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<先月の1本>ほろびて『あでな//いある』 文:丘田ミイ子

先月の1本

2023.02.28


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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『「滅び」のその奥、その後に立ち上がるものは』


○劇評の前に○

<先月の一本>での執筆も今月で10本目になる。ひと月前の上演作品を振り返りながら、自分の感じたことや解釈を言語化すること。脳内や心の内で劇場での記憶を再生させること。それらの時間には作品に再び出会い直すような体感があり、思考を深める中で訪れる“気づき”は、演劇との出会いをより濃く彩る瞬間そのものでもあって、とても貴重な時間だと痛感している。
一方で、「劇評」と呼ばれるものの意義や役割についても考える機会が増え、私は自分のレビューが果たして劇評として成立しているのか、という問いをも抱くようになった。そんな折に、座・高円寺が主催する劇場創造アカデミーの公開講座として劇評講座が開講されることを知った。講師は批評家・ドラマトゥルクで演劇批評誌『紙背』の編集長の山﨑健太さん。これまで山﨑さんの劇評をガイドに演劇への理解を深め、自分では紐解けなかった作品の側面を知ることが多々あった私は一念発起でその受講を決めた。
講座は約半年間、ほぼ隔週のペースで開講された。第一回の「劇評とは何か」に始まり、WEB上で公開されている映像、野外劇、古典作品、現代演劇など多様な作品の観劇を通して劇評を書いた。提出したそれぞれの課題に対し、山﨑さんが手厚いコメントを戻して下さることはもちろん、講座内で互いの劇評に対して受講生のみんなで意見や質問を交わし合う時間は、これまで一人では辿り着けなかった演劇への視野が一つ二つと増えていくような豊かな経験であった。
ほろびての『あでな//いある』は、劇評講座の最後の課題だった。私がかねてより心惹かれ、新作を心待ちにしているほろびての演劇であるが、今回の劇評講座を通して、その劇世界は自分が思うよりずっと広く、深く、いくつもの視座を持ち得る作品であるということを痛感した。受講生の方々が書いた劇評はそれぞれその人にしか持てないようなまなざしに溢れていた。情景を編み出すように美しい言葉で物語を再生する人、自分と同じ景色を見ていたとは思えないような切り口から登場人物の背景を掘り起こす人、客観的な根拠を以て戯曲や演出の根底に流れるものを詳らかにする人……。つい感情のままに筆を走らせてしまう自分にとっては、目を開かれるような思いになるものばかりで、感動するとともに、家で一人静かに落ち込んでしまうこともしばしばであった。自分のレビューに対して、堂々と「劇評を書きました」と言えるにはまだ時間がかかりそうだ。それでも、やっぱり自分なりの劇評を書きたい。書いていきたい。そんな気持ちで今筆を執り直しているところである。
これらの半年間の経験と講師である山﨑さんに頂いたコメントの数々を踏まえて、最後の課題に改稿を重ねることにした。そうして仕上がったのが、今回の<先月の1 本>である。劇評講座の受講は、演劇最強論-ing<先月の1 本>での執筆がもたらした一つのきっかけでもあった。「劇評講座」という学びの場に出向くことでしか得ることができなかった経験についても併せて記しておきたい。今回はそんな思いでこのような前置きをさせてもらった次第である。言うまでもないが、私が<先月の1本>においてほろびての『あでな//いある』を選んだ理由はもちろんそれだけではない。これまでと同じく、1月に観た“特に書き残しておきたい1作”として、劇評を通じて今一度その魅力を振り返れたらと思う。

