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<先月の1本>『セクシードライバー』 文:植村朔也

先月の1本

2023.01.31


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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映像を演劇と呼ぶ


 2022年は映像と演劇の蜜月だった。岡田利規の〈映像演劇〉シリーズはもちろんとして(『階層』『ニュー・イリュージョン』)、10月にはスペースノットブランク『再生数』が上演されているし、とりわけ12月は豊作で、今回紹介する毛皮族『セクシードライバー』のほか、ARICA+越田乃梨子『終わるときがきた』[*1]の公演も打たれている。小池博史による映画作品『銀河2072』の公開もこの月だった。
 2020年にはCOVID-19の影響で現実の劇場での公演が困難になり、映像表現を主とするいわゆる「オンライン演劇」がにわかに急増した。そこでは「映像で演劇を上演する」ことを社会から強制された消極的な選択肢とするのではなく、むしろ新しい表現のための条件として積極的なものに転化していくことが必要だった。しかし多くの作家はその境地には至らず、結果としてオンライン演劇などという言葉はいまや死語になりつつある。
 しかし、それではあの時期の種々の取り組みはすべて無駄に終わったのか。むしろ、「オンライン演劇」とは、それが成功裏に終わったとき、自らの名を捨て去る類いの舞台だったのではないだろうか。外部からの強制の印象が失われたとき、それはオフラインの裏返しというネガティヴな意味を脱するのだ。
 COVID-19が、映像を舞台芸術と名指すことがいかに可能かという問いを提起したことは確かである。そしてその問いは、COVID-19以前から映像表現と舞台芸術の関係性についての思索を表現に落とし込んでいた作家たちを中心に、一定の成果を呈し始めているのではないか[*2]。



 毛皮族『セクシードライバー』は主宰の江本純子の手で書かれ、2009年に初演された同名の作品の再演で、初演時の出演者は安藤玉恵と前田司郎。わたしは当時小学五年生で、観ていないのだが、今回の公演で販売されていた戯曲にあたったところ、物語に変更はほとんど加えられていないようだ。
 東京のはずれ、湾岸埠頭付近の工事現場に、女がひとり。タクシーに携帯を置き忘れてきてしまったらしく、公衆電話で相手をとっかえひっかえしながら運転手を見つけ出し呼び出そうとする。その努力はぶじ実を結ぶのだが、相手の運転手は忘れ物を届けた代金として12870円もの高額をふっかけてきて、いさかいになる。
 職場の女性への男の恋慕や、女がわざわざ湾岸埠頭くんだりまで出かけてきたそのワケなどが話を推進していきはするが、そこで交わされる会話の中身はごくくだらないもので、それなのになぜか惹きつけられてやまない会話のウィットに作品の妙味がある。男と女の間には一瞬ラヴロマンスの空気が流れはするが、それもあっけなく回避される。劇的な物語の起こりそうにない見捨てられた場所で交わされるおしゃべりは、からっぽではあるが、それゆえに過剰でもあり、その過剰が愛すべきものとして感じられてくるのが作家の手腕である。
 第54回岸田國士戯曲賞の最終候補作品にノミネートされているが、選考委員による選評はこのからっぽぶりを批判する論調が目立つ。立体的な構造に乏しいコント演劇であるとの評価だ。
 本稿が紹介したいのは、2022年にこれを再演するにあたって江本が導入したアクロバティックな立体的構造である。
 なお、以下では、作家の冗談めいた言葉遊びをマジに受け取るという方法をとることにした。くだらないマシンガントークにめっぽう真摯な真情を隠してしまいがちな作家の作品を評するのには、これが自然な方策に思われたからである。



 さて、タイトルの元ネタ、映画『タクシードライバー』では、ベトナム戦争から帰還した兵士が不眠症に陥り、タクシー運転手の仕事を始める。心的外傷を抱え、堕落したアメリカ社会にもうまく馴染めない彼は、やがて現実との接点を喪う。そこでは都市の風景を平板化するタクシーのフロントガラスが映画館のスクリーンの喩として機能している[*3]。
 『セクシードライバー』の運転手は作中でタクシーに乗車しない。男と女のやり取りはタクシーを降りた湾岸埠頭で交わされるのである。映画『タクシードライバー』よろしく都市に生きる人々の孤独を表出しはするが、窓やスクリーンを介したコミュニケーションの不可能性という問題は、ここでは浮上してこない。初演の時点では。



