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<先月の1本>演劇ユニット鵺的『デラシネ』 文:丘田ミイ子

04先月の1本

2023.04.30


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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低く渇いた声が透明の血に濡れるとき


今、流れているのは涙ではない。色を失った血である。悲しみでなく、怒りである。諦めでなく、覚悟である。色を失うほどに煮え立ち、沸き立った血を目から流したことがあるか。権力や名声の傘をかぶって大きな顔をしている者がいて、そして、その下で見えないようにしゃがみ込んで傘の柄を持ちながら、泥のべっとり付いた足でその身体を心を濡らされ、汚され、踏みつけられている者が大勢いることを知っているか。果たして、“デラシネ”なのは、どちらだろうか。傘の中にいても地獄、抜け出しても地獄。汚され、濡れずにはいられぬ悪夢のような現実をどう変えろと、どう生き抜けと言うのか。
「あくまでフィクション」であり、「どのキャラクターにもモデルはいない」はずの物語が、今最も強い身に覚えと手触りをもって心身に訴える。訴え続ける。眼の中に、掌に、脳に、心臓に、足もとに落ちてきた涙は、雨は、血は、こうして筆を執る今もなお渇かない。
豊かな技と確かな力を以てして珠玉の総合芸術、そしてエンターテイメントに昇華しながらも、その実喫緊に扱われるべき題材に真っ向からメスを入れた社会劇。たとえ「すべてフィクション」であったとしても、演劇ユニット鵺的『デラシネ』(作:高木登 演出:寺十吾)はそういった覚悟作であったと私は思う。

上演に先駆け、カンパニーは観客が安心して観劇できるよう公式ブログやSNS上で諸注意を提示していた。近年の世相、ハラスメントや性暴力などの被害の多さと大きさを鑑みてこういった情報発信を行うカンパニーは今や珍しくはないが、シーンの一つ一つを洗い出し、ともすればネタバレに一役買うかもしれない詳細をも予め伝え、退出しやすい席への変更をはじめとする対策を取ったその配慮にも社会劇としての覚悟や演劇と社会の接続を見た、ということを付け加えておきたい。カンパニーサイドのそのような徹底を損なわないためにも、本劇評にもハラスメントや性暴力に関する記述や該当シーンへの言及があることをここに添えつつ、少しでも不安を感じる方はこの先を読むのを控えていただきたいと思う。

この劇評を執筆すると決めた時、真っ先にこの俳優の名をあげたいと強く思った。鵺的構成員でもある、とみやまあゆみである。本作で彼女が演じたのは、終始淡々とした低音の声色で、一見無感情にすら見える渇いた表情のまま黙々と筆を執る一人のゴーストライター・酒匂早苗であった。彼女から放たれる渇きが気体となって劇場全体に立ち込めるような心持ちがした。蒸発と沸騰のいずれかで気化というものが起こるのであれば、前者であると思った。蒸発を諦めに、沸騰を怒りに私は置換していた。彼女はこの屋敷に世界に渦巻く酷たらしい状況をもう諦めている。私はそう思っていた。冒頭35分までは。

「でもわたしは知っている。飛鳥井宏道の名前で出た作品が彼の書いたものではないってことを。わたしや、食い潰されたたくさんの弟子たちが書いたものだっていうことを。飛鳥井宏道がとっくの昔に才能の涸れた張りぼての虎だっていうことを。世間は知らなくてもわたしは知っている。誰よりも、それをね」
低音のまま、渇いたまま、机上の原稿用紙に向かって空から最初に降る雨粒のような涙が一つ二つと落ちたその時、これは色のない血であると私は悟った。渇きの原因は蒸発ではなく沸騰、すなわち怒りなのだと思い知った。

「これはわたしと、消えていった全ての人たちの意地を賭けた闘いです」

終始淡々とした低音の声色で、一見無感情にすら見える渇いた表情のまま、しかし目には見えぬ血を流し続けながら黙々と筆を執る一人の才ある脚本家・酒匂早苗。『デラシネ』は、彼女と、消えていった全ての人たちの、いや、一人の傲慢な男の権力に搾取され、消費され、弾圧され、そして今まさに消されようとしている女性たちの意地を、命を賭けた闘いの物語である。

