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<先月の1本>稲見和人に彼女ができる公演『月がきれいですね』 文:植村朔也

先月の1本

2022.09.22


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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「Re:小劇場系」の逆襲、あるいは、「公的助成金演劇」を笑え


 内野儀はかつて「J演劇をマッピング/ザッピングする」というテクスト(『「J演劇の場所」:トランスナショナルな移動性へ』所収)のなかで、「アングラ以降の狭義の小劇場演劇(=『アングラ小劇場』)にかかわる諸感覚や諸方法を『ネタ』として――すなわち、意匠として採用する/引用する」類いの演劇実践を指して、「Re:小劇場系」と呼んだ。とりわけシベリア少女鉄道や野鳩、中野成樹+フランケンズらの舞台は「<ふつうの演劇>を装っているだけに、その上演では演劇という形式そのものが機能不全を起こしているとしか言いようがなくなってくる」ようなものであって、「そこでは<演劇という制度>は『ネタ』でしかない」。
 内野は彼らを「<表象の透明性>――それが登場人物の表象であれ、俳優の<自己>/内面の表象であれ、それとも、自明性としての、あるいは獲得されるものとしての<身体の強度>であれ――など信じられないばかりか、そのような美学的命題に興味すらない実践家たち」であるとして評価する。というのも、それらは彼が言うところの「『ジャンク』な演劇に分類されるべき真正な<J演劇>」であって、まっとうな演劇として迎え入れられてしまうと「J=ジャパン」の演劇となって保守化し堕落するが、「他方で『J=享楽(jouissance)』という古典的な意味でのラディカルな実践となりうる感覚へとつながってゆく」ものであるからだ。
 冒頭からこれだけ丁寧に引用を重ねてしまったのは、今回紹介する宇宙論☆講座がその進化系にあたることをこれから確認してもらうためである。

 同じテクストの冒頭で、1995年前後以降の国内の演劇は堕落してしまったと内野は嘆いている。彼が「公的助成金演劇」と呼ぶような舞台が爆発的に増加したからである。その理屈を整理すると次のようになる。
 かつて演劇の作り手たちは、市場の厳しい淘汰作用によってふるいにかけられた。結果、息の長い劇団は、いくつもの観客や批評の評価に応えてきたものとして、その実力の信頼性を勝ち得ていた。対して、助成金を貰えばひとまず公演を打つことができてしまう今日の作り手たちは、市場とは別の評価の目を意識する。助成金を与えてくれる制度の目、業界の目である。かくして、日本の演劇実践は業界内の論理に自閉してゆきながら、助成金が出るにまかせてその公演数を肥大化させていく。
 わたしなりに付言すれば、このことに関連して深刻なのは批評のインフラ化だった。身もふたもない話ではあるが、助成金を貰うにあたり、批評は一種の太鼓判となる。つまり、批評はいまや上演のインフラとしてたいへんありがたく貴重な存在となっているのである。批評の書き手たちが置かれる経済的・社会的な苦境にもかかわらず、やはりそうなのだ。
 批評は終わっただとか、読まれないだとかよくいわれる昨今であるが、演劇について言えば、批評は非常に求められている。公演数が肥大化したからには、当然求められる批評の数も増加していく。仕事が増えていけば、それに反比例して個々の批評に割ける思考や時間は限られていき、業界の論理を反復するようなお決まりの批評が繰り返し書かれやすくなる。批評があまりに求められるので、いまや劇評の書き手はTwitter上での振る舞いを諫められることはあっても、書いたものについて批判を浴びせられることはほとんどない。しかし本来は、他の誰かに参照されて使われたり批判されたりされうるような批評が意識的に書かれるべきなのである。
 もちろんこのようなインフラ化がただちに批評の堕落を意味するわけではない。たとえ批評がそれ自体太鼓判的に振る舞うとしても、それぞれの書き手が、それぞれの信念や矜持をもってその時々の精一杯を書いているはずだし、演劇の作り手たちが批評の内容を軽視しているなどとは、わたしも考えてはいない。また、助成金が出るというのは概して創作環境の健全化に向かうはずで、素晴らしいことだから、その批判をここでするつもりも毛頭ない。「『公的助成金演劇』を笑え」などという挑発的なタイトルをつけてしまいはしたが、このことは強調しておきたい。
 しかし求められる批評の数と質が構造的に変質したこともまた確かな事実ではあり、それは書き手にとってやはり重たい制約となる。いま演劇批評が位置づけられているこうした構造から目を離すわけにはいかない。構造は書かれるものをある程度規定するものだし、そうした規定作用を放置しておけば、「演劇をめぐる言説を<業界>内に幽閉することが当然視されるようになり、時代状況・思想状況どころか、文化状況、他ジャンルの芸術状況との関連のなかで、語られることも、それ以前にも増して少なく」なるという、内野がかつて嘆いていたような事態が今後も悪循環で加速してゆくと考えられるからだ。
 たとえば、この状況において作家が自ら書き手に批評の執筆を依頼することは自然であるが、そこに直接的な金銭の授受が発生する以上、作品の批判はしづらくなるのが人情だろう。しかしそれは書き手と作り手の内輪の論理に批評が内閉していくことにほかならず、言説の<業界>内への幽閉の最悪のケースであるといえる。
 どうすればよいのか。たとえば、批評誌が減少し、オンライン上に投稿される批評が増加しつつある今、こうした構造に抗うごく単純な一つの術がある。大量の字数で書く。頼まれてもないのにやたらと書いてみてしまえばよいのである。紙幅の限界を持たないWebページはこの戦略を許容する。たとえば先月渋革まろんがこの<先月の1本>に寄稿した「詩のマテリアライズ/翻訳のテストプレイ──濵田明李『⌘町合わせ⌘』で途方に暮れる」はおよそ1万字にわたって書かれており、これは演劇最強論-ingサイドから示されている基準の字数の約4倍にあたる。
 批評はハンバーガーではないので、ボリューミーならよいというわけではもちろんないが、それでも、批評の文章量がいまや積極的な意義をもちうるという事実にはここで言及しておきたい。

