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<先月の1本>『合意のでっちあげ』 文:渋革まろん

先月の1本

2022.09.22


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

***

もしも、いまある既存の劇場がすべて閉鎖されたとしたら、わたしたちは何を、どんな行いを劇場と呼ぶだろうか?──「合意のでっちあげ」から《ポスト劇場文化》を考える


1.収まる場所を持たない《もろもろ》をいかに位置付けるか

 「サイファー」の形式を介してテクストを扱い、ラップ的/演劇的コミュニケーションの場を創出するリリセ・サーダン・朋佳による「演劇と音楽のあいだを探る公開実験場」、南京事件をテーマにしたかもめマシーンのワークショップ発表会、ミャンマーで拘束された久保田徹の作品上映・筒によるパフォーマンス・来場者を交えたトークを行うF/Actoryのイベント、新しくオープンしたプロジェクトスペース「脱衣所」の「漂在実験vol.1」における諸々のパフォーマンス、Yutaka Kikutake GalleryとSCAI PIRAMIDEが共同開催するサマーショー「至るところで 心を集めよ 立っていよ」で不定期に3日間開催された《関川航平によるイベント》、カフェ キノコヤで開催されたcore of bellsのパフォーマンス「NON-PLACEでつかまえて vol.2」、パフォーマンス・ラボのイベント「クリスタル・クリア」、深夜から朝まで海岸沿いを歩くうらあやかのリサーチ&イベント「細切れの輪郭、海岸歩き、石拾い」、シンガポールの水路から都市を形成するグローバルな政治社会的力学を読み解く山川陸と武田郁子のレクチャー&ツアーパフォーマンス『Lines and Around Lines』、新宿のライブカメラの画角の中で存在を隠して酒を飲むTOMO都市美術館の参加型パフォーマンス「1時間透明になって飲む」……。

 つらつらと羅列したが、気付けばまたそこかしこでわけのわからないイベントやツアーやワークショップやトークやパフォーマンスが行われている。しかし、わけがわからないとは、必ずしもそれら諸実践の意義や動機やコンセプトの不明瞭さを意味しない(むしろ実践の意義や動機やコンセプトは劇場文化のそれよりも明晰であることも多い)。より正確に言い換えるならば、それら諸実践は従来の劇場文化の枠組みには位置付けられない。それゆえに、演劇やダンスや美術の観劇/鑑賞を支える文化的共同体の外部に漂流する、意味不明な何事かとして処理されてしまう。
 もろもろの注釈は必要だがここはあえて端的に言おう。既存の劇場やジャンルの枠に収まりきらないパフォーマティブな諸実践が氾濫する状況を、私は《ポスト劇場文化》という言葉で総称したい[★1]。それはつまり客席と舞台を分離する基本的な形式において、「世界の窓」となるべくあらゆる現実を再現=表象しようとする劇場の理念や制度の《外》で行われているなんらかの実践の圏域である。
 こんなふうに想像してみよう。もしも、いまある既存の劇場がすべて閉鎖されたとしたら、わたしたちは何を、どんな行いを劇場と呼ぶだろうか? そのような想像力を刺激するなんらかの関わり合いの仕組みによって、知識や想像や楽しみやコミュニケーションが生産される場を組織しているもろもろを《ポスト劇場文化》の諸実践として捉え直してみたいのだ[★2]。
 《ポスト劇場文化》の見地に立つことで、わたしたちは、それを位置付ける視座がないためよくわからないものと処理されてきた諸々のイベント・ワークショップ・討論・散歩・ツアー等を、分析・評価・関与可能な《ポスト劇場文化》の照明の下で/カテゴリーにおいて対象化できるようになる。平たく言えば、なにごとかを見よう・取り組もう・考えようとするときの実践のイメージがこれまでとは別のかたちで想像できるようになるのではないか、ということだ。
 とはいえ、《ポスト劇場文化》の視座が、どのような諸実践の見方を可能にするのかについて、ひどく曖昧な物言いしかできないことを率直に認めておきたい。実際、上記に羅列した事例に、現代美術の文脈で了解されるものが多数含まれていることに、違和感を持つ人もいるだろう。逆に、野外や家屋など日常的なスペースを舞台にした上演は、《ポスト劇場文化》でイメージされる実践を含意するのかについて疑問を持つ人もいるだろう。
 しかし変化の兆しは確かにあるのだ。劇場の制度的・物理的・慣習的な取り決めの間尺に合わないもろもろが、日夜、いたるところで、というのが言い過ぎならば、少なくとも関東圏では週に1〜2本のペースで組織されているのもまた確かである。
 だとするならば、それらのイベントやツアーやワークショップやトークやパフォーマンスの集まりはいったいどんな欲望のもとで、あるいは戦略のもとで組織されているのか? 客席で黙って舞台を観るような普通の劇場では何がうまくいかないのか? 仮に実践の当事者にそのような意識があるのだとしたら、《ポスト劇場文化》はどのような仕方で観客と新たな関係を取り結び、政治社会的に作られる現実の行動や言説への省察を可能にするのか? あるいは《ポスト劇場文化》では、演劇活動・戯曲・俳優・演技・集団性・劇の作られ方はどのように変化していくだろうか?
 《ポスト劇場文化》の観点は、このような問いの展望を開くものであるが、近代的な劇場制度の《外》で形成されるさまざまな集合が、論じられたり議論されたりする機会はほとんどない。劇場文化を作り出しているさまざまなプレイヤーの視界にそれは入りにくい。別の言い方をすれば、現代演劇に関わる劇場の制度や言説の側が、《ポスト劇場》の拡がりを捉えきれていないようにも思えるのである。
 だから私はできるかぎり開かれた形で《ポスト劇場文化》の概念が多角的に検証されることを望んでいる。ただ繰り返しになるが、それによって生じる上演の諸形式や社会的現実に関与する方法の変化を明確に定義したり分析したりすることはできそうにない。なのでここではあくまでも実践を後追いする。つまり、私が参加した個別具体的な実践を素描することから、《ポスト劇場文化》に見出される──と私が直感する──特徴を探ってみたい。

