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<先月の1本>『サロン乗る場』 文:植村朔也

先月の1本

2023.03.31


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

***

その手のもとに「劇場」はある――渋革まろんの《ポスト劇場文化》論を検討する


0. はじめに

 この原稿は辻村優子『サロン乗る場』を評するものであるが、前半部では作品と間接的にしか関与しない議論が約1万字に渡って展開されている。文章は5節に分かれ、1節でこれまでのわたしの<先月の1本>での連載を総括し、2、3節では同じく連載を担当している渋革まろんの《ポスト劇場文化》論を批判的に検討している。これらはここまでの連載の総決算的な内容となり、わたしにはどうしても欠かすことのできないものだった。しかし、具体的な作品評が書かれているのは4、5節のみであるから、辻村の作品への関心からこのページを開いてくれた方々には、時間がなければ4節から読むことを推奨しておく。


1. これまでの連載を振り返る

 わたしの<先月の1本>の連載はあと二回で終わるので、これを機にしばらく批評活動を休むつもりでいる(スペースノットブランクの「保存記録」および他多少の仕事を除く)。劇評にとって冬の時代、20代前半の書き手が存在感を示しておくことはそれだけで重要な意味があると考え、今年度は30つほど書いた。しかし、わけあって執筆の方法を再度根本的に見つめ直す必要が生じたため、一度意志的に執筆量を減らすことにした。いつまでとは特に定めていないが、しばらくは、新しい執筆の方法と姿勢を模索する期間となる。そこでこれまでの連載を整理しておきたい。

 さまざまな書き方を試してきた。最初の5月掲載回では、いわゆる劇評然とした文章を自分なりに試みつつ、反原発のアジテーションを行った。エッセイ風の書き方も何度か試し、8月掲載回では鈴木健太の戯曲の素晴らしさを婉曲的に主張した。批評を書き始めて日が浅いのもあって、スタイルが安定しなかったとも言える。

 1200から2400字でとの執筆要綱を頂いて始まった連載だったが、つい毎回長く書いてきてしまった。9月掲載回では内野儀の文章を論拠に、公的助成金演劇の増加と共に批評が上演のインフラと化し、その意味やふるまいに変化が生じてきたことを踏まえ、その処方箋としては渋革まろんのように「頼まれてもないのにやたらと書いてみてしまえばよいのである」と書いた。しかし、わたしについて言えば、助成金などおりていなさそうな作品ばかり扱ってきてしまったし、文章をまとめるのが単純に下手だったという誹りを受けても仕方ないだろうと思う。なによりこれは生活者の書き方ではない。渋革も別にわたしが何も言わなくても(まさに「頼まれてもないのに」)たくさん書いたのだろうし、だからこそ現在の国内の劇評界の良心たりえている(とわたしは考えている)のだが、毎月あんな風に書いて暮していけるのかははなはだ疑問であって、陰ながら心配している。

 なお、この回で特に扱いたかった対象は助成金制度そのものではなくて、それになぜか従属して見える劇評群のふるまいの方であったし、そこに位置づけられうる当テキスト自体のふるまいを通じて、それを論じたのだった。わたしも作家から依頼を受けて書く機会は多いし、昨年春よりセゾン文化財団の末端で、評価員として助成対象団体のレポートを執筆している。

 助成金については、批評家が論ずるべきはその存在そのものではなくて、これが及ぼす効果の方である。たとえば、6月掲載回はケアとアートの結びつきを促進する方向に公金が投じられていく現状への疑いから書いた。

 上演よりもそのインフラが前景化して見える時代に、批評には何が語れるのか、という問題意識がわたしには一貫してあったし、作品の選定もおおむねそのような基準に依っていた。若者の青臭い逆張りのようだったかもしれないが、この現在において時評を書く以上、内容・形式ともにそのような意識に基づかずにいられなかった。

 10月掲載回は、土田高太朗が上記の問題意識を作家の側から共有しているように感じられて書いた。作品と批評が流行性のものに堕していくことへの抵抗として、1月掲載回では江本純子の作品をなかば強引に「オンライン演劇」の延長線上で論じた。

 上演の下部がむしろ上演性を帯びて目に立つという、今日の倒錯した事態を代表するトピックを、4つ挙げておく。①助成金制度。②ハラスメント。③注意経済。④経験経済。③の論点は11月掲載回で、④の論点は7月掲載回でそれぞれ扱っている。

 ②については、外部媒体にはなるが、「リレーショナル・シアター その後:『観る演出』の問題系」で、ハラスメント等制作に付随する権力や暴力の問題は単にポリティカル・コレクトネスの観点から取り組まれるべき課題なのではなく、芸術性の観点からも重要な意味をもつことを主張した。そして、「単に劇場に完結する束の間の共同性や連帯を創出し安らうばかりでは、かえってネオリベラリズムの生む分断を補強することにもなりかねない」ので、「真に分断と連帯を問題にするなら、上演の時空間を枠づけ、他の時空間から仕切る、その分節行為にこそ焦点が当てられなければならない」と書いた。制作における権力や暴力の問題を演出者と出演者の二者関係に還元して考えると袋小路に陥る。むしろ求められるのは具体的な演技の術であるとか、戯曲の扱い、制作をとりまく環境に向けられた思考なのであって、これまでのところ、わたしは特に場の問題について考えてきたと言える。建築家青木淳の研究室展覧会を題材に「決定ルール」に基づく制作を論じた12月掲載回は、いくつかの固有名を念頭に置きながら、あくまでも舞台芸術論として書いた。2月掲載回では「柴幸男 劇場の制作論」と題して、場を根拠とした制作の実例と可能性、そしてその問題について言及した。


2. 渋革まろんの≪ポスト劇場文化≫論を検討する

 この連載を通じてわたしが意図的に使用を控えてきた、ひとつのタームがある。渋革がこの<先月の1本>の連載で提起した≪ポスト劇場文化≫がそれである。

 その初出は9月掲載回で、この時点では「従来の劇場文化の枠組みには位置付けられない」「ゆえに、演劇やダンスや美術の観劇/鑑賞を支える文化的共同体の外部に漂流する、意味不明な何事かとして処理されてしまう」ような、「既存の劇場やジャンルの枠に収まりきらないパフォーマティブな諸実践が氾濫する状況」として定義されている。

 渋革は「できるかぎり開かれた形で《ポスト劇場文化》の概念が多角的に検証されることを望んでいる」と述べている。ならば、連載終了を目前に控えた今のうちに《ポスト劇場文化》概念の検証を行っておく必要があるだろう。

