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<先月の1本>スヌーヌー『モスクワの海』 文:丘田ミイ子

先月の1本

2022.07.21


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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「不在」と「存在」の隙間から手を伸ばす人がいて


そこで起きたのは、10分の出来事だった。庭先に倒れた老女を通りすがりの女が病院に連れて行くためにタクシーを呼ぶまでの、たった10分。しかしその10分には10年分の遡行が、追憶があった。ともすればもっと長い年月だったかもしれない。
他者から差し伸べられた手を拒み、それを借りることはなく一人で立ち上がった加藤伸子という老女の果てしのない10年と、その最突端の時間に立ち会った女がそれでも伸ばした両手でその肩に触れるまでの10分。
加藤伸子が話している相手は、女だけではなかった。53歳のフジオという息子がいる。いた、のかもしれない。伸子はフジオに向かってとりとめのない話を投げる。彼は時折それを聞いて、時折それは聞こえずに、バイトの面接会場のある新宿には行けず、川へと落ちていく。鳥に乗ったのか、鳥になったのか、その答えを私は最後まで出せなかった。

笠木泉が作・演出を手掛けるスヌーヌーの『モスクワの海』、その二度目となる上演に私は立ち会った。観た、というよりも、立ち会った、という感触がいつまでも体の中に残った。あの女と同じようにその10分に、加藤伸子という人の人生の傍らでその10年に。

舞台にあったのは、一枚の円いラグと脚立が二つ。そして3人の特筆に値する俳優たち。高木珠里、松竹生、踊り子ありのあまりに素晴らしい身体と声を前に、私はほとんど身を任せるような思いでその洗練されたパフォーマンスを目撃する思いだった。
老女を演じた高木珠里の身体は終始ラグの上に在った。転んだ状態で物語が進行するため大きな動きをほとんど持たないにもかかわらず、その状況はもちろん、往来する時の流れやそこに呼応する感情の抑揚、体力の消耗までをその小さなスペースの中でまざまざと体現し切っていた。独り言の延長のようなその語り口からは昨日や一昨日彼女がここでどう生きていたか、そんな日常が背後にぬらぬらと浮かび上がってくるようだった。老女の息子・フジオを演じた松竹生の「すぐそこにいる」とも「どこにもいない」とも感じさせる佇まい、次元を浮遊するようなその身体は、言葉を発しない時間にも刻一刻と舞台に浸透していくようで注視せずにいられなかった。背負う過去、抱える現状、葛藤や苛立ちの最果てでぷつんと途切れてしまう思考。それらを語る背中や静かな足音が忘れられない。さらに驚いたのは踊り子ありの声である。心の声と実際にあげた声、他人事と自分事、存在と不在が混在するいくつものセリフを、観客に混乱させることなく伝える正確なチューニング。一方で、過去と現在が交錯してその波が高くなる時、そこで余儀なくされる衝突や混線をスピードと濃淡を以て詳らかにする豊かな表現力。その声の多様性が何度も琴線に触れる。声は、ラストにかけて祈りと切実を帯びていく。その疾走感と温度が、伝播というよりも憑依するように私の心には着地して、ほとんど伴走しているような気持ちになった。心も息切れするのだと思った。シンプルな美術の中で、たった3人で、舞台上には存在しないものをも見せていた。私にはそう思えてならなかった。

ストーリーについても少し触れたいと思う。
猫のようにくるまってやっと体が収まる大きさのラグの中から、体を横たえた老女がとっぷりとした沈黙を破る。「さあ」と言って、その後「目を開けました」と言う。そのラグは彼女の家の敷地を示し、つまり「生活圏内」なのであった。ある時は寝床、ある時は台所、またある時には庭先であるのだが、しばしば「心のテリトリー」としても作用する。その内側と外側の間には物理的には「外側からは開閉ができない門扉」(前述の脚立は門扉の柵としても使われる)、精神的には「他者と接点を持つことへの拒絶」という隔たりがある。その圏内での暮らしを滔々と語るのを一人の男が聞いていた。そのまま尻餅をついて転ぶ様も男は見ているけれど、この時はまだ息子かはわからない。そこに存在があるかもわからない。その時、一人の女が家の外を通りかかる。門扉の柵の向こうで倒れている老女に「手を、貸しましょうか」と声をかける。見えているのに助けられない状況下でなんとかできないか思案するものの、老女はあらゆる言葉で女の介入を、その助けを頑なに拒む。中でも、この言葉には胸がめくれるような思いがした。
「一人でなんとかするから。そうやって今までもやってきたから」
そこから老女の息子・フジオとの在りし日の会話と、女との現在のやりとりが交差していく。フジオは久しぶりに家を出てバイトの面接へ行くらしいこと。老女は子宮の摘出手術に失敗をしていて転ぶ以前のずっと昔から右下半身のリンパがないこと。それを女に伝えた後、再び老女が「ほおっておいてください」と言ったこと。女が差し出した手を引っ込めてその場を立ち去ったこと。フジオにはハシモトという学生時代からの親友がいること。彼に借りたカセットテープがいまだ借りっぱなしなこと。フジオとハシモトと同じ歳の男がこの地で通り魔事件を起こしたこと。結局フジオは面接には行けなかったこと。パチンコ屋に入り、そして、川に落下したこと。そこに鳥が通りかかったこと。老女の夫、フジオの父はすでに死んでいること。そして今老女はふと、フジオと喋れるようになって気まぐれに声をかけている、とのこと……。そんな時空の往来を経て、いくつもの追憶を通過して、時は今に戻る。
「やっぱ気になって」
一度立ち去った女が戻ってきたのである。そこにはフジオもいて、「彼女が一番気にしていること」を女に告げる。そして、老女は立ち上がる。あの言葉通り、自力で。
「一人でなんとかするから。そうやって今までもやってきたから」
何度目か分からない老女の拒絶、その頑なな言葉を聞いても、今度ばかりは女は立ち去らず、一人では全くなんとかならない状態の体に、その肩に手を伸ばした。フジオが伝えた通り、彼女が一番気にしていたトイレに連れて行き、荒れた家を目の当たりにする。未開封の郵便物から「加藤伸子」という老女の名前を知る。90歳であることを知る。伸子は再び滔々と語り出す。力はだんだんと薄れていって、言葉は少しずつ間延びしていくようで。
「もうすぐ汚染水が排出されるよ」「海に行きたい、あの海に」
「私、今の人生ではなにひとつとして役に立つことができなかった気がする。次はもう少し、やってみたい。そう思う日があるの」
女は走り出す。最後に叫んだ言葉は「ヘーイ、タクシー!」だった。