俳優で劇作家の細川洋平によるソロカンパニー「ほろびて」。世界で起きる様々な問題やそこに生きる個人の日々を独自の眼差しを以て掬い上げる様がその魅力であるが、一見突飛な設定から物語が進行することもその特徴だ。身近な人間を操作することのできるコントローラーを巡って誘導が支配や暴力へと変わる様を描いた『コンとロール』、昨年上演された『苗をうえる』では、片手が刃に取り代わってしまった少女を巡り、加害と被害の複雑な側面やヤングケアラーがその人生において背負わざるを得ない犠牲と重責をあぶり出した。 “非現実的”な設定にやがて、自分がこれまで把握していた以上の社会の“超現実”を突きつけられる。そんな作品群を指折り思い返しつつ、新作への期待と少しの恐れを胸にその開幕を心待ちにしていた。

『あでな//いある』。聞いたことのない言葉である。さらに気になったことは、中央にある二本斜線「//」だ。そして、この記号への解釈が私にとって本作を受け止める一つのキーとなった。

舞台下手には椅子と可動式棚が一つずつ、その仕様から美容室であることが見て取れる。上手にはテーブルがあり、それらの背後には爆撃の後を彷彿させるような無遠慮に形の崩れた外壁がある。美容室には髪を短く切りたい男・いべ(内田健司)が現れるのだが、美容師(伊東沙保)の相槌すら許さぬトークが続き、男はなかなか髪を切ってもらえない。過去作品の突飛な設定に対して、よく見る風景にコミカルをもまぶしたような形で物語が始まったことは意外であったが、間もなく、非現実的な事象は起こる。マッサージを担当するアシスタント・リンがその場にいる体で美容師は会話をするのだが、舞台上には誰もおらず、その振る舞いにいべは戸惑いを覚える。ここではいべと同様観客にもその姿は見えない。しかし、間も無くリンを演じる俳優・吉岡あきこが舞台上に現れ、観客はリンがその場に存在していることを理解する。しかし、いべには未だどうしてもその姿が見えないようなのだ。いべは「本当はリンさんっていないんじゃないかなっていうのが僕の答えです」と結論づける。

場面が変わり、上手のテーブルに油田(鈴木将一朗)と雨音(生越千晴)の二人が座る。「おかえり」、「ただいま」というやりとりと、「花束はまだ?」というセリフから、その場が3人の暮らす家であることが想像できる。雨音がバイトをクビになったことなど他愛ない会話がしばらく続いた後、花束(中澤陽)が帰宅。花束は背中を酷く痛めているが、その理由は明かされない。この日は油田の誕生日でサプライズが執り行われるが、彼はどこか居心地が悪そうに自室に入っていく。
その後、時間軸が前後しながら、登場人物の人生の背景が立ち上がってくる。リンと油田がかつて同居していたこと、いべと油田が元同僚であったこと、美容室を訪れた雨音にはリンが見えていること。その施術中に話題にあがった「カトマジャペニール」という料理への共通認識などを通じて、いべと美容師以外が他国からの移住者であることが明かされ、「この国の人間ではない彼ら」が「見えない存在」として扱われていることが痛切に浮かび上がってくる。劇中では示されていなかったが、調べたところ「カトマジャペニール」はクルド料理であり、雨音やリン、油田や花束のルーツが中東、またはその料理を知り得る国であるらしいことが伺えた。油田や花束は過酷な労働を強いられており、雨音は妊娠を告げた途端に婚約相手と音信が途絶えるなど労働以外のことでも不当な扱いを受けていた。
そして、いべの髪を切る目的が「軍へ入る準備」であることを明確に伝えたことにより、いべにもその存在が見え、かつ、 いべが見えない存在をもが見える唯一の存在である美容師は、かつて自身がテロ事件に居合せたことを告げる。「私は、あなたの髪を切りません、私は自分のはさみやバリカンを、そういう人のために使いたくない、使わないと決めたんです」という言葉をはじめに語られたのは、9.11を想起させるようなテロ、それらがもたらした凄惨な死であった。舞台上部から無数のスーパーボールが落とされ、劇場内を紙飛行機が横断する。それは無差別に命が奪われ、その破片が宙を舞う瞬間であるように見えた。その国には美容師の友だちがいて、友だちの推しがいて、その推しは友だちの産んだ次の命、つまり子どもであったけど、今はもうその子もその子が落書きを描いた塀もない。そうして美容師はいべの断髪を固く拒み、その場にいた全員にクリームパンを差し出し、「四人で、食べるんです」と力強く告げる。椅子に腰を下ろし、静かにクリームパンを口にしたいべは一言「ずっと、、、いましたか?」と、先ほどまで見えなかったリンと雨音に向かって言葉を投げる。

