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ゆうめい 『姿』 作・演出 池田 亮インタビュー

インタビュー

2021.05.24





母とは、家族としては遠くなったかもしれないけど、人として近くなった。


人に痛みを伝えるには、傷の奥へ深く分け入る必要がある。ゆうめいの作・演出家、池田 亮は、勇気と冷静さが必要なその旅を、精緻なスケッチ力を携えて繰り返している。そんな池田に変化を感じたのは、一昨年、『姿』の初演を観た時だ。
池田の名を一躍広めた『弟兄(おととい)』(2017年初演)は、自身が中学時代に受けたいじめから話が始まり、事実と事実を演劇のフィクションという接着剤でつなげていたものの、いじめた同級生の実名を出したこと(本人の同意の上)が独り歩きしてしまった感がある。その後も、祖父と父と自分の関係を取り上げたり、実父が俳優として出演するなど、ノンフィクションの部分がクローズアップされ続けた。
『姿』は、やはり池田の実母の半生を題材にしているが、演劇のフィクション、つまり演出が巧みに機能し、生々しいエピソードと創造の境界線が拮抗しながら溶けていった。再演版ではさらに進化した“事実とフィクションのミルフィーユ”が観られるはずだ。


── ゆうめいのこれまでの作品にもお母様は登場していましたが、常に家庭内で最も高圧的かつ不可解な存在でした。『姿』は、彼女の過去が主に両親との関係から描かれ、ひとりの女性にとっての家族と仕事の物語になっています。おそらく池田さんにとって心理的に最も遠い家族だったお母様の話を書こうと思ったのはなぜでしょう?

池田 理由はいくつかあります。ひとつは僕、’19年に結婚をしたんです。その時、結婚とは何なんだろうと考えたんですね。とにかくいろいろな人から「結婚は墓場だ、地獄の始まりだ」的なことを言われて。じゃあなんでそんなに大変なことをするのかと考えた時に、しょっちゅう喧嘩をしながら60歳過ぎまで一緒に過ごしている夫婦が近くにいた(笑)。その話を聴いて、裏に何があったのかを今後のために知りたいと思ったんです。

── 自分の結婚生活のためというのがスタート地点だったんですね(笑)。自分の体験を演劇にした、おじいさんとお父さんのことも作品にした、だから次は母親……という流れではなくて。

池田 いえ、母はやっぱり以前から謎で、いつか話を聞きたいという気持ちはありました。『弟兄』を母が観にきた時、実は徳永さんの隣に座ってたんですけど(笑)、僕がいじめられているシーンでめちゃくちゃ声を出して笑ってて。

── え……。

池田 なんでこれ観て笑えるんだろうと思ったんですが、感想メールが来て「いやー、リアルだと笑えないけど、こういう仕組みで笑えるのが芸術のいいところだよね!」って。母は天邪鬼というか、僕がやっていることを拒否しつつも、ちゃんと見てくれる人なんだなって、その時に改めて思いました。その後、父(五島ケンノ介)が出演してくれるようになったこともあって、一緒に創作してくれる人と、私生活でものすごく参考になる人という、頼りになるふたりが自分のすぐそばにいると気付き、プライベートとパブリックをがっつり合体させた作品ができるんじゃないかと。もうひとつ、初演は三鷹だったんですが、小学生の頃に母と祖母にジブリ美術館に連れて行かれたことがあって、その時、公務員の母が「私もこういうところで働きたい、三鷹市が担当だったら良かった」と言っていたのを思い出して、これはこのタイミングでやるしかないと思いました。

── それでお母様に取材をされた。でも、親へのインタビューはしづらくなかったですか? 通り一遍の質問では済まなかったと思いますが。

池田 『弟兄』をはじめとするゆうめい作品とか、僕が大学の時につくった裸で6時間ぐらい突っ立っている映像とかも母に見せているので、僕としては、もちろん恥ずかしくはあるけれども、すでに恥ずかしいものはないという状態で(笑)。そもそも母は、僕が中学生の時に隠していたエッチな本を笑いながら「これどうぞ~」と手に持って部屋に入ってくるような人でもあるので、こっちがこれだけオープンにしたんだから、あなただって出しなさいよ、みたいな気持ちで臨みました。

── 実際、スムーズに話してくださったんですか?

