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<先月の1本>篠田千明『まよかげ/Mayokage』ワーク・イン・プログレス公演・展示 文:渋革まろん

先月の1本

2023.03.31


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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隣人には怪物の影


 舞台芸術のオルタナティブな実践のなかでもとりわけ気まぐれな風のような動き方を、言い換えれば、予定調和なライフコースを外れた独異なる動きを見せているのが、演劇作家・演出家の篠田千明ではないだろうか。『まよかげ/Mayokage』は、篠田が発起人となり、「ワヤン」の人形遣い、ナナン・アナント・ウィチャクソノとアーティストのたかくらかずきに声をかけて始まった共同制作のパフォーマンス作品。2023年11月に予定されているジョグジャカルタ公演に先立ち、2月10日〜12日に京都芸術センターでワーク・イン・プログレス公演&展示が行われた。

 ワヤンとは、インドネシアのジャワ島やバリ島で今も上演されている伝統芸能。福岡まどか『ジャワの芸能ワヤン──その物語世界』によれば、影絵を始めとした人形劇、仮面劇、舞踊劇を含めた芸能ジャンルの総称で、それらの多様な上演形態の中でも主流を占めるのが、ワヤン・クリットと呼ばれる影絵の人形芝居ということになる。

 たかくらの制作したドット絵の「カラ人形」、ナナンのダイナミックな人形繰りとスクリーンに投影される影絵のスペクタクル、場面の情景をうねらせる西田有里の心躍る演奏、そして上演の世界に観客を導いていく篠田のポップで親しみ深いナビゲート。篠田・ナナン・たかくら・西田の共同作業は、パフォーマンスの楽しみを存分に含んだコンテンポラリーな「ワヤン・クリット」を結実させた。また、インドネシア・ジャワ島の伝統芸能を、ジャワ出身のナナンとの協働で再創造するという意味で、本作をインターカルチュラルな演劇実践のひとつに数えられるかもしれない。

 一方、本作のうちに「間文化的な交流や越境」の“気負い”がまるで感じられないことが、このクリエイションの特徴を逆説的に照らし出しているように思える。「『まよかげ/Mayokage』は日本とインドネシアを出自とするアーティストによる国際共同制作である」と言うことには違和感があるのだ。

 確かに、二つの国に出自を持つアーティストが参加しているのだから「国際的/インターナショナル」と言える。あるいは、二者の相違を文化的背景の差異として理解すれば「間文化的/インターカルチュラル」と言える。しかし、本企画のHPに掲載された「『まよかげ/Mayokage』創作のきっかけ」という文章を一読すれば、本作が国家や文化のスケールというより、個人的な関係のスケールにおいて成立したことが伺い知れる。

 企画の発端は、コロナ禍に揺れていた2021年に、篠田が「たった今は無理でもこの先、私自身が見てみたいと思うライブパフォーマンス」を考えようと思い立ったこと。そこで篠田は、まず過去に座組を共にしたことがあるナナンとたかくらを誘おうと決めた。その後、ナナンの家で飲んでいるときに魔除けの儀式「ルワタン」の話で盛り上がった。さらにたかくらとナナンのあいだで「神様の図像」をめぐる関心が飛び交い、「魔除け」をテーマにした今回の企画が走り出した。

 篠田が魔除けをテーマにした作品を構想してメンバーを集めたのではない。その逆である。セゾン文化財団の助成を受け、京都市の施設である京都芸術センターを利用しているとはいえ、この企画は特定の団体・機関の組織的な決定によるわけではなく、あくまでも個人的なつながりの会話から生まれ、その性質をクリエイションに持ち込んでいる。

 篠田とナナンはもちろん、仏教をコンセプト/モチーフにしたデジタル作品の制作を手掛けるたかくら、インドネシア国立芸術大学への留学でガムラン演奏・歌を学んだ西田、この二人の視点・来歴・専門的な技術は、国際共同制作によって価値づけられる文化的越境や異文化間の交流、相互理解のために動員されるわけではなく、ただそれぞれの視点から影絵芝居の「ワヤン」がつくりなおされるプロセスに参与し、そのプロセスに複数の息吹を吹きこむ。いわば、国家、民族、文化の境界を超えることが自己目的化しておらず、常にすでに境界は超えられ、内部に外部が混ざり合うグローバルな環境をクリエイションの前提としている(それはまったく奇異な事態ではなく、わたしたちが日常的に経験していることだろう)。そこで本作のクリエイションを基礎づけるのは、隣り合う他者との複数の視点が競合するコレクティブの形態である。参与するアーティストの複数的な視点・立場が作品世界に多層的なレイヤーを埋め込むのである。


