演劇最強論-ing

徳永京子&藤原ちから×ローソンチケットがお届けする小劇場応援サイト

<先月の1本>『クバへ/クバから』文:渋革まろん

先月の1本

2022.05.21


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

***

いま、なぜコレクティブか?──『クバへ/クバから』より

 先日、演劇の妙に不遜な感じが目に余るといったはなしを知人から聞いて思った。2000年代/2010年代の小劇場は「演劇の嘘くさい感じ」に反発してナラティブの──小説のように劇を語り劇から距離を取る──方法論の再発明に向かったが、少なくとも2020年代の小劇場は「演劇の不遜な感じ」に反発して、集団創作=コレクティブの方法論を新たに練り上げていった、のではないか。そしてその刷新は目に見える上演の成果となって現れ始め、小劇場という演劇ジャンルの地殻変動を引き起こしつつあると私には思われるのである。

 2022年4月22日〜24日、三鷹SCOOLで開催された「『クバへ/クバから』刊行記念/上演化プロジェクト」は、写真家・舞台作家の三野新が「沖縄」を主題に、いぬのせなか座と協働して2021年6月に刊行した初写真集『クバへ/クバから』の「上演」ではなく、絶えざる新たな「上演化」を志向する、展示+40分のパフォーマンス+トークからなるアートイベントだった。

 このおよそ演劇の公演らしくないタイトルからも察せられる通り、ここで作者と演劇、戯曲と上演の関係は一方向的なベクトルを持つものではなくなっている。そもそも、このプロジェクトはすでに三度、数え方によっては何百回も「上演」されている。一度目は上演日数が265日を超えたという、沖縄に関する問題を考える議論やワークショップの上演として、二度目はANB Tokyoで開催された写真展「クバへ/クバから」で六日間の会期中に、写真集『クバへ/クバから』の編集・執筆・デザイン過程を公開=上演する演劇として。そしてそれらの上演は左・右と名付けられた役の対話の戯曲を組み込んだ写真集に結実し、それ自体が、つまり写真集そのものが読まれる度に読者のうちで沖縄との距離を撹乱するイメージの「上演」になることが目論まれた。

 上演とは戯曲の舞台化だけを意味するものではない。ここでは三野という作家ひとりの視点に還元することのできない、いぬのせなか座そして普通は「観客」や「読者」と呼ばれるそこに参与する人々との共同的/協働的なコレクティブの経験が生起するプロセスそのものが上演なのだ。しかし、これほどまでに複雑なプロセスをたどるコレクティビティの上演はなにゆえに要請されるのか?

 このプロジェクトは表現/表象の倫理をめぐる三野の問いかけから始まるものだった。

現在に至るまで沖縄に居住しておらず、ルーツとしても強い関わりを持たない三野が、沖縄という土地にいっとき訪れ、幾枚かの写真を撮影し、それを自身の名義で、自身の表現した「作品」として、沖縄以外の土地で発表すること……そこには、「非当事者」によって為される、ほとんど一方的な「搾取」があるのではないか。(山本浩貴「発端と目的」、三野新・いぬのせなか座 写真/演劇プロジェクト「クバへ/クバから」WEBページ)

芸術の普遍性の名のもとに、沖縄の歴史・文化・政治を一方的に素材化する芸術行為はアーティストという権威および日本の政治的マジョリティによる文化収奪であり、美学的植民地化という端的な「搾取」に直結する。

 演劇のタームで言い換えれば、「沖縄」という他者の文化、あるいはその当事者の政治的・社会的な現実をただひとりの作家(劇作家・演出家)の思想と美学と世界観のもとで舞台に代理=表象可能であると前提してしまう演劇の不遜さ、暴力的な傲慢さを三野は至極まっとうに疑っている。

 それゆえに、「沖縄」の一方的な搾取や差別を無意識のうちに正当化する社会的・政治的な物語の構図を問い直し、複数の〈作者〉の協働から、それを「わたしたち」のさまざまな物語の織り込みとして語り直し続ける方法が要請されている、と理解してみることができるだろう。この意味で、複数の人々のアクチュアルな関わりを〈仮構〉する演劇的なフィクションの方法は、複数の視座や意思決定の編み込みをとりあえず実験/実演してみる技術として使えるのである。「演劇」の“強み”は何度でもやり直せる、繰り返せることにあるのだから。

 こうした観点からみたとき、SCOOLのイベントは、何度でも新たな──ときには不和や対立を孕む──関係を紡ぎ出すことに挑戦できる「演劇」というフィクションの“強み”を端的に示したコレクティビティの上演/パフォーマンスであったと言えるだろう。

 演出はパフォーマンスアート作家・美術家の楊いくみ。2021年10月に公開された楊いくみ制作のインスタレーション/パフォーマンス「When I quit eating tomato」(TOKAS OPEN SITE 6)に感銘を受けた三野が『クバへ/クバから』の演出を依頼した。

