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KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『ゴドーを待ちながら』多田淳之介 インタビュー

インタビュー

2019.06.3




ベケットの言葉って身体的なんです。
ウラジミールとエストラゴンがゴドーをどう待っているかが丁寧に書かれていて、
いつの間にかお客さんも一緒に待っている状態になっていく。


思えばこの人はずっと、俳優の身体を物語の語り手にすることと、観客の能動性を促すことを2本の柱にしてきた。それらを束ねるのが社会と歴史への問題意識で、個人としても、主宰を務める東京デスロックも、国内に留まらない広域で、さまざまな戯曲をセレクトしながら活動を続けている。そんな多田淳之介が、近代劇作の巨人サミュエル・ベケットが1952年に書き、今日も不条理演劇の玉座にある『ゴドーを待ちながら』を演出する。来ない人を待つふたりの男を描いた物語に、多田は、昭和・平成ver.と令和ver.と名付けた年代の異なる2組のキャストを用意。 待ち合わせという行為さえ絶滅しつつある今、待つ身体の状態、待つことの希望を、客席まで届けたいという。



── 多田さんは2017年の東京デスロックの企画で『ハッピーな日々』と題して、ベケットの『Happy Days』を上演されました。その当日パンフレットに「やはりベケットはやりがいがある」と書かれていましたが、中でも『ゴドーを待ちながら』(以下、『ゴドー』)は特別な作品ではないかと思います。特に演出を専門にしている人なら、キャリアのどのタイミングで挑戦するかを意識するもののひとつかもしれません。そういったプランはあったのでしょうか?

多田 『ゴドー』を自分がやることをイメージしたのは東日本大震災のあとです。被災地だけでなく日本全体が不安定になって、人々の価値観が大きく崩れた時に僕が思ったのが「ああ、『ゴドー』が不条理ではなくなった」ということでした。「今の日本で上演したら、みんな“この話は自分達のことだ”と思うんじゃないか」と。そこから、ベケットを上演することを考えるようになりました。

── 東日本大震災と福島原発事故を機に、ベケットの世界が身近というか、演出の対象として具体的に考えられるようになった?

多田 ただ、時期については慎重に考えてました。(震災の)直後にやるとそのまんますぎて逆にあまりイメージが広がらないかなと。2011年以降は、創作のモチベーション自体も変わってきて、東京デスロックの作品を中心にお客さんと直接的に関わる作品や、今の社会の問題をダイレクトに問う公演が増えていきました。ひとりひとりが立ち止まって考える時間が必要だろうと『モラトリアム』という作品をやったり、みんなで直接話し合って意見を交換するのがいいんじゃないかと『シンポジウム』をやったり。17年の『ハッピーな日々』は、そういう流れの上に、今の私たちにとっての幸せとは何かを考えたいと思って「ARE YOU HAPPY???──幸せ占う3本立て」の中で取り上げました。
今回の公演の立ち上がりの話をすると、何をやるかKAATと話し合う中で、候補のひとつに『ゴドー』が入っていたんです。で、おっしゃる通り『ゴドー』を上演するタイミングって、演出家としては考えどころだと思うんですが、待つという行為は時間を考えることでもあり、今の日本、つまり元号も変わって「あの時代はなんだったんだろう?」と振り返っていることと重なるんじゃないかと。振り返るって、過ぎ去ったものだけじゃなくてこれからも続いていくものを確認することでもありますし。

── そのふたつのベクトルがあるから、壮年コンビと青年コンビの2バージョンをクリエイションされるんですね。

多田 そうです。あともうひとつ、岡室(美奈子)さんの新訳が出たこともかなり大きいです。『ハッピーな日々』の時、翻訳を手がけてくれた長島(確)さんといろいろ話をしながら作品をつくっていって、それがすごく良かったんですよね。岡室さんのところに話を聞きに行ったら、やはり震災以降というのが翻訳にかなり影響していると聞いて、シンパシーを感じました。

── 岡室さんは、どういう点が翻訳に影響したとおっしゃっていたんですか?

