演劇最強論-ing

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チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』『消しゴム森』岡田利規インタビュー

インタビュー

2020.02.12


この作品で人間が感じることは、
男性社会に女性が入ってきた時に男性が、
白人社会に有色人種が入ってきた時に白人が、感じたであろうことと
同種のものかもしれないなと思っています。


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©宇壽山貴久子
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時代が大きく刷新される時には2つのパターンがある。ひとつは、複数の人が偶然、ほぼ同時に同じことに取り組む、いわゆるシンクロニシティ。もうひとつは、たったひとりが、ほとんど誰も思いつかなったことを突然始めるケース。岡田利規は後者を担う運命にあるようで、2004年に発表した『三月の5日間』一作で日本の現代演劇の流れをはっきりと変えてしまったが、昨年、美術家の金氏徹平と組んで京都で上演した『消しゴム山』では、もっと大きなものを変えようとしている。同作は「人間とモノの関係をフラットにし、両者に平等に向けてつくった」という前代未聞の演劇。同じコンセプトの美術館バージョンが、金沢21世紀美術館で世界初の上演&展示となる『消しゴム森』。少し先の未来に「あの作品が始まりだったね」と言われるであろう作品の詳細を、岡田自身に聞いた。


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撮影:渡邉修
提供:金沢21世紀美術館
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── そもそも「消しゴム」という名付けの由来はどこから?

岡田 陸前高田へ行って、嵩上げ工事の光景を見たんですが、その土をまかなうために周囲の山がいうつか消えたという話を聞いたんです。すごくないですか、山が消えるって。で、そのショックにインスパイアされた作品をつくりたくなったわけです。そして一昨年の七月、関空から京都に向かうバスに乗っていたら窓から山が見えて、そのときフッと「消しゴム山」という言葉を思いついたんです。

── 演劇作品を『消しゴム山』、美術館でやるものを『消しゴム森』にしたのは?

岡田 「山」というのが遠くから眺めるものというのだとしたら、対して「森」はその中に入り込むもの、というごく単純な理由です(笑)。どちらもコンセプトは同じ。劇場版である「山」ではできなかったこと、美術館だからこそできることを『消しゴム森』でやっています。
 演劇ではひとつの線的な構成というのをつくらなければいけない。展覧会という形式はその制約から解き放たれる。ひとつのシーンが持つ時間についても、それを見ている時間を展覧会ではお客さん主導で決められる。だからこっちとしても、もし長くやっていたければ気兼ねなく長くやっていて構わない。

── 『消しゴム山』で本当はもっと時間をかけたいシーンがあって、『消しゴム森』ではそれが自由にできているということですね?

岡田 はい。コンサートとか展覧会って、お客さんの時間の過ごし方が演劇にくらべてリラックスしている。それは、いいなと思うことがしばしばあるんです。

── 陸前高田のエピソードに戻りますが、そこにあったのは「自然vs人間」の図式ですよね。岡田さんはこの作品を説明する時ずっと、「人とモノの関係をフラットにする」とおっしゃっていますが、作品の立ち上がりに陸前高田のイメージがあったとすると「人とモノ」よりも前に、まず「人と自然」の関係について考えたはずだと思います。モノと自然はどう切り分けて、あるいはひとつにして考えていらっしゃるんでしょうか。

岡田 「自然vs人間」の図式というより、人間中心主義をこの世界の中で適用する分をわきまえる、みたいなことです。モノと自然の間に、違いをつけてはいません。この作品をつくる時に参考にした本のひとつに、ティモシー・モートンの『自然なきエコロジー』がります。タイトルが示しているコンセプトに、僕もならいました。人ではないという点で、モノも自然も同じです。自然は人間より高次な次元にあると思ったりする一方で、「モノ」に対しては自然に対して抱く畏敬を抱かなかったりする、みたいなのは人間中心的な考え方かなーと。

── 人間より自然のほうが上だと考える時、最初に人間を起点に置く時点で、人間中心主義に陥っているということですね。

岡田 モノって、道具だったりする。道具は、人間がある目的に基づいて使うためにつくった主従関係がはっきりしている。そんな道具が、本来の目的と違う使われ方をした時、おもしろいことが起こっているんです。