 いつのまにか批評のハンバーガー化の話になっていたが、この文章の目的はあくまでも宇宙論☆講座の番外編的な公演にあたる「稲見和人に彼女ができる公演『月がきれいですね』」(脚本・演出・プロデュース:稲見和人)を評することにある。し、たくさん書くことを目的化する本末転倒を犯して字数稼ぎに走ったわけでも別にないつもりである。だからここからは2400字程度におさめる。
 この公演は表題にある通り、俳優の稲見和人(いなみかずんちゅ)に彼女ができるまでの経緯を上演しようというリアリティショー的な趣向の舞台だった。稲見和人は7月22日のツイートで「稲見和人の彼女になっても良いよという奇特な方いましたらぜひ(笑)」と彼女候補者を募集した。これに応じた彼女候補者には、当日客席で稲見和人の生き様を目に焼き付け、それを踏まえて終演間近に彼のプロポーズに返事をすることが求められた。8月2日時点での稲見和人は

【メンタルしんだ】

あまりに彼女候補がいないので、意を決して奥の手で3年ぶり元カノに連絡してみたら、見事に断れて〔注:原文ママ〕、メンタルオワタ/(^o^)\

#ゆる募
#彼女募集中
#助けて
#困った
#ピンチ
#救済
#神様
#マツコの知らない世界

と嘆いていたが、その後どうにか彼女候補者は現れ、上演は成立した。
 舞台の建付けもいかにもバラエティ番組的だった。下北沢OFF・OFFシアターには舞台の上手側にカーテンで覆われた楽屋があるのだが、その覆いが取り払われて、楽屋の様子が常に観客に見えるようになっていたのだ。俳優はしばしばこの楽屋でメタ発言を繰り返し、笑いをとったのだが、舞台裏を見せることをコンテンツ化するこうした秋元康的な方法も、公演のバラエティ的なもくろみに加担していただろう。
 バラエティ番組の構造をハックしたこの舞台は、瞬間瞬間の経験のインパクトを最大化することに全てを捧げていた。異常なボリュームで仕込まれた華美でバブリーな照明や、ナンセンスな歌詞と調子はずれの音程でやけに耳に残る劇中曲は、いまが楽しければそれが全てだとでもいうかのような純粋オモシロ時空間を作りだす。
 大事なのは瞬間瞬間の楽しさであるから、職業訓練校の友達と一緒にあいみょんのコンサートに向かってドライブする冒頭から、中学3年生の頃に好きだったK木さんと年賀状での文通にいそしむクライマックスまで、彼女候補者への自己紹介として稲見和人の半生を跡づけていく物語にはとにかく脈絡がない。繰り返すが、今が楽しければそれでいいのだ。
 結果として、上演される稲見和人の人格はきわめて分裂的なものになる。統一的な主体概念への批判というより、あっけらかんとネタ的に人格がちぐはぐなのだ。出演者が自身の生い立ちを語る、私小説ならぬ私演劇のような小劇場作品は近年枚挙にいとまがない。稲見和人本人が自身の半生をたどる『月がきれいですね』もこの私演劇のフォーマットに則っているようにも思えるが、しかしこの舞台は稲見和人その人を真剣に描く気がまるでないように思える。そもそも、『月がきれいですね』の台本は稲見和人の手によるものとされていたが、終演後に販売された上演台本によれば、稲見和人の胸元のハンバーガーに謎の外人が食らいつく、作中で無意味に4回繰り返されるくだり以外、物語はすべてゴーストライターで宇宙論☆講座主宰の五十部裕明が3日で書き上げたらしい。これ即ちオモシロである。つまり私演劇のフォーマットで遊んでいるわけで、ここでは語る私も語られる私も稲見和人からはズレていく。ネタとして。