舞台上に広がっていたのは、閑静な住宅街に建つ広壮な一軒家、家と言うより屋敷。察するにその奥の方、最も辿り着きにくい場所に位置する“特別”室である。部屋の向こうには廊下と小さな庭があり、その向こうにおそらく家族の生活領域である別室の丸い窓が見える。家は往々にして全てが生活領域であるはずだが、有名脚本家で業界の権威である飛鳥井宏道(佐瀬弘幸)の邸宅であるこの屋敷においては違う。特別室は宏道の仕事場であり、厳密に言えば「彼の仕事として世に出される脚本が書かれる場所」である。“特別”なのは、部屋の仕様ではない。宏道が「即戦力」と認めた弟子のみが入ることが許されている、いわば才能・人材における特別。この部屋が「こっちの部屋」と呼ばれるのに対し、屋敷内には「あっちの部屋」もある。舞台上には出てこないが、まだ芽の出ない「即戦力外」の弟子が出入りしているのが舞台上手側に位置する「あっち」であることは登場人物の会話や行動によって示されていく。
冒頭、宏道の娘・飛鳥井忍を演じる未浜杏梨が着物姿で三つ指を突いて上演諸注意を告げているところで、照明がその顔のみを浮かび上がらせるようにグッと絞り込まれ、同時に鼓動にも怒号にも聞こえるおどろおどろしい音楽が鳴り響く。怪談が始まるような段取りであるが、本作が人間の、社会の恐ろしく愚かな暗部を抉り取っている点においてこのホラー的な導入は今振り返ってもあまりに相応しく、この上なく抜群のインサートであったと感嘆する。これは鵺的の他作品にも通じる随一の魅力でもあるが、戯曲・演出・俳優の力もさることながら、スタッフワークの追求がまた素晴らしい。袴田長武による舞台美術は劇場であることを瞬時に忘れさせるほどダイナミックでしかし隅から隅まで細やかな仕掛けに富んでおり、坂本弘道による劇伴音楽は文字通り劇に伴いながらもその文脈のうねりをより効果的に観客に伝える。さらに緻密な音響(岩野直人・齋藤正樹)と照明(青木大輔)がその輪郭を時に濃く、時に淡く縁取り、ひとたび始まれば着実に終わっていく劇に確かな余韻を残している。舞台が総合芸術であること。鵺的の作品に立ち会う時はいつもつくづくそんなことを感じさせられる。

