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<先月の1本>Co.山田うん『In C』 文:私道かぴ

先月の1本

2023.01.31


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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「ダンスがわかる」とはどういうことか?~「わかる」の先の身体性へ~


作品を「わかる」というのは一体どういうことだろう?
2022年末、「わかる」という言葉についてずっと考えていた。直近に自劇団で実施した公演の感想に「わかる/わからない」という単語がたくさん入っていたからだ。
「作品の意味が全然わかりませんでした」という怒りと悲しみの入りまじった声。「私にはすごくよくわかりました!」という興奮気味の意見。こういった感想を見る度に静かに混乱した。観客が「わかる/わからない」という巨大な定規を持って、客席から作品を計測している画が浮かんだ。気づけば、創作する側が考えている以上に、一般的には「わかる」ということが作品の良し悪しを判断する基準になっていたのだ。

その点で言うと、『In C』という作品は、観ることを決めた時からどこか「自分にはわからないかもしれないな」という諦めのようなものがあった。何せ、テーマがミニマル・ミュージックなのだ。『In C』は1964年にミニマル・ミュージックの創始者、テリー・ライリー氏が発表した作品で、「53の断片を演奏者が任意によって演奏し、単純な反復やわずかな音型変化などによって展開していく、ハ長調(コードC)の楽曲。この音楽の誕生は、それまでのクラシック音楽の文脈から離れ、現代音楽の枠組みを広げることに成功し、新しい音楽を作り出していこう、という運動を生み出していった」(パンフレットより)という。
音楽についての知識が乏しい私は、残念ながら何度読んでもこの文章の意味がわからない。作品の主な構成要素である音楽がわからないとなれば、目の前で繰り広げられるダンスを手掛かりにするしかない。12人のダンサーの身体から何か読み解かなければ、この作品を「わかる」ことはできないのだ。

作品は、いわゆる「客入れ」状態から始まっていた。席に着く頃にはすでに数名のダンサーがゆっくりとした動きで、岩のようなオブジェクトを持って舞台上に登場していた。巨大な岩は横一列に並べられ、運んできたダンサーたちは少しの間だけ岩の向こう側(客席からは岩の影になってダンサーの身体は見えない)にとどまった後、ゆっくりとした動きのまま左右の出入り口に去っていく。観客の中にはその様子をじっと見つめている人もいたし、「まだ作品は始まっていない」と見なしているのか、手元のチラシに視線を落としたままの人もいた。舞台上の照明は左右から一灯ずつ照らしているだけなので、「今、絶対に舞台を観て下さい」という風でもない。客席の時間と、舞台上の時間が優劣なく流れているようで心地が良かった。岩が並んでいく様子をぼーっと見つめていると、徐々にひとつひとつが繋がって見えて、大きな壁画を前にしたような気持ちになってくる。岩を運んだりする人々の様子から、いつか遺跡となるべき巨大な建造物のようにも思えた。
すべての岩の設置が終わると、客席を照らしていた照明が落とされ、岩をスクリーンとしてプロジェクションマッピングが始まった。岩の上に光の線が何本も走り、文様を出現させるのを見て「ああ、これが遺跡に見えたことは間違いではなかったんだな」と思う。ある意味では「自分はわかったのだ」と感じた瞬間だった。

しかしその後は、シーンの展開とともに、わからないことがどんどん増えていった。突如パキッと照明が明るく切り替わると、一人の女性を中心に置いて、ダンサーたちが音楽と共に左右の出入り口から一斉に走り出てきた。ベージュを基調にした衣装は全員共通していて、ただ少しずつデザインが違っている。髪型はいずれもきちんと固められていて、何人かは頬を赤く塗っている。そのすべてを「解読しなければいけない記号」のような何かとして、見た。ダンサーの衣装デザインに込められた意図は何か。頬を塗っているダンサーと塗っていないダンサーの違いは何を意味するのか。そもそもこの振り付けのひとつひとつは一体何を表わしているのか…。けれど、そうした謎を一向に解読できないまま、躍動する踊り手の身体がスピーディーに場面を進めていく。