── 防波堤を造成するために山を崩す行為は、確かにモノ扱いですね。でも「自然の脅威」とか「自然が美しい」と言う時、言った人間の頭の中には神様のような存在としてイメージされる。私達が曖昧に自然を使い分けているから「人とモノの関係」という言い方を選ばれた。

岡田 『消しゴム山』は途中で帰る人が結構いました。人間中心主義から外れていく作品が自然賛美にわかりやすく向かっていたら、たぶんそういう惨事(笑)はそこまで起こらなかったでしょうね。


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チェルフィッチュ × 金氏徹平 『消しゴム森』 リハーサル風景
撮影:木奥惠三
写真提供:金沢21世紀美術館
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── 『消しゴム森』の具体的な内容についてお聞きします。金沢21世紀美術館1階の8つの展示室(中庭に位置する野外の「光庭」を含む)を会場にして、俳優が出演する「演劇」のほか、「映像演劇」「モノたちの演劇」「モノたちへの演劇」「彫刻演劇」などの展示が同時開催される作品の総称ですが、気になるタイトルも多いので、プログラムをひとつずつお聞きしたいと思います。まず、観ていく順番ですが……。

岡田 順番は自由です。展覧会ですから。展示室だけでなく、廊下も森の一部です。展示スペース全体が森です。3時間ぐらいさまよってもらえたらうれしいです。

── では順路の指示ではないとして、まず「演劇」ですが、京都での上演と基本的には同じ構成ですね。

岡田 そうです。モノもありますけど俳優もいます。開館時間のあいだ常にいるわけではないですけど、演劇、パフォーマンスをやります。

── 「光庭」のインスタレーションは?

岡田 それは金氏さんがつくるパートで、パフォーマンスは関わってこないですね。金氏さんとは一緒にやるところももちろんたくさんありますが、僕はノータッチのパートもあります。こけは唯一、野外で展示する作品で、基本的に鑑賞者は中に入らず、外側から観るものですね。

── 「彫刻演劇」というのが2つの展示室を使って展開されますが……。

岡田 一昨年からチェルフィッチュは「映像演劇」という取り組みを始めているんですね。『消しゴム山』でもその手法を一部取り込みました。『消しゴム森』でも用います。で、その取り組みに反応した金氏さんが、「彫刻演劇」と言い出したんですよ。でもそれが一体なんなのかは、僕もよくわかっていません。「なんだよ、彫刻演劇って」って思いますよね?

── 思いました(笑)。そのご本家「映像演劇」も2つの展示室で展開されます。

岡田 『消しゴム山』のクリエイション時にやって、「おもしろいね」となったけれども最終的に作品に取り込まなかったものをやります。

── 「映像演劇」はスクリーン、あるいは壁に俳優が映し出されますが、基本的に正面を向いてせりふを話し続け、映画とはアプローチも質感もまったく違います。紛れもなくチェルフィッチュの発話と動きですが、平面になった俳優は、掛け軸の幽霊のような儚さ、不気味さも感じさせます。今回、同じテキストを「演劇」と「映像演劇」で見せ方を変えようと思った理由は?

岡田 それはこれが『消しゴム森』だからです。『消しゴム山』は上演時間の大半を、劇場に足を運んでくれたお客さんに向けないパフォーマンスをやった。それが1番の挑戦だったんですね。で、途中で帰る人も結構いて──悪くない反応だと思ってますよ。負け惜しみじゃないですよ(笑)──、そんな中で「映像演劇」はもともと目の前の観客に対して機能するものだったから、ある意味、普通のやり方だったわけです。でもそうではない「映像演劇」もあるので、そこにコントラストを出したいと思っています。

── 『消しゴム山』の「映像演劇」は観客のためという部分もあったけれど、『消しゴム森』の「映像演劇」はそうではないつくり方をする、ということですか。

岡田 人間のためだけにパフォーマンスしないというのは、『消しゴム山』でも『消しゴム森』でも大事なコンセプトです。でもそれは、どこでやるかによってやり方が変わってくる。というのは、すごくざっくり言うと、劇場は人、つまり役者を観る場所で、美術館はモノ、作品を観る場所じゃないですか。そもそも(作品が)どこに向けられているか、みたいなことが前提として全然違う。
 モノを観る場である美術館では、展示されているモノが目の前に人間に向けられているわけではないというのは、演劇においてよりもずっと普通の事態だと思うんですよ。とは言ってもまぁ、一般的な人間の目の高さに近い位置に絵が掛かっていたりはしますけどね。でも、観客に向けられていないということが、そんなに強い(反)作用を起こさないんじゃないかと思うんです。それは『消しゴム森』をすんなり受け入れてもらえるという点ではポジティブなことだと言える一方で、「別にこれ普通じゃん」という反応の中に回収されてしまう可能性もあるなと。実際のところは、どうなるんでしょうね。それは、やってみないとわからない。


