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<先月の1本>バストリオ『セザンヌの神鍋山』 文:渋革まろん

先月の1本

2022.10.31


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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《ポスト劇場文化》をめぐる断章──無人駅のプラットフォームから『セザンヌの神鍋山』のざわめきへ


1.無人駅のプラットフォーム

 20世紀の終わり、アーティストの白川昌生は群馬県にあるローカル線の無人駅で、カップ麺のやきそばを食べる《無人駅での行為》をはじめとしたゲリラ的なパフォーマンスを開始した。これをのちに白川は記憶の想起に関わる「無人駅のプラットフォーム」という角度から論じている。


「記憶は、個人と社会とが共犯的に生産する「謎めいた組織体」(ヴァールブルグ)の内部で形成されてゆくものであるから、はじめから両義的である。個人のものでも、社会のものでもなく、記憶は断片的で、さまよい、不連続で、不十分な意味しかもたない状態のまま、身体にやってくる。(…) 無人駅のプラットフォームは不連続な断層として、あらゆる時間がざわめいている場所として出現してくる。」[★1]


 駅は交通のハブになる公共的な場所である。しかし、地方のローカル線の無人駅は利用者数の減少にともない風化して忘れられる運命にある。白川は、そこが忘却に曝される見捨てられた/うる場所であることを逆手に取って、無人駅の公共性を、世俗的な社会規範や権威、マーケットの評価システムから開放された「誰でもない誰かのために存在し続け、また人以外のすべての存在にも開かれている場所」[★2]として読み替える。
 それは経済的貧困や社会的差別の境遇を強いられることで、公の政治的・社会的・経済的な資源や空間へのアクセスから遠ざけられた「マイナー」な存在が、公認されないもうひとつの公共圏を寄生的に生み出すためのパフォーマティブな行為である。上毛電気鉄道が専有する無人駅は、公に認可された使用法──鉄道の乗降場──とは別の仕方で「共同の遊戯」を行うためのプラットフォームとして(勝手に)転用されてしまうのである[★3]。
 観客のいない無人駅でのパフォーマンスを繰り返し行うことで、白川は「誰でもない誰か」に開かれた遊戯的・寄生的なプラットフォームを構想した。ただし、ここで言う「誰か」には、今現在の日本社会を生きている人々のみならず、歴史に記録も記述もされず忘却される無名の死者たちも含まれていることに注意を払いたい。資本主義の経済成長から取り残された地方の無人駅は、「名もなき無数の人々の生活と記憶が染み付いている」[★4]場所でもあるからだ。
 このようにして「無人駅のプラットフォーム」は、社会の監視の目を盗んで密かに行われる共同遊戯によって、個人と社会のあいだに漂う不連続で断片的な記憶を集積させた「謎めいた組織体」を形成し、それを「あらゆる時間のざわめき」として出現させる、想起のメディアとして見出されることになったのである。
 さて、白川が論じる「無人駅のプラットフォーム」から話を始めたのは他でもない、謎めいた記憶の想起に関わる共同遊戯の場所としての無人駅が、《ポスト劇場文化》の劇場モデルを示唆しているように思われたからである。

2.劇場の特権性を基礎づけるライブ空間の《外》はあるか?

