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KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『恐るべき子供たち』ノゾエ征爾 インタビュー

インタビュー

2019.04.25




役の年齢は、あとから付いてくる情報になればいい。
大切なのは情感のうねりを描くことでした。


芸術が華やかに発達した20世紀初頭のパリで、詩、小説、映画、絵、戯曲、評論などさまざまなジャンルで独自の美学を追求し、多くの人に影響を与えたジャン・コクトー。その代表作のひとつ、『恐るべき子どもたち』が舞台化される。4月の『春のめざめ』が好評上演中の白井晃が、芸術監督を務めるKAAT神奈川芸術劇場で間髪入れずに演出に挑む。純粋に理想を求めるゆえに残酷になる思春期を切り取ったこの物語の上演台本を任されたのはノゾエ征爾。細かい人間観察ととぼけた味わいが持ち味のノゾエが、近親相姦や同性愛も絡む原作にどう取り組んだのか。

【あらすじ】
美しくも残忍で傲慢な姉エリザベート(南沢奈央)と、青白い肌の美しい弟ポール(柾木玲弥)。ある日、雪合戦の最中、憧れの同級生ダルジュロスが投げた雪玉がポールに命中し怪我を負う。ポールの友人・ジェラール(松岡広大)はダルジュロスが故意に雪玉に石を入れたと主張するが、ポールはダルジュロスをかばう。その怪我が原因で、ポールは学校に通うことが出来なくなり、家で自由気ままな日々を送る。

病気の母が亡くなり、モデルとして働き始めたエリザベートは、モデル仲間のアガート(馬場ふみか)を時折家に招くようになる。ポールはダルジェロスに似たアガートに密かに思いを募らせるが、姉に悟られまいと、あえて彼女を邪険に扱う。やがて、エリザベートが、亡くなった夫の莫大な遺産を継ぐと、エリザベート、ポール、ジェラール、アガートの4人の奇妙な生活が始まる。



── 正直に言いますと、ジャン・コクトーとノゾエさんのイメージが結びつかず、上演台本を拝読するまで、相性が良いのか懐疑的だったんです。

ノゾエ それ、わかる気はしますけど興味があります。どういったところで繋がらなかったですか?

── ノゾエさんは直感の人で作為が無い。無いというか、作為が生まれそうになるとそれをなくそうとする。特に言葉に対してそういう感覚があるというのが私のイメージです。コクトーは、自分の伝えたいことを言葉に託すことができる。ノゾエさんは『気づかいルーシー』(松尾スズキの同名の絵本をノゾエが上演台本と演出を手がけて舞台化し、2015年と17年に上演。東京芸術劇場)で、子どもならでは生きづらさにもリーチしていらっしゃいましたけど、コクトーが描く「子ども」の苦しさとは、白地に黒で線を描くのと、黒地に白で線を描くくらいの違いがある気がしていました。

ノゾエ おっしゃること、わかる部分があると言いますか、決定的に違うものがあるのは僕も感じています。もしかしたらそれは、人としての背景というか、育ちに起因することなのかなと考えたりしたんですけれども。『恐るべき子どもたち』も結構、コクトー自身の体験というか境遇が含まれているんですよね。だからこそ、エグいところをさらにえぐっていけている。でも僕は実体験として(劇的なことが)特にないというか。そういうところの相容れなさは自分でも感じましたね。

── そういう場合はどういうモチベーションで仕事を引き受けるんでしょう? 今回、何がノゾエさんに「イエス」と言わせたのか教えてください。

ノゾエ 結局、どの仕事を引き受ける時も変わらないんですけれども、さっきも言った、相容れなさ具合からの興味というのが自分の場合はいつも大きくて。どこで交わればいいんだろう、何を共通項にしていけばいいんだろう、といったことが簡単に見えない、だからこそ踏み込んでみたい。そういう欲求が僕にはあって、今回もそれです。

── プロは2種類いますよね。自分と交わるポイントがなくても形を整えて納品できる人と、交わることに重点を置く人と。ノゾエさんは、最初の距離がどうであれ、絶対に交わることを目標にしている?

