇のセオリー的な)ことで考えられているわけでもない。でも読んだあとに「これは世界だ」という感じがワッと襲ってくる書き方で、すごいものをつくっている感じがするんですよね。今考えているのは、せりふをお客さんの前で言った時、神里くんが見ている世界と自分の見ている世界が違っていたほうがおもしろいのか、それとも「神里くんはやっぱこっちだな!」と思うほうに行くのか。まあでも、ゴールが決まってないから、やりたいようにやるしかないなって感じですけど。うまーく変な形にならないかなってのを期待してます。

── 神里さん、戯曲は4部に分かれていますが、それぞれの違いはどんなふうに意識されましたか?

神里 内容とか文体ですか? 最初は、メインの出演者 が3人だし、3部モノにしようと思っていたんです。やっぱり怪談て、誰かがひとりで喋っているのを聞いて想像するのが基本的におもしろい。それを1時間半ぐらいの3人でやる芝居にするにはどうしたらいいんだと考えて、ふと、ひとりずつ場所を変えればいいなと思って。書き始めた時はタイにいて、2週間ぐらいしてラオスに行ったんですけど、じゃあタイと、沖縄で公演をやるから沖縄、それと中継貿易じゃないですけど沖縄と関係がある南米の、最初はブラジルにしようと思ったんですけど、資料を探っているうち になんとなくボリビアになった。最終的にはタイもラオスに変えたんですが、全部行ったことがある土地で、それぞれを思いながら書いていたら、自然と文体も違うようになりました。

── 4幕を最後に付けられたのは?

神里 ラオスの話を自分なりにちゃんと書きたかったんです。ラオスは行ったけれども、現地の人達とほとんど会話できなかったんですよね。そんな中でナイトマーケットに行ったら、不発弾(の残骸)からつくった小物を売ってる人がいたんです。 シークレット・ウォー(ベトナム戦争時、ベトナムの隣国で中立を表明していたラオスに対してアメリカ軍は執拗に爆撃を繰り返し、特にクラスター爆弾が多かった。しかし長く知られることがなく、こう呼ばれた)の被害が、今、そういう形で続いていた。僕も全然知らなかったんですが、その感じが他人事に思えないというか、沖縄もそうですけど、戦争がいまだに尾を引いてる。それを懸命にプラスに変えて頑張ろうとしているんだ、というのがあったので、微力ながら自分も演劇でラオスの話に触れたいと。そう思ったら4部が必要になりました。それだけじゃなくて、沖縄とも繋がるし、移民に関しては良い悪いという話でなく、ちょっと与太話みたいな感じに出来ればいいかなって。

── 土地柄のイメージと、これまでの岡崎藝術座のそこはかとないユーモアから、怪談といっても死者の明るさみたいなものが前面に出てくるかと勝手に思っていたんですけど、今回の死者のニュアンスは少し違うように感じました。

神里 ほんとですか、へーえ。

── 神里さんは嫌いな言葉かもしれませんが、哀愁を感じたというか、抒情的な感じがしました。言葉も展開もおもしろいんですけど、しみじみ寂しい気持ちになりました。

神里 寂しい? キャラクターが?

── 例えば松井さんが演じる1が、同窓会で饒舌に喋っているのに誰からも覚えてもらってないの、寂しくないですか?

松井 僕も最初は、タイにいる羽振りの良い、ちょっと嫌な感じの社長みたいな人をイメージしていたんですけど、やってみて、確かに今おっしゃったように、内心はビクビクしている人物なのかなとたんです。抒情的かはわからないですけど、偉そうにしてる反面、誰かを求めてるっていうか。すごく孤独な人という感じは、やってちょっと腑に落ちる感じがしました。

神里 なるほど、僕が寂しい人間てことなのかって思えてきましたね(笑)。

松井 「登場人物、全部俺だ」という部分もある、そういう話もしたよね。

神里 結局、場所も自分が行ったところの話しか書けていないし。もちろん書いた一切合切を体験したわけではないですけど、(実人生の)いろんな断片を繋ぎ合わせてるみたいなところはあるでしょうね。

── 章ごとに中心にいる人物が変わること、個別に稽古をしていることなどを考えると、それぞれの俳優さんの個性、また、神里さんとの関係性が、上演に現れそうですね。

神里 同じ稽古場で全員が集まってずっとやっていると、そういったことも均一化されるというか、なんとなく全体がひとつの目標に向かっていくと思うので、そういうのと逆になればいいなと思う。だから3人の演技体の違い、関係性の違いは、そのまま出ればいいなと。

── 最後に。個別に稽古をして、沖縄で初めて集まった時に感じる鮮度は、でも公演を重ねればどうしたって馴染んでくるじゃないですか。本来それは、座組みの息が合うということで良しとされるわけですけど、お話を伺ってきて、この作品においてはどうなのかと思いました。そこはどうお考えですか。

松井 それ、忘れてました(笑)。そうなる可能性は高いですね。

神里 マラソンと一緒ですよ、最初と終わりでは走り方が変わるじゃないですか。だからその都度、なるようになる気がします。東京は東京で、東京公演だけのおもしろさが出ると思う。あと、今回は松井さんと大村さんが沖縄に行くのがイベント的な感じだけど、上門さんが東京に来るのは逆のイベントで、どちらもフレッシュさというか、楽しみはそういうところで見つけられる気がします。

── もうひとつ最後に。今回の稽古の仕方を神里さんはこれからも続けますか?

神里 今回はあまり実現できてないですけど、もっといろんなところに住んでる俳優さんが集まればいいと思っていて、それでこういうやり方を考えたっていうのもあるんです。一緒にやりたいけど、住んでる場所が離れていて、予算的なこともあるしコロナもあるし、という問題が、この方法だと結構解決できる。役者さん達はそれぞれの場所にいて、(演出家である)自分が移動する。旅行も好きだし、そっちに行くよと。やってみたらちょっとしんどいですけど(笑)。

松井 俳優としては今、ハッとしましたね。普通は、だんだん良いコミュニケーションが取れるようになってきたねって喜ぶけど、それはやっぱりひとつの方向に向かう感覚で、演劇のつくり方の中でそれが良いことだと信じてたけど、でもそれがすべてじゃないよな、ということに気が付きました。仲良くならないようにするじゃないけど、毎回違うことを楽しめるようにしたいです、こう言っちゃうと普通ですけど(笑)。


≫岡崎藝術座『イミグレ怪談』公演情報はこちら

岡崎藝術座

2003 年、演出家・作家の神里雄大の演出作品を上演する目的で結成。南米の照りつけるような太陽のイメージや色彩・言語感覚、川崎ニュータウンの無機質さが混在する作品を創作し、独自の存在感を持つ。2006 年『しっぽをつかまれた欲望』で第 7 回利賀演出家コンクール最優秀賞演出家賞受賞。フェスティバル/トーキョー(2010-2012,東京)やTaipei Arts Festival2012(2012,台湾)など国内外のフェスティバルで公演を行なう。『ヘアカットさん』(2009)、『(飲めない人のための)ブラックコーヒー(2013)が 岸田國士戯曲賞最終候補にノミネートされた。 ★公式サイトはこちら★