 前回のレビューで、私は現実の代理表象を目的とした劇場制度の《外》で行われているパフォーマティブな諸実践を《ポスト劇場文化》の視座から捉えてみてはどうかと提案した。そこで、手塚夏子による「合意のでっちあげ/実験ワークショップ」を取り上げ、「『問い』や仮説を元につくられた実験に共に参加する」ことで、わたしたちが巻き込まれている社会的現実に対する反省を可能にするようなフィクショナルな場を《ポスト劇場文化》における「集まり」の実例として考察した。これはごく端的に言えば、《ポスト劇場文化》の実践(と了解できるもの)が、鑑賞型から参加型に移行するという上演形態の変化に着目した《ポスト劇場》の特徴付けである。
 他方で、より素朴に、劇場外の演劇実践を考えてみようとするとき、まっさきに思い当たるのは野外劇だ。額縁舞台でもブラックボックスでもない、日常と地続きの屋外で行われる──サイトスペシフィックな──上演に《ポスト劇場文化》における演劇の形を見て取ろうとするのは自然な思考の流れである。
 バストリオの今野裕一郎が作・演出を手掛けた──といっても出演者はすべて「作」とクレジットされている──『セザンヌの神鍋山』も、豊岡市日高町の神鍋高原で上演されたサイトスペシフィックな野外劇である。しかし、『セザンヌの神鍋山』において出現する上演空間は、劇場という建造物の《外》にとどまらない、舞台と観客が共有するライブ空間の《外》を空け開くものだったのではないかと考えてみたいのだ。
 パフォーマンスや劇場制度の通念に従えば、それらの形式に固有の本質とは生き生きとした〈いま・ここ〉の現前と共有である。演劇は「ドラマ的なもの」の伝達あるいはセノグラフィ・小道具・衣装・行為などが生み出す多義的な意味の産出のみならず、観客と俳優の直接的な関わり合いから生まれる──予測不可能な──出来事の生成だと言う場合でも同じである。いずれにせよ、〈いま・ここ〉の現前と共有が演劇という芸術的・社会的形式の前提を成している。
 こうしたライブ空間の特権性は、わたしたちが生きる社会的現実の「リアル」を代理=表象する特権的な場所として、劇場の商業的・公共的な価値を根拠づける。「コロナ危機」の中では、「演劇は生きる力です」のキャッチコピーで、国の公的支援の必要性が主張されたが、その主張の前提には、ライブ空間の〈いま・ここ〉はわたしたちのコミュニティに生き生きとした感動と素晴らしい一体感を与える力がある、それゆえに公的支援に値する価値があるという演劇業界内部のロジック=共同幻想がある。そしてその共同幻想が──営利(商業)・非営利(芸術)の如何を問わず──劇場中心主義的な演劇市場/業界を成立させる前提的な基盤を作り出しているのである。
 だから劇場の《外》に出るとは、特権性を帯びたライブ空間の《外》に出ることでもある。ライブ空間のアウラ(真正性)の《外》に出ること、ライブパフォーマンスの共有を通じて、内部(フィクション)を外部(日常)から分割する劇場空間の《外》に出ること、ライブの共有が体感させる民族的・ジェンダー的・階級的……アイデンティティ集団あるいは趣味的サークルの《外》に出ることである。
 ここで次のような疑問を持たれるかもしれない。そもそもライブ空間の〈いま・ここ〉に根拠付けられた劇場の《外》に出るなんて可能なのか? 〈いま・ここ〉に集まった観客に向けて演技/パフォーマンスを行う、そのようなライブ性を欠如させた劇場なんてもう劇場とは呼べないのではないか?
 けれども、少なくとも私の考えでは、《ポスト劇場文化》の諸実践は、劇場文化の圏域において、あまりにも自明で疑う余地のない〈いま・ここ〉の現前と共有に根本的な懐疑の目を向けながら、非ライブ的なライブパフォーマンスという矛盾した劇の形式を手探りで模索している。
 そのような《ポスト劇場》の実践を想像する上で、「無人駅のプラットフォーム」はひとつの理念的なモデルを提示するように思われる。放置された「無人駅」はライブ空間の〈いま・ここ〉に集まる誰かのためではなく、〈いま・ここ〉に現前することのない所属不明・身元不明な誰かのために開かれた演劇/劇場であり、人以外のすべての存在にも開かれた演劇/劇場なのである。
 しかし、だとしても、《ポスト劇場文化》における演劇/劇場を、誰でもない誰かのために存在し続ける、放置された無人駅のように想像してみることは本当に可能なのだろうか? という問いを念頭に置きつつ、『セザンヌの神鍋山』に見出されるであろう演劇/劇場の再定位に切り込んでみたい。

