演劇最強論-ing

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藤原ちからの2010年代プレイバック

特集

2020.03.10


▼藤原ちからの2010年代プレイバック

 いよいよ2020年代を迎えた。東京オリンピック・パラリンピックまでのこの数年間は、猶予付きのバブルのようでもあり、一種のモラトリアムのようでもあった。この祭りが終わり、かりそめの夢が消えた後にこそ、わたし(たち)が生きていく世界が始まる。そう思い続け、このけっして短くはない日々を、地殻変動が起きている過渡期だと感じながら、次にやってくるものに向けての確証のない準備をしてきた。節目の年である今回、この過渡期の2010年代を振り返ってみたい。

 10年前の2010年、今はなき小劇場レビューマガジン 「wonderland」 でわたしは劇評を書き始めた。最初はプルサーマル・フジコという珍妙な筆名を名乗っていた。「男性」であることを辞めたかった等の理由は複数あるのだが、要因となったもののひとつは、その頃東京の小劇場界隈で暴れていた覆面演出家エンリク・カステーヤの存在だった。すでに知らない人も多いだろうが、彼(?)の実験的・挑発的な作風は、「演劇」を原理的に問い直すことで、その常識を根底から覆すものだった。「こんなのは演劇じゃない!」と怒って帰る観客を見たのは彼の作品が最初だったし、わたしに演劇の無限の可能性を感じさせてくれたのも彼の作品が最初であった。

 エンリク・カステーヤの正体は、今も最前線で活躍する某演出家であるらしいと噂されたが、とにかく当時の東京の小劇場には、そういう「半分冗談・でも200%本気」な試みが歓迎される空気があったし、インディペンデントな精神と遊び心が息づいていた。インディペンデントな精神。遊び心。それこそが小劇場の醍醐味だったとも言えるだろう。今となっては誰もが闇に葬りたい黒歴史かもしれないが、小劇場の俳優たちをサッカーやプロレスの選手に見立てて勝手に対戦させたり、実際にプロレス(?)をしたりと、今だったら確実に誰かに潰されそうな企画が次々に生まれていた。

 わたしはそのプルサーマル・フジコというへんてこな筆名で、とはいえ本気で劇評を書き始めたわけだが、2011年に東日本大震災が起きたことで、いやおうなく原子力を想起させるその名前は使いづらくなり、わたしはその覆面(?)を脱いで今の名前で書くようになった。東京の小劇場界隈の空気がシリアスなものになり、遊びが許される余裕が失われていった、という背景もあったように思う。エンリク・カステーヤもいつのまにか姿を消してしまった。それでも東京の小劇場には依然として百花繚乱の様相があり、徳永京子さんとの共著で書籍『演劇最強論』を2013年に上梓することができたのも、そういう小劇場の勢いがあったからこそだろう。

 しかしこのまま東京にいていいのかという疑念も強まっていった。当時のわたしにとって、東京は、土地に何かを蓄積させることのできない場所として映っていた。多少目立つ言動をすれば、狭い業界内での知名度は上がる。それは空虚な、無限に消費ばかりが続くドメスティックな泥沼であるようにわたしには思えた。その東京の重力圏から脱出することを考えたわたしは、オルタナティブな魅力を発信していた横浜に拠点を移した。そして2014年にはアーティストとしての活動を始め、次第に海外に滞在する時間が長くなり、それまでのように年に200本近く東京の小劇場の作品を観る、という生活スタイルから離れていった。

 わたしに最初に劇評を書く場を与えてくれた「wonderland」は2015年4月に休止となった。多種多様な人々が劇評を書いてしばしば論争を起こしていたこのウェブメディアが休止になったことは、小劇場の変化を象徴するできごとであった。その休止の3ヶ月後、書籍『演劇最強論』の続編のような位置づけで、この「演劇最強論-ing」が「小劇場応援サイト」としてオープンすることになった。あらためて設立時の「ごあいさつ」 から抜粋してみる。