 結論から述べると、《ポスト劇場文化》のような概念を立てる必然性、必要性があるという渋革の認識に、わたしは同意する。しかし、《ポスト劇場文化》というネーミングおよび、それに伴う議論の方向性には問題があり、クレア・ビショップの「グレイゾーン」といった先行概念を参考にした組み直しの必要があると考える。


 「既存の劇場やジャンルの枠に収まりきらない」ことがその条件である以上、《ポスト劇場文化》は多義的なマジックワードとして機能するが、その分 要点が見失われやすい。渋革はまず《ポスト劇場文化》という言葉を立て、次に実例にあたっていきその意味を累積させていくという議論の進め方をしているので、簡単な要約はし難いのだが、ひとまず、その主張を整理してみる。

 9月掲載回では、今日の上演芸術の実践はきわめて多様化しており、既存の劇場がすべて閉鎖されてもなお劇場と呼ばれうるような行い、すなわち従来の劇場制度の外部での、しかし演劇やダンスの技法に依拠した行いが、「わたしたちが巻き込まれている社会的現実を洞察するためのフィクショナルな場を提供する」ことが主張されている。

 10月掲載回では、《ポスト劇場文化》という時に、単に劇場外での実践が指示されているのではなくて、アウラ(真正性)の感覚に浸され、外部の日常から隔絶された、「民族的・ジェンダー的・階級的……アイデンティティ集団あるいは趣味的サークル」を形成するライブ空間としての劇場の《外》こそが目指されているのだと言われる。

 11月掲載回では、公演情報がSNSを中心に拡散され、「上演と観客の関係が以前より明らかに流動的で偶発的になった」ことと並行して、上演芸術はボリス・グロイスの言うインスタレーションのような性格を帯びるようになったと書かれている。そこでは完結した劇世界も、安定的な観客のポジションも失われて、「《ポスト劇場文化》において上演を組織する主導権は、舞台からただひとりの観客へ完全に移行し、個々の観客にどれだけ多くの意味やコミュニケーションを結びつけ、関連づけられるかで上演の濃度が判断されることになる(そのため上演と非-上演の違いは曖昧になる)」のであって、「個々の観客の上演を作動させる確率的な磁場をわたしたちは「劇場」と呼ぶことが出来る」。

 以上の《ポスト劇場文化》の議論は逆説的な構造を持っている。上演実践が劇場から脱―中心化されて多様化したこと、そして特定の社会的・趣味的集団に同質化する排他的な劇場空間へのアンチテーゼとして非ライブ性が強調されたこと。これらを主張するだけであればさして目新しい議論ではない。しかし、《ポスト劇場文化》論はその名の印象に反して、「劇場」という存在に固執しているのである。

 上演芸術の技法が「個々の観客の上演を作動させる確率的な磁場」、「フィクショナルな場を提供する」ことに渋革は賭けている。それは劇場制度の中には位置づけられない特異な場として仮構され、流動的にかたちを変じていく。ふつうはこれを「劇場」と呼ぶことはできない。だから《ポスト劇場文化》と言われるわけだが、しかしこれは結局のところ劇場論なのである。そこが渋革の議論の妙味でもあるわけだが、第一のわたしの批判点はこのわかりづらさと、それに起因する概念としての使いづらさにある。それだけではなくて、さらにここからさまざまな問題が派生してくる。

 まず、「劇場制度の中には位置づけられない特異な場」と書いたそれは、観客に上演の効果として生ずるところの劇場、ということだと思うのだが、このような場が発生している上演芸術こそが、時代を問わず、傑作と称されてきたのではないだろうか。 あえて価値的な評言を使うが、劇場という場や、<いま・ここ>のライブ性に還元できない時空が立ち上がったときにそもそも舞台は面白いのであって、逆に、初めから劇場外部の空間で非劇場性を志向するのはずるいという感じさえする。念押しに書くが、単にフィクションの話をしているのではない。そもそも劇場文化とは《ポスト劇場文化》であってくれなくては困るのである。論じられるべきは、劇場制度と、立ち上がる特異な場それぞれの具体的な内実である。

 こうして《ポスト劇場文化》の最も致命的な問題点が明らかになる。このフィクショナルな「効果としての劇場」をいかなる制度からも自律した場として措定するのならば、それは特定の時空間に位置づけることはできないのだから、劇場以後という問題設定はそもそも初めから行うべきではない。そうではなくて、従来の劇場制度と《ポスト劇場文化》の比較にこだわるのであれば、《ポスト劇場文化》の内実は常にその場その時の劇場の社会的・制度的・物理的なふるまいとの比較において明らかにされるべきなのであって、「劇場」は時代や地域を問わない不変項のようには扱われるべきではない。しかし、それを過去のものにできる、という問題設定自体が、従来の劇場概念をいたずらに抽象化し、普遍化している。ネーミングに問題があると最初に書いたのはそのためである。

 気になるのは、渋革が《ポスト劇場文化》論を展開し始める直前に書いた8月掲載回である。渋革は濵田明李のパフォーマンス『⌘町合わせ⌘』について、それがパフォーマンス・アートの作品であるために演劇プロパーにとっては不可解に感じられることを、次のような比喩で説明している。「MacユーザーがWindowsを使う時、その操作性の違いに戸惑うように、劇場のフィクションを作動させる基本的なフォーマット=OS(Operating System)が「全く異なる」」。ここで劇場はいわばハードとしてイメージされているわけだが、そこにインストールされるOS=機能は相互に入れ替え可能である一方、劇場そのもののハード特性はそのようなOSの入れ替えの影響を蒙らない不変項として想像されてはいないか。

 このように書くのは、《ポスト劇場文化》という語の使用によって、劇場空間が使用者にアフォードする物理的・社会的・制度的な使用特性についての分析が見落とされる危険があるからである。過去にわたしは12月掲載回 注2で、劇場とは「ミース・ファンデル・ローエの「ユニバーサル・スペース」や原広司の言う「均質空間」と同様、容易に管理が可能」な空間なのであって、「一見あらゆる行為が許容されているかのように見えもするのだが、その均質で普遍的な見えとは裏腹に、そこでのふるまいは強く制限されている」と書いた。

 渋革の《ポスト劇場文化》論がアクチュアリティを持つ背景には、1節で論じたように、上演の下部のパフォーマンス性が目に立ち、劇場の内外での上演を区別することの欺瞞性が無視できないレベルに達しているという事情がある。渋革が9月掲載回で論じたように、劇場の外で人々は常に広告代理店に踊らされているし、あるいはわたしが7月掲載回で論じたように、いまや舞台は経験を売り物にする経験ビジネスの一つに還元されているといった、意地悪な見方もできる。上演の下部が暴れ出すとき、上演は支えを失い、劇場という場所に囲い込まれて安んじていることはある種の欺瞞となる。それは実際、「ポスト劇場」と嘆きたくもなるような事態なのである。そこでは、むしろ上演の方で場=上演の土台を制作していくことが、一つの解決となる。