途中、あるシーンが印象に残った。男女のダンサーが出会い、身体を寄せ合う場面だ。そこで見た動きは、おそらく抱擁だった。しかし、今まで見たどの抱擁よりもロマンチックで、それでいて歪だった。それは、一般に想像される抱擁のイメージのように、手や顔から相手に近づくのではなく、お互いの胸どうしを寄せるようにしてからの密着だった。静止画としての身体のかたちは確実に抱擁だったが、それぞれが決して最後まで相手に体重をゆだねることはなかった。密接な関係を示しつつも、肉体は緩和することなく常に緊張が張り巡らされていて、そしてお互いの身体は完全に独立しているのだ。とても奇妙で、美しい抱擁だった。

さて、私はなぜこのシーンに抱擁を見たのだろう。一つの考えが浮かぶ。作者から物語を提示されているようでいて、実は観客である自分自身が勝手にそれを「抱擁」と解釈して物語を読み込んでいただけではないか?
こうした解釈を引きずったまま舞台上の現象を観察していると、その先にも所々に男女の愛別離苦の物語が挟み込まれているように見える。唐突に現れた白い大きな花のような小道具も、自分の中の物語を保管してくれるアイテムとなった。
となると、感情を過度ににじませないダンサーたちの表情もまた、差し出された情景と自らの解釈した物語を観客が自由にすり合わせられるように、意図して演出されたものだったのだろうか。結局、各シーンから作者の意図が読み取れたとは言えない。一方で、「もしかしたらこう読めるのかもしれない」というシーンが幾度も現れるうち、自分なりの「わかる」を発見していく実感が得られたのだった。

ただ、こうして作品の余白に何とか積み重ねてきた解釈は、あるシーンで徹底的に破壊されることになる。
それは終盤、完全暗転の後にダンサーたちが色とりどりの民族衣装を身に着け、アジアンな音楽に乗りながら全員で正面を向いて踊り出す場面だった。突然盛り上がった音楽と、目に鮮やかな派手な衣装と、リズムに乗って舞い踊るダンサーたちの肉体を目の当たりにして、自分の中の何かが完全に吹っ飛んだ。それまでの神妙な空気からの突然の転換に「なんで!」と驚く。楽しそうに踊るダンサーたちが、全然わからない!
突如、笑いがこみ上げてきた。わからない。わからなさが炸裂している。しかし、とにかく解釈できないこのシーンが一周まわって楽しくて仕方がない。一度には視界に捉えきれない12人の躍動する身体を目の前にした時、人はこんな気持ちになるのか。それは、自分ではどうにもできない自然現象を目の当たりにした時の感覚に似ていた。そこからは考えるのをやめて、ただこの場のエネルギーを全身で浴びようと思った。

作者が伝えようとしていた物語はわからなかったが(そもそも音楽に関する解釈を半ば放棄しているので当然ではある)、しかしある意味では完全にわかった。舞台上で起こることは、観客が自分勝手に「わかっていい」のだ。舞台が始まる瞬間は自分で決めて良いし、「そう見えた」と感じたのならその物語に乗っていい。それは、抱擁そのものを描くのではなく「そう見える」振付が施されている本作だからこそ気付いたことだった。
「わかる/わからない」についての見方はこれで大きく変わった。自分が作る側に回った時に意識するべきは、「わかるように作ること」ではなく、観客が「自分勝手にわかること」ができるものを創作することなのだと思う。その余地を残しておくことは、作品の豊かさにも繋がるのではないか。おそらく、作家でさえも作品のすべてをわかっていることはないのだろうから。
観客の想像力を信じているからこその演出を、力強く感じられた2022年最後の鑑賞体験だった。


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しどう・かぴ/1992年生まれ。作家、演出家。「安住の地」所属。人々の生きづらさに焦点を当てた会話劇や身体感覚を扱った作品を発表している。身体の記憶をテーマにした『丁寧なくらし』が第20回AAF戯曲賞最終候補に、動物の生と性を扱った『犬が死んだ、僕は父親になることにした』が令和3年度北海道戯曲賞最終候補に選出された。国際芸術祭あいちプレイベント「アーツチャレンジ2022」において映像作品『父親になったのはいつ? / When did you become a father?』が入選。

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【上演記録】
Co.山田うん『In C』

※2022年10月KAAT神奈川芸術劇場<大スタジオ>公演より

2022年12月28日(水)、29日(木)
スパイラルホール
振付・演出・美術:山田うん
出演・共同振付:飯森沙百合、河内優太郎、木原浩太、黒田勇、須﨑汐理、田中朝子、角田莉沙、長谷川暢、西山友貴、仁田晶凱、望月寛斗、山口将太朗

Co.山田うん公式サイトはこちら

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