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ローチケのSさんから「小劇場を応援するサイトをつくりませんか?」とご提案をいただいた時、正直、少し戸惑った。というのもわたしは『演劇最強論』執筆前後から横浜に拠点を移し、最近は海外に渡航する機会も増え、日本国内でもどちらかといえば地方の演劇や、ワークショップの現場、あるいは他ジャンルとの境界が曖昧な領域へと、関心をシフトさせている。つまり「東京の小劇場演劇」とはだいぶ距離が生じているわけで、そんなわたしに「応援」なんてできるのか……と困惑したのだった。

とはいえこれは発想を新たにするチャンスでもある。『演劇最強論』でも書いたように、東京中心主義がゆるやかに解体されつつある今、東京を舞台に切磋琢磨を繰り広げてきた「小劇場演劇」が何らかの変容を迫られるのは当然のことだ。滅ぶものは滅ぶし、またそのうち次の誰かがやってきて新しい血を注ぐことで、「小劇場演劇」は延命する……。これまではそうだったのだから、そんなストーリーを想像するのはさほど難しいことではない。だが本当にそうした発想のままでいいのか。もしも今、現代日本人の想像力を超えるような芸術史的・社会史的な地殻変動が起きつつあるのだとしたら? そしてその解体/再生プロセスの最前線こそが「小劇場演劇」なのだと考えてみたらどうなるだろうか?

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 新しい才能が次々生まれて新陳代謝をもたらすことで、東京の小劇場は永遠に新奇さを保ち、観客はそれを消費する……それがそれまでの小劇場にあった消費モデルだとすると、2015年、そのモデルを揺るがすような地殻変動が起きている、とわたしは感じていた。そして日本の芸術と社会の関係を解体し、再生する場として小劇場を定義し直すことによって、その古い消費モデルから脱却しようと考えたのだった。別に小劇場にこだわらなくてもよかったのかもしれない。しかしわたしが劇評を書き始めた2010年前後の小劇場──わけのわからない試みが許され「そこに行けば何かが起こる」という予感がプンプンした小劇場、世の中で生きづらいと感じている人でも身を寄せられるはずの小劇場、素晴らしい作品やアーティストを輩出してきた小劇場──を、一時的なブームでしかなかったとわたしは認めたくなかったのだろう。築地小劇場以来ほぼ一世紀、アングラ演劇の隆盛から数えても半世紀以上の年月を生き延びてきた日本の小劇場は、きっとこの変わりゆく時代をタフに生き延びていくはず……いやむしろ小劇場がその社会変革をリードすらしうる。そういう巨視的なビジョンで、小劇場というものを捉え直してみたかったのである。

 2020年を迎えた今……。あらためて小劇場のインディペンデントな精神と遊び心を思い出したい。まず2010年代を、そして2019年を振り返り、最後に2020年代の小劇場の未来について夢想する。


■2010年代の小劇場を振り返って

 2015年のオープン以降はこの「演劇最強論-ing」で毎年のプレイバックや岸田國士戯曲賞の「予想」を行ってきた。単年ごとのトピックについてはそれぞれの記事を読んでほしい。

 2015プレイバック
 第60回岸田國士戯曲賞予想 

 2016プレイバック 
 第61回岸田國士戯曲賞予想

 2017プレイバック 
 第62回岸田國士戯曲賞予想

 2018プレイバック 
 第63回岸田國士戯曲賞予想 

 一方、10年という単位で振り返ればまた違う視点も見えてくる。以下に、わたしの目から見た2010年代の小劇場の地殻変動トピック10点を挙げておきたい。(※個人的に深く印象に残っている作品やそのアーティスト名がここに必ずしも入っているわけではない。)

(1)twitter
 SNS、特にtwitterが大流行。2010年代前半のtwitterはまだ魅力的で、東京の小劇場との相性も良く、特に真夜中のtwitterは、親密かつスリリングな独特の雰囲気があったように思う。次第にtwitterでの情報や評判を頼りにする観客も増え、劇団もその動向を気にするようになった。他方でそれは、SNSの負の側面の始まりでもあっただろう。2010年代後半になるとtwitterは怒り、正義、不寛容、攻撃、分断が可視化される場所になってしまった。辞めていくアーティストも増えてしまった。こういったカオスな魅力を持ったツールはいつかまた生まれるのだろうか?

