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プレイバック海外レポート2018① サンプル『自慢の息子』@フランス・ジュヌヴィリエ劇場

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2019.01.12



写真:大橋仁

2018年10月5日から8日まで、パリ中心地から少し離れた地区にあるジュヌヴィリエ劇場で、サンプルの『自慢の息子』が5ステージ上演された。サンプルは16年に『離陸』が台湾の演劇フェスティバル「2016 Kuandu Arts Festival」に招聘された実績があるが、ヨーロッパでの公演は初めて。これはフランスと日本の友好160年を記念して現在もパリで開催中の「ジャポニスム2018:響き合う魂」の現代演劇のプログラムに選ばれてのことだった。「ジャポニスム2018」は昨年7月から今年2月までという長期間に渡ってパリ内外の劇場、美術館、ホールなど100近くの会場で、日本の演劇、ダンス、映画、美術、アニメ、音楽、陶芸、建築など多岐にわたる文化芸術を、実践、レクチャー、展示で紹介するもの。こうした文化事業、特に演劇はこれまで、歌舞伎や能、狂言、文楽といった古典がフィーチャーされることが多かったが、「ジャポニスム2018」は、野田秀樹や宮城聰というベテラン組に加え、岡田利規、タニノクロウや木ノ下歌舞伎、飴屋法水、岩井秀人らをピックアップした「現代演劇シリーズ」のラインナップが充実していた点に大きな意義があった。『自慢の息子』は、ジュヌヴィリエ劇場の芸術監督で演出家のダニエル・ジャヌトー氏の関心を引き、公演が実現した。

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 客席後方から音もなく現れた片桐はいりが、舞台中央に置かれたスツールまでゆっくり近付く。腰は「く」の字、首は熟して落ちる寸前の柿の実のように前方に垂れ、膝も枯れ枝のように曲がって充分に上がらない。両手に持ったいくつもの手提げ袋は、邪魔そうであると同時に、たどたどしい歩行のバランスをそれでようやく取っているようにも見える。静かだが、注意を惹き付けるには充分のこの時間で、ほとんどの観客は片桐を本物の老婆だと思い込んだことだろう……。
『自慢の息子』フランス公演は、こんなふうに始まった。

 同作は2010年に東京で初演、翌年には岸田國士戯曲賞を受賞しており、サンプルと松井周の代表作のひとつと言える。12年には同じキャストで全国ツアーをおこなった。
 物語は、40歳過ぎて定職を持たず、自室から企業や店に粘着質のクレームを入れて承認欲求を満たしている正という男の部屋を中心に展開する。正は、同居する母親の年金に頼って暮らしているが、彼が自室を独立国家と宣言して王を名乗ると母親は喜び、自分がいかに愚かかというエピソードと並べて息子の出来の良さを誇らしげに語る。そんな折り、正の電話に対応していたクレーム処理係の咲子は、その途中でストレスの臨界点を超えて会社を辞め、兄を連れて正の国にやってくる。咲子と兄は愛し合っているが肉体的には一線を守っていて、そんな自分たちの愛を成就させる場所を探していたのだ。さらに、正の部屋に咲子たちを連れてきてはガラクタを売りつけようとするガイドが出入りし、隣室の女性は無神経に大音量の音楽をかけ、正の平穏をかき乱す。
 初演と12年のキャストは、正が古舘寛治、母が羽場睦子、咲子が野津あおい、兄が奥田洋平、ガイドが古屋隆太、隣室の女性が兵藤公美。今回は、正が日髙啓介、母が片桐はいり、咲子が野津あおい、兄が横田僚平、ガイドが伊藤キム、隣室の女性が稲継美保と、野津以外は一変する顔ぶれとなり、中でも日髙、片桐、横田は松井と組むこと自体が初めて。ただし、美術の杉山至、照明の木藤歩、音響の牛川紀政、音楽の宇波拓というクリエイターたちは松井作品の常連が集まった。