駅、道、踏切、コンビニ、川、橋、公園、そこで泣いている子ども、雨を吸い込んだ少年ジャンプ、二階建ての古い家、ヨーグルト、冷え切った地面、その温度を半分だけ知っている脚。
空っぽになったヨーグルトの容器、たくさんの虫やカビ、紙がいっぱいに溢れたポスト、借りっぱなしのカセットテープ、シーアール海物語、荒れ果てた家、がらんどうの2階、通り魔殺傷事件、チェルノブイリ原発事故、高濃度汚染水。
交じわらない心、噛み合わない会話、僅かな柵の隙間から伸ばす手の切実やその指先の彼方を見つめる瞳のまた別の切実、さっきは泣いていたのにもう笑っている公園の子ども、そこを通り抜けた橋の上で止まるタクシー。
渡り鳥が目指す遠い遠い海、橋を渡ればある東京、そのどちらからもきっと見える月、過去、現在、10年、10分、その全部が、戯曲の中で生きていた言葉と俳優の身体と声とまなざしで見えた。

劇中にこんなセリフが何度も出てくる。
「って思ったけど、それは別に口にしなかった」
「でも、別にそれは口にはしていない」。
この舞台が見せた「全部」は、見えないものだけではなかったのだ。聞こえないものも見せていたのだ、と察しの悪い私は少し遅れて気付くのであった。同時に、そんな私では到底掬いきれないものがまだこの演劇の中にはきっとあるはずだと、容易く「全部」と書いてしまう自分を恨めしく思いながら、今この原稿を書いている。

私はこんな風にしばしば自分の思いを言葉や文字にする。口にもする。それでもこの世界には、思いのまま口にしたことよりも、思ったけれど口にはしなかったことの方が実はたくさん溢れていて、「不在」の顔をしながらひっそり「存在」をしていて。だけど、口にしなかったことやできなかったその声なき声に人知れず耳を傾け、目を凝らし、掬いあげている人がいたりもして。
その時「不在」ははっきりと、打って変わり「存在」の顔になる。そういうことでなんとかギリギリのこの世界はまわっているのかもしれなくて。目の前のこの風景こそ実に「そういうこと」なのだと。笠木泉という人が紡いだこの戯曲が、松竹生、高木珠里、踊り子ありの3名の俳優の立つこの舞台が「そういうこと」だったのだと。
それに気づくと同時に、飛んでいく鳥のように物語は終わっていった。旅立つように、帰っていくように終わっていった。続きながら、終わっていったのだった。

劇場の中へと不意に混ざっていく船の汽笛や、今まさにどこかの誰かが乗っている救急車のサイレンがここを出た後もこの演劇が続いていくことを思い知らせる。境界のない時間だった。演劇の中に存在していたものたちは演劇の外にもすべからく存在していて、その時私が考えていたことは、どれだけの音に耳を済ませ、どれだけの声を掬うことができるだろうかということだった。一緒に観に来た8歳の娘に当然のように伸ばすこの手を、女が伸子にそうしたように他者へと差し出すことがどれくらいできるのだろうか。公助が必要な局面でも自助、共助と叫ばれるこの世界で、そして、物理的にも精神的にも容易く他者の手を借りることのできない状況下で多くの人が生きているこの世界で、人が人を助けること、人が人に助けられることの難しさを、必要さと同じ質量と温度で痛感していた。
問われるのではなく、懸命に問い続けながら紡がれる物語に気付かされる。気付かされること、があまりに多い演劇だった。
劇場を出ると、そうだ、ここも海だ。波止場だった。そこから駅に続く大通りを歩いていく。何台かタクシーが通る。切実なあの言葉が、「ヘーイ、タクシー!」と手を伸ばしながら叫んだその声が、いつまでも胸の中で反響していた。


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おかだ・みいこ/フリーライター。2011年から雑誌を中心に取材執筆活動を開始。演劇、映画などのカルチャーを中心に、ファッション、ライフスタイルなど幅広く手がける。エッセイや小説の寄稿、詩をつかった個展も行う。

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【上演記録】
スヌーヌー vol.3 「モスクワの海」(再演)

カメラ:明田川志保

2022年6月30日(木)~7月3日(日)
象の鼻テラス
作・演出・その他いろいろ:笠木泉
出演:松竹生/高木珠里/踊り子あり

スヌーヌー公式サイトはこちら

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