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【連載】マンスリー・プレイバック(2015/7)

マンスリー・プレイバック

2015.08.23


徳永京子と藤原ちからが、前月に観た舞台から特に印象的だったものをピックアップ。ふたりの語り合いから生まれる“振り返り”に注目。
* * *

▼岡田利規『わかったさんのクッキー』


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【撮影:前澤秀登】

徳永:児童劇でしたけど、これを観てようやく気付いたことがあるんです。それは、岡田利規の作品の主語は常に「わたしたち」だということ。今回の作品に関して言うと、主人公のわかったさんは椎橋綾乃さんが最初から最後まで演じてはいるんだけど、ト書きの部分を話す山崎ルキノさんや、近所のおばあさん役がメインの佐々木幸子さんが、時々わかったさんとしてのせりふも喋るんですね。わかったさんがすぐ横にいるのに。どういうことなんだろうと考えたら、舞台上の「わたし」を曖昧にすることで、客席にいる人たちに「わたし」を広げているのではないかと。『わたしたちは無傷な別人であるのか』(10年)というチェルフィッチュの傑作がありますが、そのタイトル通り、まさに岡田さんはどの作品でも観客の当事者性に働きかけてきた。あの作品の時は「受精」、藤原さんのインタビューでは「この作品のキーワードは魔法」と岡田さんがおっしゃっていて(『新・演劇放浪記』第1回)、今回はそれをこういう形にしたんだなと。逆に言えば、子供相手でもそこは遂行するんだなと(笑)。

藤原:僕が観た回では、エレベーターのシーンで5歳くらいの男の子が「怖いー」って泣きそうになって外に出ていったんですよ。すぐ戻ってきたんだけど、その後また佐々木幸子が魔女っぽく歌うシーンで「怖いー」って出て行って、それでもまた戻ってくるという(笑)。観客の反応がとにかく豊かで面白くて、観劇する環境として超幸せ最高に楽しいって思いました。

徳永:改めて新鮮だったのは、子供って集中するまでに時間がかかるんですよね。最初は照れて親の方を振り返ったりしているんだけど、だんだん集中して振り返らなくなっていく。ああ、そうだ、人がお芝居してるのを観るのって、最初は恥ずかしいんだよなって、すっかり忘れていたことをいい形で思い出させてもらいました。

藤原:象徴的だったのはオーブンにクッキーを入れて焼き上がりを待つシーン。長くて、退屈と紙一重なんだけど、子供たちはちゃんと待っていた。いい時間でした。

徳永:舞台と客席があるスペースの手前にもうひとつ部屋があって、金氏徹平がつくった小道具が置いてあったり吊ってあったじゃないですか。あれもよかったですね。目の前で繰り広げられたものだけが演劇じゃなくて、その前と後にも余韻を残しておく。実際、終演後に岡田さんが「ここにあるもので遊んでいいよ」と声をかけて子供たちがワーッと遊びはじめるんだけど、その中に入れなかった子がそっちのスペースで遊んでいたりして、演出の徹底ぶりに驚きました。


▼『cocoon』憧れも、初戀も、爆撃も、死も。

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【撮影:橋本倫史】

藤原:僕が観たのは東京公演の千秋楽でしたが、端的に言ってとても感銘を受けました。数年後にはいったいどういう評価がなされるんだろう……という未来のことも少し考えました。今までのマームとジプシーに基調低音として流れていたナイーブさやノスタルジーはほぼ皆無で、それらとは無縁の強度に到達していたと思います。初演は今日マチ子さんの原作にもっと忠実な形だったけど、今回の再演はほぼオリジナルな演劇作品に昇華していた。

徳永:一昨年の初演とは全く違う作品になっていましたね。私もそれは、言葉は強いかもしれませんが、2年かけて藤田さんが原作の呪縛みたいなものから解放されたんじゃないかと思います。もちろん原作を改編したという意味ではなくて、内包しているんだけど消化したというか。
初演のラストで、砂浜から海へ向かって走っている映像を執拗にリフレインして流していましたよね。走っても走っても、海=助かるはずの場所に辿りつかない登場人物たちの状況を示していた上に、目の前の舞台に敷かれた砂と実際の沖縄の海とがつながっていく感覚もあって、私は大切なシーンだと思っていたんですが、再演では無くなっていた。それでも今回は成立するなと思いつつ、ふと、あれはもしかしたら、藤田貴大が原作を振り払おうとして走っていたんじゃないかと思ったんです。藤田さんに言ったら「そういう見方もあるんですね」って笑ってましたけど。でももしかしたら、原作があるものを別のメディアで表現するって、本当はそれくらい大変なことかもしれない。