2.「合意のでっちあげ」

 通常、劇場文化の圏域では、舞台上のドラマやスペクタクルを介して観客と関係する。必然的に、演劇やダンス、舞台芸術一般のレビューとして取り上げられるのは、興行の演目として成立しているものに限られる。けれども、《ポスト劇場文化》の観点からは、舞台公演もまた、さまざまな集まりを生み出す諸形式のひとつとして相対化され、それまで視界に入らなかったものたちへの注意が促されるようになる。
 8月23日、25日の2日間、素人の乱12号店・エンジョイ北中ホールにて開催された「合意のでっちあげ」に関する実験ワークショップ発表会は、私にとって、《ポスト劇場》を想像させる実例のひとつだった。それは「舞台を観る」とは別の仕方で、わたしたちが巻き込まれている社会的現実を洞察するためのフィクショナルな場を提供していたからである。
 「合意のでっちあげ」に関する実験ワークショップは、ダンサー・振付家の手塚夏子の呼びかけで発足した。全国各地から集まった10人のメンバーは、手塚とともに2022年3月からオンラインと対面の両方を通じて実験ワークショップの制作に取り組み、8月11日に福岡で、23日・25日に東京で、その発表を行った[★3]。参加メンバーひとりひとりが実験ワークショップを企画しているのか定かではないが、その種類はいくつもあるようで、福岡と東京では参加メンバーや実験の内容が異なっている。東京では、手塚夏子と、俳優・演劇研究者の浜田誠太郎による実験ワークショップが行われた。
 白い壁に囲まれた素人の乱12号店・エンジョイ北中ホールの会場には、ヨガマットが敷かれ、これから使用するであろうホワイトボードが設営されている。参加者は私を含めて7名(だったと思う)。なんとなく和やかな雰囲気だ。そのなかで、手塚は「合意のでっちあげ」が、ノーム・チョムスキー『メディア・コントロール』に登場する「Manufacturing Concept」の邦訳であることを紹介する。同書では、公益に関して正しい選択を行える特別な市民階級と、自分で状況を理解する頭がない愚かな大衆(とまどえる群れ)を区別する民主主義の理論が紹介されたうえで、次のように言われている。

