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【連載】マンスリー・プレイバック(2015/11)

マンスリー・プレイバック

2015.12.23


徳永京子と藤原ちからが、前月に観た舞台から特に印象的だったものをピックアップ。ふたりの語り合いから生まれる“振り返り”に注目。
* * *


▼ロロ いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校(いつ高)シリーズ Vol.1
『いつだって窓際であたしたち』

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徳永 6月の『ハンサムな大悟』で、劇作家としても演出家としても三浦直之のモードが切り替わったのを感じたんですね。非常に遅筆だとか、初日が明けても作品の内容について揺れているとか、弱点を指摘されることが多い人でしたが、あの作品は、まぐれではなく確実に、書くコツを掴んだ人の脚本であり、目指すものが見えている人の演出だと思いました。少しずつ体内に増えていた油が、一気に関節に回ってきたというか。それが「ひとつだけ」に推した理由です。
 『いつだって〜』は、仕込み10分、本番60分という高校演劇大会の規則に則って作品をつくる、しかも同じ高校を舞台にしたシリーズにする、かつ、戯曲を無料でネット公開して高校生なら上演料も無料という、意欲的でコンセプチュアルで、ある意味、トリッキーでもある取り組みで、いよいよニュー三浦のスタートだと。
 肝心の内容ですが、みずみずしい高校生の日常を正面切って謳うのかと思いきや、語られない部分こそが主役というか、魅力的なせりふはたくさんあるけれども、決定的なことは上手に回避されている、とても大人っぽい作品でした。つまり色っぽかった。
 ただその点は、高校生が観た時に地味に感じる可能性もあったのではないかとも思いました。「自分達の味方がいる」と期待してやってきたら拍子抜けした学生がいたんじゃないかな。もちろん、高校生向けだからといって子供っぽいものにする必要はないんですけど。

藤原 色っぽい中にも、みずみずしさを感じる会話劇でした。ロロ初登場のシューマイ君(新名基浩)をはじめ役者もキャピキャピしていたし(笑)、高校生の心にもきっと何かリーチしたんじゃないかなあ……。iPadを使って仮想現実を立ち上げ、ロロならではのマジカルな世界に繋げていたのも魅力的だった。

徳永 さすがだと思ったのは、教室のカーテンの使い方です。マテリアルとしては味気ない色や生地だし、その中での女子達のおしゃべりもきっと大した内容ではない。でも聴こえてくるひそひそ声やそこに差し込む光は、2度と再現できない聖なるもので、高校生活の短い美しさの象徴ですよね。それをちゃんとわかっている三浦先生(笑)。

藤原 あの教室の窓際の向こうはもちろん劇場の壁なわけですけど、校庭が広がっているように感じられますよね。机の上に小さな箱庭の校庭を置くことで、その想像を掻き立てる。シンプルな舞台美術で観客の想像力をひろげるっていう、これが演劇の基本だぞ、高校生ここは見とけよ!みたいな本気を感じました。


▼アンジェリカ・リデル『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』(F/T15)
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【撮影:石川純】

藤原 「ひとつだけ」で勧めた身として言うと、僕は満足してます、以上。……というのが今の正直な気分ではあるんですけど。賛否両論が大いにあり、直接いろんな意見も聞きました。「否」の人は主にあれは露悪的だっていう意見でしたね。実際に舞台上で彼女は大いに毒を吐いているわけですから。しかしあれだけのパフォーマンスをやれる人はなかなかいない。

徳永 私は賛否でいったら「否」です。ただし、露悪だとは思いませんでした。彼女はどんな呪いの言葉も、攻撃的な言葉も、みんな自分に返ってくるようにしていて、そういう意味では非常に冷静でフェアだし、ネガティブな言葉を積み重ねていって高い圧を持たせ、それがポジティブに突き抜ける瞬間もつくったと思うからです。ただ、そうしたメッセージを乗せるパフォーマンスのパターンが、わりと早めに見えてしまった。つまり、たとえば母親に対する過激な発言をひたすら言う、それが熱が帯びてくると腿を叩いたり地団駄を踏んだりして身体に波及する、音楽性を帯びる、すると良きところで『朝日のあたる家』がかかる、その繰り返しなんですよね。私には途中から、お笑いのネタに見えてきてしまった。字幕も付くわけですから、決められたせりふを言っていることはわかっていましたが、観客にパターンだと感じさせたら、パフォーマーとしてダメだろうと。

