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<先月の1本>ひとごと。『はなれながら、そだってく。』 文:丘田ミイ子

先月の1本

2022.06.20


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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靴紐が解けるその度に強く結ばれていくわたしたち

3歳の息子の靴には靴紐がない。紐を踏んで転ばないようこの年頃が履く靴は大体そのような造りになっている。対して8歳の娘の靴には靴紐がある。結びが甘いのだろう、よく解けたまま歩いている娘に「転ぶよ」と声をかけるが、そんな私ですら靴紐が一日中解けなかった試しがない。娘が一度目よりも力を込めて靴紐を結ぶとき、私も前もって結び直す。靴紐を結ぶ必要のない息子は少しずつ私たちからはなれて、前へと進んでいく。「待ってよー」と私の方が子どもみたいに言う。そんなことが時々ある。子どもの前を歩いていたはずが、いつのまにか後ろにいた、なんてことが。それは、物理的な距離だけではもちろんない。教えているようで教わっていたり、抱きしめているようで抱きしめられていたり、する。周りからだいぶ遅れをとってようやっと娘が自転車に乗れた夜、私は日記にこんなことを書いていた。

「どんどん遠くに行く君たち。一緒にいる時間より離れている時間が増えた。付いて行くことよりも、見送り、待つことが増えた。だから飛んでくみたいに遠くなる背も、揺れながら近づいてくる前髪もできるだけ長く眺めた。はなれているように見えて、本当は近づいているんだよ」

そんな私の目に、『はなれながら、そだってく。』という演劇のタイトルが飛び込んできた時、ほとんど直感で、これはなんとしても観なければ、と思ったのであった。「ひとごと。」というカンパニーを知ったのも、本作が「こどもとつくる舞台」であることを知ったのもその“直感”の後のことだった。


演出家の山下恵実と俳優の藤瀬のりこが2018年に立ち上げた「ひとごと。」。その、こどもとつくる舞台シリーズの第二弾が本作である。

チラシに書いてあった通り、劇場の中に劇場があった。定員は大人1人と子ども2人。私たち親子はそこで体を寄せ合い同じ演劇を観た。屋外の大きなテントで芝居を観ることはあっても、屋内の小さなテントで芝居を観ることはそうないのではないだろうか。「これなら子どもと観られる」というよりも、「ここからどんな景色が見えるのか私が知りたい」と思い、このテント席を予約した。もう少し言うならば、子どもと、子どもの、子どもが、というコンセプトの演劇を観るときこそ、私はそれを子どもとはなれたところで観たいと思ってしまう節があった。それは、子どもの何かしらを源流に発端につくられた演劇が、必ずしも子どものためだけのものではないから、である。そういう演劇が好きだった。そして、この『はなれながら、そだってく。』はまさにそんな演劇を突き詰めたところにある作品だった。一つ一つが遠く果てしなく、だけど見えなくともずっと繋がって在る星座のような物語だった。テントの中で子どもたちが伸び伸びと、一瞬たりとも飽きることなく舞台に没入していたこともあり、私も子どもといながら少しはなれた心でそれを観ることができた。“はなれながら、そだってく”のは、やはり子どもの心だけではないと思う。

「るすでんがつりをしていたら くつひものくつひもがとんできて いつのまにか かーてんがちゃっちしていました」
「るすでん」と「くつひも」と「かーてん」が登場する『めちゃくちゃなるすでんのつり』というシーンから始まった本作は、子どもの描いた話や絵を元に紡がれた9つのシーンから成る一つの物語だった。友達と出会い、家に帰ると家族がいて、家の外で突然分断が起こり、争いは始まり、その後平和がおとずれる。いつしか“生まれた家族”は離れ離れになって、新たな命が、新たな家族が生まれる。やわらかな出会いと別れ、「結び」と「解け」を繰り返しながら目の前で時が刻一刻と紡がれていく。森、畑、湖、動物園と、さまざまな場所で人がその時を生きていく様は断片的な記憶の様に見えて、そのどこかの瞬間を今まさにそれぞれ生きている、私たちの現在地そのものであるように見えた。解けているけど結ばれていて、繋がりながら離れていく。テントの前で脱いだ3足の靴を見る。私の靴紐が、じき解けそうだった。

