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<先月の1本>付加体『線』『袖のところにも刷ってもらった』 文:植村朔也

先月の1本

2022.10.22


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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動かずにいるのかと、動かずにいる/付加体『線』『袖のところにも刷ってもらった』評


 東京大学駒場キャンパスのはずれの方にある駒場小空間は縦横およそ16.5mの、がらんとした方形の空間である。天井も7mと、なかなかに高い。平時には客席をつくるための平台がホールの四方にものものしく積まれている。固定式の客席はなくて、公演を行うたびに客席や舞台は一から組まれるのだ。上演空間を設計する際の自由度がそのことで担保されているわけだが、その分仕込みは大変な重労働で、大所帯のサークルでの利用がなかば前提されている。
 さて、平台たちが放っておかれたままのこのホールの片隅に長机が斜めに置かれ、例の高い天井からは見失いそうにか細い白い糸が机の端へとまっすぐに降りている。机の上にはスマートフォンの充電ケーブルが無造作な感じで伸びてもいる。机のまわりには、6脚の椅子。このうち客席は5脚で、これが付加体『線』の上演のしつらえである。
 やがて、出演と美術を兼ねる土田高太朗がやってきて、軽く会釈をしてから糸に近い端の椅子に座る。そしてもの言わぬままスマートフォンにケーブルを挿し、保湿クリームの容器の上端に針で糸を縫い付けてから、この容器を指でそっとはさみ持って、じっとしている。さてこれから何が起こるのだろうと、観客たちもかたずをのんで、じっと見つめている。しかし、表立っては何も起こらない。途中、受付の井出明日佳が席を離れて、扇風機の電源を入れるが、糸は土田の押さえる容器に縫い付けられたままピンと張られているから、特に風にたなびくということもない。それから15分ほど経って扇風機が止まると、それを合図に上演は終了する。

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 土田の主宰する付加体は、いまのところこの駒場小空間を拠点に活動している上演団体である。2022年9月3、4日には昼に『袖のところにも刷ってもらった』、夜に上記の『線』を上演。2021年7月23-25日には各日6時間にわたって『柱を立てる』が上演されている。
 「駒場小空間を拠点に活動している」というのは、もちろんおかしな言い方ではある。駒場小空間は、東京大学で舞台表現を行うサークルの発表の場としての利用がもっぱらであって、単に「駒場の演劇サークルのひとつ」とでもしておくのが自然に思われるからである。
 しかし、そうではないのだ。付加体を主宰する土田高太朗はすでに新聞家の『フードコート』で演出助手、同『保清』で演出の経験を持つ。そして、いま主宰と書いたが、付加体は土田以外に明確な構成員を持つ劇団としてはおそらく機能していない。土田が人を集めて作品を発表するにあたり要請されるひとつの場があり、それに割り当てられた名前が付加体なのだと言える。つまり付加体の実態は学生サークル的ではないし、ごく少人数であるからそもそも駒場小空間を通常の仕方で使用することは難しい。その上でなお駒場小空間がわざわざ積極的に選び取られているのである。