「とまどえる群れを飼いならすための何かが必要になる。それが民主主義の新しい革命的な技法、つまり「合意のでっちあげ」である。(…)政治を動かす階級と意思決定者は、そうしたでっちあげにある程度の現実性をもたせなければならず、それと同時に彼らがそれをほどほどに信じこむようにすることも必要だ。[★4]」

 手塚は、こうした論述を踏まえ、「合意のでっちあげ」を「何がしかの利権を守るため、あるいは利益増大などを目的に、うそや捏造を含めた印象操作を通して大衆の考えを操作し、世論形成をすること」[★5]と解釈する。しかし、世論の「合意」がメディアによって操作されるのだとしたら、「本当の合意」とは何なのか? 手塚のこの問題意識を出発点に、ワークショップの制作過程では「合意のでっちあげ」の意味も杓子定規に固定せず、さまざまな実験ワークショップを考案していった、とのことだ。
 なお、ここで行われる実験ワークショップは、ワークショップの公開制作のようなもので、どのようにしたらワークショップがよりよくなるか、一緒に考えてほしいとも促される。それではまず、浜田による実験ワークショップの様子を概観してみよう。

3.浜田誠太郎「周辺の地図をつくる」

「ここにでいるみんなで話し合って、この周辺の地図をホワイトボードに描いてください。参加するみなさんにはひとりひとり、別の役割と勝利条件が与えられます。」

 こう説明された後、参加者にはルールを定めた一枚の紙が提示される。そこには「一般人」「嘘つき」「探偵」「協力者」「観客」という5つの役割が記されている。

 一般人(2人):正確な地図をつくる。地図に間違いがなければ勝ち。
 嘘つき(2人):地図に嘘を混ぜる。嘘つきだとバレなければ勝ち。
 探偵(1人) :嘘つきを探す。最後に嘘つきを当てれば勝ち。
 協力者(1人):嘘つきor探偵に協力する。
 観客(2人) :地図が描かれるのを観戦して各自の役割を当てる。役割をより多く当てたほうが勝ち。