藤原 僕が最初にマンハイムで観た時には、上演時間を知らされてなかったんですよ。だから『朝日のあたる家』が何回繰り返されるか、いつこの悪夢のような反復が終わるのか、さっぱり検討がつかないから、途中で帰る人が続出した。今回は上演時間があらかじめ2時間40分と示されているから、ルーティンを先読みできてしまう傾向は強まったかもしれません。ちなみにアドリブもあって、全部字幕の通りというわけではないんですよね。その証拠に、千秋楽は3時間を超えたそうです。

徳永 日によって上演時間が大幅に異なるパフォーマンスの是非は置いておいて、アドリブではない部分で決定的にダメだと思ったことがあります。それはラスト近く、彼女が上海にいる時に、自分と同じ白人の少年から話しかけられるシーンです。さんざん悪態をついてきた彼女が、誰も知り合いのいないアジアの町の片隅で、見ず知らずの白人の男の子から「あなたのことは全部わかっている」とテレパシーのように話しかけられる。世の中を憎悪して自分を傷付けて、わかり合える人間などどこにもいないと絶望していた女性の辿り着いた先が、言葉を交わさなくてもわかってくれる、魂で会話できるイノセントな美少年というのは、ちょっと脱力するくらいぬるいと思いました。ぬるいと言うか、無責任だと思ったんですよね。だって少年は直後に凶弾に倒れて、言葉を交わすことも触れ合うことも死んで行く。それは“わかり合えないかもしれないけど、憎しみ合うかもしれないけど、コミュニケーションする”という、それまで彼女が積み上げてきたパフォーマンスを裏切るものではなかったでしょうか?

藤原 最後のあの青年がフランス語を喋っていたことはどう思いますか。リデルはスペイン人ですよね。

徳永 その理由は私にはわかりません。藤原さんはどう思われますか?

藤原 ……今回のいろいろな人の感想で面白い現象だなと感じるのは、内容じゃなくて、あの長時間独白するスタイルへの言及がほとんどだということです。劇中で描かれるウトヤ島の銃撃事件は今やパリのテロを想像させるし、実際リデルは初日の独白の冒頭で、アドリブなので字幕はなかったですが、パリと東京について何かを語っていました。そして本当はパリで行われるはずだった彼女の公演は、あの同時多発テロ事件の影響で中止になっている。演劇は世界を映すものです。そしてあの作品から日本の観客は何を受け取れるのか、受け取れないのか。移民問題に揺れるヨーロッパは政治情勢も不安定で、原理主義によるテロリズムは彼らの生活を脅かしている。それを日本に住む人々はどう考えていくのか。……最後のシーンについては、僕の解釈では、あれはむしろ自分の中にある承認欲求を撃ち殺しに行ったんだと思う。「わかってくれる」人も殺されるわけですから。リデルが感じている孤独や絶望を理解するには、もしかするともっとヨーロッパを理解する必要があるのかもしれない。少なくとも現代日本人の感覚だけでは測れないものがあると思う。かといって徳永さんの解釈は間違ってると主張したい気持ちも特にないです。あの作品を観た人がそれぞれに考えればいいことだと思います。

徳永 日本の観客に共感されづらい理由のひとつだと思ったんですが、劇中で繰り返し語られたウトヤ島の事件は、ヨーロッパにおける衝撃度と日本で、大きな差がありますよね。私も知ったのはリアルタイムではなく、事件後に島がメモリアルの地として整備されたというニュースでした。

藤原 ええ、2011年の7月で、日本は震災直後でしたからね。海外から招聘する作品にかんして、その文脈や背景の違いを読み解いていくのは難しいけれど、できるだけそれは怠りたくないし、敬意を欠いた物言いで切り捨てることもしたくないと思いますね。まずは自分が無知であるというところから始めたいです。
 別にヨーロッパが先進的だと礼賛したいわけではないのですが、ヨーロッパの舞台芸術シーンで今まさに物議をかもしているようなアーティストを日本に呼べる機会が今後どれだけあるのかと思います。すでに評価の定着した人をありがたがるだけでいいのか。海外から作家や作品を呼べる力を持ったプロデューサーはごくごく限られているのが現状ですが、今回、F/Tの横堀応彦さんは冒険してくれたと思います。

徳永 ヨーロッパの演劇祭も予算が縮小傾向だと聞きます。それは悪いことばかりではなくて、小さいけど知恵のある集団やアーティストが、いかに制約をくぐり抜けて核心を突く作品をつくるかという具体的なアイデアがきっとある。そういうものがこれからの日本の参照事項になっていくはずです。いずれにしても、ヨーロッパの知性主義のおさがりは要らないですよね。


▼岡田利規『God Bless Baseball』(F/T15)
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【(C)Kikuko Usuyama】

藤原 8月のプレイバックでもこの作品を途中まで取り上げましたが、まさか後半があんなダークな展開になってるなんて……。あの舞台装置、片栗粉だったそうですね!