藤原:再演では、沖縄という具体性は剥ぎ取られて、抽象的な場所として描かれていましたよね。抜き差しならない状況がひたひたと迫ってきた時に、一人一人の人間がどういう意志を持って生きるのかを問うているという意味で、『cocoon』はまぎれもなく「反戦」の演劇だったと思います。序盤から中盤までは、少女たちが集団として描かれていたけど、それがいつの間にかシームレスに暗い状況になってきた時に、個としての生き方を迫られるという。残酷だけど、生きることへの強い意志を感じる。

徳永:藤田さんと原田さんにインタビューをさせてもらったんですが、初演のあとも沖縄に足を運んで、戦争で生き残った人たちが子供を生んで今の沖縄につながっているという実感があったようです。あえて分けると、『cocoon』の初演は「演劇は戦争を表現できるのか」、再演は「演劇で反戦を表現できるのか」だったのかもしれないと思いました。

藤原:抽象化したとはいえ、沖縄戦をモチーフにするのは簡単なことではなかったと思う。結局は誰ひとり、特権的に「沖縄」を代弁できる人間はいないのではないか。それができるほどには誰も沖縄のことを知らないし、知ろうとしてこなかったんじゃないでしょうか。『cocoon』は少なくとも、「知らない」ことに対して謙虚であったと思います。

徳永:さっきの岡田さんの話とも通じるんですけど、芸術の役割って、当事者が語ることを尊重するのではなくて、「わたしもあなたも当事者になりうる」ということをどれだけ切実に提示できるか、ということだと思うんです。だから『cocoon』再演版が、具体性が消えて、より多くの人や多くの戦争のケースが当てはまるように透明性を帯びたのは、意図してそうなったことだと思います。

藤原:あと、少女たちの物語ではあるけれど、むしろ男優陣の動きが(ダンスカンパニーの)ローザスばりに美しくて惹かれました。波佐谷聡や中島広隆が、マームの作品のためにボクシングジムに通ったりして身体を鍛えてきたのが、ここに活きてるなと感じます。
ただ、結果的に公演中止の回が出てしまったけれど、いずれにしてもこの過密スケジュールは出演者たちにとってあまりに酷だと思う。誰が決定したのわからないけど、これには苦言を呈したい。

徳永:石井亮介さんも忘れちゃいけません。主人公のサンの兄としての彼のセリフは、初演よりもかなり少なくなっていたけど、限られたひとことでサンとの関係性や時間が伝わってきた。石井さんは、大学時代に藤田さんたちと一緒にやっていたのを卒業後に就職して、またマームに戻ってくるまでブランクがあったから、初演時はまだ他の人との力の差を感じていたんですが、今回はまったく遜色なかったですね。


▼producelab89『夢十夜を遊ぶ夜』──小説『夢十夜』を、鳥山フキが好きにする──

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【撮影:朝岡英輔】

藤原:鳥山フキ(ワワフラミンゴ)の作品を観るたびに、ホントこの人頭の中どうなっているんだろうって不思議に思う(笑)。今わりと世の中がギスギスして対立しやすい状況ではあるし、実際問題、切実な声をあげざるをえないという必然性はビシバシ感じてるんだけど、まあそんなに力入れ過ぎなくてもいいじゃん的な気持ちも一方ではありまして、鳥山フキはそういう方面でのホープですね(笑)。

徳永:脱力派のホープ(笑)。

藤原:「平和」ってこういうことかもしれない。全世界に平和を届けてほしい。

徳永:でも、トゲのある平和ですよ(笑)。これはわたしの個人的な企画なので、その立場からの話しかできませんけど、今回は再演で、去年の初演時に鳥山さんに原作を読んでもらったら「『夢十夜』は男の人が理不尽な目に遭う話だ」とおっしゃっていたんですね。あの小説は、第一夜を“時を超える純愛もの”と受け取って、後半の不条理に戸惑う人も多いのに、鳥山さんの解釈は秀逸だなって感心しました。ワワフラが、デタラメをやっているようでどこかに醒めた芯みたいなものを感じさせるのは、こういうことなんだと納得しました。