 また、地図をつくるときは、1人5分ずつ、会場の周辺を見に行くことができる。そのあいだに、その人がどの役割であるのか参加者で話し合ってもいい。
 プレイしたことはないが、人狼的なゲームなのかなと思いつつ、浜田の手から役割の書かれた紙を引く。まわりの人に覗き込まれないように注意しながら役割を確認すると、「嘘つき」である。嘘つきは、地図に嘘を混ぜなければならない。どう振る舞うのが適切なのかなとドキドキしながらゲームに臨む。
 全員が役割の書かれた紙を引き、ゲームが始まる。まずは会場を指し示す四角形がホワイトボードに浮かぶ孤島のように描かれる。これだと地図を描くための基準がないということになり、高円寺駅と線路を描いて地図にアタリをつける。私を含めて、高円寺にゆかりのある参加者が何人かいたこともあり、北中通り商店街・中通り商店街・純情商店街・パル商店街は大まかに把握することができ、沖縄料理屋の「抱瓶」はここ、中華料理屋の「成都」はここ、などという話でひと通り盛り上がる。
 ゲーム中は、ひとり、またひとりと会場の外に出て周辺を散策するわけだが、私はこの5分間を使って高架下にまで足を運び、「ウソ」の種を見つけようと躍起になる。会場に戻ってから、他の人には確認しようがないだろうと踏んで、高架下に本当に存在するパーキングと、本当はそこにはない古本屋を描き込んだ。他の参加者も5分間でリサーチした周辺情報をもとに、新たな店や通路を書き足したり、他の人の間違いを修正したりと、正確な地図の描写を目指しているように見える。私からすると探偵の目をうまく誤魔化さねばならないのだが、誰がどの役割を演じているのか、さっぱりわからない。
 最後のひとりが外から帰ってきて、ゲーム終了。浜田の指示があり、全員で一斉に「嘘つき」を指差すことになる。つまり、多数決で強引に「嘘つき」を決定するわけだ。結果、ふたりの参加者が同票で「嘘つき」に認定される…。
 さて、結局、何を目的にしたワークだったのか、ピンと来ない人もいるかもしれない。ここで浜田から種明かしがある。実は、役割を割り当てる紙にはすべて「嘘つき」と書かれてあったのだ。つまり、このゲームは「実は全員が他人を騙そうとしていたらどうなるのか?」の「実験」だったわけである。
 浜田いわく、全員が嘘つきだった場合、どういうきっかけやプロセスで「嘘つき」があぶり出されるのかを試してみたかったとのことだが、私からすると──同じことかもしれないが──このワークショップは「嘘つき」の捏造、という「正解」がいかに導き出されるかの実演/実験であるように思えた。
 振り返りの時間に浜田が参加者に聞いたところによれば、「全員が嘘つき」の仕掛けを見破ったひとはいなかった。誰もが参加者のうち2人が「嘘つき」であると思いこんでいた。だから、ひとりの「嘘つき」を指名するときは、なんとなくの根拠を持って、彼/彼女を指差したのだろう。しかし一方で、本当は全員が「嘘つき」だった(嘘の地図を書き込んだ)わけだから、誰が「嘘つき」にされてもよかった。にもかかわらず、たまたま多数決の票を集めた2人が「嘘つき」だったことになったのである。
 多数決という仕組みの内部では、本当─嘘、正しい─間違いの選択肢が示されれば、必ずどちらかひとつが「本当/正しい」になり、もうひとつが「嘘/間違い」になる。単純明快な論理であるが、それゆえに危うい。選択肢があるところでは、たいした根拠もなく──ないはずなのに──ネガティブなレッテルを貼られる人間が確率的に決定=捏造されうるのだから。しかも多数決という合理的なシステムに担保された「正解」として。こうした場面では理由と結論の論理的な順序が逆転し、むしろ、指差したあとで彼/彼女を「嘘つき」と決めた根拠のほうが捏造されるかもしれない[★6]。
 浜田の実験ワークショップは、笑いの絶えない朗らかな調子で進行していったが、社会的決定が導き出される仕組みをモデル化した現実の戯画としての側面を持つ。わたしたちは、「もしも全員が嘘つきだったら…」という仮説を元にしたイベントに参加することで、社会的現実を動かすメカニズムのある側面を通過し、その仕組みに動かされる自分自身の認識や感性への内省を促されるのだ。
 ただし、「嘘つき」の捏造を客観的な真理にすり替える多数決というシステムに内在する問題は、ワークショップの「実験」から得られる気づきの一例に過ぎない。ここで言う「実験」の意味合いが《ポスト劇場文化》の特徴を素描する際にも重要であると思われるが、その前に、手塚の実験ワークショップの様子についても見ておこう。

4.手塚夏子「死角のつくり方」

 手塚のターンでは、「合意のでっちあげ」に関する”企画会議”のようなものが行われた。先述した通り、手塚は「合意のでっちあげ」を「何がしかの利権や利益増大のために、捏造を含めた世論操作をすること」と仮説的に定義している。このセッションでは、「世論操作」を再現する方法を手塚と一緒に考えてみようというわけである。
 そこで手塚の考案する「世論操作の方程式」をあらわす仮説が、「死角のつくり方」である。ホワイトボードに、




というような、砂時計型の図を描いた手塚は、その図の横に、上から順に「問題」→「解決」→「利権」と書いていった。この図を用いて、手塚は世の中の社会的・政治的な問題を通常とは逆向きに見るやりかたを提案する。つまり、なにがしかの問題があり、それを解決するための策があるのではなく、なにがしかの利権があり、それを実現するために問題がでっちあげられるという見方である。
 問題が捏造され、さらに唯一の解決策が示されることで、問題に対する多様な見解は、ただひとつの解決策(▽の下の頂点)に収斂し、それに対する賛否(賛成△反対)が議論される単純な図式に落とし込まれる。この時、狭められた視野で見えなくさせられたさまざまな問いのありかが「死角」(△)と呼ばれる。テキスト上でむりやり図示すると以下のようになる。