物語についてももう少し言及したい。
前述した特別室=「こっちの部屋」に「即戦力」として身を置いている飛鳥井宏道の弟子は、酒匂早苗(とみやまあゆみ)と田邊遼子(高橋恭子)の二名。加えて、マネージャー業務を担う前田嘉子(田中千佳子)や仕事の交渉で度々屋敷を訪れるテレビ局CBSのプロデューサーである野田一子(川田希)、そして脚本の変更を依頼しに訪れた人気俳優で業界の曲者でもある三津田萌美(堤千穂)が出入りを許される。
そんな聖域とも地獄とも呼べる部屋に、ある日、宏道の脚本講座の生徒であり、新たに弟子入りが決まった河村美琴(木下愛華)が迷い込んでくるところから物語は始まる。
弟子の中では一際若年の河村であるが、部屋を後にしようとしたところを宏道に呼び止められ、「即戦力」として今日からここにいるようにと命じられる。河村には抜きん出た才能があったが、そんな彼女にとって、宏道の脚本作を多く放映するテレビ局・CBSが主催するシナリオ大賞をすでに受賞している酒匂は尊敬に値する人物であり、その受賞作が大好きであると興奮気味に本人に伝える。対して酒匂は顔色ひとつ変えず、放送を間近に控えるコメディドラマ『夜まではひとり』の執筆を黙々と続ける。河村はそこで初めて飛鳥井宏道の名で世に出ている脚本が酒匂や田邊によって書かれていることを知る。「即戦力」のゴーストライターとして淡々と仕事をこなす酒匂に対し、常に宏道と連れ立って行動している田邊はすでにデビュー済みであるが、その裏には男女関係があること、それと引き換えに優遇されていることが「あっちの部屋」から「こっち」の様子を見に来た「即戦力外」の弟子・市原美紗緒(小崎愛美理)によって知らされる。また、そのことは要件のある時のみ向かいの丸い窓から顔を出す宏道の妻・京佳(米内山陽子)や気まぐれに部屋に現れる娘・忍(末浜杏梨)にも周知の事実であるようで、特段気には止めない。また、プロデューサー野田の「先生、たまには自分で書いてくださいよ」というセリフからも分かるように、弟子たちによる代筆や宏道が「パワハラ・セクハラの権化」であることは業界では当然のことのように扱われている。
そんな狂った真っ黒な師弟関係ではあるが、才能溢れる酒匂や河村が自ら弟子入りを切望した理由は明確にあり、それは三十年前に宏道が書いた『あのとき、わたしの世界が消えた』という作品であった。殊更強い力を込めて「あれは傑作です」と言い切る酒匂や自身が生まれる前の作品にも関わらずバックナンバーを取り寄せ、その幻想的な魅力に惚れ込んだ河村。そして、もう一人その作品に魅せられ、弟子入りを決めた人物がいた。かつて「即戦力」の一人であった、酒匂が誰よりその才能に敬意を表する同志・吉澤佳子(中村貴子)である。彼女は最期までその作品を愛していたが、自死によりこの世を去ってしまった。そのことを宏道は「実力はあったのに運がなかった」と片付け、「『あのとき、わたしの世界が消えた』なんてドラマのことは忘れろ」と怒鳴るが、その裏には酒匂には到底受け入れられぬ、より凄惨な真実があった。その悲劇の、怒りの全貌はラストにかけて畳み掛けるように詳らかになっていく。(本作は現在も映像が配信中であり、購入から最大30日間視聴できることもあり、その最も核心的なクライマックス、『デラシネ』という作品の類を見ない凄みを体感したシーンについての言及はここでは控えたいと思う)

そんな折にプロデューサーの野田から、「突如空いた深夜ドラマ枠があり、そこで酒匂をデビューさせるのはどうか」という打診が舞い込む。放送が間近に迫る『夜まではひとり』の他、次の10月クールの脚本執筆を控えていることもあり、宏道は「酒匂は出さん」と激しく反発するが、野田や河村など周囲の人間は「酒匂さんは充分一番看板でやっていける」、「なんで酒匂さんじゃダメなんでしょうか」と食い下がる。このあたりで宏道の権力を前にその愚行を当然のものと受け入れざるを得ない女性たちの間にもある種の結託や連帯があることがわずかに炙り出される。しかしながら宏道は「おまえたちはここに“いる”んじゃない。おれが置かせてやってるんだ!」と怒り昂り、妙な提案を持ち出す。それは、10月クールを酒匂が宏道の名前で書き、深夜枠を宏道が田邊の名前で書き、その二作を山村賞(脚本家の登竜門的な賞レース)の最終選考に残すよう野田に口を利いてもらう、というものであった。
「おまえが受賞したらデビューさせてやる。ただし、おれが勝ったら、おまえは一生おれのゴーストだ。生涯離さん。もしおれの元から離れてみろ。おれの人生を賭けておまえを潰す。業界におまえの居場所はないと思え。いいな?」
いずれにしても田邊か宏道が受賞するよう導線が敷かれている出来レースに河村やマネージャーの前田は反対するが、酒匂はその提案を飲む。そして、宏道が部屋を去った後、こう言い放つ。
「わたしは先生に山村賞を獲らせてみせます。そして生涯笑ってやるんです。これはわたしが書いたものだと。世間を、業界を、飛鳥井宏道を笑ってやるんです。だから受けて立ちます」

