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範宙遊泳『ディグ・ディグ・フレイミング!〜私はロボットではありません〜』 山本卓卓インタビュー

インタビュー

2022.06.21


「これで伝わらなかったらしょうがないっしょ」と思えるところまで行けた作品です。



第66回岸田國士戯曲賞を、3回目のノミネートとなる今年受賞した山本卓卓。受賞後の第一作として注目を集めている『ディグ・ディグ・フレイミング!〜私はロボットではありません〜』は、ある男性グループインフルエンサー たちの謝罪を巡る騒動を描く──。こう書くと、ソーシャルメディアの問題点を取り上げた社会的意識の高い物語と思われがちで、決して間違いではないが、それはこの作品の表層側にある一要素に過ぎない。モチーフが何であっても、山本の作品にはいつも、複数の狙い/願望があり、それらは時間差で爆発する爆弾のように仕掛けられている。今回、爆弾の芯にあるのは“笑い”だ。コメディではなくあくまでもストレートプレイの中で、笑いのバリエーションをストーリーと絡めて展開することにかなりのエネルギーが注がれている。なぜ今、笑いなのか? その芯に込めた願望を聞いた。


岸田の選評で育った演劇作家という自覚

── やはり最初は、岸田戯曲賞受賞の心境から伺いたいと思います。

山本 ホットトピックですもんね(笑)。楽にはなりました。僕、自尊心がほんとに低くて、海外で公演をやらせてもらったり、バンコクで賞を貰えたり(『幼女X』でBangkok Theatre Festival 2014 最優秀脚本賞と最優秀作品賞を受賞)、セゾン文化財団の助成をいただいたりしても、自尊心の向上には全然繋がっていなかったんです。応援してくれている人がいて、そのありがたさは感じつつも「俺って演劇界から浮いてるんじゃないか」という虚しさがつきまとっていました。
1、2年前から、自分がやっているジャンルを「純粋演劇」と呼んでいるんです。僕の中のその定義は、演劇についてピュアに考えているということで、ずっとそれをやっている自負はあったんですけど、社会的に認知されているわけでもないし、評されてもいない、そもそも何のために演劇のことをこんなに考えているんだろうと思う瞬間がとてもあった。そうした「自分は浮いている」「俺は見られていない」という気持ちが、岸田戯曲賞を獲ったことでなくなった感じはしています。だからと言って驕り高ぶるとかでは決してなくて、呪いが解除されたみたいな感覚です。そういう意味ですごく楽になった、ですね。

── 山本さんは2回ノミネートされています(『うまれてないからまだしねない』で第59回、『その夜と友達』で第62回岸田國士戯曲賞最終候補ノミネート)から、少なくともその2本の戯曲は選考委員に読まれていますよね。それでも「自分は見られていない」という感覚はつきまとい続けた?

山本 もちろん、僕の敬愛する作家たちに僕の戯曲、言葉が読まれていることに興奮はしました。でもそこで選評が出ると、(そのあとに書く戯曲は)あの人たちが書いてくれたことへのアンサーという気持ちが生まれて、今度は「それ、伝わってますか?」みたいな感覚が生まれていたんですよね。それで、ノミネートされない、受賞できないとなると一定の達成感がなくなって「見られているんだろうか?」ということになるわけです。
 それと、僕は岸田の選評で育ったという自覚があるからかもしれない。学生の頃、それを読んで演劇や戯曲というものを知った、勉強していった。僕は演劇の大学に行ったけれども、体系的に専門の教育を受けた実感がないんですね。そういう中で唯一、歴史的に自分の中で積み重なっていったのが岸田の選評だったので、(自分に向けられた選評の)言葉が重かったんだと思います。

── 受賞すると戯曲が本になって出版されるのも大きいですよね。

山本 大きいです。ようやく、自分が「作家です」と名乗れる気がします。


撮影:雨宮透貴

重いものを軽くしないのは芸術の怠慢

── では『ディグ・ディグ〜』についてですが、2年半前のニューヨーク滞在中に書き始めて、一度、筆が止まって、帰国後に書き上げたと伺っています。岸田の受賞はこの戯曲の執筆に影響していますか?

山本 たぶんしてないです。(精神的に)楽になったという点でなんらかの影響はあるのかもしれないですけど、自分の実感としてはないですね。

── 演出面では?