  問題
   ▽
  解決策
賛成 △ 反対
  死角

 たとえばということで、手塚は2003年にアメリカのブッシュ政権がイラク・イラン・北朝鮮を「悪の枢軸」と一方的に決めつけ、開戦に踏み切ったイラク戦争を例にとって、「利権」からさかのぼって「問題」が捏造される逆向きの見方を提示してみせる。
 まず最初に、軍産複合体の利権を拡大するため、「戦争」という解決策が必要になる。そこで、アメリカがイラク戦争を始める口実として、大量破壊兵器の開発隠蔽という「問題」が捏造される(言うまでもないが、イラク戦争の根拠となった大量破壊兵器の開発・保持は捏造だったことがわかっている)。
 さらに、捏造された問題を疑い得ないものにするため、恐怖が煽られ、それを専門家や識者が支持することで、前提を固定するキーワードが作られる。イラク戦争の場合は、「悪の枢軸」がそれに当たる(と手塚は自身の見解を述べる)。平和と民主主義を脅かす独裁的な人権侵害国家である「悪の枢軸」を野放しにしてはならないといったように「悪」が固定されることで、「アメリカの軍事行動は侵略ではないのか?」といった問いや、軍産複合体にもたらされる「利権の構造」から人びとの目が逸らされる。つまり、死角が生まれる。
 このほかに、手塚自身の実体験として、「聖域なき構造改革」を掲げた小泉政権の郵政民営化も例に挙げられたのだがそれは割愛しよう。聞いていると、確かに、利権のための仕組みづくり(問題の捏造)は、いたるところに見出せるように感じられる。ただ、金儲けのための商売は「利権」とは言い難いと手塚は注釈する。「金儲けがしたい!戦争しよう!」と主張しても戦争は起こせない。戦争を起こすためには、大衆の支持を取り付けるための「公認された正義」が必要だからだ。ここに民主主義社会における世論操作の必然がある。
 社会全体の利益(公益)を代表する正義の衣をまといながら、一部の人達が利益を享受する利権構造をいつのまにか生み出していく社会的・政治的メカニズム。手塚が構想する「実験ワークショップ」は、このからくりを再現し、観察可能にするための「実験室」をこしらえるのである。
 というわけで──世論操作に介入するエージェントを、手塚は「広告代理店」と呼称する──じっさいに「広告代理店」になったつもりで利権を考案して、問題を捏造してみようということになる。