池田 はい。話の内容をそれなりに反映させた初稿は、そのまま上演したら4時間ぐらいの超大作でした。でも母から一部NGが出たり、構成を考え直したりして、最終的には2時間になりました。

── そうして上演された『姿』は、夫や息子と距離を置き、その理由を言わない権利が自分にはあるという態度の中年の女性が主人公で、物語は「この人はなぜ、こういう人になったのか」という問題を、優しく厳しく解き明かしていきました。それを2年後の今、再演される理由は? 池田さんの師匠であるハイバイの岩井秀人さんは再演に積極的な方なので影響は当然あると思いますが、池田さんにも独自のお考えがあると想像します。

池田 それはめちゃくちゃありますね。僕は現実にあったことを演劇にしているわけですけど、上演すると、そこからまた現実が変わっていくんです。『姿』は母の体験がもとになっていますが、(創作を通して)ある種、仕事の関係者同士の会話をするようになりました。作品化することによって、家族だった人が観客になるというか。普通に日常会話をしていたと思ったら作品の話になったりして、ずーっと行き来する。だから会話は増えましたね。僕としても、母親にとって現実と地続きの演劇をつくることで、それを物語として楽しむ面と、作品を通して母や家族を考えるふたつの面が生まれました。家族としては遠くなったかもしれないけど、人として近くなったみたいな。
 初演を母が観に来て、舞台上にいる父と目が合って、目を合わせたままの父がせりふを飛ばしてしまうことがあったんです、楽屋では「(妻が観に来ていても)全然緊張してない」と言っていたのに(笑)。そういう、作品の中だけじゃなく実際にプライベートなのかパブリックなのか分けられない状態が生まれて、実は再演では、本当に母に出演してもらおうと考えたんです。ちょうど母が今年定年で時間も出来るだろうと。母も「お前がそんなに言うなら出てやろう」じゃないですけど(笑)、自分がやりたいと思っていた芸術を息子がやりやがって、という気持ちになっていたみたいで承諾してくれて。それがコロナでもう1年働くことになって実現できなくなり、その代わりというか、母が(自分役を演じる)高野ゆらこさんと児玉摩利さんと話をする会を設けたんです。8時間ぐらいやってましたね(笑)。あとから高野さんと児玉さんに「初演の時は、こんな人いないよと思ったけど、むしろ池田くん、よく書けていたんだね」と褒められました。

── 8時間もどんな話を?

池田 まず母が「今日はよろしくお願いします、私はこんな人です」って、自己紹介の資料をパワポで作成して、プレゼン資料みたいに持ってきたんですよ。これです(このインタビューはオンラインで実施したため、モニター越しに見せてくれる)。

── 何これ、すごいじゃないですか! 写真やイラストもあって、フォントも可愛いし、めちゃくちゃ読みやすいですね! 「憧れのリーダー像:ヨーダ」って書いてありますね。センスある。

池田 完全に負けたって思いました。

── 普通、息子には父親を超えられるかどうか問題がありますけど、池田家は母親のハードル高過ぎ問題がありそうですね。

池田 ほんとそうなんです。池田家というか、僕の中で母はかなりトップです。自分がこういう性格になってこういう仕事をしているのも、完全に操作されていたんじゃないかなと。この資料も、ほら、こういう柔らかいクリアファイルに入れてきたんです、「濡れても大丈夫だし、折りたたんでも潰れないファイルなんですよ」とか言って。

── 心遣いであり、話の糸口になるという……。お母さん、仕事出来過ぎです(笑)。今回の出演がなくなったのは残念ですけど、池田さんが演劇を始めたことで、お母様の中にあった扉が開いたのではないですか? 

池田 開いたと思います。半年ぐらい前かな、「来年は本当に仕事が終了するから声優をやりたい。良い写真撮って、声優の事務所に送ってくれない?」と言われて、僕、送りました。

── 初演の影アナ(開演前、開演後に客席に流すアナウンス)、お母様でしたよね。あの時も、かなり洒落のわかる方だなと感心しました。さて、初演との違いですが。

池田 一番大きいのは、定年というものをかなり考えてつくったことです。うちは両親とも公務員で、僕は昔から「60歳で仕事を終えたら新しいことを始める」と聞かされて育ったんですね。そして実際に父も母も定年を迎え、それぞれやりたいことがたくさんあるようで、それなら息子としても新しいことに挑戦したい、新しいことを提示したいという気持ちになりました。
両親との関係は、過去にいやなこともありましたけど、演劇を通してオープンになれたし、幸運なことに母も父も演劇や映画が好きな人だったから、お互いの欠点を共有した上で、一緒に何かつくれるかもしれないという気持ちが湧いた。そういう意味で、再演ではありますけど、新しいことに挑戦している気持ちになっています。

── お母さんをモデルにした主人公の人生を紐解くのは、過去をたどるという行為だけれども、つくり手のモチベーションや作品全体の指向性は未来を向いているということですね。

池田 そうです。

── 具体的に変えたシーンもありますか?