藤原:producelab89のシリーズは、これまでも小説を演劇的なリーディング公演にするという企画をプロデュースしてきましたよね。それって、テクストに対してもっと自由に、柔軟になっていいっていう状態を、演出家や観客に対してプロデュースしてくれてるんだなって今作を観てあらためて思いました。古典を扱うと、ともすれば教養主義に陥りやすいと思うんですよ。でも鳥山さんは「読んだことない」って作品内で平気で言えちゃう。でもそこで終わるのではなくて「漱石って皮膚病だったらしいよ」みたいな不気味な言葉をひそませる。彼女なりに漱石という人間をつかまえている感じがしました。

徳永:天下の夏目漱石の名作に「夢の話だったらいくらでもできるよね」とシレっと言って、実際にくだらない夢の話を次々と俳優に言わせて「ほらね」とか、漱石も苦笑いしますよ(笑)。


▼ミナモザ『彼らの敵』

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藤原:1991年に早稲田大学生がパキスタンで人質になり、帰国後にバッシングされたという事件をベースにした、ドキュメンタリスティックな作品ですね。中盤、無駄にリアルに(笑)アイスコーヒーを出すシーンあたりから演劇的な面白さが出てきたように感じました。

徳永:主人公が友人たちと誘拐された過去、解放され帰国してバッシングを受けた過去、週刊誌のカメラマンになった現在と、主に3つの時間を行き来して話が進むんですけど、ほぼ暗転を使わずに、その行き来をうまく見せていましたね。
戯曲で私が力を感じたのは、現在の主人公が、なぜカメラマンをやっているのか聞かれて「文章に比べて写真は嘘をつかない」と言うところで、そのときに彼が撮影しているのは、女性ライターを女医やキャビンアテンダントに見立てた嘘の写真なんです。明らかな、でも本人は気付いていない自己矛盾で、それこそが本当の「敵」だと思いました。民族紛争やマスコミのウソ、それに煽動される名も無き人々が敵なのではなくて、敵は自分の中にあるんだと。他にも、人が生きていくためにつくウソや陥る矛盾が散りばめられているんですけど、その台詞がきっかけで、作品の中の矛盾が照射されていった。

藤原:同じく7月に、世田谷パブリックシアター学芸の企画で、瀬戸山さんたちが小学校で上演している『ファミリアー』を観ることができたんです。この『ファミリアー』にも主人公が正義感を剥き出しにするシーンがあるんだけど、瀬戸山美咲はそれを単純な善悪としては描かずに、あくまでも矛盾や葛藤の域に踏みとどまって、観る人に、問いを投げかけているように感じます。『ファミリアー』はリーディング上演の後にワークショップがあって、参加者同士で内容について話し合うんです。この日は中学生からお年寄りまで幅広い世代がいて、脳性麻痺で車椅子の人も参加していた。世田谷パブリックシアター学芸がこういう対話の場を時間をかけてつくってきたというのも大きいんですけど、演劇の裾野が着実にひろがっていることを感じられる良い企画でした。


▼ハイバイ『ヒッキー・カンクーントルネード』

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【撮影:青木司】

藤原:いわずとしれた名作で、過去何回も観てるんですが、今回はどうしてもスケジュールが合わせられなくて……(涙)

徳永:今回の全国10都市ツアーを控えたタイミングで岩井秀人さんにインタビューしたんですが、「去年、T-PAM(海外から多数のプロデューサーが来場する演劇の見本市)で上演することになって、観客の多くが外国人ということを想定した時に、シンプルに作品の構造を見つめ直して今までと違う作品になった。そのバージョンで国内のツアーにする」とおっしゃっていたのが気になって行ってきました。それと、岩井さん本人やその盟友である金子岳憲さんが演じてきた主人公の登美男を、田村健太郎さんがどう演じるのかにも興味があって。結果、すごく笑えるし、練り上げられた完成度も感じたんですけど、今まで観た中で一番ヒリヒリしました。
実は私、小説版の『ヒッキー〜』を何度も読みかけては挫折しているんです。登場人物ひとりひとりの気持ちが細かく描かれている分、胸が苦しくなって進まないんです。その感覚に近かった。岩井さんはT-PAMとおっしゃっていたけど、今度の『ヒッキー〜』の変化は小説を経たことも大きかったのではなかったのではないかと思いした。
それとですね、私はひたちなか公演に行ったんですけど、ちょっとショックなことがありまして……。ラストの暗転の時になぜか後ろの方から照明が当たっていると思ったら、ひとりのお客さんがタブレットを見ていたんですよ。しかも自分のしていることに自覚がないらしくて、なかなか消さない。