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チェルフィッチュ × 金氏徹平 『消しゴム森』 リハーサル風景
撮影:木奥惠三
写真提供:金沢21世紀美術館
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── でも美術館も、施設側の「観てください」という姿勢を前提にして絵やオブジェが置かれていますよね。美術館に飾られた時点で、その作品は観客のほうに矢印が向いている。『消しゴム山』で、途中で帰った人達は、矢印そのものが無いことに戸惑って、それが拒絶反応を生んだのではないでしょうか。劇場か美術館か、俳優かモノではなくて、矢印の存在の仕方が評価の分かれ目のように思います。

岡田 そうですね、僕もそう思います。

── なので金沢21世紀美術館では、もうちょっと先にあるものが見えてくるのかなと予想しているのですが。

岡田 その先に行けたらいいんですけどね。『消しゴム森』と『消しゴム山』、その一連の試みの中でやろうとしていることが何なのかを、感覚のレベルでどれだけはっきり伝えられるか。それが僕の1番やるべきことだと思っているんです。まぁ、当たり前ですけど。つまり、美術館という制度の中でどれだけ挑戦的なことができるか、それももちろんやれたらいいし、やっているつもりですけど、それより絶対に優先してやらなきゃいけないと思っていることが他にあるんですよ。……それは、それを経験してもらえれば「あ、これが演劇なのか」と理解できる、というものなんだと思います。

── 私なりに整理すると、俳優が観客に向けて演技をするという従来の演劇を解体してもなお、そこに来た人が自分の中の感覚を拡張できる体験を提供できたらいい、といったことでしょうか?

岡田 まさにそうです。演劇というものがどれだけおもしろいものか、まだ全然伝わってないし実現されていないと僕は思っています。演劇ってすごくおもしろいんですよ。どのくらいおもしろいかというと、演劇をつくる際の考え方を使って、どんなものだってつくれる。演劇をつくる時に自分が使っているものの考え方を演劇と呼んでしまうと、その結果つくられたものはなんでもかんでも演劇になる。たとえば、僕たちのつくる映像インスタレーションは「映像演劇」という演劇になる。

── 回路が演劇だから、そこを通って出てきたものは演劇になっていると。先ほどの矢印の話に戻りますが、『消しゴム山』を途中で出た人は「テキストが語られているのに耳に入って来ない、演劇なのに」という“置いていかれた感”もあったと思うんです。事前の情報で「モノに向けた演劇です」と知っていても、いざ目の前でやられると、その場にいる自分が無視されていることにプライドが傷付いた。それは、演技している俳優や置かれているモノから矢印が出ていないのではなくて、矢印が出ているのに自分をスルーしたり、避けてどこかに行ってしまう疎外感で。岡田さんがこの『消しゴム』シリーズで目指しているのは、観客に「この作品から放出される矢印の中には、あなたを無視するものが結構ありますよ」という認識を伝える、そういう矢印の存在を当たり前にすることかと話を聞きながら思ったんですが、そのためにどういうことを考えているのか、改めてお聞きしていいですか。

岡田 繰り返しになりますけど、それが『消しゴム山』の成果だとも言えると思うんですね。つまり『消しゴム山』は演劇の制度の中でやったから「なんだこりゃ」という反応が出て来た。でも展覧会という枠組みの中でそういう反応はたぶんそんなに出てこないんじゃないか。展示室に置かれているものには、自ずと鑑賞者に対する矢印を放つところがある。もしくは、そのものがこちらに向けた矢印を放っていなくてもそれを特に問題にしないでおけるところが美術館という制度、展覧会という形式の中にはある。
 それと比べれば、演劇のほうがよっぽど人間中心的だと思うんです。戯曲がすでに死んでいる人によって書かれているということは往々にしてあるにしても、それ以外、プロダクションのメンバーはみんなコンテンポラリーな人間ですよね、あ、つまり、生きている人間、ってことですけれども。
 だから『消しゴム森』は『消しゴム山』よりずっと受け入れられやすい仕様なんじゃないかと思うんです。でも僕としてはそれでもなんとかして、『消しゴム森』についても攻め込んでいきたいと思ってはいるのですが。

