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<先月の1本>8.22企画『さくらんぼ畑』 文:山口茜

先月の1本

2022.11.24


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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「曖昧さを抱えて生きる」


「さくらんぼ畑」が上演されると聞いた時、私はぼんやりと「チェーホフにそんな戯曲があったんだ」と思ったのを覚えている。恥ずかしい。そこからは何も考えずに日々を過ごして当日劇場に入り、芝居が始まってやっとそれが「桜の園」の新訳であることに気がついた。

今回のアントン・チェーホフ作「さくらんぼ畑」は、俳優である杉江美生さんが立ち上げた8.22企画のプロデュース公演である。杉江さんはこのユニットを、自立した俳優たちが研磨に勤める場所として立ち上げたという。演出に山口浩章さんを招き、堀江新二さんの新訳本「さくらんぼ畑」を台本として京都のTHEATRE E9 KYOTOで上演された。

さくらんぼ畑の領主であるラネーフスカヤを杉江美生さんが演じ、兄のガーエフを元・劇団M.O.Pの酒井高陽さん、商人であるロパーヒンを遊劇舞台二月病の松原佑次さんが演じるなど、関西で活動する様々な出自かつ様々な年代の俳優が参加した。そのことも、よくあることようで実はとても大変なことで、演出やプロデューサーの苦労は計り知れない。

さてこの作品については、以下3つのことについて主に言及していきたい。

①題名を含む新しい翻訳とその解説について
②俳優の演技と演出について
③俳優がプロデューサーを兼ねたことについて

(いつもと書き方が違うのは、この公演の戯曲が、演劇関係者の間では非常に有名なチェーホフの代表作であることを理由とする。つまり、前提として読み手が「桜の園」のあらすじを知っているつもりで書く。知らない方には非常に不親切だと思うが「桜の園」は図書館に大抵ある本だと思うので、気になった方は手にとってみてください)

①題名を含む新しい翻訳とその解説について

私はこの戯曲の題名を堀江新二さん、ニーナ・アナーリナさんがご自身の名にかけて「さくらんぼ畑」として翻訳、刊行されたことに心から敬意を表する。日本ではチェーホフといえば「桜の園」である。チェーホフの代表作である作品の、日本でよく知られている題名を変えてしまうのは、とても勇気がいったと思うからだ。でもそう言う挑戦をしてくださったおかげで、私は改めて、この本にとってこの題名はどういった意味があるのかを考えることになった。新訳というのはこういう気づきを与えてくれる。私個人としてはこのことについて調べたり考えを巡らせる時間を取ることができて、それがとても幸せだった。

劇中で老従僕のフィールス(辻登志夫さん)が、さくらんぼの食べ方について話し出すところがある。「このままじゃ、桜の園は競売にかけられてしまうんですよ」と商人であるロパーヒンに告げられ困ったり拒否したりする兄と妹の横で、さくらんぼを加工して売ればなんとかなるかもしれないというニュアンスで喋り続けるフィールスがとても面白くて、こういうところがまさに「喜劇」なんだなと思わされる。

加工したさくらんぼを売るぐらいではもう焼け石に水の、膨らんだ借金のことが感覚的に捉えられないのは実はフィールスではない。この劇の主人公であるラネーフスカヤと兄のガーエフなのだ。彼らは何かを「貸し出す」とか「売る」ということ、つまり商売に関心が持てない。そしてそのこと自体が、没落という悲劇を招く。しかし本人たちにとっては悲劇であるこのエピソードがフィールスの言葉で喜劇になる。兄妹の無垢で鈍った金銭感覚を、一つ一つ収穫して干し、荷台に積んで売れたなら・・・!

「桜」が富の象徴だとしたら「さくらんぼ」は現実だ。その現実をタイトルに据え、その側からこの作品を捉え直してみてはどうかという堀江さんの提案に、私はとてもワクワクした。そして終演後にその新訳の戯曲を手に入れたので、いくつか別の翻訳本と比較してみた。堀江さんは、一度聞いただけではわからない言葉をなるべく伝わるように腐心されていた。例えば「きゅうり」。ロシアではきゅうりといえば、みずみずしくて張りがあって若い、という意味だそうだが、日本語話者にはそれが伝わらないので「食べちゃいたい」と書き換えたり、ロシアや北欧で非常に一般的に飲まれる「クワス」を「何か飲み物」という風に書き換えたりされている。そう言った一つ一つの言葉の変更で、異国情緒あふれる「桜の園」は、現実味のある「さくらんぼ畑」へと確かに変容している。