私が本劇評で触れたのは、冒頭35分までの出来事である。ここからさらに物語は大きくうねりを見せ、飛鳥井宏道という権力とその下に従わざるを得なかった女性たちの闘いは熱を帯び、屋敷は荒れ果て、壊れていく。この35分間は元より上演時間の約2時間、一瞬たりとも見逃すことのできない展開と舞台芸術でしか叶わぬ圧巻の景色を見せつけた本作の強度は実に凄まじいものであった。全てを見届けた時、私は茫然自失としてしまい、駅までの道をどう歩いていいのやらしばらくの間新宿の街を右往左往としてしまった。そして、彼女たちからこの身に伝播した「怒り」が帰路くらいでは到底収まらないものであることを思い知った。同時に、闘い切った酒匂の、女性たちのあらゆる横顔が脳裏を掠め、叶わぬこととは知りながらもその肩に触れ、そのまま抱きしめてしまいたい気持ちに駆られていた。『デラシネ』は、舞台と観客を繋ぐシスターフッドの物語であった。しかし同時に、10名の女性がいてもなお出口のない一人一人の孤独の闘いでもあった。少しもスカッとなどはしなかった。そして、それが最もの“真実”であったように思う。
腕のある作家と演出家のカンパニーである。その世界観を損なわぬままそれ相応の調整をして、観客が気持ちのよいままに終わらせることもできたはずであるし、確かな希望を用意して差し出すこともできたと思う。しかし、流れる血を止血することなく、不穏なまま終わらせたことにこの物語は意味があったのだと感じた。観客を心地よくいさせないこと、安心させないことに覚悟を宿らせていたのだと思った。そのためにできる限り万全の用意をして上演に臨んだのだと思った。少なくとも私はそのことによって、本作は生涯忘れ得ない演劇になった。忘れ得ないその気持ちを日常に持ち出して生きていきたいと思った。彼女たちと一緒に怒り続けていきたいと思った。いや、思っている。この物語を今の時代に向けて生んだ高木登という劇作家の覚悟が、その覚悟をひと匙も溢すことなく掬い取った演出の寺十吾の奔走がなんとも意義深いものであったかは、そんな風に時間が経つ毎により克明に思い知らされていくようだった。

そして、俳優である。酒匂早苗を演じたとみやまあゆみはもちろんのこと、一人残らずあまりに素晴らしかった。あまりに恐ろしかった。あの鬱屈とした場所に身を置き、負の空気にその声を、四肢を明け渡すことには尋常ではないエネルギーを要したはずだと想像する。
飄々と軽やかに父親を欺き、用意周到に正しく遠い場所へと走り去っていく娘・忍を演じた未浜杏梨のイノセンスと達観。家を押し付けられ、ともすれば誰より才能やその可能性、人生を丸ごと搾取された妻・京佳の沈黙の中で獰猛に眠る復讐心をここぞという見せ場で覚醒させた米内山陽子。舞台上で明確に繋がることなくしかし一体化して「家族の崩壊」を見せつけた母娘からはそこに描かれていない時間をもひしひしと感じた。純真さの光る存在感で、あの真っ黒な空間で真っ直ぐあろうとした河村という若き脚本家の勇敢を小さく震える声色の逸さぬ瞳で伝えた木下愛華、宏道の「女」になることで優遇される田邊を演じた高橋恭子の穏やかな視線には、全てを諦めているようでその実誰より「この権力を使い果たしてやろう」とする強かさが滲んでいて、嫌うことなど到底出来なかった。戦力外通告をされながら、どこかで「その首を取ってやろう」と企む市原も同じである。劣等感を抱えながら、時に誰より実直に自分の思いを吐露する市原の強気の中に宿る繊細さを小崎愛美理は余すことなく体現していた。亡き存在・吉澤を演じた中村貴子は出番こそ多くないが、物語における最も忘れてはならない存在として、透明感のある佇まいの中に脚本家としての生き様と人間の脆弱さ、その両立の困難さを色濃く抽出させていた。同志であった酒匂とささやかに夢を語り合う在りし日のシーンは、観劇を通し唯一怒りからではない涙を流させてくれた瞬間でもあった。弟子以外の人物を演じた俳優たちがみな、その立場に揺れる心の様相を細やかに体現していたことも大きい。狂った仕組みの全てを承知しながら、仕事の段取りや身の世話を行うマネージャー前田もかつてはプレイヤー志望であったこと。当時に言及するセリフはほとんどないにも関わらず、田中千佳子は自身がここに居るに至るまでの時間を背負っていたように思うし、時折見せる母性が彼女がその立場にならざるを得なかった顛末に通じていたのではないかと想像させられた。劇中での数少ない笑いのシーンで観客を確かに緩和させたのは、曲者俳優・三津田を演じた堤千穂である。ただならぬ異様なオーラでその場を圧巻させながら、ユーモアの効いた振る舞いと間合いで売れっ子女優ののっぴきならなさ、そのいかにも「どこかにいそう」な感触を緊迫の中にするりと握らせる滑らかさは見事なものであった。自身も強く、厳しく、業界のクソな忖度にも馴れ合わねば、その道を男と対等には渡り合ってはいけない。そんな覚悟は、プロデューサーというある種の権威を背負った川田希からも色濃く放たれており、それでもなお捨てきれぬ葛藤、「正しくありたい本当の自分とどこかで折り合いを付けなければ」という野田の願いをふとした表情に忍ばせていたように思う。そして、怪物・飛鳥井宏道を演じた佐瀬弘幸である。あそこまで救いようのない暴力性を以て権力の権化として舞台上に存在するには、観客をも心底怒らせるには、微塵の油断も許されないはずである。女性の前に仁王立ちで立ちはだかり、怒号を浴びせながら、しかしその中身はまるで空洞であるという虚無、それを最後まで隠そうとする諦めの悪さを諸共引き受け、圧倒的悪人を好演していた。飛鳥井宏道という人物を心底忌み嫌いながら、佐瀬弘幸という俳優を全力で賞賛し愛したいというジレンマをしっかり抱えさせてくれた。