 しかし、このような場が「個々の観客の上演を作動させる確率的な磁場」と定義され、個々の観客への主観的な効果に還元されていくとき、その批評は批評性を保ちえないのではないだろうか。実際、11月掲載回の『EBUNE大阪・西成漂着』評や、3月1日掲載回(渋革は締め切りに遅れたため、2月掲載に間に合っていない)の「Asiatopia International Performance Art Festival」評は、「効果としての劇場」の境界画定不能性のゆえに、体験記のような体裁をとっている。これらイベントに対して、観測を行い、その具体的な記述を試みる実践の重要性、必要性については疑うべくもなく、体験記的スタイルそれ自体は問題ではない。しかし、《ポスト劇場文化》論が「効果としての劇場」の具体性を追いかけるあまり、その効果の条件に盲目になるとしたら、疑問なしとしない 。《ポスト劇場文化》論は上演が産出する「劇場」がいかにして根を下ろすのかを分析し、評価できるべきである。あるいはその「劇場」が、それ自体は「個々の観客の上演を作動させる確率的な磁場」として捉え難い性質を持つとしても、そのような磁場の発生する条件を跡づけ、問うことはできる。そして、このように《ポスト劇場文化》論を整理したとき、この名前はやはりどこか的外れに響くだろう。


 まとめよう。上演の下部に属する条件を観察し、分析するために、その拠点としてフィクショナルな場を仮構する、「≪ポスト劇場文化≫的」といいたくなるような実践がある[*]。複数の条件の複雑な錯綜を対象化する時、そのための場もまた、単一の実態に還元することは難しい。しかしだからといって、そうした上演を個人の主観に還元することは危険であり、あくまで目は上演の具体的条件に向けられているべきである。その時、《ポスト劇場文化》の名は退けられるだろう。

 このような関心を渋革がわたしと共有していることのひとつの証拠として、雑誌『悲劇喜劇』2022年3月号に書かれた「灯を消すな――劇場の手前で、あるいは?」のなかの、次のような記述を示しておく。「観客動員を指標にした作品の成果主義を価値付けのクライテリアにする日本の舞台芸術には《手前》がない。演劇/観客が生まれる場所ではなく、演劇/観客が生まれるかどうか未だわからない《手前》の、試行し錯誤し新たな創造性を開拓するための《場》がほぼ用意されていない」。そして渋革は、「コロナ禍は劇場が可視化する「社会」の下に潜伏していた交通空間(オンラインネットワーク)の交流を活性化し」、そのような《場》の探求を準備したと書く。

 渋革が直前の引用で(おそらくは無意識に)「下」と書いていることに注目したい。「劇場の手前で、あるいは?」と問われれば、わたしは「その下で」と答えるだろう。《ポスト劇場文化》をめぐるわたしと渋革の意見の相違は、今日の上演の所在を劇場の手前に認めるか、その下に認めるかの違いであるとも言えるのだが、この喩の相違は決定的である。《手前》と呼ばれるところの空間に渋革が上演芸術のポテンシャルを見いだすことに、わたしは賛同する。さりとてそうした空間の「手前勝手」は 許されず、上演の土台は検討され、整備されるべきではないか。

 わたしとしては、舞台のインフラや社会インフラが上演的性格を帯びだした今日の社会において、上演芸術の技術を用いてこれらを俎上に上げ、時に手を加えて再―上演化する試み、つまりいわば「インフラの再演」であるが、そちらに関心がある。そしてこの「インフラの再演」は、時として、単に経験経済や注意経済への抵抗の拠点を創出するばかりでなく、芸術的にもきわめてアナーキーで刺激的な上演となる。今更ながら確認しておくが、この文章は辻村優子『サロン乗る場』を評するものであり、同作はまさにこの観点から語られることになる。作品論になかなか入れずにいるので先に結論だけ書いておこう。『サロン乗る場』は現代演劇史上の傑作であり、それ相応の歴史化・文脈化を蒙る妥当性がある。

[*]わたしが10月掲載回で紹介した土田高太朗と、土田が頻繁に参加する新聞家の作品は、社会的・政治的問題意識というよりは純粋に芸術的な関心からこのような制作を行っているように思われ、特異な実践と言える。


3. 「グレーゾーン」ではだめなのか

 《ポスト劇場文化》にはより洗練された先行概念を見つけることができる。クレア・ビショップの「グレーゾーン」である。

 「グレーゾーン」とは、ビショップが2018年に書いた「ブラックボックス、ホワイトキューブ、グレーゾーン:ダンス・エキシビジョンと観客の注意」に登場する概念である。しばらく、その議論をまとめてみる。「グレーゾーン」は劇場の「ブラックボックス」とギャラリーの「ホワイトキューブ」が歴史的な収斂を遂げて生まれた。そしてこの「グレーゾーン」は、ビショップが「ダンス・エキシビジョン」と呼ぶ、展示空間でパフォーマンスが常に行われているようなハイブリッドなパフォーマンスをその典型とする。
 まず、視覚芸術の文脈におけるパフォーマンス・アートと、演劇やダンス、音楽などいわゆる上演芸術としてのパフォーミング・アーツを区別しよう。前者はその非永続性のゆえに収蔵が困難で、規律壊乱的な性格を持つことから、美術館の中に居場所を占めることに長らく困難を抱え続けてきた。しかし、関係性の美学や委任されたパフォーマンス、リエナクトメントと呼ばれる動向の隆盛を受けて、2000年代に入ると、イギリスのテートを皮切りに、美術館はパフォーマンスをプログラムに組み入れるようになる。そして2010年代になると、パフォーマンスはロンドンのフリーズ・アートフェアやパリの国際テンポラリーアートフェア(FIAC)など数々のアートフェアの名物にさえなるのだが、ここで重要なのは、これら展示空間に呼ばれる作家がパフォーマンス・アートの領野に限定されておらず、パフォーミング・アーツ、特にダンスに出自を持つ者たちがそこに含まれていたことである。その背景には、ポストドラマ演劇やコンセプチュアル・ダンスの潮流がパフォーミング・アーツの美術館への順応を準備していたという事情があった。

