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<先月の1本>安住の地『丁寧なくらし』 文:丘田ミイ子

先月の1本

2022.09.22


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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「エラー」の後の「サイン」にこの身体が気づくとき


京都の小路を歩きながら、自分という人間は案外足音を立てて歩いているのだと思った。足のサイズは22.5cmぴったりだけど23cmのスニーカーを履いていて、歩き方は意識しなければ気付かない程度わずかに内股、とりわけ右足の方が首を傾げている。足音に意識を傾けると、派生するように呼吸や心音もどこからともなく聞こえるようだが、この音量が人より大きいのか小さいのか、この速度が人より早いのか遅いのか、それはわからない。しかし、私が能動的に声を発さなかったとしてもこの身体は絶えず音を立てているのだ、と。そんなことに改めて気付く。急な雨から逃れるためにバス停まで走ると、カバンはおろかインナーの肩紐までもが肩から二の腕に向かって降りてきた。そうだ、私は恐ろしいほどなで肩なのだ。京都のバスに乗るのは久しぶりで運賃を確かめる。その前を走り去るタクシーは相変わらず運転が荒い。伏見の高校に通っている間は勿論、西宮の大学を卒業するまでずっと私は休日のほとんどをここ京都で過ごしていたように思う。その頃の私は、この街が自分の「安住の地」なのだと信じてやまなかった。懐かしさに包まれながら京都駅でバスを降り、地元へと向かう琵琶湖線に乗った。東京の電車とはつくりの異なるボックス型の二人席の窓側に腰を下ろして、さっき買ったばかりの上演台本を開く。安住の地『丁寧なくらし』。自分の身体が立てている音がさっきよりも確かに聞こえる気がした、そんな復路だった。

京都を拠点に活動している劇団・アーティストグループの「安住の地」は、2017年の旗揚げ後、演劇を主軸に様々なアートやカルチャーとも融合。ジャンルを横断したミクストメディアな表現活動を繰り広げている。『丁寧なくらし』/『犬が死んだ、僕は父親になることにした』は、8月に京都、9月に豊岡の二都市で上演されたその最新作で、私道かぴの書いたそれらの戯曲はそれぞれAAF戯曲賞、北海道戯曲賞の最終候補作でもある。夏休みを実家で過ごす娘の見送りを少し前倒しにすれば、京都公演の千秋楽『丁寧なくらし』に間に合うことに気づき、慌ててチケットを取った。演出はメンバーで、俳優・劇作家・演出家の岡本昌也が手がけていた。

普段は写真を中心に取り扱っているらしい河原町五条の「galleryMain」でその上演は行われていた。白い壁たちにそっと重なる板張りの天井。シンプルな中にも民家のアットホームさを思わせる木の温もりに緊張が少し解れる。慣れ親しんだ京都でしかし演劇を観るのは初めてのことだった。
舞台には人が一人、山下裕英という俳優がいた。美術もとてもシンプルで、レコードと椅子が少々。寝室、リビング、キッチン、洗面所、お風呂にトイレ、そして玄関。そこに「くらし」の全てが在った。

一人芝居は、観る側の人間も少しの緊張状態にあるように思う。目の前のたった一人を見続けるという行為は、舞台芸術として濃密で贅沢な体験ではあるのだけれど、同時にある種の覚悟のようなものが必要な気がしていた。この言葉が適切かどうかは分からないけれど、伴走のような、はたまた伴奏のような。こちらも何かを等しく「伴う」ことへの覚悟。視覚も聴覚も分散できないが故やはり舞台から発信される全てを身体がダイレクトに受信する感覚があって、その受信が増えていくに比例して客席と舞台を隔てる境界線も徐々にならされていく。
しかし、山下さんは出てくるやいなや、シフォンのスカートの裾を揺らしながらそのボーダーをするん、とくぐり抜け、糸電話のようなさりげない柔らかさでしかし意味を持った繋がり方で、そことここを結んだのであった。少しの挨拶と自己紹介を告げるその声色は、道端で古い知人に再会した時のような小さな奇跡への驚きが滲んでいて、そうだ、こんな風に舞台と客席で対話をすることは「驚き」なのだ、と改めて感じる。緊張はもうとっくになかった。