徳永 牧歌的な前半と迫力ある後半の違いには、私も目を見張りました。驚いたのは、これまでのチェルフィッチュにはないストレートさですよね。「これはアレゴリーです」というせりふが出てきましたけど、むしろかなり直接的で。たとえば、途中から姿なき存在の声が人間達の会話に加わりますけど、いつの間にか、本当にいつの間にかそれは神か父親として認識されていて、その存在は当たり前のように英語を話し、登場人物達は天を見上げるようにしてその声を聞く。日本語を話している日本人俳優が韓国人役を韓国語を話している韓国人俳優が日本人役を演じているという交換が、そこで一気に生きました。アメリカの前では日韓の差異など些末なもので、横並びだし交換可能なのだという。
 高嶺格さんによる巨大な傘のセットは、日韓を守る傘としてのアメリカであり、核の傘であり、それが徐々に機能不全になっていくのは、まさにこれからのアメリカに見えました。水をかけられて、表面に塗られた片栗粉がボタボタと落ちるのはメルトダウンを想起したし、あの音を私は、壁にボールを当てるひとりキャッチボールの音みたいだと思いました。『GBB』の深くて暗い迫力は、そうしたいくつもの直接性がもたらしたことは間違いないですね。

藤原 野球場での少年の思い出のシーンが好きでした。この作品自体がひとりの少年の巨大な妄想の産物のようにも感じました。あれは岡田利規さん自身の自伝的な物語でもあるようですね。野球少年になりそこねた少年の、甘美ではない思い出の世界……。

徳永 アメリカとの関係で言えば、米軍基地の問題は韓国にもある、ということは知ってはいましたが、この作品で「日米」でも「日韓」でもなく、「アメリカとの距離感において隣同士の日韓」ということを初めて感じることができたように思います。

藤原 後半、ウィ・ソンヒが、捩子ぴじんが演じるイチローに「危ないよ。想像して」って言われながらもひとりで傘を抜け出ていくシーンには、ヒリヒリした緊張感と共に清々しいものがありましたね。彼女の感情の表し方は不思議でした。またどこかで観たい俳優さんです。

▼トークイベント「韓国の検閲」
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藤原 ところで『GBB』の11月28日(日)の公演後に、「韓国の検閲」についてのトークイベントが行われました。「SPICE」に堤広志さんによる議事録がレポートされていますが、岡田利規と多田淳之介の共同企画で、ゲストとして韓国からは振付家チョン・ヨンドゥとプロデューサーのコ・ジュヨンが参加。韓国で今起きている検閲の事件について語り合うものでした。200人以上はいたかな……。舞台芸術のプロデューサーやジャーナリストらの姿も多数あり、この問題に対する関心の高さを感じました。

徳永 急な開催にも関わらず、あうるすぽっとのロビーが人で埋め尽くされましたね。

藤原 そこでも岡田さんは「アレゴリー」にこだわっていました。というのもソウル・パフォーミング・アーツ・フェスティバル(SPAF)の際に、テハンノ芸術劇場の1Fのカフェで上演されるはずだった企画が、直前になってディレクターに阻止された。表向きの理由は「カフェのお客さんに迷惑がかかるから」。でも実際はそこで扱うはずだったフランスの戯曲が、セウォル号事件のことを想起させるからだと。岡田さんは、もしもそれが事実だとすると、自分が有効だと思っているアレゴリーというテクニックも検閲対象となる恐れがある、と危惧していました。そして検閲が公然とある中国のほうが、建前上はないとされている日本や韓国よりも下手したら健全じゃないかということを、皮肉を込めて発言されていました。チョン・ヨンドゥさんも「日韓両国は、自分たちが民主主義を完成したと勘違いしている」と。

徳永 中国では、アーティストが検閲の網をかいくぐる表現を次々に考え出し、チェックする側も「今度はこの表現がダメ」「これならこっちもNGが出せないね」と対応するといった話がありましたが、三谷幸喜さんの『笑の大学』そのものですね。第二次大戦直前の日本を舞台にした、非常によく練られた劇作家と検閲官のふたり芝居でした。だから決して、日本と無縁の問題ではない。