 パフォーマンスが展示空間で上演される時、開催時間〔event time〕から開館時間〔exhibition time〕への再時間化が生ずる。「ブラックボックス」の開催時間においては、事前にチケットを買い座席を確保し、決められた時間に会場へ向かい、最初から最後まで他の観客と共に過ごすのが普通である。対して、「ホワイトキューブ」の開館時間では、朝から夕方まで観客は自らの主導の元で動き回りながら鑑賞を行えるし、好きな時に会場を出入りできる。パフォーミング・アーツの時間枠組みが前者から後者へと変じていくことが、再時間化である。こうして、「ブラックボックス」とも「ホワイトキューブ」ともつかない、「グレーゾーン」の空間機制が生じてくる。
 従来の「ブラックボックス」(ここでは単に劇場一般と理解するよりは、小劇場のようなものとイメージしてもらえれば良い)に見受けられた親密性や実験性の表現はむしろ今日「ホワイトキューブ」の方にあり、逆に「ブラックボックス」のインスタレーション的な使用も目立ち始めている。「ホワイトキューブ」は従来の展示空間に親和的でない生身の身体の取り扱いに悩まされることになるし、「ブラックボックス」は展示室のように明るい照明や、観客の可動性に直面することになる。このように、「グレーゾーン」は「ブラックボックス」と「ホワイトキューブ」のあわいに属するが、その中間的な性格のゆえに、そこでの行動規範が確立されきってはいない。「グレーゾーン」という言葉には、参加者の予期できない偶発的なふるまいを誘発しうるという期待、そういうギリギリ感のニュアンスが託されているわけである。
 そして、ビショップいわく、「ダンス・エキシビジョン」の誕生はiPhone, iCloudの発表と時を同じくしており、「グレーゾーン」はソーシャルメディアやデジタル技術と親和的であって、作品は動き回り撮影を行いSNSに投稿する観客の存在を前提するようになる。ビショップの「グレーゾーン」論の後半は、展示空間における注意経済の全般化に差し向けられていく(なお、劇場で上演中の撮影を許可して「グレーゾーン」を展開している国内のダンサーとして、さしあたり橋本ロマンスの名前を挙げておく)。


 さて、SNSが上演芸術の観客のふるまいに与えた影響を視野に入れつつ、劇場から脱中心化された上演実践に目を向けようとする渋革の関心を満たすには、さしあたりこの「グレーゾーン」で十分なのではないだろうか。渋革の《ポスト劇場文化》論への関心の根っこには、7月掲載回で扱われた小林勇輝や村田峰紀、8月掲載回で論じられた濵田明李など、パフォーマンス・アートの作家の表現から受けた衝撃があっただろうことは、想像に難くない。しかし、パフォーマンス・アートとパフォーミング・アーツが混淆する現場を捉えるための言葉なら、すでにこの「グレーゾーン」があるわけである。「グレーゾーン」は従来の劇場制度の外部に、しかしやはりフィクショナルな場を仮構するだろうし、開館時間への再時間化は作品の非ライブ性を強める。そしてそこでは個々の観客への確率的な上演に期待が寄せられるのだ。

 渋革が<先月の1本>の初回で取り上げた『クバへ/クバから』もまた、《ポスト劇場文化》の圏内に属する作品として想定されていると考えられる。しかし、その上演が行われたSCOOLは壁が白く塗装されているので、「ホワイトキューブ」的な使用にあらかじめ適しているところがある。「グレーゾーン」なのである。《ポスト劇場文化》論を3カ月に渡って掲載した直後、12月掲載回()と1月掲載回で渋革がダンス公演を論じていることも、特筆に値する。

 「グレーゾーン」の空間機制に観客や作家がひとたび順応すれば、それは劇場や美術館の外部においても展開しうるだろうという予測は立つ。《ポスト劇場文化》とは、全般化していく「グレーゾーン」の別の表現ではないか。《ポスト劇場文化》でなく「グレーゾーン」の語を採用する第一の利点として、2000年代以降のヨーロッパにその時代・地域が限定されていることが挙げられる。したがって、「グレーゾーン」が日本においても広範に見受けられるのだとしたら、それがいつごろから、なぜ、どのようにかと問うことはそれ自体有意義だろう。特に展示空間と上演空間双方の制度性がもともと薄弱な日本では、おそらくジャンル横断的にというよりはジャンルなし崩し的に「グレーゾーン」的な空間が出来したのだろうことは、想像に難くない。第二に、「グレーゾーン」には、各上演空間に固有の空間機制のコンフリクトを分節化しうる具体性がある。劇場という語は、共同体を産出する社会的装置としての劇場、業界内の制度としての劇場、物理的な意味での劇場、などなどと様々な意味をもつ。これらの間に一切の線引きを行わずに《ポスト劇場文化》という言葉を採用するのは危険であろう。そうではなくて、それら劇場のなにがキャンセルされたのかを冷静かつ具体的に見すえるための視座をも「グレーゾーン」は提供してくれるのだ。それも、劇場が「《ポスト劇場文化》的」な事態に包括されるような仕方で、である。

 そこでなお渋革が「グレーゾーン」とその掘り下げに満足せず、《ポスト劇場文化》というタームを洗練される必要に駆られるとすれば、それは最初に確認したように、これがあくまでも劇場論であって、上演がそれ自体で生起させる、ある自律的な磁場への関心に基づいているからにほかならないだろう、とわたしはあらかじめ勝手に推察しておくし、そのような方向性に強く期待を寄せてもいる。


4. 感情労働を「再演」する

 2022年5月、俳優の辻村優子は、観ていてからだがほぐれるような「ほぐしばい」を探求する一環として、『乗る場のもまれ処』を発表した。これについてわたしが書いた「もみほぐしがふたたびパフォーマンスになるとき」は、その後の連載を方向付ける重要な転機となった。以下、同文章をすでに読まれていることを前提に議論を進めていくが、ここで一度その主張を要約しておこう。

 今日ではパフォーミング・アーツの技法がさまざまな対人サービスや経験ビジネスに転用されている。辻村が勤めるリラクゼーション・チェーンも、まさにサービス経済の劇場的性格を具現したような場所であるが、『乗る場のもまれ処』はリラクゼーションサービスが利用する演劇的な効果を取り払い、これを設え直す。しかも10分~40分の幅で一律1000円というあまりにも破壊的な価格設定によって、上演芸術における労働行為の「割に合わなさ」を体現し、これをサービス経済の海に再び投げ入れるのだ。こうしたことを論拠に、わたしはリラクゼーションとも演劇ともつかない不確定かつ奇妙な位置に留まる作品の在り方を称賛した。

 その辻村が、この2月から3月にかけて、新作を発表した。その名も『サロン乗る場』。前作と同じ、荒川区の商店街に位置する「アトリエ円盤に乗る場」での上演である。わたしの評へのアンサーとして企画されたとのことで、なんとも恐れ多いのだが、評を書いてほんとうによかったと素朴に思えた。傑作だったからである。具体的な上演内容については、「「サロン乗る場」のつくりかた」に始まる、辻村自身がメディアプラットフォームnoteに投稿した一連の記事に詳しく記されている。