山本 あるとするならば、スタッフや出演者のみんなが「おめでとう」というモチベーションで僕と関わってくれるということかな。

── 稽古場が明るい雰囲気ということですね。さて、戯曲を拝読して、また、先ほど稽古を見学させていただいて感じたのは、ネットのインフルエンサー、さまざまなユーチューバーの人たちを登場させて、彼らの悲喜こもごもの生態を描いてはいるけれども、あくまでもそれは装置で、いろんな笑いを舞台上に乗せること、笑いのバリエーションを演劇の中に取り込むことを、大きい目的にしているのではと感じたんですが、合っていますか?

山本 はい、めちゃくちゃ合ってます。

── 山本さん以前からお笑いが好きと公言されていましたし、落語をモチーフにした短編(『品川心中』、2015年、東京芸術劇場「朗読東京」)も創作されていましたから、興味の対象のひとつだったと思いますが、ここに来て、はっきりと笑いをやろうとされているのはなぜですか?

山本 今回、とても重いテーマを扱っていると自分では思っています。具体的に言うと、SNSの炎上とか、そこから繋がってくる自死とかですね。それをその重さのまま差し出すのではなく、どうやったら少しでも軽くすることができるかを考えました。こういう話題は「食傷しています、見るのもいやです」という人も多いと思うんですけど、そうならず、観る人が受け取りやすいようにつくりたいと考えた時に「笑いだ」と思ったんですね。直接的なきっかけは、NYに滞在している時、笑いの力をすごく感じたことが大きいです。人種差別とか暗い重いテーマを扱っても、彼らは歌うし踊るしギャグにする。

── 『サタデーナイトライブ』(アメリカの長寿バラエティ番組で、政治家をネタにした物まね、コント、実際の事件をもとにしたギャグなど、ブラックユーモアたっぷりの風刺が看板。数々の有名コメディアンを輩出している)などがまさにそうですね。ネガティブに扱われているものを前に引っ張り出したり、権力ある人たちを実名を出して揶揄したりと、上下をひっくり返してアンタッチャブルな空気を壊す、違う見方を示す、そういうことに笑いが使われている。

山本 そうです。きっとそれが人の心を軽くできるのに、日本ではそれを使わない。そういう状況は芸術の怠慢だ、娯楽の体たらくだと、僕はどうしても思ってしまうんですね。タブー視して見ないようにしているとか、腫れ物に触るように扱うとか、そういうことを続けてきたツケが、今、たまってきているんじゃないか。いろんなインタビューで言っていますけど、毎年なんで自殺で2万人も死ななければいけないのか、なんで若い人たちの死因は自殺がトップなのか、真剣にそういうことを訴えるものが無さ過ぎるんじゃないか。(芸術も娯楽も)重いものを重くさせたままなんじゃないか。そこにトライするために(笑いに対して)かなり本気を出しているんです。

── 社会に蔓延する重さを笑いで軽くしたい、それを演劇でやりたいという気持ちが、インフルエンサー、YouTuberをフィーチャーした作品になった理由は?

山本 今回の作品は、使う音楽をすべて80年代の歌謡曲、ヒットソングで構成しようと考えています。というのは、バブルの頃って音楽がめちゃくちゃ元気なんですよ。歌詞もネガティブなものがないし、メロディも明るい。その元気が今、全然ないじゃないですか。そういう中で、YouTuberたちはめちゃくちゃ元気で──疲れている人もいると思いますけど──、要するに彼らは夢追い人なんです。少なくとも、3年前にこの作品を着想した頃は「若者の夢!」という感じでした。かつてのそういう存在が何だったか考えるとドリフターズだなと。

── 80年代のドリフターズということですか?

山本 70年代でもいいんですけど、テレビタレントが若者の夢で、ドリフターズがテレビのセレブリティだった時代があって、今、それに代わる存在はYouTuberだ、インフルエンサーだという回路に繋がっていったんです。だから「MenBose─男坊主─」(物語の中心に存在する男性ユーチューバーグループ)とドリフターズは、結構、イコール。

── ということは、小濱(昭博)さんは長さん(いかりや長介)?

山本 そうなんですよ(笑)。

── 稽古を拝見している時にリーダーだろうとは思ったんですが、長さんと重ねるとまた味わいが増しそうです。

山本 いや、ドリフは後付けなので(笑)、そんなに重ねて書いてはいません。

── 少し前の、日本が元気だった頃の笑いや音楽を使いながら、本来は重いものを軽やかに描く。稽古をしてみてその企ての手応えは?