藤原 今の日本にも、「自主規制」はすでにあちこちで起きていますよね。会場の参加者からは、韓国では検閲対象のブラックリストの存在が明るみに出たけど、日本ではもっと巧妙に隠蔽されるのではないか、と危惧する声もありました。多田淳之介さんは「真綿で首を絞めるような自粛の強要」と表現されていましたが、実際日本でもすでに起きている。そこをどうすり抜け、どう闘っていくのか。

徳永 数カ月前、韓国の演劇関係者の方と話す機会があり「文化予算が潤沢でいいですね」と言ったら、暗い表情で「でも、どこに使われているのかわからないんです」という言葉が返ってきました。このトークイベントの中心にあったのは、政府を批判した舞台作品をつくって助成金が打ち切られた事案でしたが、助成金の意義や透明性を常に問いつつ、もし助成金という梯子を外されても自立していられる強さが表現者には必要だと、改めて考えました。

藤原 2月に開催されるTPAM2016では、コ・ジュヨンさんのディレクションによって、検閲対象のブラックリストに載せられているユン・ハンソルさんの作品が発表されるそうです。彼は気骨のある人なので少々のことではへこたれないでしょうが、この世界を窮屈にしないために何ができるか、共に考えたいですね。

▼キラリふじみ レパートリー新作 日韓共同制作 『颱風奇譚(たいふうきたん)』
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【(C)鏡田伸幸】

藤原 多田淳之介が演出、ソン・ギウンが戯曲を書いた『颱風奇譚』は、シェイクスピア『テンペスト』の舞台を南の島に移したもので、かつての朝鮮の王族が魔法で台風を呼び、日本の船を転覆させて……という物語。設定は1920年代の東アジア情勢を反映しているけど、僕は『God Bless Baseball』と似た問題意識を感じました。つまり日韓関係だけではなく、その背後にある世界情勢に触れている作品だと思った。西洋列強の影。そして島の原住民や自然への支配。関係が複層的になっていて、作品を複雑化させています。

徳永 『テンペスト』はよく、ヨーロッパの植民地主義を批判する時に用いられるんですよね。シェイクスピアのもとの戯曲がそういう問題を内部に抱えている。ギウンさんの戯曲でも、太閤が島の先住民の話し言葉を禁じて、自分達の言葉を教え、字を持たなかった彼らに自分達の文字を教えた話が出てきますが、先住民がお母さんから教わった呪文を文字で書くことを禁じる
エピソードがかなり興味深かったです。これによって、この作品の射程が広がったと思います。暴力的な支配はもちろん、文化も支配の武器になるのだという。だから最後が、日本語や韓国語、それぞれの方言、赤ん坊の泣き声、自然の音などが混じり合って終わったのは、ひとつのハッピーエンドだと思うんです。『テンペスト』のラストと重なる「赦し」はないけれど、生き残った人たちがつくった国に、複数の言葉が混在して、颱風を運んでくる自然の音がそこに呼応する。国と国の和平よりも大きなハッピーエンドが示されたのではないでしょうか。

藤原 今回の『颱風奇譚』には、これまで日韓で仕事をしてきた俳優たちが参加していて、いくらかはお互いの言語を理解できるようになっている。だからこそ生まれた作品でもあると思います。 「未来志向」というと過去を忘却することと紙一重になってしまうけど、彼らは未来を構想するにあたって安易な方法は取らず、これまで多くの人が目を背けてきたものを扱った。

徳永 日本人の多くが目を背けたくなるグロテスクな日本人像を、永井秀樹(青年団)さんと山崎皓司(快快)さんが上手く演じられていましたね。

藤原 あの2人の会話は印象的でした。永井さんが演じる藤村男爵は狡猾なんだけど、やっぱりマジで「アジアのため」だって信じてると思うんです。彼は(第一次)世界大戦について言及しますが、少なくとも100年単位のスパンで考えないと解決できないことが今の世界にはたくさんあります。IS(ダーイシュ)も、1916年のサイクス・ピコ協定によってアラブ世界が勝手に線引されたことに怒っているわけですよね。その大義名分の下に、世界中の現代人の鬱屈や憎悪が流れ込んでいる。100年前の亡霊がテロリズムを生み出しているようなものです。夏目慎也が演じるコックの玉三郎が「モダンなもんは大抵悲すーべさ」って言いますよね。意外にあのせりふが、本質を突いているような気がします。悲しきモダンという。

徳永 表向きのモダンは、立派な船でイギリスフランスに留学して最先端の教育を受けて来るという、大石将弘さんの役が体現していたようなことですよね。でもあの役こそ「悲しきモダン」ですね、相手の気持ちを汲み取れず、自分達は理解し合ったと勘違いする。

