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<先月の1本>日々の公演2『抱えきれないたくさんの四季のために』 文:植村朔也

先月の1本

2022.08.21


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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くりかえしであることの神秘:日々の公演2『抱えきれないたくさんの四季のために』評


 映画『デジャヴ』を観た日の夢に、昨年亡くなった友人のKが現れて、「植村はまだ〇〇〇さんと会っていないだろう。そんなことだからだめなんだよ」とわたしに言った。この〇〇〇という名前をそれまでわたしは知らなかった。それはこの世に実在するかも定かでない三字だった。しかし、すべての朝を重ねたようなはっきりとした目覚めの中で、わたしはこの〇〇〇という人物の実在を確信した。
そもそも人の名前であるかどうかもはっきりせず、漢字でどう書くのかさえ定かでないその三字は、検索にかけてみると確かに存在していた。しかしそのことに驚きはなかった。
それからしばらくの間、人と話すたびに「〇〇〇という知り合いはいるか」とわたしは質問するようになった。実りはなくて、あんまり続けていると不気味に思われそうなのでもうやめてしまったが、わたしは自分がいずれ〇〇〇という人間と出会うこと、そしてそれはわたしを大きく変えてしまう決定的な出会いになるだろうことを、ほとんど当然の事実としていまも受け入れている。
別に私は夢と現実の区別をつけられなくなっているのではないし、印象的な夢に即してこの現実を強いて運命論的に捉えようというのでもない。
〇〇〇とわたしは出会う。そのことは前もってKに告げられた。わたしに訪れた確信とは、その訪れと同時にそうした前後関係のようなものがほとんど意味を失うようななにかであった。わたしが〇〇〇との出会いをこのようにあらかじめ知ることが出来ているのも、それゆえにこそだ。だから、これは夢を支えに現実の方を解釈し直すとか、あるいは夢を現実として生きるであるとか、そういう話ではやはりない。Kの言葉が夢の中で与えられたことは、実はそれほど重要ではない。
宗教がかって聞こえるかもしれない。しかし、わたしはこれを、舞台という場所でもよく起きている出来事ではないかと感じている。私が観た夢のようなものをひとまず<予表>と呼んでおくのなら、この<予表>は舞台の稽古や本番において絶えず夢見られているというのが、ここでわたしが主張してみたいことだ。

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演劇は主に反復によってつくられる。その反復は期待されてもいる。ひとつの公演のうちで、何回か上演がくりかえされる場合に、あの上演とこの上演とで舞台の質がまったく違っていたら、それは観客に対して失礼に当たってしまう。わざと身も蓋もない書き方をすれば、ある種の商品として、舞台とはふつう品質保証を期待されている。稽古とはその絶えざるチェックテストだ。
まったく同じ舞台がくりかえされることは、言うまでもなくあり得ない。くりかえされるたびに言葉や関係は鮮度を失っていくものだし、客席の空気や環境条件も変わってゆく。そのなかで、しなやかにつくりあげられた上演の強度としかいいようのないものが、反復を支える。昨日の舞台と今日の舞台は、どちらもおんなじ作品であると、保証してくれるのだ。
しかし、舞台はやはり商品ではない。あるいは、商品ではあっても、それだけではない。反復の中で積み上げられ続けてゆくものがあるし、その積み上げのなかでだけサッと不意に飛び込んでくれる神秘のようなものがある。
その神秘は誰かの主観や錯覚にすぎないだろうか?
一般に反復は神秘と矛盾する。くりかえされるなら神秘ではない。だから、もしかしたらこの場合の神秘とは、それぞれの反復の中に紛れ込んだ、あるいはあらかじめ織り込まれた差分が、飽き飽きするほど反復を生き抜いた人間に新鮮な驚きを伴って見つめられるときの、その衝撃を指しているだけなのかもしれない。
その場合、神秘とは舞台の反復をまなざし続けた演出者や出演者にのみ現象し、共有されるものにすぎないだろう。反復間の差分を認めることの出来ないその日だけの鑑賞者には、不可知のものにとどまる。舞台を商品化する要請に従いはするが、それでも上演される舞台は全てオンリーワンの奇跡であると信じていたい作家たちの、ある種の内向きな神話がこの神秘を錯覚させているという、意地悪な考え方もあり得る。
しかし、(ここでわたしはまたも信仰告白のようにしか、つまり「わたしは観た」という風にしか語れないのであるが)、「これは神秘なのではないか」というのは、ごくまれであれ、その日限りの観客にも事実ふつうに経験されていることであると、言い切ってしまいたい。
もうおわかりの通り、ここで神秘の名で呼んできたのはきっと<予表>のことだったと、わたしは言いたいのだ。「くりかえしのなかの神秘」という錯覚、反復の中で産み落とされていく差分ではなくて、「くりかえしであることの神秘」だ。先ほど、「一般に反復は神秘と矛盾する」と書いた。ゆえに、反復こそが神秘なのだ。
この神秘はその日限りの観客にも経験される。もちろんそれは、昨日と「同じ」舞台が今日も観られるという、例の作品主義とは次元を異にする。どのように? と問われて、わたしはまだ答えることが出来ない。出来ないので、とりあえずここで断言だけしておくのだ。