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 さて、『線』で土田はなにをしているのか。ものと人間とが互いに漸近し均衡をとりあうさまを上演しているのだというのは、ひとつ可能な説明であるかもしれない。駒場小空間の天井と、糸と、保湿クリームの容器と、長机と、駒場小空間の床と、それからほかに働いているはずの目立って言表し難い諸力との、その緊張状態を構成する力のひとつとして、自らの身体を呈示しているという風だ。何も起きていないかのように独り合点する目を笑うかのように、そこにたしかに風はそよいでいる。手つかずに積まれたままでいる平台が機能不全を起こして放ち続けている無機質な物質感もこの解釈を後押しする。
 表面的なことだけとりあげれば、他の付加体の作品も『線』に似ている。じっとしているのが似ているのである。『線』の長机が置かれているのと反対側の壁のあたりにはポリエチレンらしき資材を複数枚重ねたベンチがつくられていて、『袖のところにも刷ってもらった』ではそこに出演者の井出明日佳が座り、外へと開け放たれた壁の開口部のむこうを眺めている状態が、やはり15分ほど続く。『柱を立てる』ではその名の通り、駒場小空間の中央部で土田が柱を立ててそのままずっとじっとしている(上演時間は6時間だが、もちろん休憩時間もある)。あまりに動きが少ないので、演劇よりは彫刻かなにかを見ているといった風情である。
 しかし、『柱を立てる』と今回上演された2作品には決定的な違いがある。『柱を立てる』では、土田がそこで行う行為を直接に指示する題が当てられている。土田が台詞の類を発することも特にないために、この題は観客が作品を解釈するにあたって依拠できる数少ない言語情報となる。しかしこの題はそこで行われる行為を同語反復的に指示するものでもあるから、観客からしてみれば、柱が立っているのを視認しさえすれば、そこに見るべきものは他に何もないということにもなりかねない。『柱を立てる』は入退場自由で観客の鑑賞時間が明確に限定されてはおらず、また客席も特に定められていなかったので、観客は劇場の内外を歩き回り、自由にすることができた。そのためか、歌い出す観客もあったということである。土田の行為それ自体はほとんど問題ではなく、観客の能動性の方を上演は主題化しているのだと解釈されたわけだろう。
 対して、『線』と『袖のところにも刷ってもらった』の題はそこで行われる行為を直接に説明しない。特に後者の題は具体的な情景や人間関係、物語をイメージさせる。外の風景を、一心不乱になのか、ぼんやりとなのか、物憂げになのか、とにかくも見つめ続ける井出の視線は、ある種のフィクション性を帯びることになる。視線のもつ意味がどのように解されようと、目は雄弁にフィクションを語る。その意味を確定しきれないからこそ一層その目は雄弁であるとも言える。かくして題は、眼前で行われている行為が演劇の上演であり、一定のフィクション性を持つことを観客に思い出させる装置として機能する。
 そうして土田高太朗の劇は、あきらかにそれとわかる言葉や出来事がほとんどない場所で、それでも静かに生起している行為や状況を見つめ、信ずる場となる。

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 結果的に土田の劇が太田省吾の無言劇と類似する性格を持つことは興味深い。ただし、太田の無言劇では俳優はひどく減速するが、土田に至って身体はほとんど停止してしまう。正確に言えば、「停止する」という動詞が自らを裏切るところまで、行為を突き詰めて遂行してしまうのだ。
 土田を太田と比較するのは、言葉や身体の静けさのためばかりではない。太田のエッセイに、俳優がコップに手を伸ばして水を飲む動作を繰り返すうちに「それらの動作の主語、主体は、ある俳優の身体を通してであるが<類>へと近づいて行ったように思えた。ある俳優の身体が、人類、人間と溶け合うように思い、それを、私は美しいと感じた」と語られている下りがある[*]。ここで問題とされているのは、究極的に単純化された身振りが観る者に普遍を感得させ、個人の主観を超越するかのような説得力を獲得する、主体へのそういうエフェクトである。わたしは、土田のごく単純化された身振りも、このようなリアリズムの見地から説明できると考える。
 もっとも、太田が言うような<類>としての人間であるとか、社会的存在に対立するものとしての生命的存在の呈示であるとか言ったことが、土田においても問題になっているわけではないだろう。このことは、先に確認した『線』の上演のディティールから言っても明らかだと思われる。それに、太田の無言劇が抱えていたとされる言語との葛藤であるとか、沈黙にひそめられた言語の豊饒であるとかは、土田においてほとんど問題とされていない。この事実は、今後の土田の作品が展開する余地のありかを示してはいるかもしれないが、土田の試行は言葉を発さずに舞台に立つことがなんの逆説でもありえないような地点から開始している。