 「さあ、どんな利権がいいかな?」という手塚から参加者への呼びかけ。利権作りの悪巧みにそぐわない調子外れの明るさが可笑しい。これは「利権」作りに伴うさまざまな感情や情緒から距離を取るための異化的な工夫だと思える。「利権」は楽しく観察することが大切だ[★7]。他グループの実験では「白色利権」なるものが考案されたらしい。白色を見ることで目や心に何かしらの悪い影響がある(問題の捏造)ので、どうしても使いたい場合には利用料を払うようにしましょう(利権)という筋道で「問題→解決→利権」の構造が作られたとのこと。
 わたしたちのグループでもさまざまな利権のアイデアが出され、議論はおおいに盛り上がった。「利権」から社会を見るという視点のとり方が単純に面白い。たとえば、キャッシュレス利権。高速道路や電車の運賃は、現金よりもキャッシュレスの方が利用料が安い。けれどそれはクレジットカードを作れない低所得者層が損をする仕組みでもある。いつのまにそんな社会的合意が取り付けられたのか、あるいはキャッシュレス決済の推進の裏にはどんな利権が隠されているのかなど意見を交わしていると、そういえばアレも……と「利権の構造」が自然と頭に浮かぶようになる。すっかり気持ちは「広告代理店」、あるいは「社会問題」懐疑論者の仲間入りである。
 キャッシュレス利権やコロナ利権などすでに日本社会に組み込まれている(だろう)利権から、太陽利権のような空想的なものまで、さまざまな利権のレパートリーが並べられたが、結果的に、〇〇○利権から問題の捏造を試みることになった(なお、今更ではあるが、ある種の”ネタバレ”を回避するため、利権の内容は伏せ字でお伝えする)。絶滅危惧種である〇〇○保護、リベラルな西側諸国の民主的な価値を守るために権威主義的な東側諸国のイメージアップを阻止せねばならない、といった最もらしい主張から「〇〇○利権」の問題を捏造できそうな手応えを感じられたからだ。
 早速、〇〇○利権を生むための解決策が提案される。たとえば、〇〇○キャラを描くためのライセンス制度を作る、〇〇○図案の管理委員会を設けて、〇〇○を描くときに審査料を取る、など。こうすれば「利権の構図」をこしらえることができそうだ。その上で、提起される問題は大衆が支持したくなるような「公認された正義」の形を取るのがベストである。公共の福祉(社会全体の利益)に照らして、〇〇○を好きに描く権利の制限──表現の自由の制約──が正当化されねばならない。
 そこであるアイデアが出る。おかしな〇〇○が増えることで正しい〇〇○の認識が歪められ、ひいては絶滅危惧種の保護に深刻な危機が生じている。これを解決しましょうというわけだ。さらに、「前提を固定するキーワード」とそこから生まれる「死角」その他の検討も進むわけだが、ここまで来ると「広告代理店」が世論形成のために行う”企画会議”の執拗なまでの入念さに私などは感嘆してしまう。浜田のワークショップ同様、手塚の”企画会議”もとても笑える楽しいワークなのだが、潤沢な資本と政治権力を投じてこんな世論操作を仕掛けられたら、抗う術はもはや残されていないように思えるし、私たちの自由と生活に関わる重要な問題はすべてあらかじめ決められているのと同じじゃないかという感想が頭をもたげる[★8]。
 しかしそれでも、無自覚に行われる社会・経済活動をさしあたり中断し、「広告代理店」によるコントロールを意識してみることはまだできる。本企画の終了後、知人のひとりは「手塚さんは『合意のでっちあげ』を通じて、ダンスのふりつけについて考えているんだと思った」と感想を述べていた。その含意を汲み取るならば、あの砂時計型の図式(▷◁)は、振付譜あるいはダンスのためのスコアに該当する。「▷◁」で生まれる社会的・集団的信念のパフォーマンスがひとびとをふりつける。つまり、利権の仕組み(問題→解決)は、特定の信念を身体化(ふるまい化)する社会的ふりつけとして機能する。
 利権の仕組み(問題→解決)という社会的ふりつけは、ひとびとをうまく踊らせることもあるし、あまりうまく踊らせられないこともあるだろう。いずれにせよ、「▷◁」のスコアを忘却し、でっちあげられた=演出されたダンスに熱中すればするほど、利権の仕組みが要請する問題の「死角」はますます私たちの視界から消え去り、隠蔽されることになる。
 しかし、手塚のプレゼンする「死角のつくり方」は、私たちの視界から「死角」を消し去る社会的ふりつけそれ自体を「スコア」として取り出してみせるのである。このスコアを通じて、ダンスに熱中しているあいだ不可視な領域(死角)へ抑圧される問いの所在にもう一度目を向けることが可能になる。それはまた、社会的ふりつけを共同探求する実験的かつ公共的な場を開きもするのである。
  
5.実験=劇場

 ここまで浜田と手塚のワークショップ・企画会議を概観してきた。そこで浜田は参加者全員を隠れた「嘘つき」に仕立て上げることで演劇的な状況を作り出していた。他方で、手塚は、利権の仕組みを「死角のつくり方」(▷◁)としてスコア化し、でっちあげられた集団的な信念(問題→解決)が社会的ふるまい(賛否の二項対立)に具現化されるプロセスを、観察可能な形で可視化しようとする。逆に言えば、わたしたちをふりつける振付家(広告代理店)の立場から、社会の仕組みを見直してみる、ということだ。
 このように、「合意のでっちあげ」実験ワークショップには、演劇的・ダンス的な発想を見出だせる。それは先立って述べた「舞台を観る」とは別の仕方で、わたしたちが巻き込まれている社会的現実を洞察するためのフィクショナルな場を提供するものである。劇場制度の外にフィクショナルな場を仮設するこうした実践に、《ポスト劇場》的なものを見て取ることができるのではないか。
 また、ワークショップの形式を取ることで、その場に参与する者が「観客」と「参加者」を行き来することが可能になっていた点にも注目したい。ノーム・チョムスキーの『メディア・コントロール』には次のような一節がある。

「民主主義社会における彼ら(とまどえる群れ)の役割は、リップマンの言葉を借りれば「観客」になることであって、行動に参加することではない。(…)(選挙を通じて)いったん特別階級の誰かに支持を表明したら、あとはまた観客に戻って彼らの行動を傍観する。「とまどえる群れ」は参加者とは見なされていない。[★9]」