鵺的の演劇は、素晴らしい。そして、凄まじく恐ろしい。舞台が、劇場がナマモノというより生き物であるのではないかという恐怖があって、そこに没入すればするほど空間に絡め取られてもう二度と元の世界に戻ってこられないのではないかと不安にすらなってしまうほどだ。その時、総合芸術はともすれば総合魔術でもある。言葉の魔力が宿ったセリフに美術、音響、照明、衣裳の全てがバチバチと干渉し合い、そこに在る俳優はみな時に半透明に輪郭がぼやけ、また時に4D技術のごとく舞台と客席の距離を飛び越えて眼前に迫り出してくる。それらが揃わなければ生まれ得ない次元、磁場のようなものが忽ち劇場の四方八方へと這っていくようで、その時、箱と屋敷は一体となって共振する。過去作品『バロック』を観劇した際、不測の事態によって上演が一時中断されるということがあったが、それが照明のトラブルであったと告げられた時ですら、私は劇のエネルギーによってこの世界の、次元の何かしらの目盛りを振り切ってしまったのではないかと感じたほどだった。目に見えない力の衝突に立ち会う時、その瞬間にあるのは説明のために用意された言葉ではなく、途中で引き返すことの許されぬジェットコースターにも似た圧倒的な体感のみである。しかしながら『バロック』がホラーであったのに対して、『デラシネ』はヒューマンであった。霊魂の恐ろしさではなく、人間の愚かさであった。それを握らされたが最後、私はここからはまだ降りられないと思った。ジェットコースターから降りれば、劇場を後にすればそこは平穏な日常、というわけにいかないと思った。
主宰で上演台本を手がけた高木登は当日パンフレットにこう綴っていた。
“ここに描いたいろいろはすべてフィクションです。いまどきこんな徒弟制を布いている人はたぶんいません。けれど核にあるのは「真実」です。なにがどう真実なのかはご想像にお任せします。”

だから、私はこの作品に隠された「真実」を大いに、いつまでも想像し続けようと決めた。酒匂の目から流れているのは涙ではなく、色を失った血であったと。悲しみでなく、怒りであり、諦めでなく、覚悟であったと。
この世界に生きている、小さき者として扱われ、然るべき権利や尊厳を守られないまま必死に夜を越え、かろうじで朝を迎えている者は今、色を失うほどに煮え立ち、沸き立った血を目から流している。私もまた流したことがある。権力や名声の傘をかぶって大きな顔をしている者がいて、そして、その下で見えないようにしゃがみ込んで傘の柄を持ちながら、泥のべっとり付いた足でその身体を、心を濡らされ、汚され、踏みつけられている個人が、今この瞬間にも大勢いることを「世間は知らなくてもわたしは知っている」。