 しかし『月がきれいですね』最大のネタは-500円という笑劇的な入場料だっただろう。観客からお金を一切受け取らず、逆に500円をばらまくというほとんど自殺行為のような価格設定が敷かれたのだ(ちなみに上演台本は-100円)。しかしその結果はネタで終わるにとどまらない。なぜならこのばらまき行為は、「公的助成金演劇」が拡がり市場の目はほとんど意識されなくなったという、先に確認したような現況をはっきりと明るみに出してしまうからだ。
 『月がきれいですね』の公演にかかる費用は稲見和人のポケットマネーから捻出されたという。つまり、『月がきれいですね』は稲見和人が私利私欲のために自腹で買った舞台なのである。観客ごと買う。それでやりたいことをやりたいだけやる。そういう、現在の日本の舞台芸術にとってある意味で非常に合理的な上演モデルを、稲見和人はあっさりとネタとして示してしまった。
 このように、『月がきれいですね』の批評的意義は私演劇を私物化演劇へとスライドしたことにある。宇宙☆論講座は、小劇場系演劇の意匠をネタ的に用いて脱臼させてしまった点で、「Re:小劇場系」の枠組みで語るにふさわしい。しかし、わたしは冒頭で彼らを「Re:小劇場系」の進化系と呼んだのだった。なぜ進化系なのか。それは先に確認したように、『月がきれいですね』は「公的助成金演劇」への過剰適応の産物だからである。 おそらく助成金はとっていないと思われるが、それでも。
 その証拠に、宇宙論☆講座は昨年の年の瀬にも「公的助成金演劇」に過剰適応した珍品をこの世に放出している。文化庁令和2年度第3次補正予算事業 ARTS for the future! (AFF)補助対象公演だった、『ミュージカルうなぎ』がそれである。


予約2000円、当日3000円のところ、公演2日目の夜の回だけは2日落ち割引で100円という価格設定の遊びはすでに『月がきれいですね』を予感させるが(わたしも100円で観た)、ここではむしろ、『ミュージカルうなぎ』が宣伝美術や舞台美術でAFFの文字列を強調し、さらには開幕一番の主題歌でAFFを連呼した挙句、助成金のおかげで予算が浮いたということで、出演者全員分の叙々苑弁当を注文して舞台上で食べていたことの方に注目したい。しかも、叙々苑弁当は助成金の対象にはならないので赤字になってしまうというオチまでも用意されていた。
 このように、宇宙論☆講座の舞台は<演劇という制度>を支える上演インフラとしての助成金制度に過剰適応した結果、これをネタ化してしまったのであって、『月がきれいですね』でのばらまき入場料はその当然の帰結だった。それだけに彼らはこれまでの「Re:小劇場系」よりもいっそう批評的である。というのも、こうして上演インフラがネタ化されるとき、演劇の足場が可視化され、観客たちと共有されるようになるからだ。その足場は、見えたからにはズラすことができる。自嘲気味の諦め交じりで笑ってばかりいなくてもいい。
 とはいえ、あんまりネタに理屈をこねてばかりいるのも野暮かもしれない。あとは、この批評を助成金の申請に使って、宇宙論☆講座がさらなるオモシロ時空間をつくってくれることがあれば、わたしとしては無上の喜びである。


sakuya.uemura.ippon@gmail.com

この文章を掲載するにあたり、わたしは上のメールアドレスを作成した。2023年3月いっぱいまで運用する。この批評を一通り読んだ上で、わたしに批評を依頼してくださる団体があれば、この期間中は日程さえ合えば無条件かつ無償で応じる所存である(-10/10,10/24-11/7は現時点で不可)。ただしわたしの時間的・資金的リソースの限界に鑑みて、念のため各月先着2公演までとしたうえで、公演への招待を条件とさせていただく。
仮に依頼があった場合、Webメディアnoteに新規にアカウントを作成し、1000字以上の文字数で掲載する。なお、アドレスはこのページ以外に記載しない。アドレスのSNS等での拡散は固くお断りしたい。



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うえむら・さくや/批評家。1998年12月22日、千葉県生まれ。東京はるかに主宰。スペースノットブランク保存記録。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。過去の上演作品に『ぷろうざ』がある。


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【上演記録】
稲見和人に彼女ができる公演『月がきれいですね』

2022年8月11日(水)~6日(金)
下北沢OFF・OFFシアター
作・演出:稲見和人
出演/稲見和人 &
   稲見和人がキャスティングした人たち

稲見和人に彼女ができる公演公式サイトはこちら

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