── 矢印スルーが当たり前の美術館という設えの中で、演劇としての矢印スルーの感度をどれだけ高めていけるか。

岡田 そういうことかもしれません。さっき「演劇は、演劇をつくるときに僕が使っている考え方のこと」とか言いましたけど、演劇の定義は当然ですけどもっといろいろあって、制度の問題も含んでいるじゃないですか。その意味で、演劇の制度と美術の展覧会の制度はかなり違っていて、同じことをやったとしても「美術館でやっています、展覧会です」と言ったものはすんなり受け入れられて、劇場で「演劇です」と言ってやったものは「なんだこれは」になる状況に対して「あなたの感性はどれだけ文脈に依存してるいるのか?」と問いたい気持ちは、正直あるにはあります。でもそこにつっかかるよりも、鮮やかなその先を見つけることのほうが、もちろんおもしろいですよね。

── そういった野心というか狙いをお聞きすると、「モノたちの演劇」という展示の意味が重いですね。

岡田 「モノたちの演劇」は、『消しゴム山』で言うところのラストシーンですね。モノたちが動きます。それはモノたちが演じているということです。そこに断続的にテキストが発されます。

── これは人間に向けられていると考えていいんでしょうか?

岡田 どうなんでしょう。「モノたちの演劇」が、モノたちへの演劇なのか人への演劇なのかは、はっきりさせてはいなくて、それは僕にもそれがよくわかってないからです。でも、そもそも美術館に展示されている作品って、来場者に向けられているようでもあり、来場者を気にしていないようでもあり、みたいなところがある気がするんですよ。演劇と比べるとね。

── もうひと部屋、「モノたちへの映像演劇」という展示がありますが、これは人間がモノに対してパフォーマンスするのを観るわけですね。

岡田 これも『消しゴム山』にもあったシーンです。青柳(いづみ)さんがモノたちに向けて、時間とは何かをレクチャーする。

── あのシーンは強く印象に残っています。噛んで含めるようにモノたちに時間の概念を説明している。青柳さんのせりふは、声が小さくてもこちらの身体の深くに入ってくる作用があるので、それがモノに向けられているのが最初は宝の持ち腐れ的で、次第に、ひょっとしたらモノが理解するんじゃないかと思えてくるのがおもしろかったです。ここをピックアップした理由は?

岡田 「映像演劇」は、「何への映像演劇」だとは特に言ってませんけど、「人への」なんですよね。だからそれとの対比を持つものをつくりたかったんです。単純な理由ですよ。宝の持ち腐れ的、というのは確かにそうですね。


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チェルフィッチュ × 金氏徹平 『消しゴム森』 リハーサル風景
撮影:木奥惠三
写真提供:金沢21世紀美術館
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── 『消しゴム山』の上演が終わって間もなくだったと思いますが、あるインタビューで岡田さんが「自分でもなぜこんな作品が生まれたのかわからない」とポジティブなトーンでおっしゃっていました。それから少し時間が経って、こうして別の場所と異なる形でコンセプトを押し広げている今、なぜ『消しゴム山』が生まれたのかを改めて言葉にしていただけますか?

岡田 大きな原因はふたつあります。ひとつは、陸前高田の嵩上げ工事の様子を見たことです。海岸近くの小高い丘、東日本大震災の津波が来た時に、逃げ切れた人が登った場所なんですけど、そこから周辺を眺めたんですね。その時に思ったのは、面積のスケールみたいなものはすごく大きいんだけれども、射程にしている時間的スケールはすごく小さいんじゃないかということでした。そこに住んでいた人々がいて、家が流された人もいて、そうした人達がまたそこに家を建てて家族で暮らしたいと考えるのは当然のことです。でも、それにしても、そのために山がなくなるというのは、信じられないことだと思ったんです。