(2)演劇すごろくの最期
 30~40年前に生まれたであろう、小劇場→中劇場→大劇場とステップアップしていく「演劇すごろく」という成長モデルの名残りがまだ2010年代初頭にはあり、より有名になるための登竜門としての機能が東京の小劇場には色濃くあった。この演劇最強論-ingのパートナーである徳永京子企画による芸劇eyes番外編「20年安泰。」(2011年、ジエン社、バナナ学園純情乙女組、範宙遊泳、マームとジプシー、ロロが参加)、またその第2弾である女性劇作家のみを集めた「God save the Queen」(2013年、うさぎストライプ、タカハ劇団、鳥公演、ワワフラミンゴ、Qが参加)は大いに注目を集めた。これらは「演劇すごろく」を別の形にアップデートするための試みだったと思うのだが、価値観や尺度が多様化して分散した今、これほど話題が集中する登竜門的なイベントを開催するのはたぶんもう難しいだろう。


芸劇eyes 番外編『20年安泰。』/ロロ『夏が!』(2011年)【撮影:田中亜紀】

 当時は若いアーティストへの熱視線があり、そこそこ大きい劇場に行くと誰かが近づいてきて、「最近どこの劇団がイケてますか?」とか「次に来そうなのはどこですか?」と訊かれることもよくあった。わたしはこの質問が好きではなく、そんな若手の青田買いのようなことには加担したくないという気持ちが次第に強まっていった。とはいえ、その誰かもたぶん彼らなりに真剣に演劇の未来を考えていたのだろうし、売り出し中のアーティストも、どこかの機会に呼ばれたり批評家に褒められたりすれば嬉しくなってしまうものだろう。人間の営みである以上ある程度やむをえないことだとしても、それらの欲望の結託が過剰になると、若手アーティストも評価を気にして失敗を恐れるようになり、冒険心を失ったり、過剰なストレスを抱えることになってしまう。「そのストレスに耐えてこそアーティストだ」という神話が東京には根強くあったが、世界の様々な都市を見てきた今となっては、やっぱり東京のそのストレスは極めて異常であり、人間のサステイナビリティにとって深刻な害を成すものであるとここで強調しておきたい。

 その意味では2011年のF/Tアワードを『モチベーション代行』で受賞した捩子ぴじんが、アワード受賞者に与えられる翌年のフェスティバルでの上演を辞退したのは衝撃だった。どういう事情があったのかはわからないし、その選択がベストだったとも言い切れないが、少なくともそれは当時としては珍しい、登竜門的なシステムに対する抵抗であるとわたしは感じた。

(3)手法の実験
 斬新な手法が次々に生まれた時期でもあった。岡田利規(チェルフィッチュ)の、言葉/身体/動き/空間/観客の関係性を問うような演劇作品の影響は大きく、そのスタイルの真似に見える作品も多かった。次の表現、を模索する試行錯誤の時期でもあったのだろう。そういった中で独自のオリジナリティを発揮するアーティストもいて、例えば柴幸男(ままごと)は『わが星』に代表されるように、ミュージカルとは異なるやり方で演劇を音楽的に捉える実験を何度かしていた。藤田貴大(マームとジプシー)は何度も何度も短いフレーズをリフレインするやり方で感情の増幅装置を作り上げていった。あるいはチェルフィッチュに影響を与えたとも言われるダンサー手塚夏子もまさに実験の人で、「私的解剖実験」シリーズや「民俗芸能調査クラブ」を通して若い作家や俳優やダンサーに刺激を与えていったように思う。2013年までは、ダンス批評家・桜井圭介のキュレーションによる吾妻橋ダンスクロッシングが浅草のアサヒ・アートスクエアで開催され、ダンス/演劇/音楽といったジャンルの壁を越えた実験作品が次々と上演された。その桜井や批評家の佐々木敦が運営していた東京・清澄白河のSNACも小規模ながら最前衛と呼べるような作品が上演されていたし、徳永京子も六本木のライブハウス「新世界」でProduce lab 89というキュレーション企画を行い、「官能教育」シリーズのような新しいチャレンジの場を作家にもたらしていた。逆に言えば、手法についての実験はこの時期(2010年代前半)にやり尽くされた感もあり、次第にフォーマリスティック(形式主義的)な土俵の中に閉じていったのではないかと個人的には感じてもいる。