レコードを止めた彼女が語り出したのは、自分の身体のことであった。
戯曲の序章にはこうある。「くらしは今朝起きてすぐ決断をした。これからは、目の前の一つひとつを見過ごさずに生きていくことに決めた」。

寝室で目覚めた彼女は自分の手や腕、ふくらはぎや脛を確かめながら、腰痛を診た整体師にストレッチをすすめられた話をする。「あなたの体は今こういう状態です」と他者から言われる時、自分のものであるはずの身体が突然付属物のように思える、生まれてからずっとそれを任されていることについ心もとない気持ちになる、のだと。そこから「身体」は過去を遡る。「立つ」ことを覚えた時、そしてまだ羊水の中を漂っていた外気にすら触れる前のこと。その時彼女は「逆子」であって、それを後々母や周りの大人から聞いて「頭が下になってしまった」という言葉に自分が恐ろしい間違いを犯したような気持ちになったこと。そして、「逆さまになる」に至る何かがお腹の中で起きて、それがなければ、母の下腹に傷を作ることもなかったと思っていること。そんな風に、記憶はなくとも「確かに、かつてこの身体が体験したこと」に思いを馳せる。余分に感情的になるわけではなく淡々と平熱に語られるそれらの言葉には、淡々と語らざるを得ないまでの「切実」という成分が溶けていて、言葉を言い終えた後わずかに天を仰いだ瞳や手持ち無沙汰に指先を重ねる仕草がその成分を身体の外側へと抽出していくように感じた。
その後、彼女はキッチンに立ち、「空腹」について考える。朝に食すに適しているとされているスープを夜の内に仕込んでおく時、生まれたままの姿の、いんげんやとうもろこしをフードプロセッサーで瞬時に粉砕してしまうことへの罪悪感、自然に対する逆行への疑問がかつて拭えなかったこと。その一方でスープの味は確かに丸ごといんげんで、とうもろこしであったこと。スープに限らず料理は往々にして不自然であって、「私たちは食べることを正当化していかなければならない」と彼女は受け入れ、その身体はリビングへと移る。このあたりにきて、仕切りもなく椅子しかないこの空間が確実に一つの「部屋」として自分の前に浮かび上がっていたことに気付く。少しの距離を幾度となく往来する身体はいつしかその間取りをも知らせるように情景を鮮やかにしていた。物理的には見えてはいないが、そのリビングには椅子以外の家具もある。「家具が当然のようにそこにあるものではない」と彼女が気付いたのは一人暮らしを始め、まだがらんどうのこの部屋に越してきた時だった。これまで家族が選び、「当然のようにそこにあった」椅子に日毎増える体重をかけ、机にいくつもの傷を作りながら大人へと成長した彼女は、その家を出て初めて自ら家具を選んだ。そして、家具が揃って初めて「部屋」を把握するようになった。寝室に移動するときに触れる扉、洗面所での立ち位置、キッチンに移動するときには机の右側にわずかに身体が触れること。それらのルーティーンを何度も繰り返してようやく「部屋」は「家」になった。家の中には水が流れている。キッチンや洗面所やトイレでそれは流れ、止まり、また流れていく。生まれてから絶えず身体はいくつもの水を経験する。ふと幼い頃の水泳教室を思い出した彼女は、水面に顔をつけることを恐れることを、「一瞬でも自分の身体が危険にさらされること」を怖がることは正しいことだったと振り返る。水で濡れた皮膚をタオルで拭って顔を上げると、鏡がある。そこに映る自分と目を合わせても彼女は「それが自分のものだという確信を持てたことがない」と言う。しかし、小学校の頃に刻まれた頬の「傷」は未だ、まじまじと見ないと気づかない程度ではあるものの「跡」としてそこに在る。彼女はそこにクリームを塗り込む。「将来のために」と思っている。その時、「跡が残らなければいいけど」「大人になった時に困らないように」と言った当時の先生の言葉を思い出す。「今の自分は、あの人たちが言っていた将来の私の姿なのだろうか」と彼女は思いながら、今度は歯を磨く。歯医者での治療の最後に歯磨きの練習をし、「このやり方で、毎日歯磨きをがんばってください」と歯科助手に言われた時、彼女はふと深く納得をしたのだと言う。「身体は誰に任せられるものでもなく、自分自身で管理するものなのだ」と。そして、「その前提でこの身体はずっと稼働してきたのだ、今までずっと生き続けてきたのだ」と。朝食、洗顔、歯磨きといった「身体管理」のルーティンを終えてようやく、彼女は服を着替え、そして玄関へと向かう。ここまでの行為の一連を「起床」と呼ぶのではないか、と彼女は靴を履きながら考える。そして、「さあ、今日も生活が始まる」といよいよ部屋を後にする。
話が前後するが、彼女がそんな風に「目の前の一つひとつを見過ごさずに生きていくことに決めた」のには理由があった。それは、彼女の身体に、身体と同期している心に起きた「エラー」だった。かつて彼女は、家の外に人生の、世界の全てを見出していた。家の中の出来事は彼女の眼中になかった。そうして過ごしているうちに、彼女はある朝突然、起き上がれなくなった。「起床」のできない身体になり、記憶のないまま数日眠り続けてしまうようになった。「エラー」は「サイン」でもあった。「自分の身体が万全ではないかもしれないこと」に気付いた彼女は、「起床」に係る全ての行為に、生活に発生する全ての心情に耳を傾け、目を凝らすことにしたのであった。