その中でも特に良かったのは、ラストのフィールスのセリフだ。せっかくなので他の訳と比較してみる。

「一生が過ぎてしまった。まるで生きた覚えがないくらいだ。」(神西清 訳)
「生活は過ぎてしもうたで、まるで生きておらなんだように」(湯浅芳子 訳)
「わしの人生もこれで幕が降りる。なんだか生きてこなかったような気がする。」(堀江新二、ニーナ・アナーリナ 訳)



私にはこの「生きてこなかったような気がする」という言葉が、とても印象的だった。「まるで」というのは比喩だが、「気がする」は体感だ。フィールスが、体感としてこのセリフを吐くことで、それはとても主観的でありつつ、同時に、まだ知り得ない、死を覚悟した人間の感情を生き生きと伝えてくれる。少しのニュアンスの違いで観客の側にまったく違う体験がもたらされる好例だと思った。

最後に、これは上演とは関係ないが、購入した戯曲に書いてあったことにどうしても引っ掛かりがあったのでここに記しておきたい。ラネーフスカヤの年齢設定の理由を「戦後はまだ恋する年齢として十分納得のできる30代後半から40代の女優がこの役を演じることが増えてきた」という文章(下線は著者による)。これは堀江さんの意見ではなく、事実あるいは所感として書かれたことだろうとは思うが、あえてここについてはツッコミを入れさせていただきたい。いつの時代も、どんな人であっても、例え100歳でも、恋をする人は恋をしませんか。あるいはこれが「恋される対象として」という意味であれば、尚更。だからラネーフスカヤの年齢設定を30代後半から40代前半に設定することの理由は、「恋できるかどうか」ではなく当時のロシアでは10代の後半で母になる人が多かった、の一言で良かったと思う。

②俳優の演技と演出について

1幕で旅から戻ったラネーフスカヤ一行の、大仰な登場は、センスの良い衣装も相まってとても魅力的だった。すでに漂っている没落の気配を、全く感じ取っていないことを象徴しているようでもあって、素晴らしかった。

一方で、この劇を見たことで、この戯曲の登場人物の造形の難しさを痛感したので、それをこの紙面上で検証していきたい。まず最も難しいと感じたのがロパーヒンだ。ロパーヒンは「商人」で、劇の冒頭からずっと、このさくらんぼ畑を所有しているラネーフスカヤらに、この土地を別荘として貸し出すように提案し続ける。そうしないとあなた方はこの畑を失いますよ、と言うのだ。しかしラネーフスカヤは久しぶりのロシアに興奮していて、ロパーヒンの心配が受け止められない。そして二人はすれ違うのだが、セリフでは、彼は幼い頃奴隷の自分に親切にしてくれたラネーフスカヤを慕っているらしいとわかるものの、実際に会っている二人の身体から、その間にあるはずの親愛が伝わってこない。そのことが、なぜ、ロパーヒンがこのさくらんぼ畑を守ろうとするのかがわからないことにつながってしまっていた。

けれども、ではどうすれば良かったのか、考えれば考えるほど、私にはわからなくなってしまう。だってラネーフスカヤは、恋人をパリに置いてきた上、久しぶりの我が家に興奮しているのである。いくら親切にしてやった相手とは言え、これまでずっと奴隷だった相手を目の前にして「今そんなこと考えていられない」と言いながら彼に親愛の情を示すのは至難の技だろう。一方でロパーヒンも、いったいこれが彼にとってどこまで自分ごとなのか、設定がとても難しいと思う。代々、奴隷であったのは事実だが、時代は変わり自分はすでに稼いでいて、お金の心配はない上、恋愛すらままならないほどの忙しさの中で、どうしてここまで「過去の主人」のことを思いやるのか。例えば恋をしているのかもしれない。でも、それを俳優が十分に表現する台詞がない。あるいは恋とまでは言わないが貴族という地位にいた人に憧れていたということはあると思う。でもそれもやっぱり、あの戯曲を用いて俳優がそのように表現するためには、演出家が戦略を俳優としっかり共有することが必要だろう。

説得しても説得しても応じない領主たちのせいで、具体的な対策が練られないまま競売の日はやってきて、最終的にはロパーヒン自身がこのさくらんぼ畑を落札する。そしてこの状況を「不幸」だと言い捨てるのである。冒頭で、ロパーヒンが恐れていた事態になったのだろう。台詞上の辻褄はあう。しかし、実際の行為としては、これからさらに商人として儲ける可能性を手に入れたのだ。何を悲しむことがある?