藤原 「しばらく字幕なしでお楽しみ下さい」っていう、チョン・スジと大石さんが筆談するシーンの演出、すごく面白かったですね。相手の言葉がわからないから想像するしかない。「他者」を想像することは多田淳之介のテーマなんだと思います。

徳永 100年という時間が大昔ではないという認識は、とても大切だし、実際、リアルです。70年前に終わった戦争について解決できていない問題はいくつもありますし。


▼地点☓空間現代『ミステリヤ・ブッフ』(F/T15)
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【撮影:山西崇文】

藤原 この作品、感想難しいですよね……。地点はテクストをカットアップすることで知られていますが、今作はいつにも増してどう言葉を拾っていいかわからない。僕は初日に見たんですけど、最初全然意味がわかんなくて。でもシーンが繰り返しに入ったあたりから引き込まれて、途中からは興奮して観ました。
 『ミステリヤ・ブッフ』の初演は1918年、ロシア革命1周年を記念して上演されたそうですけど、今回の上演を観るかぎりでは決して革命賛美の内容には聞こえない。むしろ革命に熱狂していった結果、夢に破れていく人間の悲哀を感じました。あくまで自分の感覚ですが、この100年間のいろんな革命思想に呑み込まれていく人間の姿を見たというか……。それを理屈づけて説明するのは現時点では僕の手に余るんですけどね。

徳永 私も内容は掴めなかったけど、観ながらはっきり思ったのは、地点の俳優さんたちが明らかに体の中にユーモアを含むようになったこと。数年前までの地点にはなかったものだと思います。難解な戯曲をラディカルに演じながらも、体内にユーモアが宿っているのはすごくいいことで、メンバー全員がそれを持てているのは奇跡的ですよ。それを間近で見て、会場を円形に使っていたことも関係しているんでしょうけど、お客さんに向かって開かれているのが発見でした。

藤原 いつ頃からかなあ。「地点=ドリフターズ」説を唱えているのに誰も賛同してくれない……(笑)

徳永 ユーモアの出し方がちょっとオールドスタイルな方もいるので戸惑う時はありますけど(笑)、いろんなタイプのユーモアがあるので、寒いままにはなっていないのがいいですね。

藤原 小林洋平さんの目立ちたがり精神がいい感じにメンバーに伝播してるんじゃないですかね(笑)。チーム感が出てきたのは、自分たちのアトリエ・アンダースローでレパートリー作品を上演し続けていることとも関係あるのかもしれませんね。石田大さんが天井に吊るされるシーンとかわけわかんなくて面白かったな……。ちなみに舞台美術の杉山至さんによれば、真ん中に穴が開いていたのは「皇居」のイメージなんですって。

徳永 先月の『離陸』では、イメージソースをスケベ椅子って言ってたのに(笑)。

藤原 想像力の振り幅がすごい……。空間現代の音も抜群に良かったです。地点と空間現代は『ファッツァー』からのコンビですが、相性はやっぱりすごくいいと思う。

▼飴屋法水『ブルーシート』(F/T15)
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【(C)Yosuke Takeda】

藤原 僕は初演を観ていないんです。

徳永 私もです。今年のいわき公演も行けなくて、結局、東京で初めて観ました。

藤原 初演は実は日程の問題もありましたが、精神的にもたぶん行けなかったんです。いわき総合高校にいらしたいしいみちこ先生が演劇教育に力を入れているのはわかっていたし、彼女の考えには共鳴する部分もとても大きいんだけど、でも高校生たちがいわきで演劇を頑張るっていうことを自分はどう捉えたらいいんだろう、という悩みはありました。というのも震災直後に福島の友人を訪ねた時に、NPOの集会に連れていってもらったんですけど、例えば旦那さんは福島出身だから土地に愛着がある。子供は部活動で友だちと一緒に頑張りたい。それで他所から嫁いできたお母さんたちはほんとは逃げたいのに、家庭の中でも孤立するって話を直に聞いてしまって……。語弊のある言い方ですが、東京からのこのこ観に行って、実際にそこで生きている子供たちの姿を見て感動する、っていう態度を自分がとることに耐えられなかったんです。東京から来たお客さんが高校生の演劇を観て感動する。それは高校生を勇気づけることにはなるのかもしれない。でもあのお母さんたちを苦しめてしまうのかもしれない。実際に別の公演をいわき総合高校に観に行って、やっぱりその葛藤にさいなまれることになった、という経験もあったし……。
 けれど今回の『ブルーシート』の再演では、ひとりを除くメンバーたちは高校をすでに卒業していて、ちょっと救われた気がしました。少なくとも高校時代よりは自分の意志をもって、住みたい場所や仕事を選べるっていう。そういう状況になって、やっと観られる状態になったと思います。僕は。