多田 ベケットによって書かれた時代も、それまで信じられていた常識や価値観が崩れていったタイミングで、それはまさに現代の日本と呼応していると。

── 第二次世界大戦が終わって間もなく発表されたんですよね。

多田 それと、これまでの日本のベケットの上演、解釈が必要以上に難しいものなんじゃないかというお話も聞きました。これがわかることがステータス、みたいな位置付けをされているけれど、ベケットは本来そういうものではない。学術的に論じる側面は当然あるけれども、時代の節目に通じる人間の世界がきちんと描かれた作品として上演してほしいという思いがあって翻訳されたそうです。

── 多田さんの演出の特徴のひとつに、俳優さんの身体で具体的にその場の空気を動かし、客席に響く強度にまで高めていくことがありますが、岡室さんが目指したのは、身体が伴った翻訳なのかもしれないと、今のお話を聞いていて思いました。そしてもちろん多田さんも、身体の面から『ゴドー』の演出を考えていらっしゃいますよね?

多田 今回の翻訳を読んでおもしろかったのは、『ゴドー』のせりふ自体が、待っている身体をつくるためのものだと気付いたことなんです。実はベケットの言葉って身体的なんですよ。ウラジミールとエストラゴンがゴドーをどう待っているかが丁寧に書かれていて、いつの間にかお客さんも一緒に待っている状態になっていく。ベケットの、演劇を少し俯瞰してつくっている視線は、『ゴドー』に関しては確実に、お客さんが退屈する=お客さんもゴドーを待っていることを取り入れて書いているところがありますね。だから、お客さんのも含めて身体性が高い戯曲なんだなと、改めて感じています。

── 俳優や観客の身体の中の状態をつくるという点で言えば、デスロックの『再生』のように登場人物全員が全力で踊りながら走るのも、『ハッピーな日々』で主人公が上半身しか動かさない制約も、『ゴドー』の狭い場所を行ったり来たりするのも、すべて同じベクトルということですね?

多田 そうですね、はい。

── ということはベケットは、演出家・多田淳之介と親和性の高い劇作家というか、最近になって出会った感じでもない?

多田 シンパシーを感じることが本当に多いんです。戯曲を読んでいて、「そりゃあ、(俳優を)土に埋めたり壺に入れたりするよね」と感覚的にわかりますし(笑)。年は離れていますけど、知り合ってみたら共通点が多くて「あれ? なんだ、同じ小学校だったの?」みたいな(笑)。



── その“待つ状態の身体”を、どんなふうに俳優に伝えていますか?

多田 俳優さんに関しては、メインの2人──2組なので4人ですけど──は特に、舞台上で楽しく時間を過ごしてほしいと思っています。ベケットはもともとこの話をコメディアンでやりたかったわけですけど、それはかなり重要で。というのは、やっぱり待っている相手が来ないのはつらい。ひとりだとさらにつらい。たまに(舞台上に)どちらかひとりになるシーンがあるんですけど、そこはもう絶望しかない気がする。でもふたりだとかなり希望が持てる。ふたりなら待っている時間を楽しめる。まぁ、ウラジミールとエストラゴンはすでにかなり飽きているみたいだし、この戯曲は盛り上がったと思ったらすぐにゼロになる構造で(笑)、簡単にはふたりを楽観的にはしてくれないんですけど。それでも自分以外の他者がいることの希望はすごく大きい。だから彼らには、自分たちも楽しんで、お客さんも楽しませてほしいんですよね。
最近のデスロックは客席をつくるかつくらないかに関してかなり意識的で、今回も客席と舞台がくっきり分かれているようにはしないつもりです。もう少し具体的に言うと、ウラジミールたちがゴドーさんと待ち合わせている場所があって、そこにお客さんも入ってきて、お客さんもゴドーさんと待ち合わせているとわかるような、あるいは『ゴドー』を観ながら何かを待っているかのような体験になればいいなと思っています。

