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<先月の1本>劇団タルオルム『さいはての花のために』 文:山口茜

先月の1本

2022.09.22


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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「アイゴ」


今回のレビューのタイトル「アイゴ」は韓国語で「あら」とか「まあ」という感嘆詞らしい。極めて多様なシチュエーションで使用されるとのことだが、亡くなった人を偲ぶ時にも使うとのこと。今回の舞台では日本語に紛れて何度も「アイゴ」という言葉が出てきたので、あえてタイトルにさせてもらった。

隣国で起きた済州4.3について、詳しく知る日本人はどれほどいるのだろう。私は観劇を終える瞬間まで、この虐殺事件について全く知らない一人だった。たまたまこの舞台を観て、そんなことがあったのかとネット検索し、この舞台の原作となった小説「風の声」(金蒼生)を読んだ。そして気付いた。過去にも一度、調べようとしたことがある。この事件のことを。ということは、これまで随所で耳にしてきたことがあるということだ。それは歴史の授業だったりしたかもしれない。しかしあまりにも辛い史実で、自分の理解を超えたように感じ、知るのをやめたことを思い出した。

物語はとある少年、フィドンの語りを通じて描かれる。フィドンは大阪に住む在日二世だ。済州島から日本にやってきた母シチュンと、妹フィヨンの3人で暮らしている。元々そこに下宿し(家賃は払っていないと思う)、独立後も出入りする双子のソラとトンアとの会話から、少しずつ、この劇が済州島の虐殺を描くものであることがわかり始める。

シチュンと、ソラとトンアの母は、若い頃済州島で親友だった。シチュンは生活のために、単身日本に渡り、済州島の夜学で教鞭をとっていた夫と出会い、結婚する。日本で二人の子供を産むが、二人目を妊娠中、夫は人助けの折に事故死してしまう。シチュンはその後、女手一つで二人の子供を育てることになる。ソラとトンアがシチュンを頼りに日本へ密航してきたのも、そんな折だった。

済州島では、何の罪もない島民が次々に、政府の軍や警察に虐殺されていた。ソラとトンアの家族も例外ではなかった。近所の子供が、身に覚えのないことで警察に呼び出されて拷問されたという話を聞き、男であるというだけで虐殺されることを知った父は、まだ幼い二人の娘を残して山に隠れる。3人目を孕んだ母は双子を船に乗せて日本へ逃し、夫の帰りを待って家に留まった結果、拷問を受けてお腹の子供と共に殺される。日本で、親友の酷い死を伝え聞いたシチュンは、自分たちの子供だけでなく、双子をもまた、これまで以上に我が子同然に守って生きることを決意する。

人が死ぬたび、舞台の上に、椿の花が落ちる。「さいはての花」とは、この椿のことを指すのだろう。しかしこれほどにも近い、韓国の小さな島と日本の距離のことを、「さいはて」というのは、それは二度と会えないという意味か。戻りたくても戻れない祖国との心理的な距離を指すのか。あるいは花というのは死んだもののことであると同時に、この双子、ソラとトンアのことをも指すのかもしれない。済州島で死んだ父と母は、行ったことのない日本で暮らすソラとトンアを今もなお、天から見守っている。双子もまた、両親との再会を願って厳しい日本での生活を生き延びていく。

劇中では、日本語の標準語と関西弁、そして拙い日本語が使い分けられる。標準語は、韓国人同士で韓国語を喋っているシーンで使う。関西弁は日本で生まれた韓国人が日本語のネイティブとして使い、拙い日本語は、済州島で生まれ、日本に住んでいる在日一世が、子供たちと話をするときに使う。シチュンを演じたピョン・リンナさんはその経歴から、日本語のネイティブだと思うが、拙い日本語、つまり韓国で生まれ育った人が喋る日本語がとてもうまい。どうしてそれほどにも上手いのかといえば、それはやはり、ピョンさんの生まれ育った町に、生きるために日本語を話さざるを得なかった人が多かったからではないかと思う。自分たちの祖国を支配した国の言葉を、母国語である韓国語として使うその劇の仕組みに、私はなぜか、とても申し訳ない気持ちになる。どうして彼らが、日本語を話さなくてはならなかったのか。それを説明するには、1910年に起きた韓国併合という植民地支配の歴史を抜きに語ることはできないと思う。そして済州4.3もまた、日本の支配の影響を受けてのものだったのではないか。

物語の中で、シチュンの夫、ジョンスが言う。韓国が日本に強奪されたのは、国民の無知が根本的な原因だと。だから我々は勉強しなくてはならないのだと。こうやって書いていて、はたと思い知る。知ることは、人間としての義務ではないか。争いから一歩でも遠のくために、私たちは、知らなくてはならない。それがたとえ残虐な事件であっても、その暴力性を内包したニンゲンである私たちは、二度とそれを繰り返さないために、知る必要がある。

とても個人的なことだけれど、シチュンの強さには見覚えがあった。私の母もまた、戦争の影響を強く受けた家族に生まれた。傷痍軍人として帰国した祖父と、土方をして家族を支えた祖母のもとに生まれた母もまた、シチュンの言葉尻から漂うあの強さと、厳しさと、あえていうならば暴力的な親としての権力を携えている。その覚えのある手触りに、私はただ感動するのではない、複雑な落涙を頬に感じた。

正直にいうと、舞台の上の韓国の家庭に見え隠れする儒教的な教えに、私は否定的な気持ちを持っている。子は親に従うという教えである。しかしそれはやはり、強さと隣り合わせでもある。親は子の見本であるという矜恃を持って生きるシチュンは、親友の子供達を我が子のように育てる。大人になってからやってきた外国で、シングルマザーとして生きていくこと。戦後の日本で、想像を絶する貧しさの中で、4人の子供を育てるのは並大抵の強さではなかっただろう。私の忌み嫌う親子の間の上下関係は、しかしその過酷さを生き抜く強さを併せ持っていたのだ。それは私が忌み嫌おうと何であろうと歴然としてそこにあった。そうでなくては、彼女たちが生きていけない時代であったことを、物語を通して、少しだけ理解できた気がした。

ただ、それを知ってなお私は、これから、どのように生きていくのか、ということを問い続けたいとも思った。人間は人間世界の中でしか生きてはいけない。しかし、誰かが誰かを力で支配する縦のつながりではなく、自らの弱さを認め、信頼して助け合う、横のつながりを大切にする時代にしたいと強く思う。


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やまぐち・あかね/1977年生まれ。劇作家、演出家。合同会社stamp代表社員。主な演劇作品に、トリコ・A『私の家族』(2016)、『へそで、嗅ぐ』(2021)、サファリ・P『悪童日記』(2016)、『透き間』(2022)、トリコ・A×サファリ・P『PLEASE PLEASE EVERYONE』(2021)など。

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【上演記録】
劇団タルオルム「さいはての花のために」

撮影:金城泰哲

2022年8月6日(土)~7日(日)
インディペンデントシアター2nd
脚色・演出:金民樹
原作「風の声」より:金蒼生


劇団タルオルム公式サイトはこちら

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