 『セクシードライバー』再演のしつらえはそうとうに奇妙だった。
 劇場に入ると、作・演出の江本純子が「観客ひとり」なるふざけた名前の謎人物のていで、マイクでしゃべり散らかしている。いわく、この人物は友人のユキちゃん(公演チラシには劇団アンパサンド所属の俳優菅原雪が「協力」とクレジットされているが、関連は不明)の誘いで野外劇の上演にたったひとりの観客として立ち会った。そして、その野外劇の様子をカメラに収めたものを上映したのが今回の『セクシードライバー』だというのだ。
 だからこれは素直に『セクシードライバー』の映像化作品と呼べる代物ではない。しかし、再演された『セクシードライバー』の野外劇を観客ひとりが撮影した、というのはあくまでも設定に留まるわけだから、今回の公演を記録映像の上映会と呼ぶわけにもいかない。ここでは映像を演劇と名指す手つきによって、再演という概念が問いに付され、もてあそばれているのだ[*4]。
 実際、映像を演劇と名指すとき生じてくるのは、観客が観るものよりも演出家の観るものの方がより迫真的で、ライブ性があり、大雑把に言えば、より舞台らしいという事態だった。では、なぜこちらの方を舞台と呼んではいけないのか? もちろん、ここでまず問われているものこそがこの「舞台らしさ」なのだが、しかし同時にこの問いは、制作過程の表現それ自体をむしろ上演とみなす思考を自然と引き寄せ、舞台芸術の上演一般の枠組みを根底からぐらつかせるのだ。このことをかたちに落とし込んだ点で、『セクシードライバー』の再演は特筆に値する。

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 2022年3月26日、27日には、森下スタジオで『セクシードライバー』のオープンリハーサルが実施されている。わたしも招待されて足を運んだが、そこでは5種のさまざまな席が用意されていた。①観客おひとりシアター②セミナーシアター③ホームミニシアター④お茶の間シアター⑤キャンプシアター。詳述は控えるが、各席にはそれぞれ別のスクリーンが与えられていた。ひとつのホール内に5つの別々の映画館が並立するような状況だったのだ。対して、12月の本番では、座席の種類にばらつきこそあれ、このような空間の分断の印象はやわらいでいる。スクリーン数は減少し、いずれも大きな画面で、空間をおよそ三つに区切ったのだが、視線は全体的におおよそ劇場の中心近くに集中するつくりになっていたように思う。
 江本純子が「観客ひとり」と名乗るとき、作家の特権性を放棄して、観ることを観客と同じ水準で実践していく意思表明がそこで行われているのは明らかであるように思われる[*5]。しかし、たとえば「観客1」というのと、「観客ひとり」というのとではニュアンスが大いに異なる。前者はワンノヴゼムだが、後者は唯一の観客である。ひとりで劇団を回すから「劇団ひとり」。「観客ひとり」もひとりで観客を回すのだ。であれば、チケットを買ってスクリーン越しに舞台を眺める観客たちとこの人物は明らかに別モノ、別次元に属しているのであって、同じ種類の観客とは言えない。
 種々多様な客席を用意し、それぞれに個別にスクリーンをあてがうことは、作品経験を複数の上演に分裂させ、劇場での観客の経験と、湾岸埠頭での「観客ひとり」の経験を同列に扱いうるかのような感覚を発生させる効果をもつ。
 逆に、12月の本番に上記の変更が加えられているのは、作家に「観客ひとり」としての自覚が芽生えたことを示唆してはいないか。12月の『セクシードライバー』は、『タクシードライバー』のように、スクリーンを挟んだ二つの時空間の連続性というよりはその距離をこそ対象化する作品へとかたちを変えていたのではないか。



 映像は全編長回しで、カメラを持つ作家の身体と目を強く意識させる。車道をおそれて歩道に留まることがカメラの向きを強く制限するようなシークエンスなどは、特にそうだ。そして、カメラが映すのは劇場のいま・ここで観客が観ている景色でもあるわけだから、作家の目と観客の目はひとつの対応関係に置かれることになる。問題は、この一致がどれだけ信じられるのか。
  実はこの『セクシードライバー』の上演にはひとつの仕掛けが施されている。音声に事前に録音されたものを用いておらず、その場で出演者みずからアテレコを行っているのだ。オープンリハーサルの時点では、いま観ている映像が実はリアルタイムで「上演」されているものだったと知るこの知覚的なショックは大変印象的だった。そして、このことが事前に明かされていたのが、オープンリハーサルから12月の本番への、第二の主要な変更点である。アテレコは劇場の中央部で行われ、観客に気づかれやすくもなっていた。
 劇場の中央で騒がしい出演者たちのアテレコの声は観客の視線をスクリーンから散らす。視線の矛先は二極化し、「観客ひとり」と自らの身体の間の決定的なズレを、その耳を以て体感させられることになるのだ。