 情報・人間・資本の結びつきが絡まり合い、誰が何を決めているのか不明瞭な現在において、権力と市民、参加者と観客の対比はこれほどきれいに分けられない。ブログ・You Tube・SNSという新しいネットメディアで顕著に見られた動員の政治に目を向けるならば、観客に戻って傍観する暇が与えられないことのほうに問題を感じる人も多いだろう。
 しかし、たとえばSNSはユーザーに”参加感”を与えるかもしれないが、むしろそれによって、私たちの考え方や行動に影響を与えている政治社会的なメカニズムに関する実質的な対話・共同探求を遠ざける。観客と参加者のモードは不安定に揺らいでおり、そのときの自分がどちらのモードに身をおいているのか──知らぬ間に参加させられているのか、観客=傍観者として遠ざけられているのか──を判断するのは容易ではない。
 少なくとも、「合意のでっちあげ」実験ワークショップでは、参加と観劇のモードが目まぐるしく入れ替わるネットメディアに親和的な形式が採用されている。ひとまずこれも《ポスト劇場文化》の特徴のひとつとして挙げられるだろう。ワークショップの形式でなければ議論することができない、ネットメディアに媒介された経験への意識がそこには働いているのかもしれない。
 ただ、本企画から読み取りたい《ポスト劇場》的な含意の最もたるものは、「実験」の持つ意味合いである。本企画のWEBサイトに掲載された、手塚による「実験」の意味の説明には次のようにある。

「ここで行う実験は、科学の実験などのように仮説が正しいか間違っているかを見出すということではなく、「問い」や仮説を元につくられた実験に共に参加することを通してある経験を共有し、そこから様々な感じ方、考え方が引き出されて多様な問いが生じるメディアとなるもの。[★10]」

 ある仮説をもとにした経験の共有から、多様な問いが生じるメディアとなるものとしての「実験」。私はこの「実験」を、《ポスト劇場文化》における集まり、あるいは劇場的なものとして了解できるのではないかと思う。手塚的な「合意のでっちあげ」の観点から言えば、ひとつの「仮説」を立てることで、自分自身がいかなる社会的・集団的信念によってコントロールされているかを──どの立場にも肩入れせず──冷徹に観察し、共有し、そこから多様な問いを生み出すメディアとしての「実験=劇場」である。
社会的ふりつけを自らの身体から引き剥がし、さまざまな感じ方、考え方を共有する「実験=劇場」は、既存の劇場が閉鎖し、出入りできなくなったときにもかろうじて残されるサヴァイブのツールとして《ポスト劇場文化》のイメージを具現化するものではないかと思われるのである。

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[★1] 既存の劇場とは、新国立劇場や東京芸術劇場やKAAT(神奈川芸術劇場)やPARCO劇場や本多劇場や王子小劇場やこまばアゴラ劇場……などをイメージしていただきたい。

[★2] 詳述は別の機会に譲らざるをえないが、《ポスト劇場》の演劇的実践を展開している重要な先駆者に劇作家・岸井大輔がいることを付言しておきたい。《ポスト劇場》の着想源の幾つかは、このレビューで言及する手塚夏子が呼びかけ人の「合意のでっちあげ」、Aokid「どうぶつえん」、そして岸井大輔の諸実践である。なお、岸井大輔『あそびとつくりごと1 戯曲は作品であると東京の条件とそのほかの戯曲』(2019)所収の「ポストコンテンポラリーアート マニフェスト」では、「現代日本演劇は、ポストドラマというより、ポストシアターを、劇場亡き後の演劇を指向している。(…)シアターを出て新たなドラマを制作するポストシアトリカルドラマこそが二十一世紀のアジア演劇の名にふさわしい」(p.220)として、「ポストシアター」における「戯曲」概念の再定義が論じられている。極めて総括的かつ説得的な岸井の理論に、本レビューで言い出そうとしている《ポスト劇場文化》がどのように位置づけられるかはまだわからない。ただ、わたしは、岸井が批判する残酷派・コミュニタス派・イニシアチブ派・絶対観客派という4つの派閥を形成するコンテンポラリーな上演の諸相も含めて、《ポスト劇場》らしき諸実践をひとつひとつ場当たり的に観察していく方向で、その諸特徴に光を当てていきたいと思う。