ままごと『わが星』(2015年)【撮影:青木司】

(4)震災以後
 2011年の東日本大震災の、東京の小劇場への影響は甚大だった。扱うテーマがシリアスなものにならざるをえず、小劇場から遊びの余地を奪っていった側面もあると思う。一方で、なんらかの「目覚め」を経験したアーティストも少なからずいたはずだ。それまでの2000年代の日本は出口のない状態で、小劇場演劇もその閉塞感を色濃く反映していたように思うのだが(例えばそれは岡田利規、三浦大輔、本谷有希子、前田司郎、といった劇作家たちを生んだ土壌でもあった。ハイバイの岩井秀人やサンプルの松井周のように、2010年代に入ってさらに活躍の場を広げた作家たちも、すでに2000年代に頭角を表していた)、東日本大震災は、日本の崩壊ぶりをまざまざと可視化することで、作家たちの創作精神にインスピレーションをもたらした。岡田利規(チェルフィッチュ)が震災後すぐに九州への移住を決断し、滅びゆく日本をブラックユーモアを交えて描く作品を次々に発表していったことは強く印象に残る。この「震災以後」を強く感じさせる時間は、少なくとも2014年の飴屋法水『ブルーシート』の岸田國士戯曲賞受賞までは続いた。

チェルフィッチュ「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」横浜公演(2014年) プロモーション動画 

(5)東京中心主義の解体
 上記のようないくつかの要因により、東京はアーティストが創作活動を行う上でベストな場所ではない、という認識が、次第に共有されるようになっていった。多田淳之介(東京デスロック)は、2011年に「地域密着、拠点日本」をスローガンとして掲げ、『再/生』で日本各地と韓国・ソウルをツアー。それまで東京がナンバーワンだと信じて疑わなかった観客や批評家に、別世界が存在することを知らしめたのは、このツアーの充実ぶりが関東にいても感じられたからだったと思う。

 東京近郊でも、横浜の急な坂スタジオは2008年から「坂あがりスカラシップ」を設けて若いアーティストを支援しつつ、実験的な演劇・ダンスが上演されるSTスポットやのげシャーレと連携したり、若い制作者を雇用することで経済的に支えるなど、ディレクター・加藤弓奈の明確な意志もあり、東京の状況に対するオルタナティブな価値を実現していった。また、横浜・井土ヶ谷のアートスペースblanClassは現代アートの拠点のひとつだが、演劇やダンス系の企画も行われるようになり、「友達以上、作品未満」というフレーズに象徴されるような、ジャンルを越えたキマイラ的な企画を次々と生み出していった。わたしの企画した『演劇クエスト』が生まれたのもそういう環境のおかげである。blanClassは2019年にいったん場所としての活動を終えて休止期間に入ってしまったが、わたし個人としては日本イチ面白くてわけがわからなくて刺激的な場所だった(確か初めてblanClassを訪れたのは、まさにわけのわからなさが魅力である神里雄大(岡崎藝術座)の企画を観るためだった)。横浜はまた、この頃から小劇場の演劇やダンスに深くコミットし始めた音楽家・批評家の大谷能生の拠点でもある。2011年からはTPAMが東京から横浜へと移転(東京芸術見本市→舞台芸術ミーティングin横浜)、さらには神奈川芸術劇場(KAAT)も完成し、2013年からは横浜・本牧エリアでダンスプロデューサーの岡崎松恵らが本牧アートプロジェクトを始め……と様々な動きが生まれていく。東京近郊でありながら異質な環境が横浜に存在したことは、関東の小劇場シーンにとっては大きな強みであり、ある意味では東京のそれを延命させてきた面もあったのかもしれない。

 一方、京都では2010年にKYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)が誕生した。2010年代を通してそのプログラム・ディレクターであった橋本裕介氏は 独自のコンセプト を打ち出すことで京都の舞台芸術界の水準と存在感を高め、東京一極集中を解体していくことになった。