 さて、舞台中央のスツールにようやくたどり着いた片桐は、床とほとんど平行だった背骨を下からひとつひとつ、なめらかに立てていった。著しく曲がった腰は徐々に垂直に伸びていき、片桐を老いた俳優と信じ込んでいた多くの観客の頭に「?」のマークが点滅し始めた頃、彼女は手を使わずジャンプ力だけで、ヒョイッとスツールに腰掛けた。この時、客席からあちこちから笑いが漏れた。初めて観る団体、前情報の少ない作品には「これはどう観ればいいのか」という不安が付きものだが、片桐の軽やかな動作に観客の緊張が一気にほぐれた。老婆を演じる俳優が実は老人ではないことと同時に、どうやらこの作品にはユーモアが含まれているらしいと、多くの観客が感じ取った瞬間だったと思う。勘の良い観客は、この舞台に登場する老婆の内的世界が、外見とは乖離していると察したのではないだろうか。深読みすれば、この作品の時計や物差しが、日常と馴染みのあるものとは別の伸び縮みを持っていると示したと言える。
 個人的には昔からの思い込みで、俳優とだけ認識していた片桐が、見事な身体のコントロール力をつけていたことに驚いた。小野寺修二率いるデラシネラに何作か出演し、ダンサーとして作品を支えているのを観ていたはずなのに、おそらくどこかで“小野寺のディレクションありきのパフォーマンス”であり、そのディレクションも“片桐のキャラクターを活かして”のものだろうと、何の根拠もなく思い込んでいたのだ。ところが彼女はおそらくコンテンポラリーダンスやマイムのトレーニングを通じて──もしかしたらデラシネラ以外でも体の動かし方を学んできたのかもしれない──、俳優あるいはパフォーマーとしてかなりのレベルに達していた。片桐は63年1月生まれ。80年代から俳優としてのキャリアをスタートし、演技力や戯曲の読解力、現場での対応力、外見の個性などで充分に需要に応えられるはずなのに、そこに留まらないものを積み上げ、こうした短いシーンにさらりと反映させられるほど血肉化していることに感動してしまった。


母親役の片桐はいり  撮影:Yukari Isa

 こうしてスタートした『自慢の息子』は、ところどころで観客が戸惑う空気を感じたが、私が観た初日に途中退場した観客は確認できず、最後まで前のめりの「理解したい」「感じ取りたい」という受信の集中力が途切れなかった。そしてそれが叶った高揚感も感じられた。日本公演でも、すべての観客に全部が伝わる類の作品(なんてものは絶対にないのだけれど、それにしても)ではないサンプルだし、始めから終わりまで非常に良い空気が流れていたと言っていいだろう。
 終演後、劇場1階にあるカフェレストラン(おしゃれでオープンな雰囲気といい、料理の美味しさといい、公共劇場が経営しているとは思えないレベルで素晴らしい場所。ジャヌトー氏が芸術監督に就任してすぐ、自らシェフを引き抜いてきたと聞いた)で初日打ち上げに当たるパーティが開かれ、少なくない観客が残っていたので何人かに話を聞いたが、「細かい内容まではわからなかったが、領土の問題を扱っている点が興味深く、その描き方がユニークだと思った」という感想もあり、やはり演劇の要素は言語だけではなく、他の要素が力強ければ核心は伝わるのだと思った。実際にこの作品は、家族間の、男女間の、私と他人の、身体と心理の陣地取りの物語であり、そこに国家や集団と個人の線引き、現実と妄想の線引きが重ねられている。そしてこの問題は、国境や宗教やイデオロギーの対立から争いを繰り返し、現在は移民の問題で越境について考えなければならいフランスの人々に、生々しさをもたらしたのは納得がいく。
 また、パーティのほとんど終わりにひとりの60歳前後だろうか、女性が松井に控えめに声をかけてきて「私は演劇はほとんど観たことがなく、感想をうまく言葉にすることができないけれど、あなたの作品を観てとても心を動かされたことをどうしても伝えたい」と言って帰っていったのも忘れがたい。190席の客席は前売り完売と数字の上でも好評だったが、後日、千秋楽を控えた日に松井に観客の反応を改めて聞くと、「予想以上に反応が良くてうれしい驚きを感じている。終演後もよく話しかけられ、何人かから“ストレンジだけどストロング”というような感想を言われ、伝わっているという手応えがある」とのことだった。