── もといた場所に戻りたいという願望と、山を削れる技術が掛け合わさって、人間中心主義がむき出しになってしまった。それを感じられたんですね。

岡田 ふたつめの原因は、演劇作家としての個人的な事情なんですけど。『消しゴム山』の前にチェルフィッチュで『三月の5日間』のリクリエーションを行って、その演目をツアーして上演を重ねて、成熟させていったわけですけど、僕はその成果に、とても満足したんですね。この方向でこれ以上作品をつくり続けること、その方向をさらに深めていくことに意味を見いだせないなと思うくらい、満足したんです。で、結構焦りました。それは決定的に新しいところに進んでいかないといけないということだから。ちょっとしたミドル・エイジ・クライシスというかですね。というわけで、演劇という大変に人間中心主義的な制度のなかで人間中心主義の外に出るというそもそも原理的に難しいのかもしれないことに、挑戦してみたかったんですよ。

── 人間的という言葉を聞いて思ったのは、『消しゴム山』に否定的だった人達の気持ちと繋がるところがあるんですけど、モノの存在感が演劇作品の中で大きいと、観客としてはどうしても擬人化したくなる。擬人化は見立てと同様に、演劇の原則的な要素じゃないですか。役そのものが作者のイメージの擬人化だと言えるし。だけど『消しゴム山』は、洗濯機やネジやテニスボールがずらりと人間を取り囲んでいて強力な存在感を放っているのに、擬人化に回収されることを全力で拒否していた。

岡田 僕と金氏さんの間では『わかったさんのクッキー』(’15年初演)で、擬人化というよりも見立て、つまり、あるシーンを成立させるためにモノに活躍してもらうことはやって、すごくうまくいった。僕らはそれにとても満足しているから、同じことをやるつもりはなかったというのは、すごく大きいです。

── 無意識レベルで観客に織り込まれている見立てや擬人化を禁じられて、なんというか、自分の何かが否定されたようなショックをだったではないかと。

岡田 それはもしかしたら、男性中心の社会に女性が入って来た時に男性達が感じたであろう感覚であったり、白人が中心の社会の中で有色人種が入って来た時に白人が感じたであろうことと同種のことかもしれない。だとしたら、まあ、言っちゃうと、受け入れるべきじゃないですかね。そうしてかないと人間に、この先はない。でも一応ね、そういう動きに対応したくない・できない人に向けたテキストも『消しゴム山』の中にはあるんですよね。ただしまあ、それはだいぶ後半なので、それを聞いて感情移入してもらえたかもしれない人はもう、帰ってしまっていたんじゃないかという話もあるんですけれども。

── 私も『消しゴム山』を観た直後は整理できない部分がいろいろあったし、今もきちんと理解できている自信はないんですが、舞台上にあったモノの、色や形、並べられ方が、規則性やストーリーがあるようで途中からそれがなくなっていくことに、きっと何かひとつの文脈に回収されることを強く、意図的に拒否しているんだろうと考えるに至りまして。

岡田 人びとが時間をかけて咀嚼してくださるのを期待しています。

── 『三月の5日間』が及ぼしたショックよりも波及力の大きいものになるかもですね。

岡田 どうなんでしょう。それは僕にはわかんないっすね。そうなるとしてもそれがわかるのは何年も先でしょうしね。


インタビュー・文/徳永京子


チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』『消しゴム森』公演情報は ≫コチラ

チェルフィッチュ

岡田利規が全作品の脚本と演出を務める演劇カンパニーとして97年に設立。独特な言葉と身体の関係性を用いた手法が評価され、現代を代表する演劇カンパニーとして国内外で高い注目を集める。05年『三月の5日間』で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。07年クンステン・フェスティバル・デザール2007(ブリュッセル/ベルギー)にて初の国外進出を果たして以降、世界70都市で上演。近年では、ヨーロッパを代表するフェスティバルの委嘱により作品を制作、発表している。主宰・岡田は、07年デビュー小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を新潮社より発表し、翌年第二回大江健三郎賞受賞するなど小説家としても活動している。また、16年よりドイツ有数の公立劇場ミュンヘン・カンマーシュピーレのレパートリー作品の演出を3シーズンにわたって務めた。 ★公式サイトはこちら★