トライ&エラーの順でなく、エラー&トライの順で身体とそれが送る暮らしの断片を見つめた彼女が「さあ、今日も生活が始まる」と言った時のことを、その演劇が終わりを迎えた時の話をしようと思う。
彼女はドアノブに手をかけるように椅子に登り、あの温かな板張の天井に棒を当てた。私たち観客は首を後ろに反らせ、顔を上げ、瞳でそれを見つめた。そこには小さな天窓があった。窓が開けられ、陽光が劇場の内側へと差し込む。時は夕方だけれども、その風景は紛れもない「朝」だった。1日が始まる、命を繰り返す朝なのであった。演劇が生活へと連れ出される、というよりも、生活が演劇を連れ込んできた、という体感があった。素晴らしい演出だった。しかし、「演出」と書いたそばから違和感が残るのは、その言葉に否が応でも含まれる人工的・作為的な思惑をここではまるで感じなかったからだ。むしろ、この窓を、ドアを、開けることをもうずっと待っていたような。この身体はもっともっと前からそれを知っていたような。そんな感覚だった。身体の細部に光を当て続けた戯曲、小さいけれども命を繰り返す上で決して無視はできない身体が担ういくつもの歯車を、胎児の頃にまで遡り本能とともに見つめ続けた戯曲。そこで起きる一つ一つの身体や心の動きに対して、疑問と思考、否定と肯定を幾度となく繰り返し、身体を今一度探索するように重ねられた演出。「その場がまるでその人の生きる家に見えること」を重要とはせず、「その場をその人の生きている家にしていくこと」に尽力したクリエーションなのだったと思う。ほぼほぼ唯一の美術だった椅子の使い方にもそれは光っていた。劇中でいくつもの「もの」に成り代わった椅子だが、とりわけその脚と脚の隙間が「産道」に見立てられた時、その身体との重なりには思わず声を上げそうになった。ギリギリ身幅が収まるその空間から彼女が放り出された瞬間は、おそろしいほど「生身」だった。

劇中で彼女の一人称は「わたし」だけではなかった。「あなたっていうか、わたし」と、彼女は度々自分を呼び、そして私に呼びかけた。その時、私は自分の身に起こる「エラー」について思いを馳せた。融通のきかない身体、それよりもっと厄介な心を前に、時折自分を真夜中の駅前なんかに置き去りにしたくなることがあった。しかし、そうともいかず、その場しのぎであろうとも生かなければならなくて、取り急ぎ起こる数々の出来事にアドホックに対応をする。レギュラーだけでなく、イレギュラーも起こる身体や心をひとまず布団から引き摺り出すことでどうにか時がまわらないか、と思案する。そんな「エラー」を感知はしても「サイン」を自覚することは、自分のことだというのに案外難しい。それは、「突然起き上がれなくなって、数日眠って過ごしてしまう」ようになってようやっと気付くくらいに。あるいは、こうして、その一通りを目の前で丁寧に実演してもらってようやっと気付くくらいに。