 SCOOLの入口付近には、真ん中を海砂の直線で仕切られ、左右に粘土の文字でLEFT、RIGHTと書かれた楕円形のテーブルがひとつ。その下には本作の重要なモチーフとなる大きなクバの葉──沖縄から九州北部まで自生する植物──が萎びたミイラのように寝転がっている。それとは対称的に、入口から見て左手と奥の壁には青々としたクバの写真が展示されている。
 その場にはいつのまにかひとりまたひとりとパフォーマーらしき人物たちが出来するのだが、固定された客席を持たないこの空間では、匿名のヴェールを剥ぎ取られた観客たちの生々しい存在感が否が応でも意識され、なんとなしに「私」の居場所を定められない居心地の悪さに襲われる。換言すれば、観客ひとりひとりが自分と他者、場所の関係をそのつど決定しなければならない、コレクティビティを構成する〈個〉としての在り方が問われる場に放り込まれる、というわけだ。

 当然、四人のパフォーマーも各自それぞれの在り方でそれぞれの身振りを遂行する。パフォーマーのひとりは枯れたクバと戯れるように寝転び、じゃわじゃわとしたクバのさざなみを響かせる。また別のパフォーマーはエレキギターの演奏で場の雰囲気をアンニュイな調子に包み込む。さらにときおり彼/女らの口から呟かれる断片的な言葉たちは、ドラマ的な文脈に流し込まれることなく宙を舞う。

 こうしてどうにもつかみどころのない「ざわざわしている場所」がにじみ出てくる。ぶくぶくと泡立つ“なにか”が現れる予感がことさらに沈殿していくのだが、その瞬間、驚くべき事態にわたしたちは直面する。パフォーマーのひとりが突如として隅に折りたたまれていた金網でSCOOLの空間を真っ二つに引き裂いたのだ。金網による鮮やかな線が引かれ、たまたま“あっち”と“こっち”にいたというだけの理由で「わたしたち」は分断されてしまう。この分断を皮切りに、ひとりのパフォーマーが、静かな熱を帯びた口調で「右」と「左」のセリフを語り始める。

左 あっちとこっち。
右 迷彩服。電信柱。基盤となっているコンクリート。タイル地の舗装道路。私から想起される、戦争、という文字。
左 左と右の間にある明確な意志の表明、としてのフェンス、を設置するという人間の身振り。フェンスの間には、植物の枝が通っている。植物は、人間の身振りを知らない。
(三野新『クバへ/クバから』、三野新・いぬのせなか座/演劇プロジェクト制作委員会、2021年)

それから溶暗する時間の中で徐々に変容していくギターの音色は、ノイズの交じる琉球三味線の歪んだ音色へと明け渡されることになる。

 ひとまずこのようにして、『クバへ/クバから』は公開討論とも公開制作とも写真集のパフォームとも異なる形式でふたたび「上演化」されたわけである。鮮烈な金網の線は分断の構造を可視化し、観客が属する身体の所在を問いかける。「あなたがいるそこはどこですか?」と。「本土」に安住していると思い込んでいる「私」の美的消費=搾取の立ち位置に省察のまなざしが向けられ、右と左、生と死、砂浜と海底、東京と沖縄という無数の分割線で隔てられているはずの“あっち”と“こっち”の偶然性があらためて顕在化する。そうした手続きを通じて、「私」と「私」と「私」……がすでにつねに巻き込まれ繋がっているはずの、ありえるかもしれない「わたしたち」の沖縄の物語が──誰かと、あるいはひとり無言で──語り出されるかもしれない未知なる時間の実験/実演をかすかに予感させるのである。もちろん、フィクションとして。仮説的に。

 しかし、私の受けとったこのヴィジョンは結論ではない。ここにこだまする「もう一度」の演劇的残響、枯れたクバのように死骸となり堆積するイメージがさらにふたたびの倍音として聞き届けられ、掘り起こされ、新たな「わたしたち」が生成される“時”は何度でもやってくるだろう。なぜなら、演劇というフィクションの形式は──ほんの少しの勇気と敬意で──切断された他者との関係の紡ぎ直しを何度でも試みることができる、未来の協働を構想するコレクティブの実演をその可能性の中心として隠し持っているのだから。

***

しぶかわ・まろん/批評家。「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学」でゲンロン佐々木敦批評再生塾第三期最優秀賞を受賞。最近の論考に「『パフォーマンス・アート』というあいまいな吹き溜まりに寄せて──『STILLLIVE: CONTACTCONTRADICTION』とコロナ渦における身体の試行/思考」、「〈家族〉を夢見るのは誰?──ハラサオリの〈父〉と男装」(「Dance New Air 2020->21」webサイト)、「灯を消すな──劇場の《手前》で、あるいは?」(『悲劇喜劇』2022年03月号)などがある。

***

【上演記録】
『クバへ/クバから』上演化プロジェクト

Courtesy of Arata Mino + Inunosenakaza photo / theater production executive committee

2022年4月22日 (金)~24日(日)
三鷹SCOOL
作:三野新
演出:楊いくみ
出演:石川朝日、赤松あゆ、MARU OHRE

『クバヘ/クバから』上演化プロジェクト公演サイトはこちら

演劇最強論枠+α

演劇最強論枠+αは、『最強論枠』の40劇団以外の公演情報や、枠にとらわれない記事をこちらでご紹介します。