ガイドに連れられ、正の国を観光する人々。舞台奥に見えるのはフランス語字幕  撮影:Yukari Isa

 私の作品全体の感想だが、初演とは印象がまったく異なり、『自慢の息子』の新しい文脈を読み取ることができた。
 以前のプロダクションでは、どんなににこやかな表情でも腹にいちもつを隠していそうな古舘が息子を、古舘と親子という年齢設定が自然で存在感が穏やかな羽場が演じたことで、物語の出発点が「曲者の息子、素直な母」だった。これに対し今回は、ストレートな情熱が似合う日髙(FUKAI PRODUCE羽衣)が息子を、日髙とはひと回りしか年齢が変わらず、前述のように登場からトリッキーな片桐が母親を演じたことで、ふたりの役割が逆転した。母親には常にひそかな企みがあり、息子はどんなに大ぼらを吹こうとも彼女の後塵を拝するような関係性が生まれたのだ。例えば、正は度々、思春期の息子がそうするように母親を邪険に扱い、それに対して母親は寛容な態度を取るのだが、羽場の場合は昔ながらの“甘やかす母親”“愚かな母親”で、そんな女性がガイドと最後に恋愛関係になるのが意外であり、ぬけぬけとした図々しさを感じたのだが、新しい座組では、母親が最初から仕組んでいたガイドとのロマンスに息子が利用された可能性を感じた。戯曲には、母親が痴呆である可能性が含まれているが、片桐が母親のバージョンでは、痴呆が痴呆にとどまらず、痴呆の老人が夢見た世界が広がって現実を食い破った感があった。片桐が背骨を1本ずつ真っ直ぐに立てた瞬間から、母親は妄想の中で肉体的に若返り、息子の知らぬ間にガイドに近づき、落とすことに成功した。羽場バージョンも、朴訥としているからこそ強大な母親の怖さを感じたが、怖さのフィクション度が違ったと言えばいいだろうか。


登場人物ひとりずつにポーズをつけていくガイド  撮影:Yukari Isa

 さらに、ガイドをダンサーの伊藤が演じたのも、私にとってはもうひとつ、新しい物語の膨らみを感じさせてくれる大きな要因だった。伊藤はコンテンポラリーダンサーとしてキャリアも知名度もあり、自身のカンパニーも持っているが、15年にサンプルが開催した俳優向けのワークショップに参加したことから『離陸』に出演した経緯がある。けれど以降の俳優としての活動は特になかったはずなのに、『離陸』で感じられた異物感が良い意味で消え、共演者と時間や空間を共有した上で、せりふを話していない時間も、それを拡大する方法をすっかり身につけていた。その結果、ガイドに感じる物語性が増え、以前は、正の部屋と外を結ぶパイプの役割だと理解したのが、今回は、物語の外側にいる唯一の存在と受け取れた。特にラスト近く、一列に並んだ他の登場人物の手足をガイドが動かして人形をポージングするように調整するシーンが足されたのだが、これを観た時、ふと、ガイドが普段は不用品回収業をしているというせりふが思い出され、この話全体が、回収したゴミを自室に並べて勝手な物語をつくっているひとりの男の心象風景だと思い至った。登場人物はすべてゴミの中から拾われた人形で、繰り広げられた非現実的な物語はガイドの脳内劇場であると。ガイドという職業自体も彼がつくり出したもので、現実の社会では彼は、身寄りのない中年の廃品回収業者なのだと。その時、舞台奥に積み上げられたおもちゃや服の山は、正の部屋の祭壇から、男が持ち帰ったゴミへと変わった。ネタばらしをすれば、この感想を松井に告げると、初演からそのイメージがあったそうなので、私の想像力、感受性が足りなかっただけなのかもしれないが、ゴリ押しではない形でそれが伝わる確率が高まったと言えるだろう。

 私は初演にもインパクトを受け、さまざまなシーンが今も強く記憶に残っているので、優劣はつけられない。ただ、片桐の身体性と伊藤の強い伝達力が、『自慢の息子』のせりふ以外の部分を強化したことは重要で、観客のほとんどが日本語を理解しないフランス公演で、大きな役割を果たしたと思う。
 とはいえ、パリで好評を得たこの座組での上演が、越後妻有の5ステージと、パリでの4ステージで終わってしまうのは非常に惜しい。さらに多くの人に観られるべき作品だし、とりあえず日本の観客がアクセスしやすい場所で、再び上演されるのを待っている。


『自慢の息子』フランス版キャストとスタッフ  撮影:Yukari Isa

徳永京子WORKS

演劇ジャーナリスト。1962年生まれ。東京都出身。雑誌、ウェブ媒体、公演パンフレットなどに、インタビュー、作品解説、劇評などを執筆。09年より、朝日新聞に月1本のペースで現代演劇の劇評を執筆中。同年、東京芸術劇場の企画委員および運営委員に就任し、才能ある若手劇団を紹介する「芸劇eyes」シリーズをスタートさせる。「芸劇eyes」を発展させた「eyes plus」、さらに若い世代の才能を紹介するショーケース「芸劇eyes番外編」、世代の異なる作家が自作をリーディングする「自作自演」などを立案。劇団のセレクト、ブッキングに携わる企画コーディネーターを務める。15年よりパルテノン多摩で企画アドバイザー、17年からはせんがわ劇場で企画運営アドバイザーを務めている。読売演劇大賞選考委員。