[★3]  「合意のでっちあげ」に関する実験ワークショップWEBサイト(https://gouinodecchiage.amebaownd.com/pages/6287619/page_202207191135)

[★4] ノーム・チョムスキー『メディア・コントロール──正義なき民主主義と国際社会』、鈴木主税訳、集英社、2003年、p.20。

[★5]  「合意のでっちあげ」に関する実験ワークショップWEBサイト(https://gouinodecchiage.amebaownd.com/pages/6287560/blog)

[★6] ワークショップでは、無理やり「嘘つき」を確定させるため、その根拠について意見を交わす時間は設けられなかったが、指差した後になぜ特定のひとりを「嘘つき」と決めたのかについて議論してもよかったかもしれない。こうしたワークショップをより良くするための意見は、浜田のワークショップが終わった後、参加者の口から次々に飛び出した。後述するように、この企画は「実験」を通じて多様な問いが生まれるメディアとなるような、「実験のワークショップ」であると同時に、新しい参加者を巻き込みながらよりよい「ワークショップ」の実現を目指す「ワークショップの実験」でもある。

[★7] 実際にこのワークをやってみるとわかるが、人を騙すことに痛苦を感じないある種の無神経さがなければ、利権づくりの成功は望めない。広告代理店の役(割)を上手く演じるためには、社会的弱者のさらなる抑圧や差別意識のさらなる扇動を「悪いこと」だと感じる常識的な道徳観を括弧に入れること、あらゆる正義を利権の温床とみなすシニカルな態度で社会を見ること、他者に対する感情移入を理性的に把握するメタ意識を保つことが要請される。つまり、相当”嫌な奴”にならなければいけない。利権のための「でっちあげ」とは、端的に言って──その定義からして──詐欺師の行いだからだ。詐欺師の巧みな戦略に感動するくらいの「他人事」感と、戦略シミュレーションゲームを楽しくプレイするくらいの距離感が必要なのである。

[★8] 私たちは私たちに決定権がない社会・経済・政治的問題に翻弄され続けることになるのかもしれない。私たちの同意を調達する密かなプロモーションに取り込まれて。それを自覚したところで何になるのかというニヒリスティックな感情に身を任せれば、その次は怪しげな陰謀論への”目覚め”が待っている。お前が仕事を奪われたのは、社会的に冷遇されているのは、不幸に身をやつしているのは、実は「奴ら」が「利権」を手放さないからだ、といったような。手塚のワークでは触れられなかったが、同じく「実は」の構造を持つ「合意のでっちあげ」と「陰謀論」の境目を見分けることもまたひどく難しい。

[★9] ノーム・チョムスキー『メディア・コントロール──正義なき民主主義と国際社会』、鈴木主税訳、集英社、2003年、p.18。

[★10]  「合意のでっちあげ」に関する実験ワークショップWEBサイト(https://gouinodecchiage.amebaownd.com/pages/6287560/blog)


***

しぶかわ・まろん/批評家。「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学」でゲンロン佐々木敦批評再生塾第三期最優秀賞を受賞。最近の論考に「『パフォーマンス・アート』というあいまいな吹き溜まりに寄せて──『STILLLIVE: CONTACTCONTRADICTION』とコロナ渦における身体の試行/思考」、「〈家族〉を夢見るのは誰?──ハラサオリの〈父〉と男装」(「Dance New Air 2020->21」webサイト)、「灯を消すな──劇場の《手前》で、あるいは?」(『悲劇喜劇』2022年03月号)などがある。

***

【上演記録】
「合意のでっちあげ」実験発表 2022


2022年8月23日(火)、25日(木)
素人の乱12号店 エンジョイ北中ホール(高円寺)
主催・参加メンバー:浜田 誠太郎・手塚夏子

「合意のでっちあげ」公式サイトはこちら

演劇最強論枠+α

演劇最強論枠+αは、『最強論枠』の40劇団以外の公演情報や、枠にとらわれない記事をこちらでご紹介します。