そう、彼は、ラネーフスカヤの一家が財産を失ったことに寄り添っているのである。しかしなぜ?それほどの愛を感じていたことが、ここまで全くわからなかったので、私はこの結末をどう受け止めて良いか分からなくなる。すっかり迷子になってしまう。しかしそれでもまだ、養女と結婚するならまだわかる。でも、養女との結婚にも、彼はほとんど無関心なのだ。

そう、このシーンにも大変に難しさを感じた。彼には周りが恋仲かもと噂する相手がいて、それがラネーフスカヤの養女、ヴァーリャ(保田麻衣さん)である。ラネーフスカヤにプロポーズするように言われ、ロパーヒンは劇のラストあたりでヴァーリャと二人きりになるのだが、「偶然」自分を呼ぶ声に遮られて出ていく。彼はなぜ、決断しなかったのだろうか。それが悪目立ちするほど「偶然」出て行ってしまうのだ。ちなみに戯曲の上では、偶然かけられた声に「ほっとして」出ていくと書いてある。でも今回の演出では、明らかに、たまたま、返事をしたように見えた。なんならまた戻ってきてプロポーズを再開したかもしれないと思わせるようなほど、偶然に見えたのだ。つまり、どうでもいい、何にも考えていない、というメッセージが伝わってきたのだ。しかし、ではなぜ、彼は、ロパーヒンは、ヴァーリャと二人きりになったのか。それはラネーフスカヤに言われたからだ(ここでもやはり、出てくるのはラネーフスカヤだ)。

一方ヴァーリャは必死になってプロポーズされるのを待っている。必死なのも実は不思議(なぜならそこまでの劇の中で彼女がロパーヒンと結婚したがっていることが台詞以外で伝わってこないから)だがそれはおいておいても、問題は、二人の間に、交わされる駆け引きが見えないことなのだ。ロパーヒンの中に、プロポーズしようとする気持ちと、それを恐れる気持ちが、どれぐらいの配分で在ったのか、それを観客に見せないまま、完全なる偶然で出て行ってしまっては、やはり煙に巻かれた気分になる。

さらにこれ以降、この件についてラネーフスカヤは一切言及しない。あれだけ心配していたはずの娘、ヴァーリャの結婚が、うまくいかなかったことを、彼女は案じない。しかし案じないはずはないので、そこは台詞はなくともどこかで表現せねばならなかったのではないか。

ここまできて、最近読んだ『情報を正しく選択するための認知バイアス事典』に書いてあったことを思い出す。人には「システム正当化バイアス」というものがあって、曖昧なことを嫌うらしい。それが良い事でも悪い事でも、はっきりしていないと居心地が悪いので、「人種や性別に基づく社会的な地位の高低や、社会制度から生じる貧富の差など、自らの努力でどうにもならない事柄であるのにもかかわらず、これらの属性によって不利益を被っている」人たちが、曖昧から逃れるために「そのシステムそのものに価値を見出し、そのシステムを正当化しようとする」というのである。(『情報を正しく選択するための認知バイアス事典』(著者:情報文化研究所、出版:フォレスト出版)より/下線は著者による)

ロパーヒンは、優しかった主人ラネーフスカヤと奴隷である自分の関係が、完全に終わってしまうことを危惧していたのではないか。そうなることで、自分の人生を、自分の中にある愛を、自分でコントロールしていかなくてはならない恐怖に足がすくんでいたのではないか。

ではそれを俳優は、どう表現すればよかったのだろう。例えば、ロパーヒンが吐く台詞の内容は必死であるものの、身体的に急いだり焦ったりしていなければ、彼の中の複雑な心情が浮かび上がってきたかもしれない。あるいは逆でも良い。努めて冷静に語ろうとしているが、体が常に貧乏揺すりをしているなど、言葉と身体が引き裂かれていれば、言葉では言い表せない複雑さを身体に内包して存在することができたかもしれない。それはもちろん、ヴァーリャにも言えることだ。

ところでこの舞台では、ロパーヒンにもヴァーリャにも、喜劇のために奉仕する身体の型のようなものが指示されていた。

例えばロパーヒンが、ロシアに戻ったラネーフスカヤを迎え、親愛の表現として抱擁しようと手を広げるのだが、ラネーフスカヤはそれを受け止めずに通り過ぎる。これがこの上演の中で、完全な型となって何度か繰り返される。もはやロパーヒンは抱きしめようとするのではなく、手を広げているようにしか見えなくなる。

またヴァーリャは、ロパーヒンから上着をかけてもらう時に「あなたと結婚したい」という期待を身体で表現する。ロパーヒンに背を向けてじっとするという、動物なら何をされてもおかしくない体勢にとどまりながら、「期待の滑稽さ」を忠実に表現しようとするあまり、ヴァーリャ自身の、身体から本来発信されるはずの不安や警戒心をかき消してしまう。