池田 あります。初演は2019年で、まだ2年しか経っていないのに、変わってしまったことがいろいろある。それをベースとして、未来に向けてどう物語を書くのかはかなり考えました。それはもう、お客さんに対してある種の“発表”という感じですね。「今こうなってしまったけど、それも踏まえて発表します。自分たちは定年を迎えた後のことをこういうふうに考えています」という。この時期に劇場で公演ができるということも含めて、最終的に未来の話になると思います。

── 最後に演出についてお聞きします。ゆうめいの作品が観客の心を強く動かす理由につて、池田さんのプライベートを扱っていることが前面に出がちですが、私は、演出がかなりクールだと思っています。つまり登場人物の気持ちを無視したところで作品が動かされている。『姿』の美術は、舞台上に大きな四角い枠があってそれが動くというものですが、その動きによって時間が飛んだり、馬が人間になったり、シーンの次元が変わりました。池田さんは、劇作家として自分と至近距離のモチーフを扱いながら、演出家としては物語と画(え)を切り離せる客観性がある。その演出脳はいつから働き始めるんですか?

池田 わりと早い段階かもしれません。稽古場に入ると自然と(戯曲を書いていた時にイメージしていた)人の配置や動きが曖昧になっていくんです。例えば、戯曲ではふたりしか出ていないシーンも、稽古場が狭いと、本当なら次のシーンのために出はけ口で控えている別の俳優がちょっと奥の角で立っている。それを見た時に、戯曲の内容とは別に、その人が見えている意味を僕は考えてしまうんですね。僕の視界では端っこにいるけど、あの人の視点を考えると、まっすぐ目の前に僕がいるのかな、とか。その人の中にも、立ち位置の視点と役としての視点があって、どちらから見るかによって気持ちも変化するだろうとか。めちゃくちゃ感覚的な話ですけど、そういうことを考えるから、台本をなぞらなくなるのかもしれません。
四角い枠の舞台美術は山本貴愛さんが考えてくださったんですけど、そのアイデアをもらった時点で、じゃあ僕はこれをどう遊べるか、物語とどう合体させるかという脳が働く。大学で彫刻とかをやっていた時は最初から最後までひとりで、その楽しさは充分感じていたんですけど、演劇にはいろんな人の視点があるから、それによって遊べる可能性は広がると思っています。それと最近ちょっと考えているのが、誰に向けてやるのか。今回の再演をやる前、別の仕事で取材する人に自己紹介の意味で「僕はこういうものをつくっています」と『姿』の映像を観てもらったんです。全然、演劇ファンではない人だったんですが「自分はここは共感できなかった」とか感想をもらって、新鮮だった。そういった人に向けてどうつくれば伝わるのかは、今回改めて考えています。

── 単純に違う場所から見る視線、俳優の中にある立場による視線、別の価値観を持つ人の視線など、たくさんの異なる視線を同時に存在させているというのが、ゆうめいの作品なのかもしれません。

池田 中学高校と、2ちゃんねるにあれこれ書き込んで、どれぐらい笑えるかみたいなことをやり続けてきたのが大きいのかな。2ちゃんの住人という大勢の匿名の人に向けて「股間に変なできものが出来たんだけど」とかポンと投げると、とんでもない角度からコメントが来たりするんです。そのコメントも全部人間が書いていると思うと、世の中には本当にいろんな視点があるんだなって思っていましたから。そのあたりが平成生まれというか、ニコニコ動画で育った自分の特徴かなとか考えたりします。

── 悪く言われがちな2ちゃんねるですけど、ゆうめいの作品にああいう形で結実しているなら、良い点もあったんですね(笑)。どうもありがとうございました。


取材・文:徳永京子


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