 前回の『乗る場のもまれ処』からの目立った変更点は、以下の二点。①しっかりお金を取るようになったこと。今回は10分当たり1100円で最長100分、背面(ボディ)、肩や頭、手、足の4つのメニューから施術を組み合わせて選択するかたちであった。なお、わたしは8800円払い、80分間でひととおりのメニューを体験させてもらった。②提供するサービスを6セクションに分節し、それぞれについてアーティストへ演出を依頼していたこと。そしてその当然の帰結として、『乗る場のもまれ処』よりも、演劇作品というジャンル性を積極的に引き受けていること。

 「アトリエ円盤に乗る場」に到着して会計を済ませると、壁沿いに設けられたソファに座るようにうながされる。辻村は「暗転します」と言って部屋の電気を消し、ハンガーラックのかげでエプロンに着替えると、今回の上演についての説明を滔滔と行う。リラクゼーションと言われればそうなのだが、「演劇です」と言われてもなんだか自然に納得できてしまいそうな設えなのである。実際、辻村を照らすライティングはあまりに細やかで、リラクゼーションサービスとしては行き過ぎていたくらいだった。

 演出は主に五感に即して分担され、嗅覚(アロマのプロデュース)を遠藤麻衣、味覚(飲み物のプロデュース)を田上碧、触覚(施術内容の検討と稽古)を蜂巣もも(グループ・野原)、聴覚(BGMの検討と制作)をカゲヤマ気象台(円盤に乗る派)、視覚(室内空間の演出)を中村大地(屋根裏ハイツ)、ふるまい(接客の検討と稽古)を渋木すず(円盤に乗る派/ちょっとしたパーティー)がそれぞれ担当したとのことである。
 かくして、上演がリラクゼーションなのか、演劇なのかというジャンルの不確定性の問いは、その緊張をいささか減ずることになる。野暮ながら断っておくが、『乗る場のもまれ処』の方はパフォーマンスとしては了解しづらい作品であって、あえてわたしは強弁を試みていたのである。対して今回の『サロン乗る場』は演劇作品として解釈しに行く気構えを(観)客があらかじめ持ちえたところに特徴がある。わたしが批評を書いてしまったという事情も手伝っていたはずで、批評と作品の関係というのは難しい。しかし『サロン乗る場』の明示的な演劇性は、必ずしも後退を意味していない。ここからはむしろその肯定的な意味について書く。

 なお、公演期間中は近所の商店街の人々に向けて宣伝チラシが配布されていたが、そこでは『サロン乗る場』は純粋なリラクゼーションサービスとして紹介されていて、演劇のえの字も出てこなかった。もしこのチラシを手に取ってふらりと立ち寄ってしまった(観)客がいたとしたら、なんとも幸運である。
 さて、ストレートにリラクゼーションサービスが演劇化された結果、それと演劇の境界を問う経験経済批判としての側面は希薄になった。かわりに前景化してきたのは感情労働の問題である。

 感情労働とは社会学者のアーリー・ホックシールドが提起した概念であって、感情社会学の研究領野を切り開いたその主著『管理する心』で広く膾炙した。感情労働とは、対人サービスで感情を演技して、売り物にする行為を指すと理解してよい。感情労働者は「自分の感情を誘発したり抑圧したりしながら、相手のなかに適切な精神状態――この場合は、懇親的で安全な場所でもてなしを受けているという感覚――を作り出す」(p. 7)ために演技を行う。

 もっとも、感情を演ずること自体は、日々の生活でも昔から行われていることで、目新しくも珍しくもない。いま問題なのは「私的な目的のために感情の領域で意識的かつ積極的に演じる私たちの生得的能力を利用しようとする<道具主義的スタンス>がますます広がっていることと、このスタンスが巨大な組織によって開発され管理されているというそのやり方である」。つまり、感情の演じ方が企業的に管理され、「私たちは自分の感情に耳を傾ける仕方や、善かれ悪しかれ感情が私たちの状態について教えてくれている内容を犠牲にしている」(p. 22)のだ。「新人たちの私的な笑顔は、訓練を経るにつれて、会社の特性〔…〕を反映するように磨かれていく」(p. 4)。

 演技と感情を簡単に切り分けることはできない。「仕事で感情表現が求められているときには、変わらなくてはならないのはたいてい感情の方であ」(p. 104)って、演技の方ではない。そちらの方がより確実に真実らしい感情を供することができるのだ。ホックシールドは(俗流の)スタニスラフスキーの演技観を引き合いに出しながら、感情労働においてはもっぱら深層演技、すなわち自らの心のうちに特定の感情を誘発し、その感情に自ら従う技法が採用されていると主張する。感情労働者は、笑顔を取り繕うよりも、にこやかな気持ちを自分のなかで演出する[**]。そうして感情労働者は「他者を欺くのと同時に自分自身を欺いているのである」(p. 36)。「今日では、広告、訓練、プロフェッショナリズムの概念、そしてドル紙幣が、笑顔を向ける者と向けられる者との間に介在するために、制服を着た者にも自発的な温かさが存在しうることを思い描くには追加的な努力が必要となる。というのも、今や企業は自発的な温かさをも広告しているからだ」(p. 5) [***]。

 感情労働はもっぱら女性によって担われてきた。『管理される心』が出版された1983年の時点で、アメリカの「働く女性のうち約二分の一が、感情労働を必要とする仕事に就いている」(p. 12)。従属的な社会階層に位置づけられて「他の資源を持たないために、女性は自分の感情から作り出した資源を男性に贈り物として提供し、見返りに自分たちに不足している物質的資源を提供して」(p. 187)きた。こうした事情から、「伝統的に男性よりも女性の方が私的生活において感情を管理することに長けているため、女性の方がより多く市場で感情労働を提供しているし、それだけそのコストもよくわかっている」(p. 12)。

 辻村の働くリラクゼーション・チェーンもまた、まさにこのような感情労働の現場である。前回の評でも書いたことだが、リラクゼーション・チェーンは純粋にマッサージを提供するサービスなのではない。セラピストは国家資格を有していないその道の素人であって、施術の技術ばかりでなく接客技術をも売り物にすることで、客に快を与えているのだ。


 『サロン乗る場』は、企業的演劇によるこのような感情の収奪への、俳優辻村のささやかかつラディカルな反抗である。演劇という設えは、感情労働の深層演技にマジになることから、演技者に距離を取らせる[****]。「「私は演技しているのだろうか? どうすればそれがわかるのだろうか?」。劇場の基本的な魅力の一つは、その問いへの解答を舞台が用意している、ということである」(p. 55)。