── バージョン名についてお聞きします。多田さんは「◯◯バージョン」と付けるのがお好きですよね(笑)。

多田 大好きです、いちいち付けます。何が違うんだっていう(笑)。

── 何が違うんだ、というところをぬけぬけとやってしまう手もありますけど、今回は元号を使っていて、デリケートといえばデリケートですし、意図はどこにあるのかなと。

多田 「ヤングバージョン」と「シニアバージョン」でも良かったんですけど(ちょうど改元の)タイミングというのがあったので。もともと日本のことを考えたい意図はもちろんあって、日本特有の元号を付けることで、よりローカルなほうがおもしろいんじゃないかと。あと、このバージョン名を付けた段階で、お客さんとしてはバイアスかかるところがありそうなので、それもいいなと思っています。

── ちなみに多田さんは、元号についてはどうお考えですか?

多田 無くて困ることはあまりない気がします。廃止したからといって、例えば、日本人としての団結が無くなるといった問題も起こらないでしょうし。ただ、廃止するとしたら何か理由は必要だろうと思うんですが、その理由がまだ見つかりません。

── 私も特に必要とは思わないんですが、世界中が西暦一辺等になるのも不健康な気がするんです。キリスト教の基準で統一されるようなものなので。だからむしろそれぞれの国に独自の元号があって、西暦と併用すればいいのにと。

多田 元号がある国に住んでいるということを、改元をきっかけに考えられたらいいでよね。今、廃止の方向で大きい理由は「面倒くさい」じゃないですか。もちろん面倒くさいけど、面倒くさいという理由で無くすのはどうなんだろう。みんなで考えた結果、こういう明るい未来のために元号を無くすんだというコンセンサスが取れればいいんですけど。

── キャストについて教えてください。

多田 KAATで作品をつくる時に、白井(晃)さんと話をしていて、僕のやりたいことを優先してもらいつつも「今までやっていないことにも挑戦してほしい」という意見があって、僕にとってはチャレンジではあるんですが、自分の劇団では絶対にできないキャスティングです。コメディができる人がいいというところから始まり、でもやっぱり戯曲が難しいのできちんと演技もできる人じゃないとダメだろうと。世代も、あまり若いと説得力が薄いし、あまり上に行き過ぎちゃうとせりふを覚えられない問題がある。世代的には30代前半のコンビと60代前後のコンビに落ち着いて、笑いの点でも信頼できる人たちに決まりました。
昭和・平成ver.の小宮(孝泰)さんは、すでに俳優さんとして充分に活躍されていますけど、コント赤信号のメンバーとして笑いの最前線を知っている人ですし、大高(洋夫)さんは笑いも芝居も信頼できる小劇場の大先輩、直接的には関係はないんですが、第三舞台の『朝日のような夕日を連れて』でウラジミールに当たる役をやっていらしたんです。令和ver.の(渡部)豪太さんは以前から映像で知っていて、(茂山)千之丞さんは狂言だけでなく自分でライブハウスを借りてコントをやっている。どちらの組もすごくバランスが良いですよ。

── 今回の翻訳のトピックのひとつが、これまでずっと「ポッツォ」と訳されていた人物の名前が「ポゾー」になり、ゴドーと聞き間違えるというエピソードがスムーズに受け取れるようになったことですが、そのポゾーとラッキーを演じる猪股俊明さんと永井秀樹さんが、バージョンによって役を交換するんですよね。このおふたりが相当、大変ですね。

多田 むちゃくちゃ大変です。固定して2バージョンやるかとも考えたんですが、令和ver.は猪俣さんが奴隷のラッキーで、永井さんが主人のポゾー。昭和・平成ver.は永井さんがラッキーで、猪股さんがポゾーです。要は、チームで1番年上の人が縛られているか、1番年下の人が縛られているか、という構図にしました。『ゴドー』自体、1幕と2幕でラッキーとポゾーの関係が変わるので、両方観るとそのあたりの見え方がちょっと複雑になっておもしろいと思います。

── 身も蓋もないことをお聞きするようですが、多田さんの中ではゴドーとは何だというイメージはありますか?