徳永 まず、被災地の高校生の演劇を観に行く問題は、震災以降、いわき総合高校からのオファーを請けた演出家は、そこをどう捉えるかという葛藤を絶対に通過していますよね。私はたまたま行けませんでしたけど、初演時にいわきに観に行った人は、決して無神経な傍観者ではなく、藤原さんと同じく自分も葛藤して、その結果、行くほうに決めた人が大半だったと想像します。
 そして今回実感したのは、飴屋法水という演出家は、他の人なら気を遣って触れないであろう相手の領域に立ち入ることが、並外れてうまい人なんだろうということです。ご本人はそんなつもりはないでしょうけど、飴屋さんに聞かれると、誰にも言ったことのない話、言うつもりのなかったことまで素直かつ冷静に言えてしまうんじゃないか。それが、震災と原発事故に直面した高校生の日常と心象を描いた『ブルーシート』という作品を生んだんだと思います。飴屋さんが黙って目の前に立った時に、自然と話せてしまったことがたぶんあの生徒達にはあった。「僕達は観たことを覚えておくことも、忘れることもできる」というせりふがありますよね。そっとしておいてもらって忘れること、覚えておくことがあるけど、飴屋さんに話したことで忘れること、覚えておくこともできたんでしょうね。
 一方で、いい意味でも悪い意味でも、震災の風化を感じた上演ではありました。実は私、途中でちょっとうとうとしちゃったんです。その緊張感の低さは、出演者にとっても鑑賞者にとっても時間が経ったことの何よりの証というか。ひとりの生徒が「ここから逃げて」と叫びながら走り続けるシーンの痛みはまだまだ生々しいですけど、今回の上演が事故からの距離を測るものになったなと思いました。

藤原 あの走り続ける男の子、俳優として魅力的だったと思います。……事故からの距離というのは、自分は正直よくわかりません。実はうちの家族のひとりが最近いわきの人と結婚してあちらに引っ越したので、私的な関係もできました。今もなんら問題は解決していなくて、見ないようにしているだけだなってことはいつも感じてはいます。感覚を麻痺させて生きているなって思います。
 飴屋法水の作品にはいつも何かの倫理観があると僕は信じています。倫理観といっても、人間ということでは捉えていなくて、もっと動物的なものに近いから、それをヒューマニズムと呼ぶことはできないけど。でも、出演していたあの子たちもやっぱり飴屋さんのそれを信じていたと思います。その信頼関係は、観ていて感じました。


▼ゾンビオペラ『死の舞踏』(F/T15)
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【撮影:松本和幸】

藤原 今年のF/Tは攻めてるな……と思うラインナップが続きましたが、この作品も相当ヤバかったですね。ゾンビ音楽という、ロボットに演奏させるプロジェクトをしている安野太郎が「コンセプト・作曲」、渡邊未帆が「ドラマトゥルク」、 そして危口統之が「美術」というコラボレーション。つまり誰にも「演出」という立ち位置が与えられていなかった。それはF/Tによる作為なのかもしれません。演出家を置くことでトップダウンの関係が生じるのを避けたかったのかな……?
 観ていて最初は全くとっかかりを見い出せず。俳優が奴隷のように蠢くのも、無数のルンバが走り回るのも意味がわからないし。でもだんだんゾンビ音楽の世界にチューニングが合っていく感覚を体験しました。
 それだけでも満足だったんですけど、ダメ押しだったのは最後に流れる人類史の年表。例えば1933年が「ヒトラー政権誕生」なのはわかるけど、その隣りの1932年が「映画『ホワイト・ゾンビ』上映」とかいう謎のセンス(笑)。しかもそれが2015年を超えて、未来にまで流れていくんですね。人類はやがて滅亡し、残されたゾンビ音楽が自動で動く。やがて4000年代になって宇宙人にゾンビ音楽が発見され、人類の歴史はなかったことにされる……っていう壮大な話なんです。


▼中野成樹+フランケンズ『ロボットの未来・改』
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【撮影:冨田了平】