 ホックシールドは、感情労働のスタンスを三つに大別し、それらにはいずれも危険があるとしている。①深層演技に没入して燃えつきてしまうケース。②演技をフィクションとして行うが、その行いの不正直さを自ら非難してしまうケース。③演技をフィクションとして行い、そのことで自分を責めもしないが、労働に真剣になれずやりがいを見失うケース。しかし、演劇に長く親しんでいる人々にとっては、これら三類型があまりにも単純化されているように思われるのではないか。

 実際、感情労働者が上記のような心理に追い込まれるとして、それは演技術の欠如に由来する事態であると考えられる。人は自分の気持ちを騙すことなく、嘘を真剣につくことができる。演技とはもっと複雑な行為であり得るのだ。一般に感情労働は誰でも実行可能なようにマニュアル化され、単純労働になっている。だからこそ、その労働に身を投ずる者は、自分の演技にごく単純かつ直接的な仕方で巻き込まれていく。しかし、演劇の技法を用いてこれを再―技術化したら、どうだろうか。ホックシールドも上記の整理に続けて書いている。「もし労働者たちが彼らの職業生活の条件をコントロールする意識をもっと強く持てるなら、これら三つのスタンスに含まれる害は縮小できると確信している」(p. 214)と。

 この観点からとりわけ重要なのが、渋木すずによる「ふるまい」の演出である。辻村の「サロン乗る場のつくりかた【ふるまい】その1」には、次のようにある。「接客こそが私にとって、アルバイトでのリラクゼーションサービスの実践を難しく感じる部分です。/なぜなら、お客さんが期待する接客に無意識に沿おうとしてしまう自分がいるのですが、結果的に自分自身には合っていないふるまいをしているので、持続できないのです。自分の機嫌や体調があっという間に悪くなる。/例えるなら、腹落ちしてないセリフを長期間に渡って言い続けている、俳優としてはなかなかに深刻な状況です」。

 こうした事態に対して、接客の在り方を一から具体的に再考している様子が、続くテキストの内容からは伝わってくる。結果的に辻村の接客はかなりさっぱりとして、(観)客との対等性を志向するものとなっていた。しかし、対人サービスの演劇的性格を解除した接客として今回の辻村の演技をまとめてしまえば、前回の『乗る場のもまれ処』と変わらない。むしろ重要なのは、そのような接客が、演出者との入念な討議と稽古の末の再演劇化の結果として上演されていたことだ。執筆時点では「その2」以降が公開されていないので、接客内容がどのように具体化されていったかは知りえないのだが、いずれにせよ、感情労働の演技のディティールを納得のいく形で作り込み、「自分の機嫌や体調」を守っていくことの意義は疑いえない。それはリラクゼーションサービスと俳優業という二足の草鞋を履く辻村だからこそできる仕事である。そしてそのように再―技術化された演技は、リラクゼーション・チェーンという感情労働の現場でのふるまいの意味をも変えていくだろう。

 これは施術中に辻村から直接耳にしたことだが、上演を重ねていくうちに、接客があまりにも演劇然としてきて、違和感がぬぐえなくなった。そこで、渋木に再稽古を依頼し、エプロンをつけるのを控え、照明からあえて外れるなど、接客を組み立て直したという。用意した感情労働がルーティーン化していくうち、その嘘臭さが目に立つようになれば、演技を変えることだってできるというわけだ。これが演技というものの自然な在り方ではないか。
 「いかにして自分自身を役割に適応させるのかという問題は、職務環境に対する労働者のコントロールが利かないことでさらに深刻化する」(p. 216)とホックシールドは言う。逆に、感情労働の舞台を自ら設え、労働条件をコントロールすることで、感情の演技はより健全化するわけである。辻村がステージ・セッティングを信頼できるアーティストたちに依頼し、自ら主体的に構築していったことは、ある種の演技術であったとさえ言いうる。特に、それが嗅覚や味覚など身体にダイレクトに関わる五感という生理的な次元において探究されたことからは、辻村が心から快く感じられる環境の構築を志向していたことが伺われるのである。自分の心を守って演技するための環境づくりを俳優が演出者と共に行ったこの作業は、舞台芸術の今後を考える上で示唆的である。

 『サロン乗る場』の料金改定の意義も感情労働の観点から説明できる。もみほぐしを無料同然の安値で提供しては、感情労働の搾取性に加担することになるのだ。『乗る場のもまれ処』の時点では安価な価格設定は経験経済に対して高度な批評性を示していたように思うが、2か月にわたって長時間上演を行う『サロン乗る場』では、相応の金額を(観)客から得ることは至極当然である。特に女性は「どの階級に属するかにかかわらず〔…〕大いに対人関係に関わる種類の作業を無償で行っている」(p. 195)のであって、『サロン乗る場』での有償性は、それ自体感情労働に対する批判として有効に機能していただろう。
 わたしはある時期から舞台作品をSNSで宣伝することを原則的に控えているが、『サロン乗る場』に関しては及ばずながらツイートで広告した。