3.『セザンヌの神鍋山』

 『セザンヌの神鍋山』は、9月17日(土)・18日(日)の二日間、山田企画が主催する「滝ヶ原芸術祭ツアー2022 in 豊岡」の一演目として上演された。滝ヶ原芸術祭は2021年に石川県の石切場跡地で初めて開催された「芸術祭」で、その場所に埋もれた歴史的な記憶を背景に、さまざまなパフォーマー、アーティスト、ダンサー、演劇団体が諸パフォーマンスを展開するサイトスペシフィックなアートイヴェントである。
 2022年は、豊岡演劇祭のフリンジプログラムに参加。山田洋平(演出・舞踊)・黒木佳奈(役者)・白石雪妃(書家)・松本一哉(音楽家)による『トク・トケル』、今野裕一郎(作・演出・出演)、それから中條玲・橋本和加子・松本一哉・本藤美咲の作・出演で上演された『セザンヌの神鍋山』、藤木卓(キャスト)・松本一哉(サウンド)・仲悟志(テキスト)による『hakobune』の3本立てで、岩倉古墳、克っちゃん前、神鍋高原体育館の3つのエリアで行われる上演を順に見ていくツアー形式のイヴェントとして行われた。
 滝ヶ原芸術祭それ自体も興味深いイヴェントであるのだが、時間的・分量的な事情もあって、本稿では『セザンヌの神鍋山』に対象を絞ってレビューしていくことにしたい。
 『トク・トケル』の上演が終わった後、チリンチリンとベルを鳴らす本藤の案内に促されるまま、次の会場の古い食堂(克っちゃん)前に移動した観客は、「旅館 嘉一郎ハウス」と書かれた建物に連れて行かれる。そこは──失礼ながら──廃れた観光地によく見られるひどく古びた外観の建物で、一階は食堂になっている。この9月の時点で営業している気配はなかったが、神鍋高原は1920年代から続く歴史あるスキー場なので、冬季限定で営業している、のだろう。兎にも角にも、席についた観客はテーブルに用意された「神鍋の美味しい水」を振る舞われ、しばしの休憩時間に入るのである。
 一面のガラス窓の向こうに見える小高くなった丘を眺めていると、あたかも休憩時間のフレームにぬるりと侵入するように本藤と橋本の劇が始まる。テーブルに座り向き合った本藤と橋本は、その昔に神鍋山を訪問したことがある客とそれを出迎える人というシチュエーションの他愛もない会話を交わしている。かと思うと、ガラス窓の向こうでは、今野が拡声器で「熊」にまつわる神話的なエピソードを語りだし、ちょうど左手の方から白い軽トラが突っ込んでくる。
 一方、食堂内では本藤のサックス演奏がつんのめる子供のような音でゆるやかに立ち上がり、中條と橋本が小麦粉(?)を丸くこねながら、不可思議な議論を繰り広げ始める。彼/彼女らは、この場所が海なのか山なのか、あるいは海かつ山なのかについて意見を交わし、挙句の果てに、海の表面から蒸発した霧状の生命体が重力で落下して木の根元に吸収されたことでこの神鍋山が生まれたのだと、荒唐無稽な神話的想像力において海と山を強引に繋げ、重ね合わせてしまうのである。
 そうこうしているうちに、橋本のアナウンスが挟まり、観客は野外に──いつの間にか──用意されていたパイプ椅子の新たな客席に移動することになる。軽く弧を描いて並べられた椅子の中央にはドラムセットが設営され、パフォーマーはそのまわりで、神鍋山をめぐる3万年の地球史と1万年にわたる人類史、文明の発生から古墳が築造されるほどの社会的な権力機構が発展していく社会史、稲作で切り開かれる自然とそれによって住処を奪われる動物たち、そして畏怖される自然と人間の宗教的構図まで、わずか数分のあいだに恐ろしく高密度な歴史の語りを遂行する。そのあいだも上演にリズムの刻み目を入れていく松本のドラムは、わたしたちと神鍋山の関係を取り持つ触媒となり、神鍋山に潜在する場所性を感覚的なものの次元へと不断に翻訳していくのである。
 ただし、本上演における土地の歴史を掘り起こすアプローチは、神鍋山の歴史を現在のわたしたちに意味のあるものとして語り、正統化する作業では決してない。だからその神話的な語り口も、たびたび口にされる「神様」[★5]という言葉も、共同体の始原的な記憶に遡行することでわたしたちの──日本人の──歴史に本質的な根拠を与えるものではない。
 むしろ、ここでは本稿の冒頭で引用した白川の論述を思い起こしたい。本上演のサイトスペシフィックな記憶の想起は、「断片的で、さまよい、不連続で、不十分な意味しかもたない状態のまま、身体にやってくる」のである。
 その象徴的な言語運用の例を見ておこう。上演も半ばを過ぎた頃、橋本は、水、河、穴、風、葉っぱ、木、人、花、獣と、拡声器を使って諸事物の単語をひとつずつ口にする。それは橋本からそれら諸事物に呼びかけているのではない。逆に、それら諸事物に想像的な主体性、つまりは語るための「口」を明け渡しているのだ。
 そこでは水が、穴が、風が、群れを成す諸事物の断片が「あらゆる時間のざわめき」となり、観客に身体化された記憶に呼びかける。〈いま・ここ〉の共同性を支えるわたしたちの支配的な物語=歴史のうちでは意味の不確定な暗号=ざわめきとしてしか立ち現れることのない「謎めいた組織体」の暗がりからそれはやってくるのである。
 ただ、断片的で不連続な記憶が貯蔵される「謎めいた組織体」は、そういう実体としてあるわけではない(意味的に実体化されるのであればそれはすでに謎めいた暗号の資格を失っている)。その暗がりは、社会的現実を意味づける言語の網の目の内部に実体を持たず、いつもかならず主体的な行為の裏側に生成される混沌の領域である。だからこそ、食堂内での中條と橋本の会話に「お前、だれや」「お前や」「俺でもお前でもどっちでもあるな」という主体の混乱/混線を引き起こすやりとりがあったことは注目に値する。
 速射砲のように放たれるこのやりとりは、相手の台詞に対して食い気味に発話されるが、そうすることで、「俺」と「お前」は主体の未分化な混沌の領域に投げ込まれ、何らかの意味に成りきらない感覚的なものの相互浸透を引き起こす、美的=感性的なプロセスを駆動させるからだ。それは、意味の不明瞭な「あらゆる時間のざわめき」を聴取するための感性的な土台を形成し、諸事物に明け渡される主体の座──ドラマの語り手──の想像的な転移を可能にするのである。
 さて、ここまでの上演分析を次のようにまとめておきたい。彼/彼女らにおけるパフォーマンスは、文化的・社会的に安定した意味の文脈をバラバラにほどいてみせることで、諸事物の側に想像的な主体の座を明け渡し、諸事物の語るざわめきのなかから新たな意味の連関が設定されうるかもしれない不連続で断片的な「歴史」あるいは「記憶」の「謎めいた組織体」を形成する。それは、〈いま・ここ〉に現前するライブ空間の特権性がつねにすでに解体された場所において、ライブ空間の《外》でざわめく諸事物が語りだすための場所を空け開く、謎めいた記憶のメディアとして演劇/劇場空間を再定位するのである。