藤原:ハイバイ恒例の、役者による注意事項の前説はなかったんですか。「のど飴の袋をあけるなら、いっそ一気にお願いします!」的なあれは?(笑)

徳永:あったのに、です。私の並びにいた別の若い男性は、何度も携帯のバイブが響く。そのうち、おそらく「いまは電話に出られない」ということを伝えようとしたと思うんですけど、メールを打ち出しまして。それが時間がかかっていて、私、たまらなくて注意したんですね。そのあとにタブレットです。
よく原稿に「いろんな人に観てほしい」と書いてきましたけど、「いろんな人」にはこういう人が何人も含まれることをどれだけリアルに想像できていたのか、自分を反省しました。岩井さんがお客さんの質問に答えるアフタートークの雰囲気はすごく良かったし、そういうこと以上に受け取るものが多いからいろんな土地で公演をするんでしょうけど、ツアーをする人たちの強さを感じましたね。


▼ままごと『わが星』小豆島公演

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【撮影:Hideaki Hamada】

藤原:驚いたのは、主宰の柴幸男さんが開演前に「この物語は“地球の話”でもあり、“ひとりの女の子の話”でもあります」っていう、いつもの公演ではまず言わないであろう前説をしたんです。「届けたい」という気持ちの表れだと感じました。そして島の人たちが席に着いて、観て、何かを感じてくれるところまで、3年かけて持ってきたんだなと思います。特に「ちーちゃん」役の端田新菜は、小豆島にずっと通ってきたし、『わが星』の大千秋楽でもあったから、いつもより演技に気合いが入っていたと感じました。周囲の俳優のテンションをいい感じに上昇させていて、素晴らしいプレイだった。俳優の生き様を見た気がします。

徳永:『ヒッキー〜』で言ったことと重なりますけど、やっぱりツアーを続けている劇団は強いですね。そして、柴さんの前説は、演劇を見慣れていない人たちへの配慮もあったと思いますが、初演から6年の間に、柴さん自身が作品と距離を取れるようになって、良い意味でこだわりがなくなったからかもしれません。

藤原:付言すると、永井秀樹と黒岩三佳が団地の夫婦生活を演じるシーンは、『わが星』の中でも、ステレオタイプな家族像の表れだとして批判を受けやすい場面だと思います。しかし今回の小豆島では、あのシーンが悲哀を伴って、とても美しく見えた。死んでこの世にいなくなった人たちの、家族というものへの夢の残滓を見ているような気持ちになった。柴幸男はもともと「団地」に強い執着があり、このシーンはそれが美しい形で結晶しているのかもしれない。


▼せんがわ劇場演劇コンクール

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【撮影:青二才晃】

藤原:徳永さんが審査員をされた「せんがわ劇場演劇コンクール」はいかがでした?

徳永:せんがわ劇場は、東京の都心から少しはずれた調布市仙川にある公営の劇場で、座席数も百数十と、決して派手な劇場ではないんです。そこが開催しているコンクールで、予選で6劇団が選ばれ、2日間の本選でそれぞれが40分の作品を上演して、専門審査員が選ぶグランプリと、脚本、演出、俳優などの個人賞、そして一般審査員が選ぶオーディエンス賞があります。今年が6回目だったんですが、なんと言っても、グランプリをドキドキぼーいず、オーディエンス賞を劇団しようよと、どちらも京都の劇団が受賞したのがトピックでした。グランプリが1週間、オーディエンス賞が3日間、劇場を無料で使えるのが副賞なんですが、去年あたりから、劇場が主催するアウトリーチ事業を受賞劇団が任されたり、今年のコンクールの当日運営に、昨年と一昨年の受賞劇団が関わっていたりと、コンクールだけで終わらない関係を結んでいるんです。それはちょっと、劇場と劇団の関わり方としていい形じゃないかと。一昨年も審査員をやらせていただいたんですけど、この2年の間にそういう独自性が出てきたようです。これからどうなっていくのか興味が湧きますし、今年の受賞劇団がどちらも京都が本拠地なので、そのあたりをどうしていくのかも注目したいと思っています。


