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<先月の1本>ヌトミック『SUPERHUMAN 2022』 文:丘田ミイ子

先月の1本

2022.11.24


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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果てしのない人類史、その裾野と先端を結ぶ「アルス」とは


すでに始まっている物語に飛び込むのは、つくづく勇気がいるものだと考える。続いてきた歴史があればあるほどなおのこと、今か、いや次か、と騒がしい心に呼応するように、徐々に強張っていく身体をその端々が感じる。タイミングを刻むつま先、両手の拳の中に当たる爪、思わずぎゅっと瞑った目、荒くなっていく呼吸、速くなっていく心臓。始まるのは物語の続きではなく自分そのものなのだと、自分はここから始まるのだと、共振するフィジカルとメンタルが徐々に知らせていく。それはまるで、一人きりでこの世に生まれる時のようだと思う。ラストに向かうシーン、回り続ける長縄に一人また一人と俳優が入っていく様を見つめながら、そんなことを考えていた。

10月21日〜23日の3日間、都立芝公園 集合広場にて、ヌトミックの野外劇『SUPERHUMAN 2022』が上演された。ヌトミックは2016年に東京で結成されたカンパニーであり、メンバーは主宰で演出家・劇作家の額田大志をはじめ、深澤しほ、原田つむぎ、長沼航の3名の俳優と制作を担う河野遥の計5名。今年2月には、昨年秋の上演作『ぼんやりブルース』が岸田戯曲賞最終候補作となった。額田の劇作家としての躍進はさることながら、作曲家としての活躍もまた目覚ましく、近年は外部公演の楽曲でその名を見かけることも多い。また、10代の若者に向けた新たなクリエーションの学び舎「GAKU」において音楽家・江﨑文武による総合ディレクションの元開講されたプログラム【Beyond the Music】でゲスト講師を務めた際には、「音楽とことば」をテーマに独自の講義とワークショップを展開、石を用いた音から音楽の定義と歴史を遡るといったその試みは非常に興味深く、芸術や表現の発生や原点を見つめるそんな額田の眼差しは、今作『SUPERHUMAN2022』でも色濃く抽出されていたように感じる。
観劇後にまず感じたことは、「アルス」であった。「芸術」の語源の一つである「アルス」は、ラテン語で「自然に対置される人間の技」を意味する(※諸説あり)。水が生まれ、火が生まれ、それらを使う人類が棒を手にした時に知恵や技が発生するという冒頭のシーンは、まさに芸術のはじまりが技術であることを告げるようであった。ホモ・サピエンスとしての “HUMAN”をタイトルに銘打ち、人類が持ち得るあらゆる所業に目を凝らし、耳を澄ませた『SUPERHUMAN 2022』。タイトルに呼応した壮大な人類史、しかし限りなく身近なところへと着地したその演劇についてもう少し詳しく紐解きたい。

秋の盛りを謳歌する木々に囲まれた広場に、夜と少しの冬のにおい、そして枠のない劇場と枠にとらわれない演劇が溶け出していた。頭上で煌々と光る東京タワーのてっぺんは遠く、その向こうに広がる空はさらにさらにと果てしなく、見上げるほどに自分のちっぽけさを思い知る。その視線をまっすぐ前へと向けた時、そこに在ったのは一人の男、土の上、風の中に解放された人間の身体。それが演劇の「はじまり」だった。
男(Aokid)はこちらに向かって話しかける。今しがた客席の自分がそうしていたように、頭上を仰ぎ、宇宙、からの地球、からのアジア、からの日本、東京、港区、芝公園と現在地をたどっていくセリフがある。ビルを指し、コンクリートの成分はカルシウムで、それは人間の体と同じであって、だからこの街はおおよそカルシウムなのだと男は言う。地面に立っていながら鳥瞰するように今いる場所を確かめる男は声を、言葉を繰り返す。それはやがて海へと辿り着き、「歩み」は「泳ぎ」へと形を変え、再び芝公園へと着地する。そこに一人(原田つむぎ)、また二人(深澤しほ・長沼航)と人間が現れる。手に木の棒を持った者がいる。その棒で文字を書くことも、別のものを作り出すこともできるが、同時にそれがやがては武器として使われ、戦いの起源になることも示唆しており、「戦争」が今この瞬間にもこの世に横たわっていることをひやりと握らせる。「こうして、こうやって、棒、棒を使うことを、人は、覚えました」というセリフの後、広場に点在していた俳優が各々叫ぶ。「SUPERHUMAN!」「SUPERHUMAN!」。そこに音楽が挿入される。「合言葉はおはようございます」と繰り返す『SUPERHUMANの歌』の最後の歌詞は、「宇宙にはまだいけない でも平泳ぎはできるよ」であった。ここまでがこの演劇のプロローグ、つまりは「人類のはじまり」であり、目の前には4人の俳優とトラックの上の2人の楽隊(東郷清丸・額田大志)が出揃っていた。冒頭10分ほどで、この演劇のタイトルが一人または複数の人間を指す「PEOPLE」ではなく、人類全体を指す「HUMAN」である意味を、具体的なセリフをほとんど無くして確かに知らせていたのであった。