どちらも滑稽さを伝えたいという欲には見えて、しかしその込められた観客からの笑いへの欲求が、俳優たちの心身の複雑さの造形を邪魔していたのかもしれないと思った。

また、同じく、使用人である女性ドゥニャーシャ(河合祥子さん)の造形にも疑問を持った。私には「尻軽女という演出」に見えたからだ。仮に尻軽と呼ばれているとしても、そこにも血の通った人間としての深い心情があるのは誰にも理解してもらえると思う。尻軽と思われているからと言って、生への切実さがないわけではない。それは他者から見たその人であって、その人自身の中には、何か切実に生きる理由がある。それを見つけ出して、演出は、俳優と共に立ち上げていく必要があるのではないかと思った。この舞台では、よくある、頭が悪くて少し親切にされただけで男にホイホイついていき、邪険にされても追いかけ回す迷惑な女にしか見えず、彼女がなぜ、どうやってこの劇の中で、激動の時代を生き抜こうとしているのかがわからなかった。

一方で、ラネーフスカヤの唯一の実子であるアーニャ(広瀬ふゆさん)が母をまっすぐに愛しており、母が世間知らずのお嬢さんであっても、見捨てず大きな愛で包んでいることはとてもよく伝わってきたし、また、死んだ長男の家庭教師であったペーチャ(秋江智文さん)との純愛もとてもよく伝わってきた。ペーチャとロパーヒンが哲学について話すところはこの舞台の白眉と言ってもよく、不安を抱えながらも自らの力で前に進もうとする若い人たちの複雑さがよく伝わってきた。老従僕のフィールスの佇まいも素晴らしく、演じた辻登志夫さんはまだ腰が完全に曲がる年齢でもなかったことを思い出して、老人を演じ切る身体能力に驚愕してしまった。

戯曲や演出の上でも、フィールスは最後まで、ガーエフの服装による温度調節の心配をしていることが非常に印象的に語られており、この幼さが貴族の子孫の証であり、そして没落の証拠なのだなと感じることができた。戯曲の素晴らしい綿密さと、演出と、俳優の能力が合致したポイントだった。

なお、遠慮なく批評したが、演じておられた俳優さんらはいずれも、出てきた瞬間に目を引く非常に存在感のある方々だったことを記しておく。本当に、お芝居が始まった直後に「どこからこんな魅力的な俳優さんたちを連れてきたのか」と思ったのだ。

演出の山口浩章さんにはぜひ、もう一度この戯曲に取り組んで欲しいと思った。

③俳優がプロデューサーを兼ねたことについて

他にも、俳優が中心となって立ち上げたユニットやカンパニーはたくさんあると思うが、これまでずっと、誰かの企画、どこかのカンパニーの作品に出演していた俳優が、事実上初めて立ち上げたユニット、しかもその目的が自立した俳優の鍛錬の場ということで、その勇気と行動力にエールを送りたいと思う。自分のやりたい戯曲を持ってきて、タッグを組みたい演出家や俳優を招き、自らも俳優として舞台に立つことは、本当に大変だったと思う。まさに、ロパーヒンが直面した「曖昧さ」に、直に向き合うことになる。俳優であったときは、自分の役を中心にみていた杉江さんが、この企画を立ち上げたことで、全ての部署の仕事の進捗を見ることになる。それらは膨大かつ曖昧で、いつも捉え所のない不安を杉江さんに与えたことだろう。潰しても潰しても現れる課題と、自分が決断しなければ何も決まらない不安に幾度となく晒されたことだろう。

でもそうやって、全てを引き受けることで新しく見えてくる世界があるのではないか。その世界を目撃する前と今とでは、俳優として見える世界も変わったのではないか。多くの演劇関係者が知るチェーホフの作品を台本として選んだことも挑戦だ。なぜなら観客の目が厳しくなるからだ。そう言ったことも相まって、実行すること自体に大きな意味があると思えた企画だった。


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やまぐち・あかね/1977年生まれ。劇作家、演出家。合同会社stamp代表社員。主な演劇作品に、トリコ・A『私の家族』(2016)、『へそで、嗅ぐ』(2021)、サファリ・P『悪童日記』(2016)、『透き間』(2022)、トリコ・A×サファリ・P『PLEASE PLEASE EVERYONE』(2021)など。

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【上演記録】
8.22 企画プロデュース公演
さくらんぼ畑

撮影:村上信六

2022年10月28日(金)~30日(日)
THEATRE E9 KYOTO
脚本:アントン・チェーホフ
演出:山口浩章
出演:杉江美生 広瀬ふゆ 保田麻衣 酒井高陽 松原佑次 秋江智文
池山説郎 高橋映美子 北村守 河合祥子 辻登志夫 澤田誠
岡田眞太郎

8.22企画公式サイトはこちら

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