[**]マクドナルドでは無料でスマイルを注文することができる。注文すると店員からプライスレスな笑顔を受けとることができるのだ。感情労働を象徴する悪趣味なサービスではあるが、コロナ禍に突入して以来、わたしはこのスマイルを積極的に注文するようになった。もともとにこやかな演技を行っていた店員がさらに笑顔を示そうとするとき、それは意図的なパフォーマンスにならざるを得ず、そしてその常套手段とは口角を上げることだったわけだが、マスクの着用が義務付けられた店員たちにはこの手が封じられてしまっているのである。しかもどうやらスマイル注文時のマニュアルは明確に定められていないらしく、口元を示さずに笑顔を与えるというこの困難な課題の解決は店員ごとに異なってくる。マスクをわざわざ外して笑ってくれる店員もいれば、「ふふっ」と笑い声をあげて軽くかわしてくれる店員もいるし、どうしていいかわからない様子で立ち尽くす店員もいる。少なくとも、これは安易な深層演技では解決できない注文である。現在マクドナルドでスマイルを注文することは、自然化されていた感情労働を異化する効果を持っていないだろうか。
[***]『管理された心』の原題はManaged Heartであるから、『マネジメントされた心』と再翻訳できる。出演者の自主性や創造性を尊重した演出が時に帯びてしまう暴力性や搾取性について、わたしはカウンセリングやマネジメントの技法の観点から考察を進めてきた。「マネジメントされた心」においては、実際には商業目的で企業的にコントロールされているはずの感情が、自分自身もともと抱えていたものだと自ら信じるように仕向けられるのだが、これは舞台創作の現場でもミクロなスケールで生じうる事態だろう。そしてこうした作品においては、「自発的な感情」が広告されるのと同様の屈折した仕方で、演技の自発性が時に売り物になってはいないか。
カウンセリングもマネジメントも、自発性や主体性という言葉をたてに、本来さまざまな要因から生じているはずの事態を個人還元主義的に出演者に帰責する、自己責任論の構造を隠し持っている。わたしがここ一年で最も関心を寄せていたのはこの問題であって、2022年6月から11月にかけて開催した「舞台の勉強会」や、2023年1月に神保町PARAで担当したクラス「ドラッカーを読んで上演をつくる、集団をつくる」など、クローズドな場ではすでにリサーチの成果を発表してきたが、いずれまとまった文章の形で論じ、より広く読者に届けたいと考えている。
[****]突飛に聞こえるかもしれないが、ゼロ年代で経済的に最も成功した小劇場演劇集団はAKB48であるとわたしは確信している。秋元康は『AKB48の戦略!』のなかで、同グループをプロデュースした背景にはつかこうへいや山崎哲、野田秀樹ら小劇場で成功した作家たちへのあこがれがあったと語っている。だからAKB48は秋葉原に小劇場を構え、活動の拠点としたのである。そしてAKB48は、単に歌唱やダンスを披露するばかりではなくて、リアリティショー的な趣向で物語られていく感情労働にメンバーたちが真剣に身を投じていくそのひたむきな姿を売り物にしていたのであって、そのコンテンツはきわめて演劇的な性格をもっていた。今日の演劇における俳優の本人性や創造性の強調、セルフ・ドキュメンタリー的趣向の作品の隆盛は、これとパラレルな現象に思えてならないのである。
アイドルについてはまったくの門外漢であるわたしにこのことが重要なのは、AKB48がその集団運営においてマネジメントの手法を採用していることを様々な場で公言しており、グループの特徴として強く打ち出していたからである。AKB48メンバーの活躍は、今日の企業人がマネジメントされるひたむきな姿に重ねてイメージされる。だからこそメンバーはその感情労働にマジになることから降りられない。この「マジ」はAKB48を語るうえで欠かせない主要概念であって、濱野智史『前田敦子はキリストを超えた』やさやわか『僕たちとアイドルの時代』など、多くのアイドル批評は素直に「マジ」に感化されており、その構造に対して批評的な距離を取れていない。
管見の限り、唯一の例外は坂倉昇平『AKB48とブラック企業』である。熱烈なファンでもありながらブラック企業の専門家でもある坂倉は、「労働問題のショーケース」としての性格がAKB48の魅力の源泉であるとして、グループの悪辣な労働環境に徹底的に切り込み、これを批判していく。そして、それでもなおAKB48を愛することのできるぎりぎりの地平をかろうじて見いだしていくのだ。同書を読み、わたしは「恋するフォーチュンクッキー」に限りAKB48の音楽を愛するに至った。この時代に批評には何が出来るかを教えてくれる、知られざる名著であって、AKB48を敬遠する方にこそぜひご一読いただきたい。演劇の行方を考察する上でも必読の一冊である。


5. その手のもとに劇場はある

 ごくいまさらながら、もみほぐしを演劇として上演するというのは、それ自体きわめて奇妙で、刺激的な問題設定である。演劇というのはある種のマジックワードで、やろうと思えばすべてを演劇と呼ぶことができる。だから、前回の公演評では「演技としてのもみほぐし」については最後に簡単に触れるにとどめていた。しかし現在では、むしろもみほぐしの中にこそ演劇の可能性があると声高に主張したい気持ちでいる。この節ではその理由について書く。

 ここで、触覚性の演技が持つポテンシャルを、辻村以外の作家の作品を取り上げて確認しておきたい。舞台と客席が空間的に分離され、距離のある所で俳優が演じるのを観客が観るという劇場の構造は、上演芸術一般の非物質的で非触覚的な印象を強固にしてきたとみられる。しかし、実のところ、辻村の実践を待たずとも、パフォーマンスとは触覚的であり得るのだ。たとえばかつてイェジイ・グロトフスキは、優れた俳優の発する声を聴くと、俳優の身体内部で起きている出来事が観客の内部で模倣されるといい、そのことで生じる変容を舞台が観客に与える主要な効果の一つに数えていた。これはいまやオカルト的に響きそうな主張だが、たとえば他人が嘔吐するのを耳にして同じく吐き気を催すように、自身の身体に鋭敏な感覚をもつ人であれば、素直に頷ける主張ではないかとも思う。そしてこの時、声の振る舞いは、遠隔的に作用するにもかかわらずやはり触覚的である。humunusはきわめてラディカルにこうした声の触覚性の探求を行っている。あるいは、『知覚と身念』(2021)に出演したダンサーの西村美奈は、俗に手かざし療法とも呼ばれるレイキ・セラピーの手法を用いて、離れて座っていた私の身体に不可思議な熱を届けた。先日上演された小泉明朗のVR作品『火を運ぶプロメテウス』は、手に灯がともるようなきわめて不思議な経験を供するもので、VRとはヴァーチャル・レイキのことかとつい嘯きたくなった。


従来の演劇学のディシプリンへのカウンターとして、アメリカを中心に1980年代に広がりを見せたパフォーマンス・スタディーズという研究分野がある。日常的な領域において遂行されているパフォーマンスを対象化することをも視野に入れたパフォーマンス・スタディーズでは、ネグリ&ハートやパオロ・ヴィルノらのポスト・オペライズモ理論がしばしば参照され、ポストフォーディズムの到来とともに物質生産よりも対人関係を取り扱う情動労働や非物質的労働、サービス労働が全般化したことが、パフォーマンスの見地から論じられてきた。というのは、舞台における労働とは一般に、情動労働で、非物質的労働で、サービス労働であったとみなされるから。シャノン・ジャクソン「ジャスト・イン・タイム」はそうした流れを概観しつつ、パフォーマンス・スタディーズで主流となっているポスト・オペライズモ理論とはまた別の系列の議論から、パフォーマンスとポストフォーディズムの関係を再考している。

 たとえばヴィルノは今日の情動労働従事者が魅力的で他人を退屈させないパフォーマンスを遂行するヴィルトゥオーゾ(名人)であると主張するが、そこではこの「名人」の技量や技術、経験の多寡は問題にされていない。情動労働従事者たちは、みな一様にすばらしく創造的な名人として扱われる。対してジャクソンは、前節で紹介したホックシールドの議論を引きながら、ヴィルノのようにポストフォーディズム時代の労働者の創造性を寿ぐ議論は、労働者間に横たわる階級・人種・ジェンダーといった地位の格差を曖昧化する危険があること、かつ、そこではいかなる演劇的、パフォーマンス的な技術が労働に転用されているかも不問とされていることを批判する。

