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<先月の1本>突劇金魚 第22回公演『罪と罰』 文:山口茜

先月の1本

2023.04.30


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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「人間の価値基準」


突劇金魚を見るのは久しぶりだった。いつもは、サリngROCKさんが劇作と演出を担当されることの多いカンパニーで、今回の作品はサリngさんがドストエフスキーの「罪と罰」を読んだらとても面白かったので、これをやりたい!と劇団員の山田蟲男さんに伝えたところからこの創作が始まったとパンフレットに書かれていた。脚本は山田さんと二人で執筆。登場人物を13人に絞り込み、劇団員の山田さん以外のキャストを外部から招いて「ピロシキ組」「ボルシチ組」の2チームを作って交互に上演。主人公のラスコーリニコフを演じる山田さんだけが両方に出る。キャストは全員白塗りで、自分の役以外に、その他大勢の街の人を演じたりもする。主人公を演じた山田さんの演技は真に迫るものがあった。長いセリフを、観客を飽きさせることなく紡ぎ出し、登場するめくるめく人々とのやり取りの中で変化していく心理を描き出す力が素晴らしかったと思う。

私は「罪と罰」を購入して途中で読み切るのを挫折した人間なので、今回、これを書く 権利があるのかどうか悩んだのだが、突劇金魚の舞台作品である「罪と罰」を観て抱いた違和感を炙り出すことは、観ていないものについて語ることにはならないと思ったので筆を取った。世界的に有名になる小説というのは、その内容が普遍的であるからというのが通説だし、サリngさんは今回、その普遍性に惹かれこの小説を舞台化したとパンフレットに書かれている。しかし今回の私の文章はその普遍性への疑問だ。脚本も原作に忠実だと複数の人が書いているのをSNSで見かけた以上、今回はこの文章が、間接的に読んでいない「罪と罰」への批評となることを避けられない。そうなると再び「読んでいないくせに」という思いが去来するのだが、これを書いた後に読むと決めて、この文章を書き進めたいと思う。

主人公のラスコーリニコフは、貧困に喘ぐ若者だ。授業料が払えずに大学を中退し、家賃も滞納している。母によると妹は家族の生活のために、歳の離れた裕福な弁護士との結婚を決めたという。妹の決断を、ラスコーリニコフは許せない。その男が貧乏人を見下していると考える彼はまた、母が借金をしてまで送ってくれたお金も、人助けのために使い果たしてしまう。彼には、とある信念がある。以下はその心理の現れているセリフを抜き出したものだ。

「全ての人間は、凡人と天才に分けられる。凡人、つまり平凡な人間は、子供を作るだけの材料であり、法律に従って服従の生活をしなければならない。だが天才は人類全員を前に推し進めるものであり、新しい法律を作るために、今の法律を踏み越える権利を持っている。つまり、犯罪を行う権利を持っているものである」

「偉大な発見の前に、邪魔が立ち塞がったとして、それを取り除くために100人の人々の命を犠牲にする以外方法がなかったとしたら・・・人類の発展のために、その100人を排除して、自分の発見を世の中に伝える権利を持っていたであろうし、彼は自分の良心の声に従って、実行するよ」

夜の居酒屋では毎夜、町の若者たちが酒を煽りながら愚痴を言っている。とある金貸の老婆はとんでもなく底意地の悪い間で、あんな奴は死ねばいいと。口だけは達者な若者たちを見て、ラスコーリニコフは自らが非凡人であることを証明するために、その 老婆の殺害を決意する。

悪を退治するようなつもりで、彼は老婆の頭を斧で叩き割るが、予想外の事態が起きて、彼は無関係だった老婆の妹をも殺害してしまう。

元々の論理では老婆の妹の死もまた、非凡人の目的達成のためには仕方がなかったはずだ。しかしラスコーリニコフは、噂によると気立てがよく、老婆にいじめられていたという妹の殺害を悔いる。その悔いを、老婆を含めた殺害そのものへの悔いに導くのがとある娼婦である。その娼婦はアルコール依存症の父のせいで身を売っている。しかしそんな自分の環境を受け入れ、拗ねずに聖書を読み、神を信じて生きている。世の中のために善きことを行ったはずのラスコーリニコフは、彼女との交流の中で自分の罪をはっきりと自覚し、罰を受けるべく自首する。

「自分は選ばれしものである」という感覚。

その感覚が、サリn gさんの演出では「虫」として舞台上に可視化される。原作になかった、人間の大きさの虫が複数、繰り返し穴から現れるのだ。最初はこれがなんなのか、さっぱりわからないのだが、物語が進むにつれ、主人公のラスコーリニコフが、己の信念を強く思い返す時に登場することがわかるようになってくる。虫は適度に気持ち悪く、しかしそれほどの攻撃性は感じられない。むしろ苦難の象徴のようでもあって、舞台全体をラスコーリニコフの脳内だと考えると、そこからどうしようもなくはみ出した化け物、という感じの存在感である。

主人公はなぜこんな虫を飼っているのだろうか。劇中で虫から解放されんとする主人公の心理は演出や俳優によってとてもよくわかるのだが、そもそもこの虫が発生したプロセスがわからない。