多田 一応、ゴドー=神様説はありますよね。じゃあ、神様とは何ぞやという問題もありますし、ベケット自身は神様ではないと否定していますが。

── ぼかすのではなく、はっきり否定していますよね。

多田 あの人、本当に決めていない気がするんです。たぶん、待つという状況だけをつくりたかったんじゃないかな。そのためには待つ対象をつくらなければならなくて、それで名前を付けました、みたいな。だから僕もそれでいいんじゃないかと思ってるんですけど、何を待っているのかは気になるし、それをお客さんに考えてもらうのが今回の目標というか。外に行かず、同じ場所で「やっぱり今日も来なかった」と言いながら、今の日本で待つものって一体なんなのか。日本にある問題と同時に、外には違う世界があるというところまで考えてもらえると良いんですが。



── もうひとつ、多田さんが考える待つ時間の価値について教えてください。今、ほとんどの人がGPSを持っているので現地集合がデフォルトになって待ち合わせも少なくなりました。テレビやラジオもタイムシフトで楽しむ人が増え、各自が自分の時間を自由に編集できるようになって、純粋に誰かや何かを待つことが世の中から消えつつあります。それは演劇のアナログ性の価値とつながっていると思うのですが。

多田 空き時間を埋めるエンターテイメントの供給が増えて便利になっていることはいろいろありますけど、同時に問題も残っているので、演劇が無くなることはまずないと僕は思います。むしろ「あそこに行くと本物の人が見られるらしいよ」みたいな価値は出てくるんじゃないかな。「目の前で2時間もやってくれるらしいよ」みたいな。

── 「あの大量のせりふ、全部本当に覚えているらしいよ」(笑)。

多田 そうです、「まじで!? イヤホンとか付けてやりゃあいいじゃん」みたいな(笑)。そもそもスマホ持っていないのに人を待っているって、今の若い子からしたらすごい話ですからね。僕自身も最近は、少しでも待ち時間ができるとパソコン開いて仕事をするので、あまり人のことは言えませんけど、それでも大学生ぐらいまでは、友達と待ち合わせて「来ねえな」って1時間ぐらいぼんやり駅で待っていた経験がある。やっぱりね、待てるって希望だという気がするんです。待っている時間は希望的に動いている。今は、すぐ願望を実現させたいから待つことにネガティブなイメージがあると思うんですけど、それだけではないんだと示せるのが演劇だし、『ゴドー』なので、さっきも言いましたけど、待つことについて待ちながら考える時間にしてもらえたらいいですね。

── ありがとうございました。



インタビュー・文/徳永京子

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東京デスロック

多田淳之介を中心に2001年より活動を開始。古典から現代戯曲、小説など様々な題材から現代演劇を創作する。 近年は現代社会を取り巻く問題を取り扱い、客席と舞台との区分けを無くし、観客を含めた事象をも作品化するなど、現在を生きる人々をフォーカスしたアクチュアルな劇空間を創造する。2009年より東京公演休止を宣言、2011年より「地域密着、拠点日本」を宣言し、各地域に根ざす劇場、カンパニーと共に地域での芸術活動を推し進める。2013年には4年ぶりに東京公演を再開。 2011年5月にはフランスジュヌヴィリエ国立演劇センターFestivalTJCCに招聘。2009年より韓国ソウルでの第12言語演劇スタジオとの合同公演を毎年行い、2014年には『가모메 カルメギ』が韓国で最も権威のある東亜演劇賞を受賞。演出の多田は初の外国人演出家による演出賞を受賞するなど、国内外問わず各地にて活動する。 ★公式サイトはこちら★