 劇が終わり出演者たちがカメラの外へ去ってもなお、作家の目は波止場の風景を見据えてじっとしている。やがてカメラは動き始める。「観客ひとり」が歩き始めたのだ。
 ここで、映像の主役が物語から「観客ひとり」へと全面的に移行する。この人物はいったい何を考えてここにたたずみ、歩みを進めているのか、そこに観客の思考は自然とフォーカスされていくだろう。
 ここにおいて、観客と「観客ひとり」の位相のズレは決定的なものとなる。物語が後景化していくことで、「観客ひとり」と観客の位置する時空の相違が立体的に前面化する。
 カメラを回す作家の目が見ていたのは、湾岸の夜景にネオンが発する、消えゆく煌びやかな光だった。きざな物言いに聞こえるかもしれないが、午前三時に開演し、夜明けとともに終演するこの野外劇の記録において、ネオンの光は実際に消失してゆく。
 と、突然音楽が爆音で流れ出す。やけにバブリーでインチキくさい感じの服を着た江本、いや「観客ひとり」が、ノリノリで歌い始める。生演奏のライヴパフォーマンスだ。その様子はカメラでリアルタイムでとらえられ、波止場の映像にオーバーレイしていく。
 湾岸埠頭にはむかし、有名なディスコがあった。あった、といっても、芝浦GOLDもジュリアナ東京もわたしが生まれる前にはバブル崩壊のあおりを受けて閉業しているから、知ったかぶりにすぎないのだが。「観客ひとり」のバブリーなパフォーマンスは、湾岸の地のこの狂騒の記憶を再現するものだが、突然かつ素っ頓狂なその叫びは、上滑りして聞こえることも辞さない構えだ。
 「観客ひとり」の撮影した野外劇は2021年春に上演されたとのことで、BUoYでの上演の時点からは無視できない時間差がある。そして、繰り返しになるが、『セクシードライバー』が書かれたのは2009年で、作中登場するガラケーは私たちをすこしギョッとさせる。
 この複数の時間を、上演は安易に連結しない。むしろ、(わたしには)ノリようのないバブルの80年代に飛んでしまう。異質な複数の時空間がぎこちなくつぎ合わされて、うるさい。観客は作家の目へと時に無意識に同一化し、時には作中に描かれる東京のはずれの孤独に共感さえするだろうが、それはやがて裏切られる。「観客ひとり」も、男と女も、ネオンの光も、やけにばらばらにから騒ぎしているのだ。そうであるがゆえに、時間は安易に現在へと抽象されることなくその姿をあらわにする。保存されていた野外劇の上演は、かくして再生された。

[*1]同作の公演情報はARICA名義のものとARICA+越田乃梨子名義のものとに分裂している。実情は不明であるが、映像作家の越田についてARICAと同等の立場となすかどうかということが、作家の名義において問われていたとみられる。後者の名義が用いられるようになったのは公演直前のことである。
映像作家との共同作業において映像を主とした演劇を制作するとき、それを映像作品ではなくあくまで舞台芸術作品と名指すことは、創作の主導的な立場を舞台芸術作家が専横する方便にもなりかねない。江本純子やスペースノットブランクの作品の場合、映像の監督にあたる立場を演出家が兼ねている。逆に、この協働の問題には映像を演劇と名指すことのスリルが宿っているはずでもある。
[*2]なお、本稿ではオンライン演劇をきわめて狭い射程で扱ってしまっているが、もちろん他の角度からの議論もあり得る。たとえばオンライン演劇とその他の舞台芸術表現を比較した際に前者の重要な特徴となるのはその身軽さである。あらかじめ劇場という場所を押さえる行為は費用や稽古時間の面で制作を大きく規定するが、オンラインにはこうした場所にあたるものがおよそ存在しない。
この点でオンライン演劇は、劇場での公演よりもむしろ野外劇と比較されるべきである。実際、野外劇に処するような気軽さと身軽さがなければ、経済的にも継続性が危ぶまれる。ただし、偶然の観客を想定しづらいという目立った相違点がある。
このことが了解されていれば、オンライン演劇は依然、意欲的な実験を促す肥沃なフィールドと考えられるように思われるが、どうか。
[*3]齋藤環は『心理学化する社会』のなかで、80年代から90年代にかけてハリウッド映画がトラウマ的なモチーフを露骨に利用するようになったことを指摘している。このような心理学化した映画においては「「問題提起」の切実さも影をひそめ、トラウマは物語を進行させる要素の一つにすぎなくなって」(文庫版19頁)しまいがちだが、そうした事態は『地獄の黙示録』や『フルメタル・ジャケット』のようなベトナム戦争ものに顕著であるという。
1976年に公開された『タクシードライバー』では、デ・ニーロが抱えるベトナム戦争の後遺症=PTSDは常に暗示されるにとどまり、物語の推進力として安易に利用されることはない。また加えて、映画を観ることの経験が、現実から目を背けさせて悪しき状況を維持する気晴らし的なセラピーの効果を発揮しうることを予言的に描き切っている点で、きわめて先駆的かつ重要な作品といえよう。
[*4]なお、2023年1月25日現在、江本のTwitterアカウント名はなおも「江本純子 “観客ひとり”」。観客ひとりの観劇は続く、のだろう。
[*5]2020年に発表された『あのコのDANCE』は、観客と江本の平準化や映像の使用の点で、今作と比較されてよい(拙評がある)。
演出家を観客と同列化する操作は、集団制作論へのわたしの関心からも重要である。興味のある向きは参照のこと。「リレーショナル・シアター その後:「観る演出」の問題系」


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うえむら・さくや/批評家。1998年12月22日、千葉県生まれ。東京はるかに主宰。スペースノットブランク保存記録。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。過去の上演作品に『ぷろうざ』がある。

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【上演記録】
『セクシードライバー』

撮影:EMIRI HABAKI

2022年11月30日(水)~12月4日(日)
北千住BUoY
作・演出・映像:江本純子
出演:遠藤留奈、鈴木将一朗、江本純子

『セクシードライバー』公演情報サイトはこちら

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