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【連載】ひとつだけ 藤原ちから編(2017/12)― 地点『ファッツァー』

ひとつだけ

2017.12.20


あまたある作品の中から「この1ヶ月に観るべき・観たい作品を“ひとつだけ”選ぶなら」
…徳永京子と藤原ちからは何を選ぶ?

2017年12月 藤原ちからの“ひとつだけ” 地点『ファッツァー』
2017/12/21[木]~12/24[日] 京都・アンダースロー

地点『ファッツァー』



 今年もいつの間にか暮れようとしている。こうやって「終わり」へと向かっていく時間がたまらなく好きだ。自分の中にもしも破滅願望があるとすればその大部分はこの時間によって救われている。

 前へ、前へ、とひたむきに進むばかりが人生ではなく、ふと立ち止まって考える時間もまた大切なのだと、つくづく思う。今年は祖父が亡くなり、大切な友人たちを失った。人が死ぬということがどういうことか未だによくわからない。わからないまま、そのうち自分も天に召されるのかもしれない。それまでの猶予が、いったいどれくらい残されているのかもわからない。寿命の長さというものが万人に均等に配分されないのだと思い知った今、残された自分の時間を何のために使うのか、よくよく考えてみたい。

 2017年は京都に滞在する時間が長くて、それは、関東で長く生きてきたわたしにとってはだいぶ新鮮な生活だった。自転車でどこにでも行ける町。雨が降った時だけバスを使うのだが、どこへ連れていかれるのかやや不安になり、それはそれで悪くない気分だ。神や仏や魑魅魍魎の存在を、わりと身近なものとして感じやすい都市だと思う。ひとつ辻を曲がるだけでも、異世界への入口がありそうな気がする。銭湯のクオリティも高い(重要)。

 だからといって京都がパラダイスというわけではもちろんない。小劇場・アトリエ劇研も閉館してしまったし、京都の舞台芸術もまた過渡期にあるのだと思う。

 そんな中にあって、劇団・地点が左京区に構えるアトリエ・アンダースローの存在感はやはり大きかった。正直、ここでクオリティの高いレパートリー作品が定期的に上演されているという環境がなかったら、自分はこんなに長い期間、京都に滞在しようと思えなかったかもしれない。残念ながら、未だに食わず嫌いのようにアンダースローに足を踏み入れたことのない京都の演劇人がそこそこ多いこともわたしはすでに知っているが、とりあえずぜひ3回くらいは好き嫌いはさておいて観に行ってほしい。話はそれからだ。とにかくわたしは、左京区って遠いんだよなあとか、百万遍の坂がキツイんだよなあとか思いながら、自転車を漕ぎ漕ぎしてアンダースローに足繁く通ったものだった。

 見たところアンダースローでは若い観客がじわじわと育ちつつある。既存の演劇に慣れている人たちにとって地点の演劇は「難解」に見えるかもしれないが、最初からこういう(物語の筋より、言葉や身体の鮮烈さを重視するような)現代演劇に触れている人にとっては、きっと別に難解でもなんでもないだろうなと個人的には思っている。自分の知らないものに恐怖する人は多い。そして芸術は「得体の知れないもの」の最たるものだから、その存在を恐れる人はけっこういるだろう。けれど、そういう「恐怖の壁」はもうぼちぼち崩されてもいい頃合いではないだろうか。最近、話題になったウーマンラッシュアワーの漫才を観てわたしは感動して涙が出た。原発のこと、沖縄の基地のこと、北朝鮮のこと。それらをタブーにしているテレビやお笑いやその観客の「空気」をその漫才がバリバリと食い破るように思えたからだった。あるいはハッシュタグ #me tooでの様々な告発はここ日本でも徐々に現れつつある。タブーを醸成してきた日本の「空気」は、こういった新たな告発の動きを抑圧しようと働くだろうが、もはや、そうやって押さえつけるのは無駄だよと思う。さすがにもうこんなぬるま湯のような「空気」の中になんて生きていたくない、息をさせてくれ、細かい思想信条の違いはさておいて、せめて息をさせてくれ。そういう声を止めることは、もはや誰にもできない。