藤原 もちろんF/T以外にも素晴らしい作品がありました。こちらもロボットの話で、その名も『ロボットの未来・改』。今年の春に若者たちによって上演された作品を、ナカフラのメンバーを主軸にしつつ初演メンバーも何人か入って再演。秋葉原にある小さな倉庫のようなスペースでの上演でした。劇の最中に倉庫のシャッターを何度も開け閉めするんですね。だから舞台面の奥に、普通に通行しているアキバの人たちが見える。その風景に溶け込んで俳優たちが出入りするんです。いわゆる「借景」ですけど、劇場の外と中を本当にうまく使っていた。ナカフラは外で上演する時にたまに「外の刺激+フランケンズ(ソトフラ)」を名乗っていますが、今回はナカフラとソトフラの中間ってことになるのかも。
 人類の半分ぐらいが、見た目は人間だけど中身はロボットになっている世界。ファミレスで働いているメンバーなんかはむしろ人間のほうが機械的に働いていたりする。それは「この社会に生きる我々はもはやロボット化している」というアイロニーでしょうね。でも中野成樹のアイロニーが面白いのは、深い諦観や絶望がありながら、なぜか「希望しかねーし」と登場人物に言わせちゃうところだと思います。ちょっとツンデレじゃないかと思ったりもしますけど(笑)。
 中野さんが今までソーントン・ワイルダーを始めとして様々な劇作家の戯曲を演出してきたことが、この世界観に流れ込んでいると感じました。彼はずっと「作・演出」を名乗らずに「誤意訳」って言い方で原作を翻案するスタイルを採ってきましたけど、今回はオリジナル戯曲。でも実は今までだって、ずっとオリジナル戯曲を書いてきたとも言えるのかもしれない。今後の作品もすごく楽しみです。


▼iaku『Walk in closet』
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【撮影:堀川高志(kutowans studio)】

徳永 自分がゲイかもしれないと幼い頃から揺れ続けている大学生と、その両親の物語。大雨で川が氾濫して車が走れなくなったという設定で、近所の主婦と、息子のバイト先の仲間がその家で足止めされ、彼らに刺激される形で、親子の本音が明らかになっていく。
 これを書いた横山拓也さんは、戯曲を古びさせないために極力、商品名などの固有名詞を使わないとか、LINEなどのSNSを使う描写を避けるといった工夫をされているそうで、私は数本の作品を観ていますが、その真面目な姿勢が巧みなドラマづくりにつながっていると感じていました。それが今回は、上昇も下降も幅が小さくて物語にうねりがなく、同性愛というトピックを選んだはずなのに、結局は「お父さんはお前のそばにいるよ」という家族の話になってしまったのが残念でした。せっかく赤の他人を3人も家の中に居座らせながら、全員が同じレベルのIQだとも思いました。キャラクターはわかりやすく色付けされているんだけれども、肝心の同性愛についての多角的な言及にはならなかった。

藤原 家族の話になった瞬間に、そこまで雄弁だった周囲の人々が急に黙ってしまう。あの父・母・息子へのお膳立ての「ために使われた」ように見えてしまいました。


▼劇団しようよ『ドナドナによろしく』
mini劇団しようよ『ドナドナによろしく』舞台写真_撮影:清水俊洋
【撮影:清水俊洋】

徳永 1989年から2015年まで、つまり平成元年から現在までにあったさまざまな出来事やブームを年にひとつずつ挙げていく一方で、ひと組の姉と弟──おそらく姉は若くして亡くなって、生前に姉に優しくできなかったことを後悔している弟──の話を描いた作品でした。
 私がしようよを観るのは4本目かな。どの作品にも共通して感じるのは、舞台上で想像力を立ち上げ、それを劇場の外に持ち帰ってもらおうとしているということです。『GBB』じゃないですけど、しようよの舞台では度々、作・演出家である大原翔平さんが「想像してください」と書かれたスケッチブックを持って登場します。彼がこだわる想像力とは、新聞に載るような大きな事件も、日々に埋没する時間も、当事者にとっては“失われてから大切さに気付く”という点では同じで、その距離をなくす強い想像力のことで、演劇ならそれができると思っているのだと私は受け止めています。
 でも今回は、採り上げている出来事のレベルがあまりにバラバラで数も多く、まとまりがなかった。中心に置いた姉と弟のエピソードにも魅力がなかったばかりか、「普通、こんな会話をするかな?」という違和感がありました。大きな事件も小さな出来事も平等であるという意識がデフォルトゆえ、自分達が採り上げたことが観客に対してどれだけアピール力があるのか、リピートする意味や効果はあるのか、判断できていないのではと思いました。

藤原 僕はこの作品しか観たことがないですし、彼らのポテンシャルについてまだ全然判断できませんけど、勝算がないにもかかわらず「平成史」に突っ込んでいこうとする心意気はいいなと思いました。

徳永 「勝算がない」というのはどういう意味ですか?