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 いま試行と書いた。それは土田の表現がいまだ完成をみていないとか、そういう含意で言ったのではない。もちろん土田のつくる作品は展開の余地をほとんど無限に秘めているとは思われるが、そこではそもそも完成ということがはなからあてにされていないのである。とはいえ、これは未完成であることへの開き直りを意味するわけではない。
 土田は、作品として名指されたが最後、そのまま安全に流通するものとしては、舞台を考えない。なぜ自分の作品は人を招くというおそろしい振る舞いを正当化できるのか。その根本の前提から土田は疑っているらしいのである。疑いの末に、これなら人を呼べるというしつらえが一応できあがって上演に至るわけだが、そこでは上演の疑い自体が上演されていると言っても構わない。
 このあたりのことは、各回終演後に設けられた、出演者・演出者と観客が輪を囲む話し合いの場で、土田自身が語ったことを参考に書いている。土田によれば、この話し合いの場があることも上演が成立するための必要条件に近しいのだという。
 観客の多くが東京大学の学生、それもたいていは知人に限定され、上演が内輪性を帯びざるを得ない駒場小空間を土田が選択し続けている(しかも各回の客席はわずか5席!)ことも、自覚的な判断と観るべきなのである。内閉的との誹りは免れないかもしれないが、顔の見える相手を主な観客に据えることは現在の土田にとってなんとしても必要なことであり、そしてこの「なんとしても必要」という態度の切実さは、いわゆる内閉的な集団には普通見られない類いのものである。
 上演を疑うために、通常自明視されているそのインフラそれ自体に土田は手を加えている。たとえば、手指消毒用のアルコールには、やけにねばついて手に残るジェルが選ばれる。『袖のところにも刷ってもらった』では駒場小空間にあったという箱馬がそのまま観客の椅子として転用されていて、座りにくい(新聞家の影響を指摘できる。新聞家は『合火』では椅子の創作行為それ自体をパフォーマンスとして呈示している)。長机に6脚の椅子という『線』のしつらえからして、駒場小空間における仕込みの概念を問うものと言える。
 先に、ほとんど微動だにしない振る舞いが、個々人の主観を超える説得力に奉仕しているのではないかと書いたことも、実はこの点に関わっている。土田のリアリズムは、自分以外の他者をその場に招くに値する説得力がどこで発生しうるのかを見定めようとする問いと不可分なのだ。
 土田の上演はわかりやすい完成に向けて急がない。普段完成に向けて暴力的に回収されていくところのもののひとつひとつに立ち止まり、その上で上演が可能になる地点を探っている。わたしは慎重やためらいそれ自体を善しとする判断を通常好まないが、それでも土田の慎重の徹底ぶりには目が覚めるような思いがした。
 『線』の充電ケーブルにはどのような意味があったのかという疑問が、例の終演後の話し合いの場で話題に上がった。それに土田はいともあっけらかんと答えたのである。自分の使用しているスマートフォンは充電が80%に達すると低電力モード解除の通知がくる設定になっているので、ちょうど15分でそれが鳴るように準備をし、終演の合図にしたかったが、低電力モードになるまで充電を擦り減らしてから80%へ復帰させる準備作業が間に合わなかったので、扇風機が停止するのをその代わりとした。つまりこの上演は失敗していたのだ、と。


[*]太田省吾『舞台の水』、五柳書院、一九九三年、‎二七頁。
やがてこれは、同じモチーフを例にとって、「コップを直接的に認識し、表現すること。それが私が考える唯一現代演劇に許された作為である。そこにはあたかも主観は存在しない」と語る平田オリザのリアリズム観へと変形されていく(『現代口語演劇のために』、晩聲社、一九九五年、三二頁)。コップを介して主観を超えるリアリティが説かれることは同じだが、ここではもはや人間が消えている。平田は末尾でわざわざ自身の現代口語演劇理論への太田からの影響を明言しているから、この比較には意味があるだろう。
かくして平田の理論においては、俳優はものとほとんど同一の地平へと還元されてしまう。コップがコップであるという自同律は論理的には必ず失敗するが、感覚の上では非常に疑い難いリアリティを持つ。もちろん平田の理論と実践を区別して考える必要はあろうが、このことは平田のテクストが陰に陽に放ってきた影響力に鑑みてやはり重要だと思われる。
このことが特に問題になるのは、たとえば、俳優、それも他者に不動であることを強いる『袖のところにも刷ってもらった』のような事例だろう。作品の制作にあたっては、俳優にどのような指示を行うことが可能であり、許されるかを検討しあうことに、準備の時間の大半が割かれたという。何度でも繰り返したいが、これはきわめて重要なことなのである。


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うえむら・さくや/批評家。1998年12月22日、千葉県生まれ。東京はるかに主宰。スペースノットブランク保存記録。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。過去の上演作品に『ぷろうざ』がある。

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【上演記録】
付加体『線』『袖のところにも刷ってもらった』


2022年9月3日(土)~4日(日)
駒場小空間(東京大学駒場キャンパス内)
『線』出演・美術:土田高太朗
『袖のところにも刷ってもらった』出演:井出明日佳、美術:土田高太朗

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