 芸術は、そういう「息のできる場所」を生み出すものでもある。わたしにとってアトリエ・アンダースローはそうした「息のできる場所」の最前線の基地である。そこでわけのわからない(つまり日本の「空気」を醸成している常識を突き破るような)かっとんだ演劇を観て、終演後はロビーでビールやワインを呑みながら、地点のメンバーや他の観客たちとつらつらと話す時間。そういう時間が社会の役に立つかどうかは知らないが、少なくともこの社会のあり方を根底から問い直すものではあると思う。

地点『ファッツァー』


 『ファッツァー』はすでに地点の代表作と呼んでも誰も怒らないであろうレベルの作品である。ベルトルト・ブレヒトの書いたテクストを地点流にコラージュしたもので、わたしはすでに5、6回観ているはずだが、観るたびに何かしらの新しい発見のある不思議な作品だ。第一次世界大戦の脱走兵が体験する挫折の物語だから、その時代からほぼ100年後の日本でノホホンと(?)暮らしている観客にはまるで無縁の話であるはずだ。が、なのにこの地点版『ファッツァー』は、まさに今わたし(たち)のいるこの場所が、この国が、この社会が、けっしてノホホンとしたものでなんかないことを突きつけてくる。だが「突きつける」といっても、それは舞台上から観客席に向けて指を突き立てるような挑発とは少しばかり異なっていて、むしろわたし(たち)自身の内側からその熱い想いが否応なしに湧き上がってくるような、そんな作品になっている。各地での上演を経て熟練した俳優たちの演技も、そのアクトに文字通り伴走し続けてきたバンド・空間現代の生演奏も、非常に優れた完成度の高いコンビネーションに達しており、なかなかこれだけの作品をこの世界で観られる機会はないと思う。これまで観逃している人はぜひこの機会に目撃しておいてほしい。演劇は良くも悪くもナマモノであって、いつまでもこの奇跡のような状態での上演が続けられるわけではないのだから……。おそらく、もう、この年末と同じバージョンでの上演は残念ながら二度と観ることができないだろう。

 地点のレパートリー作品はどれも見応えがあるのだが、特に今度の年明けにアンダースローで上演される 『どん底』 をここではさらにオススメしておきたい。新劇団員が加わっての最初の作品となったこの『どん底』は、予想以上にコメディタッチ(?)で、初めて地点を観るという人への「入門編」としても最適だと思う。たぶん、観た人にはわかるあの独特の語り口はやみつきになるはず。正月早々に『どん底』ってどうなのよと思いつつ……。でも、きっとここが出発点なのだ。いよいよこのくそったれの「どん底」から、新しい時代を始める時が来た。

Photo: Hisaki Matsumoto


≫ 『ファッツァー』 公演情報は コチラ

地点

 多様なテクストを用いて、言葉や身体、光・音、時間などさまざまな要素が重層的に関係する演劇独自の表現を生み出すために活動している。劇作家が演出を兼ねることが多い日本の現代演劇において、演出家が演出業に専念するスタイルが独特。  2005年、東京から京都へ移転。2006年に『るつぼ』でカイロ国際実験演劇祭ベスト・セノグラフィー賞を受賞。2007年より<地点によるチェーホフ四大戯曲連続上演>に取り組み、第三作『桜の園』では代表の三浦基が文化庁芸術祭新人賞を受賞した。チェーホフ2本立て作品をモスクワ・メイエルホリドセンターで上演、また、2012年にはロンドン・グローブ座からの招聘で初のシェイクスピア作品を成功させるなど、海外公演も行う。2013年、本拠地京都にアトリエ「アンダースロー」をオープン。(法人名:合同会社地点) ★公式サイトはこちら★