ノゾエ ですね。そここそが喜びというか、ゾクゾクすると言うか(笑)。どうなるかまったく予想のつかないお仕事をいただいた時に、完成度を考えて断るという選択肢もあると思うのですが、今のところ、そうはしたくない。もちろんコケる可能性もあるでしょうけども、そこを逃げたら自分の存在意義がひとつ無くなってしまうような気がするんです。最初は何をどうすればいいのかわからなかったのが、やってみた結果、ツギハギだけれども一着の服になれた。そこに行き着けるかどうかが、僕の仕事に対するモチベーションです。



── コクトーはもともとよくご存知でしたか? それとも漠然としたイメージを持っていたぐらいの存在?

ノゾエ 完全にイメージでした。どれぐらいのイメージだったかと言うと、このお話をいただいて『恐るべき子供たち』を読まなきゃと思って、本を持って喫茶店に入りました。で、本にイラストも描いてあるじゃないですか。それをチラチラ見ていると、なんとなく変な感覚になって、なんだろうなと思ってパッと顔を上げたら、その店の壁に飾られてある絵が全部コクトーの絵だったんですよ(笑)。彼の絵は結構目にしているんだけど、それがコクトーだと意識してなくて、そこで初めて認識できたという……。それくらいイメージでした。

── 原作はすんなりと入ってきましたか?

ノゾエ ちょっと時間はかかった気がします。時々、立ち止まらされているという感覚が自分の中にありました。ちょっとした観念的な言葉だったりが、言語としては理解できるんだけど、感覚としてスッと入って来ないことが何度かありました。頭には入ってくるんだけれども、血の中に入って来ないというか。

── 先程のノゾエさんの言葉で言うと、ゾクゾクの種だった?

ノゾエ 良いゾクゾクと、ただ怖いゾクゾクがあって、両方ごちゃまぜでしたけどね。

── 怖いゾクゾクの正体が分析できていたら教えてください。

ノゾエ シンプルに“(コクトーの小説を戯曲にすることが)自分にやれるのかしら”ということと、白井さんが何を求めていらっしゃるんだろうということです。やっぱりこうやってお仕事をいただいた以上は普通に考えるじゃないですか。自分の感覚でやるべきなんだと思ってやらせていただきましたけど、それが白井さんが求めていることと合致しているのかという恐怖は最後まで……というか(上演台本を渡したあとの)今でもまだ完全に拭えていないですけどね。



── ノゾエさんの上演台本に対する白井さんの反応は?

ノゾエ “普段はもっと話し合うんだけど、今回はあまりその必要がない”とおっしゃっていたので、基本的には安心しました。細かい質問があって、綿密に構築されるんだなと思いましたけど、最終的なところはすごく感覚的な方だとわかりました。それを感じた時、気持ちが近寄れましたね。そういう感じは自分の中にもありますので。

── 白井さんはどんな質問をされたんでしょう?

ノゾエ 僕が意識してあまり具体的な言葉を書かなかった部分があるんですが、そこに対して“ここはどんな感じで考えていますか?”と。

── もう少し具体的に教えていただけますか?

ノゾエ 子どもたちが遊んだり喧嘩したりするシーンには、あまりせりふを書かなかったんです。 “言い争う”というト書きだけとか、歌詞にするという形にしました。というのは、そういう場面はとても純度が強いと思ったので。だったら稽古場で決まっていくほうが良いんじゃないかと考えたんです。そもそも役者さんたちがどういった人か僕はわかりませんし、基本的に大人の役者さんが子どもを演じるわけで、原作にある子どもの言葉たちに、生きた役者の体がどう触れていって、そこで何が生まれて、その流れでどう喧嘩するか、どう遊ぶかを優先したほうが良い。そこで生まれた言葉に勝るものは、僕の語彙力では紡げない、何を書いても安っぽくなってしまう。お客さんもきっとそのほうが想像力を刺激されるはずだし……。だから何ひとつ断定していませんし、僕からの答えで一番多かったのは“これは現場で見えることかもしれません”だったと思います。それでも白井さんからは“例えば、この役がもし言うならどんな言葉ですか?”と聞かれて、その時はもちろん、“例えばこんな言葉です”と書きはしたんですけれども、それを使ってほしいとは考えていません。そういう会話を重ねていたら、白井さんも“すごく腑に落ちました”と言ってくださいました。

── それはノゾエさんがコクトーの原作の中に、演劇として立ち上げる時に豊かな余白になる部分を見つけたということですね。それにしても、何気なく「歌詞にした」という言葉が出てきましたが?