そこから、人類だけではなく獣たちも現れる。十二支の動物が順に叫ばれた後、十二支には含まれない類人猿が石を叩き、火が生まれる。そうして、水と火が誕生したその後にあったのは「人類史」から一転、「日常」のシーンであった。
女(深澤しほ)と男(長沼航)が職場で話をしている。シフトの提出を尋ねた時に同僚が突然泣き出した話を女が幾度となくリフレインするシーンには、日常が否応なく繰り返されることと、そこに漠然と浮上する生への不安が滲んでいた。次なるシーンでは、そんな生への不安を打破するべく「エンパワーメント」が語られるが、そこにもまた葛藤がある。「こんなことしてなんになる?」と、“今抱えている状況、環境、東京、体の不安”をただ歩き続けること、やがて走り出し、そして時に歌い踊ることでどうにかしようとするけれども、そうやって生きるだけではどうにもやっていけないほど「日常」もまた果てしがなく、女は“地球の反対側まで泳いでいくぞ”というパワーで、必死に自身を「エンパワーメント」する。「終末みたいな世界で、誰かにとっては公園のゴミ箱に捨てられることを、呟かれたり、囁かれたり、怒られたり、するする毎日」と語る女は、紛れもない2022年10月を生きていて、そんな日々すらも猛スピードで過ぎていき、時折彼女は「そんな今も悪くないか」と折り合いを付けて日常を生きていく。たった一人で膨大な長台詞を、決壊する水の流れのように独白するその様は、この「人類史」の最新が決して一筋縄ではいかぬ日々であることを、そして、人間は詰まるところは孤独なのだということを脈々と告げていた。女は私そのものの姿であるようにも思えて、そう思った途端に、無論「HUMAN」と「PEOPLE」は相互に含み合っているのであって、壮大な人類史が身近な人間史と表裏一体であることを思い知る。

しかし、日常でそうあるように、孤独な人間にもふと「出会い」は訪れる。そのシーンは、人と人の会話ではなく、女(深澤しほ)とひよこのパペット「ピヨ助」(原田つむぎ)の会話として表現されており、ピヨ助は女に向き合い、「幸せ」について語る。友達が1000人欲しい。社長になってお金持ちになりたい。モテモテになって結婚したい。オリンピックやワールドカップにも出てみたいし、スペースシャトルに乗って月の石を持ち帰って、いつかは空だって飛んでみたいけど、そのどれも、自分は人ではないからできないのだ、とピヨ助は言う。「あなたなら、友達1000人作るのもできるじゃないですか?」「100人なら作れるんじゃないですか?」と。そして、「私は、あなたの友達になれますか?」と。そこに突如「うおー」といううめき声が響き渡る。これもまた恐らく人間ではない。得体の知れない怪獣にも見えるし、不測の災害であるようにも見える。その登場によって舞台美術が倒れ、ピヨ助は横たわり、人間たちがその場に立ち尽くしたところで音楽が流れる。東郷清丸の『キ・た・い』というその歌が、風に羽毛が舞うような柔らかさとゆるやかさでその場を包む。「ずいぶんと沢山お別れをしたね こんなにも僕ら軽くなって いまにも ふわりと 浮かび上がりそうさ」という詞で始まったその歌にあったのは、大切な話を小さくしかし確かに耳打ちをするようなギターと声色の中にあったのは、これまでの人類史の大きさと対照的な人類そのものの小ささであった。大きな何かによって物体が質量を失っていくこと、いつかは気体となって浮かび、舞い、飛んでゆくしかない、ヒトの無力さと儚さが音の中に滲んでいて、私は再び、頭上にそびえる東京タワーを、さらにさらにと続く空を見上げたのである。私たち人類は果てしなく、そしてたまらず小さくて、唯一で孤独であるそのことがどうしても心許なく、しかしわずかに誇らしくもあり、思わず隣に座る9歳の娘の手を強く握った。音楽が終わり、再び広場に「SUPERHUMAN!」という声が点在していくのを、手を繋いだまま見つめた。「なんとか、こうして、やってきた」、「おはよう」、「こんばんは」と各々の現在地から断片的な言葉が拡がった後、全員が一斉に「ここに生きていること」を確かめ合うように同じセリフを同時にユニゾンとして発していた。声は重なり、太く、強くなる。不可避の孤独を寄せ合うことで、根本的には孤独のままでも、心はどこか頼もしくなっていくような「エンパワーメント」がそこにはあった。そうして、冒頭と同じように男は再び海へと飛び込み、そこは遥か宇宙へと通じていき、一つ大きくジャンプをして、2022年10月の芝公園へと舞い戻る。その着地は終幕の知らせでありながら、誕生の瞬間であるようにも見えた。広場では長縄が始まっている。一人、二人と俳優がその縄の中に入っていく。なかなか入れない者がいる。縄につまずく者がいる。その都度、他の者から「大丈夫大丈夫」の要領で「スーパースーパー」という掛け声があがる。「スーパースーパー」を聞きながら、私は「スーハースーハー」と隣に座る娘を産んだ時を思い出していた。同じように、かつて母親がそうして送った呼吸を頼りに狭い産道をくぐり抜け、ここに生まれ着いた時のことを思っていた。