ここでラスコーリニコフの理想と行動の矛盾に焦点を当ててみる。ラスコーリニコフは、目の前にいる不幸な人々を、無視せずにおれない人間である。酔っ払いのおじさんの飲み代を代わりに払ったり、自分も貧乏なのにそのおじさんの妻に生活費を渡したりしてしまう。友達はそういうラスコーリニコフの善良な性格に惚れて、彼を何度も助けようとする。自分のためではなく家族のために仕組まれた妹の結婚を壊し、金持ちに媚びない。そうなのだ。ラスコーリニコフは、頭では過激なこと、つまり理想のためなら殺人も厭わない、などと考えながら、実際は自分を犠牲にして、目の前の不幸な人々に手を差し伸べ続けている。まさに娼婦が聖書で学んだ「隣人を愛する」を実践してきた人物だ。

劇中でラスコーリニコフは、妹の婚約者が「隣人を愛せよ」という聖書の言葉をバカにした時、こんなふうに言ってしまう。

あなたの理論を進めていくと、人を殺してもかまわん、という事になりますよ?

主人公のラスコーリニコフは、金よりも愛の有無が重要だと信じている、不幸な人間には手を差し伸べずにはおれない誠実な人間なのである。元々そういう人間であったから、聖書を愛読する娼婦の言うことが心に響いたのだろう。

ここから導かれることは、ラスコーリニコフが、凡人か非凡人か、ではなく、誠実か不誠実か、あるいは愛があるか無関心か、で語られるべき人間だったということだ。彼の不幸は、彼が自分の中で育んできた誠実さや愛情深さを、重要だと信じられなかったところにあったのではないか。そしてそれは、彼の特性ではなく、そういった基準で人間の価値を決める社会に生まれてしまった人間の性なのではないか。つまり、虫は、その人間が生きる社会の病なのではないだろうか。

突劇金魚の「罪と罰」に出てくる人は、とにかく、大半がいい人である。女たち は主人公を愛し、主人公を助け、主人公を見守り続ける。友人も、いつ何時も主人公に尽くす。心理戦で主人公を追い詰めていく判事ですら、主人公がもし自首したら罪を軽くしますよと言ってしまっている。とにかくみんな、優しい!

主人公の妹に求婚したバイト先の主人は怪しさ万歳のキャラクターなのだが、彼も結局、自殺してしまう。彼の不気味さは「誰を殺すかわからない」というところにあったのに、主人公の妹と二人きりになっても手を出さず、自ら命を断つのである。金貸しの老婆や妹の婚約者は嫌なやつだが、そういう人間をラスコーリニコフは寄せ付けない。

ラスコーリニコフは愛に溢れる家族や友人に恵まれていた。彼自身もまた、弱者に手を差し伸べる善良な市民だった。であるにもかかわらず彼を殺人という行為に追い込んだのは、社会だった。ドストエフスキーの小説が優れているのは、小説の中にある「社会」つまり150年以上も前の社会が、現代の私たちが生きる「社会」と酷似している点だ。150年経っても、人間は何も変わらないことを教えてくれる。だから突劇金魚が今、この日本で、「罪と罰」を上演することには大きな意義があったと思う。

ところで「社会」というものはどうやって舞台に上げれば良いのだろう?キャラクター一人一人をしっかり作り込めば自ずと浮かび上がるものだろうか?私はそうは思わない。巧みな人物造形やストーリーテリングは観客を楽しませるエンターテインメント にとっては非常に重要なものだが、それで「社会」を捕まえることはできない。「社会」を舞台に現出させるためには、ラスコーリニコフが老婆の頭を斧でかち割ったように、作家や演出家が、この社会を変えるという覚悟を持って、私たちの生きる世界を斧でかち割る必要がある。

しかしそれは一体、どういうことだ?言うのは簡単だが、それを実践するのはとても難しい。私も表現者の一人として、試行錯誤を繰り返している所だ。例えば私が「罪と罰」をやるのであれば、そのエンターテインメント 性へのリスペクトとともに、人物設定偏りに目をつけたと思う。悪い女が一人も出てこないこの作品を、どうやって立ち上げようと考えたはずだ。 老婆がいるじゃないかと思うかもしれないけれど、老婆の性格が悪いのは噂話の中だけだ。だから老婆が嫌われたのは一体なぜ・・・という目線で作り直すのが面白いかもしれない。

村井研治さんによる論文「ソ連における女性の地位」によると、19世紀のロシアではすでに、ニコライ・ドロリューボフという社会批評家によって、女性の「人間的権利の喪失」「道徳的人格の喪失」が指摘されていたそうだ。つまり「罪と罰」の時代には女性に人権はなかった。人権の無い女性が金貸しとして単身生き延びていくのには大変な苦労があったと想像できる。彼女が人間不信に陥ることも、そのせいで金を借りにくる人間に冷たくなる可能性も想像できるし、もっというと、老婆がどのような性格であろうと・・・金を持っているというだけで恨まれ蔑まれる社会であったことは間違いない。そしてこれこそが、老婆の人となりを実際には知らないラスコーリニコフが、噂話だけで彼女を殺してしまった動機だったのではないか。