ノゾエ なんでしょうね、書いていたら自然に出てきてしまったんです(笑)。白井さんも“歌詞ですか?”と驚いていらっしゃいましたけど、どう処理していただくかはお任せしています。歌って、不自然な行為に見えるかもしれないけど、不思議なもので、時には、台詞よりも動きよりもフィットすることがあるんです。

── それと、大人が子どもを演じる点についてもお聞きしたいです。この話の舞台化はその点が非常に難しいと思います。タイトルに引っ張られがちですが、物語の始まりからの時間の経過や、姉の結婚といったことを考えると、年齢設定がしづらいですよね。“永遠に引き延ばされた思春期”の物語だとしても、具体的な年齢の体を持っている役者さんが演じるわけで。ノゾエさんはそこをどう台本に折り込まれたんでしょう?

ノゾエ 逆に“子ども”にとらわれ過ぎないほうがいいと思いました。この物語の子どもの定義というか、登場人物たちの中にあるものが、凶暴性だったり純粋さだったり、いろいろなものをあらわにしてしまう力なんですけど、その情感こそが先に立つべきだと思って、そこのうねりを描けたらなと気をつけたんですけれども。

── 個別のリアリティではなく、全体のグルーブ感を大事にした?

ノゾエ そうです。“子どもはこういうもの”ではなくて、僕らの中にある原始的な感情のうねりを引っ張り出して、いかに途切れなく、まるでひとつの生き物のような感じで見せていけるか。役者さんたちが“子どもを演じる”と考えるのではなくて、正直な感情を出しながらそこにいれるように、それを出しやすいようなものが書けたらとずっと考えました。“15歳だからこうだよね”ではなくて、年齢があとから付いてくる情報であるといいなと思っていました。でも、そここそが難しくて……。本だと、子どもたちだけの世界の密度を高めることができるんですけど、舞台はやっぱり生ものなので、転換もあるだろうし、小道具とか床のバミリとか目に飛び込んでくる生々しさが付いてくるじゃないですか。そういう時にいかに強度を保てるか、バミリすらも武器にできるようにならないかなというのは目標でしたね。

── その時に、ノゾエさんを一番励ましたものはなんでしたか? 劇団公演だったら、劇団員の方たちを思い浮かべて「あいつらだったら何とかしてくれる」と思えるのかもしれませんが。

ノゾエ さっき言ったことに戻ってしまうのかもしれないですけど、結局、現場を信じているということに尽きるかもしれませんね。演出の白井さんを信じる。白井さんについてきた人たちがたくさんいる稽古場がある。“だったら、なんとかなるっしょ”みたいな。投げやりな意味ではないですよ。だから役者さんは、僕の上演台本を読んであまり難しいと思わないでほしいなと思っています。白井さんは大事なことをつかんでいらっしゃるはずなので。

── 白井さんの作品はご覧になっていましたか?

ノゾエ そんなに多くは観てなくて、最近だと、去年、『バリーターク』を観ました。すごくおもしろかったですね。あれもかなり感覚的で、舞台の上に多幸感が溢れてました。だからすごく強度があるなと。でもそれって、考えてつくれるものではない。それをつくり出せる創作現場に俄然興味が湧いたし、偉そうですけど、演出家として信じられるとも思いました。

── 最初におっしゃっていた「距離がある方がゾクゾクする」ですが、現時点で『恐るべき子供たち』では、ノゾエさんの中で大きな、あるいは小さなガッツポーズが出た瞬間はありましたか?

ノゾエ やっぱり白井さんから“いいですね”という言葉をいただいた時は、ちっちゃいガッツポーズは出ました(笑)。でもひとりで作業している時はほとんどないですね。それこそ子どもの頃は、ひとりで何かやって“イェーイ!”みたいなことがありましたけど、大人になったらもう……。思わないようにしているってところもありますし。そういうところ、子どもが羨ましいです。


インタビュー・文/徳永京子

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『恐るべき子供たち』公演情報は ≫コチラ

はえぎわ

1999年、ノゾエ征爾を中心に始動。2001年に劇団化。卓越した発想力とユーモア、独特の奇想天外な世界観。この完璧ではない世の中で一生懸命に生きる人々を、愛情一杯につづる。独自の‘嘆きの喜劇’とも言えるそこには、常に福音的なメッセージが見え隠れしている。★公式サイトはこちら★