 最初にテクストのレイヤーに目を向けておこう。上述した福岡の著書によれば、ワヤン上演のレパートリーは古代インドの叙事詩ラーマーヤナとマハーバーラタを中心に、ジャワ島固有の物語群を加えたもので構成されている。しかし、本作は、古代インドの叙事詩ではなく、ジャワ島固有の物語を下敷きにしている。それが魔除けの儀式「ルワタン」のなかで演じられる『ムルワ・カラ』だ。『まよかげ/Mayokage』のZINEを参照すると、「カラ」は天界、地上界、冥界を支配する神グルが、大海上空を飛んでいるときに欲情して海に落とした一滴の精液から生まれた恐ろしい怪物。カラは父を探して天界に上り、条件づきで人間を食べる許しを得る。しかし、影絵人形遣いに姿を変えて地上へ下りてきた神によって魔除けされる。これが『ムルワ・カラ』の大筋のようだ。

 この『ムルワ・カラ』をもとに、本作メンバーのナナンは『怪物カラの誕生』という、カラが誕生する別のバージョンの物語を作り出した(これもZINEに収録されている)。カラがグルの許可を得て人間を食べる怪物になるという結末は変わらないが、「一滴の精液」は「巨大で白い物体」という多義性を内包した隠喩に置き換えられ、カラが探しに行くのは父親ではなく、友人のクジラになる。巨大で白い物体から生まれた怪物(カラ)はクジラとともに海中を泳ぎ、クジラが食べるものを食べていたが、ある日、無数の槍に貫かれたクジラは悲鳴を上げて姿を消してしまう。

 ところが、赤ん坊のように無垢なカラは人間にクジラが殺されたことを知らなかった。そこで沸き起こる感情が「悲しみ」であることを知らなかった。自身が動けば地面が割れ、叫べば山が噴火することを知らなかった。そして、怪物を迫害する人間という名の生き物がいることを知らなかった。カラは旅の道中、海の神・バルナ、大地の神・アンタボガ、火の神・ブラマ、風の神・バユの助言を受けて、ついに宇宙の果てに導かれる。

 ナナンのバージョンでは、人間から怪物に物語の視点が反転し、カラという表象のアレゴリー的な再読が行われる。ジャワの伝統の中で、人間に襲いかかる得体のしれない怪物として理解されるカラは、視点を変えれば、共同体の一員として認められるための法に属さないという理由で迫害される対象に姿を変える。共同体のメンバーシップから外れた居所を持たない隣人は、法外の脅威としての怪物とみなされる。その表象は不法移民、難民、ホームレスといったグローバリゼーションの進行過程において、故郷から切り離されたものたちの境遇を連想させる。

 そのような観点から見れば、タイトルの『まよかげ』は、異郷を彷徨うものたちの「影」を指し示す。しかし、そのうえで、上演のレイヤーには、先述した篠田の文章で触れられていた“コロナ禍”の恐怖、影絵芝居のスクリーンを介した“分断”の状況、さらに手作りの親しみやすさと遊び心が散りばめられた“子ども劇”の雰囲気が織り込まれる。

 通常、どのワヤンにもかならず「ダラン」という上演の進行役がいて、人形芝居の場合は人形遣いを兼ねる。ワーク・イン・プログレスの上演ではナナンが人形遣いと語り手を兼ね、篠田が上演の進行役と語り手を担った。

 進行役としての篠田はカラオケマイク片手に、『まよかげ/Mayokage』の概要(「ワヤン」や『ムルワ・カラ』の解題、ナナン・たかくらの紹介など)を説明し、照明や音響の卓を操作し、小道具を出したり片付けたりしながら、ナナンの人形繰りをサポートする。そして、「怪物が最初に出会った生き物は“ねずみ”と“ムカデ”のどちらでしょうか?」のような3つの“なぞなぞ”を出す。言葉に依らない視覚的・聴覚的な要素の強い影絵芝居に──否定的な意味ではなく──“子ども”の性質があるのは確かだが、バラエティショーの司会のような篠田の立ち振る舞いもまた、その場にワヤンの集会場としての親しみ深い体感を作り出す(私が見た/参加した回では2〜3人の子どもたちが声をあげたり感想を言い合ったりしていた)。