ラスコーリニコフの殺人が差別と考える理由は、彼が信念に則って殺す相手は別の金持ち、例えば妹の婚約者でも良かったはずだからだ。社会的地位の高さで言えば婚約者の方が上だし、彼の人となりは噂ではなく実際に会って知ることができる。彼でなくても老婆より金を持っていて、人格に問題のある男性はたくさんいるだろう。であるにもかかわらず、彼は老婆を選んだ。それは偶然にしては都合が良すぎる。彼は敢えて、社会的に孤立しており、殺されても同情されにくい、力の弱い老人の女性を選んだ。この卑怯さは見逃せない。

もちろん、当時のロシアにおける女性差別は社会構造的なものなので「誠実」で「愛情深い」ラスコーリニコフが無自覚に老婆を蔑んでいた可能性は否めない。しかし本をよく読み、非凡人であると自認していたほどの人間が、すでに同時代にその差別構造を指摘している批評家がいるような社会で、そのことに無自覚であった視野の狭さは無視できない。主人公は勉強ができた。本もよく読んでいた。弱いもののために自己犠牲的に振る舞う善良な市民だった。しかしそれでも、社会構造的差別に気がつくことは、できなかった。それこそが、私たち人間の生きる世界の、普遍ではないか。演出をする上で、老婆殺しは差別による殺人であったという仮説を立てることは、舞台上に否応なく、「社会」を引き摺り出すことになるだろう。

他にも、この「罪と罰」の女性描写には大きな偏りが見られる。主人公の妹や母、物語の途中で出会う娼婦やその母、妹らはいずれも前述の通り、その兄、息子、父親や夫への慈悲深さが大きな特徴である。彼女たちは自分の心や身体を他人に売り飛ばしてまで、親族である男を支えようとする。相手がどれほど問題を抱えていても見捨てることはない。女は欲望を持たないのが普通で、あれば老婆のように殺される。これは作者であるドフトエフスキーがこの「罪と罰」を、パートナーの女性に口頭筆記させていたことと無関係ではないと思うが、それ以上に彼が、当時のロシアにおける女性の人権喪失に「気がついていなかった」ことの証拠だろう。

大衆に受け入れられるエンターテインメント性を担保するためには「差別」なんて辛気臭いことを気にしていてはいけない、という空気があると思う。そんなことを気にせず、芸術性、エンターテインメント性を高めることだけに注力すれば良いと私も言われたことがある。だけど演劇は何のためにあるのだろう?人間が、よりよく生きるためのものでは無いのか。何も考えずに笑ってハラハラドキドキしていたい、という気持ちを否定はしない。けれど、それと引き換えに、人権の無い人々が今日も虐げられているのだとしたら、それでも私たちは楽しむ権利を主張できるか。

まずは自分のために生きること。これは間違いない。そのために芸術をやること。それも間違いない。でもそれで自分を満たせたなら、私たちは次の一歩を踏み出していこう。突劇金魚の舞台「罪と罰」について考えながら、私はそんなことを考えた。ここんなふうに、「罪と罰」について深く考えることができたのは、何よりそれが、目の前で生きた人間によって演じられたからだと思う。今抱えている本番が終わったら必ず「罪を罰」を読みます。


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やまぐち・あかね/1977年生まれ。劇作家、演出家。合同会社stamp代表社員。主な演劇作品に、トリコ・A『私の家族』(2016)、『へそで、嗅ぐ』(2021)、サファリ・P『悪童日記』(2016)、『透き間』(2022)、トリコ・A×サファリ・P『PLEASE PLEASE EVERYONE』(2021)など。

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【上演記録】
突劇金魚 第22回公演『罪と罰』


2023年3月2日(木)~5日(日)
芸術創造館
原作 :フョードル・ドストエフスキー
脚本:サリngROCK(突劇金魚)&山田蟲男(突劇金魚)
演出:サリngROCK(突劇金魚)
出演:(ピロシキ組)山田蟲男(突劇金魚)、岩切千穂(狂夏の市場)、木下菜穂子、野村有志(オパンポン創造社)、澤井里依(舞夢プロ/EVKK)、山本香織(道頓堀セレブ)、竹内宏樹(空間 悠々劇的)、上田ダイゴ(マーベリックコア/MoreGoofy’s)、北野勇作、下野佑樹(演劇創造ユニット[フキョウワ])、黒嶋啓太、ばばゆりな、仲田クミ
(ボルシチ組)山田蟲男(突劇金魚)、三ヶ日晩(コトリ会議/小骨座)、佐々木ヤス子(サファリ・P)、浅雛拓、田中良子
諏訪いつみ(満月動物園/meyou)、あっぱれ北村、田口翼(チーム濁流)、殿村ゆたか(Melon All Stars)、白井宏幸(ステージタイガー)、田宮ヨシノリ、塗木愛、小笠原愛子(ISCplayer[s] /でめきん)

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