山本 自分のことを信じていいのであれば、上手く行っていると感じています。理由は、僕自身が軽くなっているから。つまり僕の中の重いものが、稽古場でクリエーションをする過程で、軽くなっている。稽古の始まりの頃は、(実際の)SNSの炎上を見かけたりするといちいち食らっていましたけど。
今、稽古場で雑談をなるべくたくさんするようにしていて、そういう中でちょっとずつ、かつて持っていた「滅んでしまえこの世界」みたいな気持ちは無くなっていて、それは自分にとって、この作品のクリエーションがある程度成功していることだと思っているんです。もちろんそれがお客さんに伝わるかどうか、と言うか、それに向けてやっているわけなんですけど、身も蓋もないこと言っちゃえば「これで伝わらなかったらしょうがないっしょ」と思えるところまで行けるとは思ってます。あらゆることを考えて僕らは伝える努力をする、全力でボールを投げる、それを取れるか取れないかはキャッチャーの責任もあるというか。

── そこまで思える場所に行けた理由はなんでしょう?

山本 今のところ、戯曲に悔いが無いからですね。自分の書きたいこと、書けることを書き切って、今、僕がこのお芝居でやりたいこと、伝えたいことは、すべて書けたと思えているからです。

── でも、MenBoseの中でも主人公的なポジションの与太郎は、キャッチャーがボールを取れないのはピッチャーの責任だと過剰なレベルで考える人です。全体的に浮力を上げようとしている作品の中で、そうしたネガティブに振る人を出すのはなぜですか?

山本 癖ですね。そういうものが好きというのもありますけど、どうしても反対の力を作ってしまうんです。理由はわかりませんけど、(ひとつの方向に)行き切れない、行き切るのは間違ってる気がするんです。どこまでも軽くすることもできるけど、それはいけないんじゃないかという感覚が強くあって、引っ張り合うものを作ってしまう。でも、そうやって反対に向くベクトルのおかげで劇の強度が増すという気がします。
与太郎のことを言えば、僕に近い人物です。自尊心が無いとさっきも言いましたけど、彼の頭の中、心の中で起こっていることは、僕の投影でもあります。……まあ、出てくる人のほとんどは自分の投影ですけど、中でも与太郎は自分の成長のために必要なキャラクターというか、一番助けてもらいたい存在なんですよね(笑)。

── 与太郎以外の登場人物も繊細なものをそれぞれに抱えていますが、繊細さの描き分けというか、バリエーションがわかりやすいと思いました。

山本 そうですね、斜に構える期間がもう終わったので。

── 長い反抗期が遂に?

山本 はい、終わって、そういうのは幼稚だと思うようになって。演劇界も一時、露悪趣味というか、「人間はこんなに醜いんです、こんなにもダサいんです、酷いでしょ人間て」という作品が流行ったじゃないですか。そんな実感ないですか? 僕はそういうのがあるなと感じていて、もちろんそれは演劇のひとつの側面として確かに有効なのかもしれないけど、食傷してしまって。「もうわかった、そうかもしれないけど先に進みませんか?」という気持ちなんです。

── 『バナナの花は食べられる』には、「頼むよ、ファンタジー」という印象的なせりふがありましたが、あれは何かのレトリックではなく本気で、直接ファンタジーに語りかける言葉でした。今回は、対象がさらに具体的かつ現実的な“死”ですね。フィクションに語りかけることもそうですが、死に対して声をかけるのは、大人が観る演劇の中ではわりと勇気がいると思うんですが、それをあえてやるモチベーションは?

山本 僕も煩悩を持っていて、そこには「誰もやっていないことをやってみたい」という気持ちが含まれます。そんなものは無いと嘘をついていた時期もあったんですけど、大人になってからは、いわゆる野心を否定する必要はないと思ったし、僕の憧れるアーティストたち、たとえばベートーヴェンとかチャップリンとかの生涯を描いた文献を読むと、みんな同じようなことを思っている。つまり、「誰も聴いたことない音楽をつくる」「誰も観たことのない映画をつくる」と。創造にはそういう精神が大事だなと思った時に、自分にとって大きな存在に対して語りかけるシーンを書きました。

── 反抗期が終わると内面を表に出さない方向に変わっていく人も少なくないですが、山本さん内面を素直に出していくほうの大人の階段を昇ったきっかけは何でしょう? 経験ですか?