▼Q『玉子物語』

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【撮影:佐藤瑞季】

徳永:難解でした。ストーリーが断片的で、舞台の手前で行なわれていること、見えない場所で行なわれていてカメラの映像で映し出されること、舞台奥の高い位置にいる顔の見えない集団の関係性が機弱だったように思います。ただ、それぞれが強烈で、その強烈さに他にはない魅力を感じたのも確かで。Qはこれまで、皮膚感覚というよりは粘膜感覚を扱ってきたと思うんですけど、今回はいよいよ内蔵に来たかという感じ。この先の市原佐都子の生理感覚はどこへ行くんだろうと思うと、やっぱり次回作も観るでしょうね。

藤原:作品として綺麗にまとまる必要はないと思うのですが、素材が混乱したまま散らばっている感じは否めなかったです。例えば『いのちのちQ』で天皇の血統をモチーフにすることで世界にアクセスしたような巨視的なダイナミックさは、今回の『玉子物語』には感じられなかった。どかーんと作品の描く射程がひろがっても、細やかな感覚が消えるわけではないと思うので、いっそ無謀なくらい大きなテーマだったり、もっと異質な世界の描写に挑戦してほしい気がします。彼女も含めて、若い作家たちが果たしてそういうものを求めているのかどうかはわからないけど。
これまでずっとQに出演してきた飯塚ゆかりは魅力的で、ずっと見ていられる、という俳優として重要な資質をあらためて感じました。ただ、ああいうイタさと紙一重の演技を誰でもができるわけではないってことも今作は露呈したと思う。


▼ベッド&メイキングス『墓場、女子高生』

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【撮影:露木聡子】

藤原:例えば(作・演出の福原充則の別ユニットである)ニッポンの河川の『大きなものを破壊命令』を観た時の、表現としての斬新さに興奮するようなあの感覚は抱けなかった。別にただ斬新さに感動したいわけではないんですけど、批評的な言葉が湧き上がってくる感じにはならなくて。楽しく観たのは事実なので、徳永さんにぜひこの作品のポイントを伺いたいなと思いました。

徳永:今年の岸田戯曲賞の選評で、福原さんは多くの審査員から「上手い」と評価されましたけど、今の藤原さんの言葉に、緻密な職人技は地味に見える、という言葉がよぎりました。いや、確かに『墓場、女子高生』は新しくないです。細部を観るにはせりふのテンションが高過ぎるし、笑いはベタで、批評の言葉を呼びにくいのはよくわかります。
……アフタートークでも言ったし、Twitterにも書いたんですけど、私はこの作品を「ブルースのミュージカル」だと解釈しているんですね、ミュージカルではないですけど。理由は、ブルースは「泣く代わりに歌う」行為で、この作品に登場する女子高生たちは、少しでも気を緩めるとすぐに自分を飲み込もうとする不安とか孤独感を振り切るために騒いでいて、その遠回り加減がブルースに思えるから。あんな女子高生が実在するかと言ったらノーで、現代口語の前に時計を戻す演劇のように思われるかもしれませんが、いかにも実在する登場人物で編むウソと同じように、いくらなんでも実在しない登場人物で編むウソがあってもよくて、福原さんはそれを非常に巧みにやってのけている。
これは今回の演出では感じられず残念なところなんですけど、前回(12年)の上演で、主人公が2度目の自殺を選ぶことを決意したときの表情を観て「なぜ死ぬのか、問いと答えを同時に存在させている」と感じたんです。安藤聖さんが演じたんですけど。その一瞬は、大騒ぎが積み上がって生まれたゼロポイントだった。そういう作品を作れる福原さんは、やはり希有な才能だと思います。

(2015/8/6、目黒「玉や」にて収録)
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