藤原 ……もしも本気で歴史を扱いたいのなら、自分が生きてきた短い人生の時間感覚だけに頼るのでは無理だと思うんですね。平成を知りたいなら昭和のことも知る必要が出てくるだろうし。役者から集めたっぽいエピソードと彼個人のことも混ざっているけど、年齢もバラバラだし、統一感を欠くことになった。カットアップして反復する手法にしても、いたずらに使うだけでは、観客は感情を積み重ねることができずに戸惑うしかない。そういった意味で闘いに行く準備が全然足りてないから、勝算のない無謀な試みだと感じました。だけど、無謀なことにチャレンジしようとする精神自体はいいと思う……ということです。
 もしかすると今の若い演劇の作り手たちには、のびのびとつくれて、試したいことにチャレンジできるような創作環境が足りてないのかもな、と感じることがあります。今はちょっと名前が知れたらすぐに「発見」されてしまうし、感想もネットでいちいち可視化されてしまう。しかし人それぞれに、何かが満ちるまでの試行錯誤の時間っていうのが必要なんじゃないか。……先日ある著名な演劇作家が、「自分は30歳すぎるまで無名で、批評家にも発見されていなかった、それが自分にとっては良かったと思うんだよね」……と言っていて、それを聞いて複雑な気持ちになりました。自分は批評家として若い作家にどう接すればいいんだろう? 作品を直接観て、何か言及することが果たして必要なのかどうか。仮にそこで言葉を得ることによって作家の洗練されるスピードがあがったとしても、かえってその人自身の「時が満ちるための時間」を奪うことになるのかもしれない。

徳永 早く発見されるのがいいのか、遅く発見されるのがいいのかは、人によるでしょうね。たとえば20歳で“発見”されても「遅い」と感じる人もいるでしょうし……。演劇自体が社会的なものなので、どんな活動をしていようと外的な条件は付いてくるわけで、自分がやりやすい環境を早く整えられることもひとつの才能でしょうね。「時が満ちるための時間」が必要な人は、それを自覚したら、持っているものを捨ててそれを選ばないといけない。


▼贅沢貧乏『みんなよるがこわい』
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藤原 だから贅沢貧乏についても、センスがあるのは間違いなく感じるけど、無闇に持ち上げたくない気持ちがあります。今回は三鷹に展開する「TERATOTERA祭り2015 」への参加作品で、中華料理屋の2階にある小さなスペースで上演された短編でした。主人公は20代とおぼしきちょっとうだつのあがらない女。彼女が眠るベッドの下のスペースを左・中・右の3つに分けて、そこに主人公の分裂した自意識を担う3人の俳優を配置する。ありがちな若者の自意識なんだけど、3人いることによって結論が出ないというのがミソ。2人だと対立・合意・アウフヘーベンがありうるんだけど、3人目によって常にかき回されてぐるぐるする。よく考えたなあ……。そして言葉の選び方にブラックユーモアがある。戯曲を書く力のある人だと思うし、空間を使うことへの演劇的な感性もありますよね。まだいわゆる劇場の中での作品は観たことないけど(笑)。

徳永 贅沢貧乏の山田由梨さんは、すごく視野が広い人だと思います。今回は小品で、アイデア一発勝負みたいなところがありましたけど、そういう時にサブテキストが重要だということを知っていて、その素材を遠くてリアリティのあるところから持ってこられる。ナンパされて電話番号を交換した男の子との会話で「ニット帽を拾ってもらった(のが出会いだった)」とか、お金のない主人公が夜中に空腹を感じた時に焼かない食パンを食べるとか(笑)。でも1番響いたのは、主人公が美大に憧れて、1度入った大学を辞めて受験したんだけど落ちて、それを今すごく後悔しているという設定です。主人公の、何かに目をつぶっているグダグダ感が、それだけで見事に裏付けされる、うまいなぁって思いました。
 職業上の話をすると、どこか若手の劇団を観て「いい」と思った場合、私は数年は観続けるようにしています。もちろん「今回はどうしても行けない」という場合もありますが、極力、足を運んで、SNS上には出さずとも、本人に直接、感想や意見を伝えます。「大人はみんな調子がいい」と思われないために、私ができる最低限のエチケットですね。

演劇最強論枠+α

演劇最強論枠+αは、『最強論枠』の40劇団以外の公演情報や、枠にとらわれない記事をこちらでご紹介します。