山本 経験もあるし、結局、僕自身の問題ですかね。僕自身の心の問題、脳の問題は大きく影響していて、戯曲を良く書くためには、僕自身が良くならないといけないという問題に行き着き、変えようという気持ちになった。僕は人間性と芸術性は反比例しないと思っているので、アーティストは芸術性を高めてくことと人間性を高めてくことがイコールで結びついていくべきだと本気で信じています。



劇団員とはお互いに「なんでも来てください」

── 最後に、今回のキャストについて聞かせてください。

山本 小濱さんは1度一緒にやってみたいなとずっと思っていた俳優さんで、この作品のために仙台から来てもらっています。百瀬朔ちゃんは『二分間の冒険』(KAATキッズプログラム。’19年、’20年)での繋がりがあって、僕のオリジナルで彼に出てもらいたいなと思ってオファーしました。範宙遊泳のキャスティング権を握っているのは基本的にプロデューサーの坂本ももさんなんですが、彼女は前々から村岡希美さんと範宙を掛け合わせてみたいと言っていて、今回ようやく出演してもらえることになりました。李そじんさんは何度か一緒にやっていて、とても賢くて芝居勘が良いのはよく知っています。演出家に対して「あなたの作戦、わかってますよ」と言ってくれているような演技をして、実際に作戦を成功させてくれる人です。亀上空花ちゃんは、GAKU(一流クリエイターが10代に直接授業をする学びの場で、昨年、山本が『あたらしい演劇のつくり方』というプログラムを実施した)に参加してくれたひとり。その前に『二分間の冒険』のオーディションを受けて出演していたんですけど。15歳 になったばかりで、学校に行きながら稽古に来ています。彼女が一番忙しい(笑)。

── そして劇団員の埜本幸良さんと福原冠さん。複数のメンバーの脱退がありましたが、このおふたりとは長く協働されていますね。

山本 僕らもそれぞれにいろんな経験をしてきましたけど、最近はいい意味でお互いがお互いを諦めている部分も出てきました。おそらく「なんでも来てください」みたいな気持ちでいるだろうし、こっちもそういう気持ちでいる。

── 福原さんは率先して「ちょっと試していいすか?」と稽古を止めて選択肢を広げようとする・埜本さんはどんな無茶振りにもまず応えて、とりあえずひな型を提示する。真逆のタイプのおふたりだと思います。

山本 できればその魅力をもっと膨らませて、その先に手を伸ばしてほしいと思っていますね。

── それと「dig flamig」って「こらこら」という意味からつけたタイトルなんですか?

山本 え、そうなんですか? 知らないっす。

── 炎上関係で何かスラングがあるのかなとDeepLで検索したら出てきて「山本さん、洒落たことをする」と思ったんです。

山本 偶然です。無知です。僕の無知が引き起こした偶然です(笑)。

── このあとのご予定は?

山本 今年1本決まっていて、まもなく情報公開されます。来年も決まりかけているものがあり、ワークショップのお仕事もいくつか。でも僕はどんどん新作を書きたい感じなんで、どんどん書いてひとりでやっちゃおうかなぐらいに思っているんです。たとえばテーマはティッシュケースでもなんでもいい、それで一本書きたい。今、書きたいモード、つくりたいモードです。

── 物シリーズとか、ショートショート戯曲みたいなものを書き溜めては?

山本 そうそう、それも考えていて「戯曲の切れ端」と呼ぼうとしているんですけど、やってこうかなと思っています。

── それも楽しみですが、まずは『ディグ・ディグ・フレイミング!』を多くの方に観ていただきたいですね。今日はありがとうございました。



撮影:雨宮透貴


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範宙遊泳

2007年より、東京を拠点に海外での公演も行う演劇集団。 すべての脚本と演出を山本卓卓が手がける。現実と物語の境界をみつめ、その行き来によりそれらの所在位置を問い直す。 生と死、感覚と言葉、集団社会、家族、など物語のクリエイションはその都度興味を持った対象からスタートし、より遠くを目指し普遍的な「問い」へアクセスしてゆく。 近年は舞台上に投写した文字・写真・色・光・影などの要素と俳優を組み合わせた独自の演出と、観客の倫理観を揺さぶる強度ある脚本で、日本国内のみならずアジア諸国からも注目を集め、マレーシア、タイ、インド、中国、シンガポール、ニューヨークで公演や共同制作も行う。 『幼女X』でBangkok Theatre Festival 2014 最優秀脚本賞と最優秀作品賞を受賞。 『バナナの花は食べられる』で第66回岸田國士戯曲賞を受賞。 ★公式サイトはこちら★