 また、ジャクソンは、非物質的生産にかかわるこれまでのパフォーマンス・スタディーズの議論にも疑問を投げかける。従来の物質的生産を主とする作品制作へのカウンターとしてパフォーマンス的転回を遂げてきた美術業界の言説を、パフォーマンス・スタディーズはそのまま素朴に取り入れてきた。しかし、何が非物質的であるかという判断はジャンル依存的である。視覚芸術の作家たちにとっては、作品が跡を留めないパフォーマンスは非物質性の印象があるかもしれない。しかし、パフォーマンスの制作者たちにしてみれば、むしろ舞台は物質的な制約や条件に満ちている。同じく、労働の非物質的な効果はあくまで物質的労働に依拠しているのだ。そして、情動労働の物質的側面が隠蔽されることは、女性たちが引き受けてきた労働の物質的側面がしばしば忘却されるのとパラレルな現象である。

 辻村の一連のもみほぐしは、したがって、ジャクソンが指摘したようなパフォーマンス・スタディーズの盲点をつくものであると評価できる。従来のパフォーマンス・スタディーズの議論が対象化できるのは、辻村のパフォーマンスのうち施術の周縁部分、すなわち接客技術の方だけである。辻村のさっぱりとした接客は、前節で論じたように、リラクゼーション産業が労働者に対人関係の特定の形式を強いることで生ずる自己疎外への、ひとつの処方箋でもあるのだが、観客にとってむしろその目立った効果は、身体を以て他者の身体をもみほぐす物質的なやりとりそれ自体のパフォーマンス的側面に意識を集中させることにある。

 『サロン乗る場』がストレートに演劇を名乗っても作品のスリルは失われないとした理由はここにある。もみほぐしそれ自体を演劇と観ることは、あらかじめそのつもりでいてもなお失敗しうる困難な課題である。なぜなら、そのような演劇はこれまで存在したことがなく、その鑑賞機制も安定しないどころか、まだどこにもないからだ。しかし、それをなぜパフォーマンスと呼んではいけないのか? この問いは軽々しく棄却されてはならない。そして次に問われるべきは、いかなる仕方でそのもみほぐしが演劇的に再技術化されていたのか、である。


 国家資格を有さないリラクゼーション・チェーンのセラピストの施術には、高度な技術は前提されておらず、企業側で用意した画一的な、誰でもできる施術が想定されている。『乗る場のもまれ処』の時点では、辻村はリラクゼーション企業から配布されたマニュアルに忠実な施術を行っていた。直圧やリズム、体重移動といったもみほぐしの三原則を演劇のボキャブラリーで再解釈し、説明することはしていたが、あくまでも演劇的技術はもみほぐしの意味付けのレベルで経由されるにとどまっていたのだ。

 対して、辻村「サロン乗る場のつくりかた【触覚】」によると、今回の『サロン乗る場』はこの施術マニュアルを戯曲と捉え、演出家の蜂巣と共に「演技」のサブテキストを制作していったという。俳優は戯曲に書かれた言葉を発話するために、その発話のニュアンスを支えるイメージを作り込み、テキストに書き込むことがある。そのサブテキストの実践を、ここではもみほぐしの施術に差し向けているのだ。

 そのほか、前回わたしが伊藤亜紗『手の倫理』を引用して言及した、「相互的かつ生成的な、人間的コミュニケーション」が自覚的に探究されていたことが、当日配布されたステートメントからは読みとれた。「セラピストがほぐすのでなく、受けているお客さん自身がゆるむ。ゆるんだお客さんを受けて、セラピストの次の一手にも変化が生じる/これって演技にも同じことが言えなかっただろうか」。セラピストが一方的にほぐすのではなくて、(観)客の身体がおのずからゆるんでいく境地が、しかも演劇の経験と地続きのものとして目指されていたらしいのである。(観)客に自身の身体の自覚を促すような仕方で、施術は再編される。実際、単にこりをほぐすために直圧をかけるというよりは、身体に問いかけるようなやさしい触れ方が模索されているという印象を受けた。これは辻村本人に聞いたのだが、最初に一部ではなく全身に手をあてがうことで、客が自分の身体を意識するよう自然に促すことを狙っており、そのために従来の施術からは順序やペース感がアレンジされていたとのことである。それから施術マニュアルのアレンジの他の事例として、手が小さく細身の辻村の身体つきも加味されて、その細やかな手つきが際立つような施術の仕方が積極的に選択されていたという。自身と(観)客の身体を見つめていくプロセスの中で生成してくるものとして、触覚的なふるまいがここでは捉え返され、修練されている。
 施術を反復してその都度蜂巣からのフィードバック=演出を受けとることで、こうした演技のニュアンスはより具体化され、細分化され、精度を挙げていく。このようにして、労働者の自己疎外を引き起こしうる、脱技術化された労働のプロセスを、他でもない女性の俳優の身体を持つ人間としての手で再技術化し、「再演」すること。
 辻村のパフォーマンスが観客の身体との接触面に展開している未知の「劇場」は、劇場がより広範な経験経済の波に飲み込まれていくなかで、その抵抗の単位となるものの所在を示している。事実その「劇場」は、辻村の勤務先へも内密に旅しうるだろう。手仕事の技術は、外部のコンテクストから自律したそのような場を何度でも立ち上げる。と同時にその「劇場」は、身体の物理的な接触面という立地の特異性ゆえに、ほとんど前代未聞のアナーキーな舞台として、その手の下にある。



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うえむら・さくや/批評家。1998年12月22日、千葉県生まれ。東京はるかに主宰。スペースノットブランク保存記録。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。過去の上演作品に『ぷろうざ』がある。


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【上演記録】
『サロン乗る場』

撮影:三浦雨林

2023年2月20日(月)~3月25日(土)
円盤に乗る場
企画・実践:辻村優子
嗅覚:遠藤麻衣
味覚:田上碧
触覚:蜂巣もも(グループ・野原)
聴覚:カゲヤマ気象台(円盤に乗る派)
視覚:中村大地(屋根裏ハイツ)
ふるまい:渋木すず(円盤に乗る派/ちょっとしたパーティー)

サロンに乗る場サイトはこちら

演劇最強論枠+α

演劇最強論枠+αは、『最強論枠』の40劇団以外の公演情報や、枠にとらわれない記事をこちらでご紹介します。