「無人駅のプラットフォームは、まさにその意味で、無意識が立ち上がってくるためのプラットフォームになる。無人であること、忘却の対象であること、過去の産業の遺産であること、埋没した場所、断片であること等々が重層化することによって、プラットフォームは成立している。」[★6]


あるいは、謎めいた記憶が重層化される無人駅の神経網を張り巡らせていくことは、その生き生きとした現前と感動を担保に、ライブ空間の排他的な共同性をあられもなく隠蔽していく公共劇場の政治性にあらがうすべにもなるはずだと私には思われるのである。

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★1 白川昌生『フィールド・キャラバン計画へ』、水声社、2007年、pp.131-132。

★2 白川昌生『美術・マイノリティ・実践 もうひとつの公共圏を求めて』、水声社、2005年、p.60。

★3 同上、2章を参照。

★4 同上、p.57。

★5 ここで言う「神様」は、いわゆる八百万の神である。民俗学者の上野誠によると、万物霊性を信仰するアニミズム的な原始宗教では、稜線の美しい山はそれ自体が「カムナビ(神の坐す場所)」と呼ばれる聖域として信仰されていた。本上演においては、古来の聖地である「カムナビ」の語音が変化して「神鍋山」になったことが示唆されている。本作も含めたバストリオの演劇では、アニミズムの思想・世界観が重要な参照源のひとつになっていると思われる。本稿では筆者の力不足で踏み込んだ言及は出来なかったが、日本の小劇場におけるオルタナティブな実践が、ほとんど必ずと言っていいほどアニミズムとの関係を深めていくのは何故なのかを問うことは日本の現代演劇を考える上で、欠かせない論点のひとつであると思われる。

★6 白川昌生『フィールド・キャラバン計画へ』、水声社、2007年、p.132。


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しぶかわ・まろん/批評家。「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学」でゲンロン佐々木敦批評再生塾第三期最優秀賞を受賞。最近の論考に「『パフォーマンス・アート』というあいまいな吹き溜まりに寄せて──『STILLLIVE: CONTACTCONTRADICTION』とコロナ渦における身体の試行/思考」、「〈家族〉を夢見るのは誰?──ハラサオリの〈父〉と男装」(「Dance New Air 2020->21」webサイト)、「灯を消すな──劇場の《手前》で、あるいは?」(『悲劇喜劇』2022年03月号)などがある。

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【上演記録】
滝ヶ原芸術祭ツアー2022 in 豊岡
バストリオ『セザンヌの神鍋山』
豊岡演劇祭参加

撮影:田中哲哉

2022年9月17日(土)、18日(日)
会場:神鍋山・嘉一郎ハウス
作・演出:今野裕一郎
作:中條玲、橋本和加子、松本一哉、本藤美咲

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演劇最強論枠+αは、『最強論枠』の40劇団以外の公演情報や、枠にとらわれない記事をこちらでご紹介します。