「丁寧なくらし」という言葉は、これまでもいろんな場所でしばしば目や耳にしてきた。朝早く起きること、陽のある内に洗濯を済ませること、無添加の食材を使ったバランスの良い食事を摂ること、マイボトルに自家製の麦茶を入れること、肌触りの良い下着や靴下を身につけること、植物や花々に忘れずに水をやること、汚れた床や窓をこまめに拭き上げること、衣服のほつれを、破れた障子をこまめに直すこと。様々な「丁寧」が「くらし」と紐づく時、「丁寧なくらし」と言う言葉は使われる。しかしながら、本当の意味での「丁寧」な「くらし」は、それらのもう一歩奥に、内側にあるのかもしれない。衣食住を執り行う身体、生きて、そして少しずつ死へと向かうその身体に眼差しを向けることに。そこに生じる不具合を感知し、自覚し、直すということに。切実に問われる身体を前に、今の自分に必要なのはそちらの「丁寧なくらし」だと気づいた。

劇場にいる間に少し雨が降って、それから止んだようだった。その後また雨は降り出して、傘を持っていなかった私はバス停へと駆けていた。大きな足音で、肩からカバンをずらしながら走った。バスを降り、育った町へと向かう電車に揺られながら、11歳の時その町で骨折してできた左腕の傷を見た。彼女の頬の傷と同じように、私のこの傷はもうこの薄さのまま死ぬまでずっとここに在り続けるのかもしれない。その傷よりももう少し身体の先端に視線をやると、中指の爪の下に覚えのない小さく薄い黒子を見つけた。身体は続きながら日々生まれていて、昨日の跡を少しずつ残しながら、新しい今日を生きている。自分の身体なのに知らないことがここにも在る、と黒子を擦る。当たり前だけど、消えなかった。これも私の身体なのだ、と思った。
こうして原稿を書きながら、上演台本の最後の数行を声に出して読んでみたくなった。身体がそれを欲しているのだから、丁寧に実行しようと思った。
「毎日の起床は、起きているようで、生まれ直しているのだと思う。朝は、生まれた後でも、死ぬ前でもある。そのことを私たちは忘れてしまうことなく、毎日こうして繰り返すしかないのだった。生活の断片一つひとつに自然が隠れていたこと、生が隠れていたこと、きちんと少しずつ死んでいくこと。丁寧に暮らしていくこと。ドアノブに手をかけて、くらしは大きく息を吸った。さあ、今日も生活が始まる、とくらしは思った」
東京の小さな家のキッチンで声を上げながら、自分という人間の声は案外大きいものだと思った。息を吐く。髪が揺れる。小さくお腹がなる。心臓の音がする。私がこうして能動的に声を発している時にもこの身体はそこかしこで絶えず音を立てているのだ、と。そんなことに再び気付く。そうして、これはやっぱり、「あなたっていうか、わたし」の話なのだと確信をする。空が白け始めているので、そろそろ夜が明けるのだと思う。短い眠りのその後には新しい朝が、「起床」が始まる。今日の私が、今日も私が、生まれる。


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おかだ・みいこ/フリーライター。2011年から雑誌を中心に取材執筆活動を開始。演劇、映画などのカルチャーを中心に、ファッション、ライフスタイルなど幅広く手がける。エッセイや小説の寄稿、詩をつかった個展も行う。

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【上演記録】
安住の地 一人芝居企画『丁寧なくらし』

(c)中村彩乃

京都公演/2022年8月4日(木)~7日(日)
galleryMain[ギャラリーメイン]
作:私道かぴ
演出:岡本昌也
出演:〈京都公演〉出演|山下裕英

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