(6)古典の読み替え
 演劇の古典への再解釈も行われた。中野成樹+フランケンズは「誤意訳」と称して、西洋演劇を斬新な解釈で現代日本人が演じるものへと仕立て上げた。また京都では木ノ下裕一(木ノ下歌舞伎)が、歌舞伎についての豊富な知識をベースに、現代ではかなり固定化してしまった歌舞伎の解釈・演じ方をあらためて再考し、演出家の杉原邦生らとタッグを組みながら歌舞伎を現代演劇として上演し続けてきた。どちらも「今ここ」に陥りがちな日本の演劇に対して、遠い時間・空間が存在することの豊かさを感じさせるものであった。

(7)観客との関係性の変化
 2010年代初頭にはまだ参加型演劇が珍しく、「第四の壁」によって舞台と客席ははっきり分かれているのが当然であり、ごく一部の客いじりを除いて、観客は受動的に客席に座っているものだ、というのが小劇場の常識だった。その固定化された客席の再設計や、「演劇」という概念の拡張については、多田淳之介(東京デスロック)が横文字シリーズと呼ばれる『モラトリアム』『リハビリテーション』『シンポジウム』等の作品群で開拓したり、危口統之(悪魔のしるし)が建築的な発想を取り入れた様々な挑戦を試みることで、その「客席」の常識を書き換えていった。2013年から横浜・象の鼻テラスで始まった「シアターゾウノハナ」では、柴幸男(ままごと)とその仲間たちが、演劇的な素地を活かしながらも、海に面しただだっぴろい空間で不特定多数のすれ違う観客を相手に何かやる、という実験を繰り広げた。一方、市民参加型のワークショップ文化もだんだん充実していき、例えば世田谷パブリックシアターの学芸部では、幅広い年齢層の多種多様な人々が参加できるプラットフォームとしてワークショップを発展させていった。次第に観客も、演劇やダンスはただ受動的に観るだけではなく、参加するための様々な方法がある、ということを少しずつ体感していったように思う。

 また京都では、劇団地点の稽古場兼劇場であるアンダースローで、見知らぬ誰かの分のチケット代を(一種のペイフォワードとして)払えるカルチベートチケット制度が導入されたほか、観客に無料で複数の作品を見せてレポートを書いてもらいそれを出版するカルチベートプログラムも実施。そこに参加していた松原俊太郎がやがて戯曲を書き始め、AAF戯曲賞、岸田國士戯曲賞を受賞するという一種のシンデレラストーリーも生まれた。


東京デスロック『Peace (at any cost?)』(2015年)【撮影:井上嘉和】 

(8)アーティスト・イン・レジデンスの普及
 2010年、松井周(サンプル)が北九州芸術劇場のプロデュースで滞在制作を行い、北九州をリサーチして『ハコブネ』という作品を地元の役者たちと共につくった。わたしはその作品を東京のあうるすぽっとで観たのだが、劇作家が自分の劇団でつくるのとは異なるプロデュース公演で、しかもかなり地域色がある、ということで、独特のヌルッとした感触があったことを覚えている。北九州芸術劇場はその後も何人かの劇作家を呼んでこのシリーズを続けたが、演劇におけるアーティスト・イン・レジデンス(AIR)の嚆矢であったのかもしれない。

 同じ2010年には瀬戸内国際芸術祭もスタートし、2013年には劇団ままごと(柴幸男主宰)が小豆島に滞在。劇場のない島で一種のチンドン屋のような装いで演劇活動を行いながら、じわじわと島の人たちとの関係をつくっていった。やがて彼らはカフェを始めたり、制作の宮永琢生が島に居を構えたりと、かなりしぶとい関係性を、小豆島名物のそうめんのように(?)細く長く続けている。

 2014年には、いわばAIR専門施設である城崎国際アートセンターが兵庫県豊岡市にオープン。温泉のあるこの町はアーティストに豊かな時間をもたらし、最近ではここに滞在して執筆された市原佐都子の『バッコスの信女-ホルスタインの雌』が岸田國士戯曲賞を受賞した。