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舞台にはふたりの人物がいる。仮にDとSとする。DはSにいくつか命令を下していく。壁際で腕を上げろ。その上げた腕を振れ。そしてこう言え、「俺はまだ諦めてねえから!」。
一連の指示にしたがったSに対して、Dは次のように言う。なるほど、わたしが夢に見たのはこの光景だったのか、と。ああ、わたしが夢に見たのは、Sくんだったのか。
おかしな話ではある。なぜなら、先のSの言動はあくまでDによって強制されたものだからだ。ふつうに考えるなら、Dは自分の見た夢を現実化するために、強引にSを夢の再現に差し向けたのであり、上に書いたような他人事のような気づきの言葉は、再現された夢のリアリティに驚いてつい出てきたもの、とでも解釈するのが穏当ではないかという気がする。
しかしDの言葉を字義通りに受け取るなら、夢に見たヴィジョンへとSを向かわせたのがたとえ自分自身であるにもかかわらず、現実にその瞬間を目の当たりにするまで、Dはそれこそが夢で見たあのシーンだとは、ほんとうに知らなかったのだ。おそらくDは、そのシーンを観ることができなかったかもしれなかった。<予表>の経験というのはそういうものだろう。
そしてその夢のような眺めは、別の(「次の」、ではない)瞬間の<予表>としてある。その実現をなにも保証しないとしても、やはりそうなのだ。

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 『抱えきれないたくさんの四季のために』は、美學校ギグメンタの一プログラムとして生西康典と鈴木健太によって開催されたワークショップ「日々の公演2」をもとに、2022年7月16日、31日の二日間という、少し変則的な日程で、三鷹市のSCOOLで上演された。演出を生西が、作・照明を鈴木が務めた。
「日々の公演2」では毎回昼の間に稽古を行ない、夜になると観客役を迎えて上演を行なった。12名の演者役と2名の観客役という、総勢14名の参加者、それから生西と鈴木たちは、2021年11月から2022年3月までに全部で7回の稽古の反復を共にしている。そうして共有されてきた場を外に開き、初めてやってくる観客を相手に行なわれたのが、この『抱えきれないたくさんの四季のために』だったというわけだ。
作品はいくつかの独立したシーンから成っていて、先のDとSのやりとりはその冒頭の、「演出」と題されたものにあたる。わたしの記憶に基づいて記したもので、不正確な点もあるかもしれない。
鈴木はワークショップ期間中に、演者役へのあて書きのようにして、戯曲を書き足していったという。実際、役名はたいてい演者本人からとられていた。だとすれば、その言葉はおそらく、いずれ来る瞬間の<予表>として、不意に訪れる夢のように、まるで発見されるように書かれた。
 わたしが<予表>としての戯曲と言うとき、それは舞台における神秘の実現によって事後的に<予表>であることを正当化されるのではない。そうではなくて、それが<予表>となることと戯曲の完成は(時間を問題にできるなら)同時である。言うまでもなく、冒頭に置かれた「演出」はそれ自体上演全体に対して<予表>の位置に立つ。
 Kと〇〇〇は別人であるのに、Kの夢をわたしが<予表>と呼ぶのは混乱を招いたかもしれないが、もうお分かりの通り、わたしの現在の日々は、いつ実現されるとも知れない一つの戯曲のたえざる上演としてある。

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 ふつう作品という単位は題名によって、名付けの行為によって枠づけられ正当化される。しかしわたしが観劇した31日(上演最終日)に配布されていた鈴木の文章には、次のようにあった。

なにはともあれ昼集まって夜通す、人が足りないなら別の人に頼んでやる、誰も見てなくても、その日見つかったものをやる。場所が変わっても、題名がついても、その延長にあります。

つまり、「日々の公演2」で行なわれていたことの「延長」としての今回の上演において、題名はあくまで後付けのものにすぎない。それが上演にいたるための手続きにおいて、作品としてパッケージ化されていることとは別の次元のものが、31日に至るまでの9つの日付を貫いているというのだ。実際、題名という制度性とは別の回路を通じて、舞台が作品としてのかたちをとることも、あるのではないかと思う。<予表>とは作品の謂いであるかもしれない。
上の鈴木の言葉にも「人が足りない」とあるが、「上演のお知らせ」に生西が寄せた文章によれば、「日々の公演2」で全員が集まっていたのは一日目だけだったという。戯曲の想定した通りの出演者が勢揃いしたSCOOLでの公演はむしろ例外的で、誰が誰を演ずるかも不確定なのが常態化していた。やはりその上演は、驚きをもって見つめられ続けたのだろう。
なるほど、わたしが夢に見たのはこの光景だったのか。ああ、わたしが夢に見たのは、この人だったのか。

(執筆にあたって、主に事実確認のためにギグメンタ2021 「日々の公演2」感想文集(A面B面)を参考にした。この舞台について語られるべきことの多くがすでにそこにある)



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うえむら・さくや/批評家。1998年12月22日、千葉県生まれ。東京はるかに主宰。スペースノットブランク保存記録。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。過去の上演作品に『ぷろうざ』がある。

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【上演記録】
日々の公演2『抱えきれないたくさんの四季のために』

撮影者:皆藤将(記録映像より)

2022年7月16日(土)~31日(日)
三鷹SCOOL
作:鈴木健太
演出:生西康典
出演:加賀田玲、桒野有香、小林毅大、高橋利明、瀧澤綾音、根本美咲、野口泉、畠山峻、星和也、増井ナオミ、三井朝日、宮崎晋太朗

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