 また、観客を“こちら側”と“あちら側”に隔てる影絵のスクリーン、そして自分が出した“なぞなぞ”の答えによってどちらの席に座るかをそのつど選択する演出の仕掛けは、自分自身に見えているものは事柄の一面でしかないことへの内省を促す。そのなかでも、受付を済ませた観客に対する「北側と南側のどちらに座りますか?」という問いかけは、経済格差の象徴的な意味合いを思い起こさせる。ジャワ島の影絵芝居でも、招待客がスクリーン側に座り、近隣の住民は人形を繰る人形遣いの側から見ることが多いという。誰もがチケットを購入した平等な消費者であるはずのこの作品の興行でも、そこに潜在しているはずの貧富の差が人によっては意識させられ、薄っすらと自覚的な選択が迫られる。

 カラという怪物を魔除けするルワタンの様式は、本作に新型コロナウイルスの厄払いの儀式という意味を与えるものであるが、同時に、「お前の影を恐れる人間を食べるといい」という台詞が象徴するように、新型コロナウイルスの“影”に怯え、翻弄されたここ数年の意味をあらためて問い直すものでもある。一種の社会的パニックを引き起こしたコロナ禍の「不安の感染」とは何だったのか。あるいはその根底にある死の恐怖という感覚がワヤンの暗闇を通じて呼び起こされるのである。

 次いで、デジタルデータのキャラクターを物理空間にダウンロードしたような印象を与えるたかくらかずきが制作したドット絵の人形。ワーク・イン・プログレスでは海・大地・火・風の神様の人形はまだ未制作とのことで、ドット化されていたのはカラの人形だけであったが、それは影絵のスクリーンをワヤン・クリットがプレイされるゲーム画面のように見せていた。そこでワヤンの伝統的な影絵とデジタルな仮想現実が相互翻訳的に響き合う。
 最後に、本作は言語の水準においても、観客の複数性を想像させる。不正確な理解になるのだが、おそらくインドネシア語でカラの物語を発語するナナンと、日本語で発語する篠田の言葉によって、世界の覇権言語である英語に均されることも、どちらかの言語圏で理解可能な意味に還元されることもない、共在的な音響空間が浮き彫りになる。

  
 篠田、ナナン、たかくら、西田がそれぞれ異なる観点・立場・文化的な背景や技術から作品の制作に関与することで、ひとつの視点に統合されることのない多元的なパフォーマンス空間が創出される。本作が投げかけるのは、国家的・文化的境界の越境や交流というモメントが、すでにわたしたちの埋め込まれたグローバルな社会環境に立ち遅れているという極めて当たり前の現実だ。演劇/舞台芸術の業界的な視野のもとでは容易に不可視化されてしまうそれを、本作はコレクティブの集合性を通じて軽やかに示してみせた。

もしも隣人に怪物の影が潜んでいるのだとしたら、それを怪物にするのは「わたしたち」自身であり、「わたし」を「わたし」の他者として共在させるパフォーマンスの時空間が、その影を祓うためのありうべき振る舞いに「わたし」を誘い出すのである。


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しぶかわ・まろん/批評家。「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学」でゲンロン佐々木敦批評再生塾第三期最優秀賞を受賞。最近の論考に「『パフォーマンス・アート』というあいまいな吹き溜まりに寄せて──『STILLLIVE: CONTACTCONTRADICTION』とコロナ渦における身体の試行/思考」、「〈家族〉を夢見るのは誰?──ハラサオリの〈父〉と男装」(「Dance New Air 2020->21」webサイト)、「灯を消すな──劇場の《手前》で、あるいは?」(『悲劇喜劇』2022年03月号)などがある。


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【上演記録】
篠田千明『まよかげ/Mayokage』ワーク・イン・プログレス公演・展示

撮影:池田慎之介

2023年2月10日(金)~19日(日)
京都芸術センター 制作室1(北館1階)
演出・語り:篠田千明
作・ダラン*:ナナン・アナント・ウィチャクソノ
翻訳・演奏:西田有里
キャラクターデザイン:たかくらかずき
人形製作:たかくらかずき、ナナン・アナント・ウィチャクソノ

『まよかげ/Mayokage』特設サイトはこちら

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