シーン毎に登場する俳優が変わる。身体の使い方、声の落とし方がまるで異なる個性豊かな俳優たちが、生きている時間と心の違いをありありと体現していた。ウクレレの音とともに挿入される歌がまた瑞々しく、セリフでなく歌だからこそ届く物語の感触があった。わけのわからないことに無理矢理意味を持たせないまま、しかし持たせずとも自ずと持っていく意味が舞台の上に横たわる。懐かしくあり、たまらなく今だった。

“げんかんにはくつがある。わたしの履かないくつがある。 だれも履かないくつがある。・・・くつひもがほどけていた。 むすばれたひもは、いつのまにかはなればなれになっていた。 ・・・最初からひとつなのに。 いっぽんのひもがみぎとひだりにまるでふたつあるかのようにむすばれほどけていく。 ほどけると、はなればなれになったようだ。・・・・へんなはなし。こんこん。はーい。こん。こんこん。わたしはわたしのくつをはく。げんかんのとびらをひらく。はなれながら。はなれながら”

『だれもはかない。』というこの歌を聴いた時、不思議なことが起きた。私はへその緒が切られた時のことを思い出していた。はなれた時からはじまった命のことを考えていた。だけどそれは隣にいる子どもたちを「私が生んだ時」ではなく、遠くに住む母から「私が生まれた時」のことだった。覚えているわけはなかった。だけど、思いがけず、老いゆく母のことを考えていた。大人が子どもを想うのではなく、子どもが大人を、大人と大人になった状態で想っていた。子どものことを考えるだろう、と思っていた演劇で。

人と人、として対峙するとき、自分の親や子どもであっても、とても遠くに感じることがある。そして、それは多分私の子どももまた同じなのかもしれない。あの演劇に子どもたちは何を見ただろうか。演劇を観るとき、私たちはしばしば他人事(ひとごと)を生きる。そうしていつしか自分事になったその感触を分け合い、また別の、色や形や種類の異なった他人事を受け取ったりする。この原稿を書くにあたって、再び子どもたちに感想をたずねた時、娘が劇中歌の詞を、息子はその振り付けをぴたりと覚えていたことに驚いた。青々しい追憶を前に、その耐久性においてはさすがにもう追いつけなさそうだ、と晴々しく諦観の心持ちである。「心に強く残ること」は人それぞれ違う。家族であっても当然違う。自分と子どもの記憶を寄せ合って、その他人事に手を伸ばし合い、ひと月の時を経て家の中に再び劇場ができた時、こんな風に他者と生きていけたら、と切に願った。


靴紐を結ぶ私と娘に、息子が「はやくいこうよう」と言う。私たちは息子の元へと急ぐ。息子が靴紐のある靴を履くようになる頃には3人で結び直すこともあるだろうか。「待って」と言われることと「待って」と言うことを繰り返しながら、そしていつしかそれぞれが離れた場所で、それを一人きりで結ぶ時が来るだろう。この先私たちは何度もはなれながら、その度繋がって結ばれて、そうしてそだっていくのだと思う。駒場東大前駅へと続く線路沿いの道を駆けてゆく子どもを見つめながら、またひとつ足の速くなった娘の少し後ろで心に体が追い付かず転んだ息子を抱き上げながら、そんなことを考えていた。


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おかだ・みいこ/フリーライター。2011年から雑誌を中心に取材執筆活動を開始。演劇、映画などのカルチャーを中心に、ファッション、ライフスタイルなど幅広く手がける。エッセイや小説の寄稿、詩をつかった個展も行う。

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【上演記録】
ひとごと。
こどもとつくる舞台vol.2『はなれながら、そだってく。』

撮影:山下希実

2022年4月28日 (木) ~5月8日 (日)
こまばアゴラ劇場
演出: 山下恵実
テキスト: こどもたち
小野彩加 / 川隅奈保子(青年団) / 中條玲 / 藤瀬のりこ(青年団) / 古屋隆太(青年団) / 松田弘子(青年団) 
ひとごと。公式サイトはこちら

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