制約の多い野外劇、その75分の上演時間で全ての演者が人間が生まれながらにして持ち得る身体表現の可能性を、「アルス=自然に対置される人間の技」として光らせているように感じた。Aokidのパフォーマンスには身体というよりも肉体の解放、その野性味を堪能し、原田つむぎの瞳の光の強さに火を、長沼航の叫びに産声を、深澤しほの口から溢れ出す言葉には、言葉が声として出る前の何かが忍ばされているようだった。東郷清丸と額田大志の奏でる音楽には、地面や空気と同期したその振動に本能が突き動かされるような体感があった。壮大で、だけども身近で、フィジカルでありメンタルであった表現の数々と、広場の地面の硬さや草の柔らかさ、東京タワーを飛び越え続く無限の空、そこに吹く冷たい冬の風、そして、冷えた身体の外側と人の発する熱量で温まった心の内側、その全部が劇の一部であったように思う。頭に向かって理解させるのではない、むき身の感覚に触れ、触れさせるような演劇だった。大人だけど、産まれたてのような、そんな感触がいつまでも残った。

回り続けている縄の中にたった一人飛び込むのは、つくづく勇気がいるものだと考える。長縄が大の苦手で時折学校を休んでしまう娘は、この演劇をどう見つめていただろうか。彼女が感じた全てを正に理解することはできないが、果てしのない人類史とされど身近な人間史を通して、その小さな日常が励まされる瞬間がゆくゆくでもあればいいな、と親心に思う。ちなみに娘が観劇後に真っ先にしたことは、木の棒で地面にピヨ助の友達をできるだけたくさん描く、ということだった。「100人描く」と張り切った。人類の起源が一人の人間の誕生であることは言うまでもないが、私も、娘も、誰しもがその始まりと終わりを一人で迎える。生まれるときも、死ぬときも、あまつさえ長縄に飛び込むときすらも私たちは一人であって、果てしのない人類史を尻目にどこまでも孤独に、しかし力や技や心を寄せ合いながら、こうして続く唯一の日常を生きていく。だとすれば、私たち人類は、時としては素晴らしい集合体、“SUPER HUMAN”であるのだろうか。あれるのだろうか。武器があれば戦いを始めてしまう残酷さや、いつかは気体となって消えてしまう脆弱さを内包しながらも、「宇宙にはまだいけない でも平泳ぎはできる」人類は、「スーパースーパー」と自分や他者を鼓舞したり、「できること」をそれぞれの技として補填し合いながら、どうしようもないこの物語を、少しでもどうしようもなくならせるために生きていくことができるのではないだろうか。ピヨ助といつの間にか大勢に増えていたその仲間たちを縄のようにぐるりと囲む娘を見つめながら、そんなことを考えていた。



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おかだ・みいこ/フリーライター。2011年から雑誌を中心に取材執筆活動を開始。演劇、映画などのカルチャーを中心に、ファッション、ライフスタイルなど幅広く手がける。エッセイや小説の寄稿、詩をつかった個展も行う。

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【上演記録】
ヌトミック『SUPERHUMAN 2022』


2022年10月21日(金)~23日(日)
都立芝公園 集会広場(23号地)
構成・演出・音楽:額田大志
出演:Aokid、東郷清丸、長沼航、原田つむぎ、深澤しほ、額田大志

ヌトミック公式サイトはこちら

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