タイトルが拒絶・否定を意味する「a denial」の平仮名表記であることを観劇後に知った。その間を区切る「//」については明言されていなかったが、私はかつてその記号を数学の授業で見たことを思い出していた。それはAB//CDなどと示される平行記号である。その時、今しがた見届けた演劇が強烈な現実味を以て胸の中で再び立ち上がっていくのを痛感した。
「見えないものとして扱われる人々」と「見えないものとして扱う人々」は平行してこの世界に存在していること。そして、それらは意図的ではなく、無意識下で行われていること。そんな風景こそがこの演劇が見せた目をも覆いたくなる“超現実”であったのではないかと感じたのである。終盤で男は「そこには誰もいない!」と半ば発狂するように叫ぶが、そのくらい当然に、あたかも幽霊にでも怯えるような切実さで不在を主張していた。その様子には、見えない側の現実をただ「いけない事象」として伝えるのではなく、拒絶や否定、そしてそれらが招く分断が、人間が生来持たざるを得ない暴力性として横たわっており、双方の現実が平行的に存在し、並行的に進行していることをつぶさに拾い上げていたように感じる。

いべを演じた内田が無意識下にある人間の暴力性を指先への力の入れ方に至るまで緻密に表現していたこと。それらを受けて、あるいは直接的なセリフでは受けずとも鈴木、生越、中澤、吉岡がそれぞれ体現した外国人労働者、移民者の日々のリアリティ。そんな俳優たちの細やかな表現によって、双方の存在の手触りはより色濃く伝わってきたように思う。そして、いずれも「見える」存在として、ウクライナ国旗を彷彿させるブルーとイエローの衣装を纏い、対立や分断によって滅びゆく世界の気配を内包しながら今起きている歪みへのもどかしさを一身に背負った伊東沙保の緩急を極めた声色や崩れゆく笑顔が一際心に残った。「見えないものとして扱う人々」の暴力性はやがて「見えないものとして扱われる人々」の命をも奪ってしまうこと。人間の誰しもが持ち得る拒絶や否定という行為が戦争の発端に通じていくことを想像し、その恐ろしさを生々しく体感した瞬間であった。

平行的に存在する世界の残酷なまでの普遍さと、そこに立ち上がる人間の可視と不可視、それを無意識下の選別によって行ってしまう人間の暴力性。その側面が丁寧に紡がれることで、物語の実感は終幕後もなお加速しながら劇場の外へと、今の世界へと接続していくようだった。鮮やかなまでに姿を見せた “超現実”を前に、その余韻はやがて、果たして自分は「見えている」のだろうかという自問に成り代わった。「突飛だ」と感じた物語は見覚えある景色へと接続し、やがて他人事では済まされぬ痛切な実感を握らされていた。滅びて、その後どうなるのか。そんな世界への終わりなき眼差しをカンパニー名に込めた「ほろびて」。今作で改めて、私はその劇作の核心と強度に触れたような気がしている。



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おかだ・みいこ/フリーライター。2011年から雑誌を中心に取材執筆活動を開始。演劇、映画などのカルチャーを中心に、ファッション、ライフスタイルなど幅広く手がける。エッセイや小説の寄稿、詩をつかった個展も行う。


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【上演記録】
ほろびて『あでな//いある』

撮影:渡邊綾人

2023年1月21日(土)~29日(日)
こまばアゴラ劇場
作・演出:細川洋平
出演:鈴木 将一朗、伊東 沙保、内田 健司、生越 千晴、中澤 陽、吉岡 あきこ

ほろびて公式サイトはこちら

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