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【連載】ひとつだけ 徳永京子編(2016/5)― 『8月の家族たち August:Osage County』

ひとつだけ

2016.05.4


あまたある作品の中から「この1ヶ月に観るべき・観たい作品を“ひとつだけ”選ぶなら」
…徳永京子と藤原ちからは何を選ぶ?
   
2016年5月 徳永京子の“ひとつだけ” 『8月の家族たち August:Osage County』
2016/5/7[土]~29[日] Bunkamuraシアターコクーン

13人_背景あり_cmyk

 海外の現代劇はもうそろそろ“現地の観客の笑い呪縛”から自由になってはどうだろう?
 日頃から「日本の演劇にはエロスとユーモアが足りない」と言ったり書いたりし、何かと嫌われがちな80年代も(決して狂騒的なものだけでなく)多様な笑いが発信、受容されたという点でもっと評価されるべきだと考えている私なので、ユーモア/笑いは常にヒエラルキーの上位にあるのだけれど、さすがに「ちょっと待てよ」と思うようになってきた。
 控えめに見積もってこの15年、海外の現代劇を上演する演出家や俳優やプロデューサーの口から聞くのが「あっち(母国語で上演された国や地域)では観客が爆笑だった」という言葉なのだ。往々にしてそれは「日本の観客は笑わない=固い=理解度が低い」という文脈で使われ、つまりは、現地と同様の、もしくはそれに迫る笑いを起こすのがひとつの目標だと受け取れる。

 でも本当に、現地の観客と同じように笑うことが、作品にとってそれほど重要なのだろうか? 笑いの量と作品の理解度は比例するのだろうか? 
 例えばアメリカは、テレビのホームドラマに(実際にはいない)観客の笑い声のSEを挿入し、視聴者に笑うタイミングや笑い声のボリュームを刷り込んできた歴史がある。また、多くの多人種国家や地域は、争いや諍いを回避するのにユーモアを活用してきたが、それがやがて自虐ネタなどに過激化(黒人が黒人を肌の色で差別するなど)し、受け手も笑うことで自分のリベラルを示すことが慣習化している。
 そうした社会の差異をすっ飛ばして「笑いは理解」とするのは、舶来物を無闇にありがたがるのと同じだ。
 大事なのは、表層ではなく戯曲の芯にあるユーモアを演出家が見逃さず、笑いの構造を読み取ることで、それを俳優に託せば、自然に客席に笑いは起きるはずだし、その笑いはたとえ爆笑でなくても、理解や理解に至る心地よさを伴っているものだろう。

 とは言え、その作業こそが難しいことはわかる(何しろ、数々の失敗例を観てきたのだから)。必要なのは、センスと知識と根気とリーダーシップ。いずれも、一朝一夕に身に付くものではない。
 そんな中で、奇跡の高打率で翻訳劇にユーモアと笑いで血を通わせているのがケラリーノ・サンドロヴィッチだ。ちょうど10年前、『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない?』を手がけて以来、コンスタントに海外戯曲を演出してきたが、いずれも「この戯曲にはこんな一面が潜んでいたのか」という発見を与えられる瞬間がいくつもあった。特に狙っているわけではないはずのせりふに笑ってしまうことで、その戯曲の柔らかさに触れるのだ。
 『8月の家族たち』は、アメリカ人劇作家のトレイシー・レッツによる戯曲で2007年に上演され、ピューリッツァー賞を受賞したのち、メリル・ストリープやジュリア・ロバーツという大スターを揃えて映画にもなった。映画版はシリアスなトーンだったが、舞台版は「客席が爆笑に次ぐ爆笑だった」そう。私は取材のために戯曲を読んだが、父が失踪し、アル中の母が暮らす実家に戻ってきた3人の娘たちとその夫や親戚たちの間で、ドミノ倒しのように次々と積年の恨みや秘密が明らかになっていくストーリーは、普通の感覚だと「これのどこでそんなに笑うの?」という内容。
 ただしKERAは、笑いの名手たる矜持を持って、シリアスな映画版には寄せず、悲惨な出来事とダークな人間関係を笑えるものにするという。しかし狙うのは、笑わせるための笑いではなく、あくまでも戯曲をベースにしたもの。もしそれが成功すれば、現地の上演のような笑いは起きないが、戯曲よりずっと笑えるという日本オリジナルの『8月の家族たち』が生まれることになる。それこそが、海外戯曲を日本で上演する意義ではないか。

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ケラリーノ・サンドロヴィッチ

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