ままごとの小豆島滞在時の写真【撮影:濱田英明】 

(9)軽量化
 AIRの普及に伴い、従来の劇団や座組みでの大所帯のツアーではなく、作家が単身どこかに乗り込むようなことも増えていった。またチェルフィッチュに代表されるように、ほぼ素舞台で、少人数の俳優が言葉と身体によって空間を使う、という「軽量化」の傾向が2000年代後半からすでにはっきりと現れてもいた。低予算でも上演できる軽量化演劇は、小劇場のアーティストたちの逼迫した経済環境にもフィットしていたはずだ。また相馬千秋がディレクターを務めていた2010年代前半のF/Tの成果もあって「ポストドラマ演劇」という概念が普及し、演劇というジャンルが柔軟性を増したことも、この軽量化の後押しになったかもしれない。コンテンポラリー・ダンスの影響もあっただろう。この時期の小劇場では、俳優がたったひとりでも舞台に立ちさえすれば何かが生まれる、という空気があった(残念ながら今はもうこの空気はないと思う)。

 この軽量化を象徴する作品は範宙遊泳(山本卓卓主宰)の『幼女X』で、俳優2人とプロジェクター1台だけで演じるそのスタイルは、彼らのアジア進出のきっかけにもなり、2010年代後半に隆盛を極める「モビリティの時代」の幕開けを予感させるものでもあった。また神里雄大(岡崎芸術座)や市原佐都子(Q)のモノローグを主体にした作品もこうした軽量化と相性が良く、彼らは国境を越えて世界的に活躍するようになっていった。


範宙遊泳『幼女X』ニューヨーク公演(2017年)【撮影:雨宮透貴】 

(10)アートプロジェクトの黎明期
 劇場の外での演劇やパフォーマンスが発展していった。例えば高山明(PortB)の諸作品は、都市を舞台にすることで、劇場内の演劇とはまったく異なる創作・発表の方法があることを多くの人々に思い知らせたと思う。岸井大輔はそもそも作品と呼べるのかわからないような企画を次々に打ち出したが、(たぶん)その根本にある発想は人が集まれば何かが生まれるというものであり、彼の「戯曲」はそれを触発するためのものであった。市原幹也(のこされ劇場≡)の『枝光本町商店街』は、日常的に商店街に暮らす人々をそのまま登場人物にしたもので、日々彼らと時間を過ごすことが稽古になり上演になるという画期的な演出だった。石神夏希が横浜や北九州の町でプロジェクトを行ったり、現在F/Tの共同ディレクターを務める長島確が「アトレウス家」シリーズを始めたのも2010年代前半だった。後に「アートプロジェクト」と呼ばれるような、リサーチ段階から上演まで様々な人々を巻き込むプロジェクトが、じわじわと台頭していく黎明期だった。山田由梨(贅沢貧乏)が最初に頭角を現したのも、東京都江東区の一軒家を舞台に、周辺地域のリソースを作中に取り込んで上演された「家プロジェクト」シリーズであった。また当時の関西の動きをわたしはあまりフォローできていなかったが、DANCE BOXがアジアの多様な人々が暮らす神戸・新長田に2009年に移転し、ArtTheater dB KOBEという小劇場をつくったのも、芸術と社会の関係が変わっていく上で大きなできごとだったと思う。

 ……長々と2010年代を振り返ってきたが、もちろんこれは完璧な見取り図ではない。こぼれ落ちていったできごとのほうにこそ、大事な何かがあるかもしれない。一呼吸置いて、あなた自身にとっての小劇場の2010年代を思い返してみてほしい。

 続いては激動の2019年を振り返りたい。後編へ続く。

藤原ちから Chikara Fujiwara

1977年、高知市生まれ。横浜を拠点にしつつも、国内外の各地を移動しながら、批評家またはアーティストとして、さらにはキュレーター、メンター、ドラマトゥルクとしても活動。「見えない壁」によって分断された世界を繋ごうと、ツアープロジェクト『演劇クエスト(ENGEKI QUEST)』を横浜、城崎、マニラ、デュッセルドルフ、安山、香港、東京、バンコクで創作。徳永京子との共著に『演劇最強論』(飛鳥新社、2013)がある。2017年度よりセゾン文化財団シニア・フェロー、文化庁東アジア文化交流使。2018年からの執筆原稿については、アートコレクティブorangcosongのメンバーである住吉山実里との対話を通して書かれている。