『デラシネ』は、あの屋敷に身をおいた一人の若き女性脚本家が書いたあるシナリオのタイトルであった。その意味はフランス語で「根なし草」を意味する。本当の意味で根なし草なのは、世界から切り離されるべきなのは、誰だろうか。
原稿を書く手を止め、目を閉じると、酒匂早苗の低音のあの渇いた声が何度でも聞こえる。

「これはわたしと、消えていった全ての人たちの意地を賭けた闘いです」

放り出された傘のすぐそばで、ずぶ濡れになったその声が強く響くのを私は聞いた。
その目から、空から最初に降る雨粒のような透明の血が手書きの原稿用紙へと一つ二つと流れるのを、私は確かにこの目で見た。
<<最後に>>
本連載で私がレビューを執筆するのは、今回が最後になります。『演劇最強論-ing』における新企画として昨年5月に始動した<先月の1本>。これまでどちらかといえば未来の演劇についてのインタビューやレポートなどの取材が主な仕事であった私にとって、忘れ得ぬ過去の演劇について書き残すことはかねてよりの望みでもあり、演劇ジャーナリストの徳永京子さんよりお声がけを頂いた時は、その願ったりの機会に驚きと喜びで胸がいっぱいになりました。そして、その気持ちは1年少しも弱まることなく持続しました。観劇の場数や演劇の知識はそう誇れるものではなく、思いを走らせるしか術を持たない私にとって、個人的な感情やエッセイ的ニュアンスを大いに含んだ決して読みやすくはないこれまでの原稿を「劇評」と呼ぶにはまだまだ勇気を要します。それでも、「劇評を読みました」などとお声がけ頂く時はやはり高揚を隠しきれず、これまで時と共に着実に手触りが薄れることの避けられなかった演劇体験を言葉に残すことができたことに大きな喜びと不思議な安堵を覚えています。この約一年でレビューを書いた12の演劇作品とカンパニーと出会えたこと、そして、最終回の締めくくりに今もなお強く心に張り付いたままの『デラシネ』という作品についてこうして言葉を紡ぐことができたことを本当に嬉しく思います。これを機に、今後も忘れたくない演劇の記憶を自分なりに何らかの形で記していけたらと思います。
<先月の1本>の最大の魅力は、そう多くはない「月一レビュー連載」という形式と、そして何より書き手の職種や視点や文体、そのカラーの多様性です。この一年間ご一緒した執筆陣の方々はもちろん、今後もスタンスや切り口の異なる個性豊かな方々が渾身の劇評を手渡されることと思います。読者の一人としても始動時から待望の企画であった<先月の1本>、今後も引き続きその更新を心待ちにしたいと思います。
最後に『演劇最強論-ing』編集部の白川さん、徳永さん、素材提供などのご協力を下さった13のカンパニーの皆様、そして読者の皆様、約一年間お付き合いいただきありがとうございました。めちゃくちゃ楽しかったです!2年目に突入してますます盛り上がる<先月の1本>をどうぞこれからもお楽しみくださいね!


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おかだ・みいこ/フリーライター。2011年から雑誌を中心に取材執筆活動を開始。演劇、映画などのカルチャーを中心に、ファッション、ライフスタイルなど幅広く手がける。エッセイや小説の寄稿、詩をつかった個展も行う。


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【上演記録】
演劇ユニット鵺的『デラシネ』

撮影・石澤知絵子

2023年3月6日(月)〜12日(日)
新宿シアタートップス
作:高木登(演劇ユニット鵺的)
演出:寺十吾(tsumazuki no ishi)
出演:小崎愛美理、堤千穂とみやまあゆみ(以上、演劇ユニット鵺的)
高橋恭子、田中千佳子、中村貴子、米内山陽子(以上、チタキヨ)
川田希、木下愛華、未浜杏梨
佐瀬弘幸

鵺的公式サイトはこちら

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